酔いから覚めたら妻子持ちのDV男に憑依してたんだけど 作:くじらん421
物語の流れは変わっていません。
改善点
・読みやすいように改行を少し増やす
・不自然だった表現を修正
・あんずちゃんのかわいいシーンを改善・加筆 (最重要)
新しい布の匂いは、荷解きがひと段落しても、まだ部屋の中に薄く残っていた。
玄関脇には畳んだ紙袋や廃棄する物が寄せられ、洗ってから使う食器類は流しの横に仮置きされている。広げたマットレスはもうほとんど膨らみきっていて、さっきまでただの荷物だったものが、ちゃんと「眠る場所」になっている。
僕は部屋を見渡して、小さく息を吐いた。
完璧ではないけど、まあよしとしよう。しばらくの間の夜を越えることはできるはず。
すでに三人ともシャワーを浴びたが、晩御飯がまだ。
時刻は20時を回るところだった。
「ささっと何か作ろうかな、お腹すいてない?」
そう声をかけると、澄雨さんがはっとしたようにこちらを見た。
「あ、あの、わたし……その……」
「うん?」
「あっ、そ、その、ううん……」
なんでもないらしい。まあ、今はゆっくりしててくれたら。
冷蔵庫の中身を見て、手早く献立を決める。簡単なとり肉の野菜炒めと、ご飯、あとは味噌汁くらいで十分だろう。早く美味しく、家庭料理の基本だね。
そういえば、家具量販店で三人分のカップも買ったのだった。
あんずちゃんに好きなのを選ばせた時、淡い青を迷いなく指したのが、少しだけ意外だった。もっと無難な色を選ぶかと思っていたが、ああいうところで好みが出るらしい。
「あんずちゃん」
呼ぶと、彼女は新しい枕のそばからこちらを見た。
「カップ、出してもらっていい?」
「……?」
「ほら、青いやつ。あんずちゃんの」
そう言うと、あんずちゃんは立ち上がり、食器棚に仕舞われた青いカップを取り出した。
「……」
「それそれ」
「あんずのカップ」
「そうだね、あんずちゃんのだ」
彼女はそのカップを少しだけ見つめてから、テーブルの端へそっと置いた。
なんというか、ぬいぐるみを座らせる時みたいな手つきだった。
「僕らのカップもお願いできる?」
こくり。
今度はクリーム色と、白に近い灰色のものも持ってくる。それぞれ、澄雨さんと僕のものである。卓上に3つ並んだカップを見て、澄雨さんがほんのわずかに目を丸くした。
「3つ……」
「そりゃ三人いるからね」
僕がそう言うと、澄雨さんはすぐに
「そ、そうだよね……」
と頷いた。
料理はすぐにできた。
野菜炒めを皿に移し、ご飯をよそって、味噌汁を注ぐ。湯気の立つ匂いが部屋へ広がっていく。テーブルに並べると、それだけでちゃんと家らしく見えるし、こういう雰囲気がこの家庭には大事なんだと思う。
「どうぞ」
「あっ、う、うん」
「いただきます」
「あ、い、いただき、ます」
あんずちゃんが味噌汁に口をつける。
「味噌汁熱くない?」
こくり。
「美味しい?」
…………こくり。
美味しい?美味しいよね?え?なにかミスったか……?!
急いで口をつけてみるけど、ちゃんと美味しくできている。
「あ、わかった、苦手な食べものでも入ってた?」
無反応。どうやら違うらしい。
まあ……まあいいか、箸は進んでいるし、いいとしよう。うん。
……あとで作り方見直すか。
澄雨さんは、何か言おうとしてはやめ、代わりに「あんず、ご飯美味しいね」と小さく声をかける。
細々とした会話だが、僅かな温かみがたしかにある。
食卓の空気はずいぶん違って見えた。
静かだけど穏やかな夕餉を終えると、澄雨さんがすぐに立ち上がった。
「あ、あの、これ、片づけるね、えへ」
「おー、助かる。ありがとね」
「う、うん! ……ぇへへ」
あんずちゃんは椅子に座ったまま、自分の青いカップが流しへ下げられるのをじっと見ていた。ちゃんと戻ってくるか確かめているのかな。流石に棚にしまうからね。
「たくさん食べてくれたねー。よかったよかった。おなかいっぱいになった?」
僕が言うと、あんずちゃんは頷いた。
少し多めに作ったが……半分くらいはこの子が食べたんじゃないかな? ちょうどいい量を考えないとなあ。
食後の片づけを最低限で切り上げて、僕は改めて部屋を見る。
今夜どこでどう寝るか。そこを決めておいた方がいい。
「さて、寝る場所なんだけど」
そう切り出すと、澄雨さんが洗い物が終わった澄雨さんがこちらを伺う。
あんずちゃんも、青いカップから視線を外した。
「奥の部屋を二人で使って。戸も閉められるし、その方が落ち着くだろうから」
「え……?」
澄雨さんが、そこで一度言葉に詰まった。
「で、でも……あの、その部屋は……」
「僕はこっちで寝ようと思ってね。何かあっても分かる位置だし」
できるだけ平坦に言う。澄雨さんは、戸惑ったまま視線を揺らしていた。
善が使っていたであろう部屋へ入っていいのか、自分たちだけ部屋を占領していいのか、その両方で止まっているのだろう。
「わ、わか、った」
けれど最終的には、断るより従う方を選んだ。
「うん」
その横で、あんずちゃんは新しい枕の方を見ていた。
「忘れずに持っていくんだよ」
「うん」
立ち上がる動きは早かった。
あんずちゃんは新しい枕を両手で抱え上げる。
自分の体の半分ほどもあるそれを、落とさないようにしっかり抱き抱えて、それから奥の部屋へ向かう。
自分の寝る場所へ、自分の枕の配置場所を吟味しなければならないと意気込んでいるような。
まあさっきあれだけ枕の位置を気にして決めてたのに、場所が変わるんだもんね。
なんかごめん。
部屋の入口まで来たところで、一度だけ足が止まり、ずり落ちそうな枕を抱え直す。
その仕草が、妙に子どもらしい。
「いっしょに寝ようね」
澄雨さんが、あんずちゃんの背中へ小さく言う。
あんずちゃんは振り向かず、
「うん」
とだけ返して、部屋に入っていった。
澄雨さんの目元が、やわらぐ。
「僕らも休もっか」
僕がそう言うと、澄雨さんは頷いて部屋に向かった。
僕は次第に明かりを落とし、自分の寝具代わりにしたものの上へ横になった。
目を閉じるが、すぐには眠れそうにない。
奥の部屋から、小さな話し声と、布の擦れる音。
二人は今日のことを話しているのだろうか。あるいはあんずちゃんが新しい枕の位置をまだ気にしているのかもしれない。
多分、二人もすぐには寝つけていない。
当然だろう。
昨日までとは部屋の様子も、寝る場所も、何もかも違う。しかも、その配置を決めたのは僕だ。警戒しない方がおかしい。
それでも、やがて奥の部屋の音は少しずつ減っていく。
寝返りが途切れ、布の擦れる音も止み、呼吸だけが静かに続いている。
二人はどうにか眠れたらしい。
僕だけが、まだ起きていた。
暗い天井を見たまま、目を閉じる気にもなれない。
部屋は静かだった。その静けさのせいで、かえって眠りの方が遠くなる。
僕は薄く息を吐いて、ぼーっとすることに決めた。
◾️◾️◾️
結局、そのまま数時間が経過。
僕は仰向けのまま、暗い天井を見ていた。
床に敷いた折りたたみ式のマットレスは、昨日までの使う気になれなかった小汚い煎餅布団よりずっとましだ。それに背中に床の硬さが刺さらないだけでも救いがある。
奥の部屋からは、二人の気配がもうほとんどしない。
目を閉じていればそのうち寝るだろう。
ああ、いと恋しきゾルピデムよ。こういう時に限ってないんだよね。
ま、仕方ない。さっさと諦めて目を閉じる。
この部屋は……静かだった。
静かすぎる、と思った瞬間だった。
……こつ。
目を開けた。
音は小さい。だが妙に耳に残っている。
木が鳴ったのか、何か硬いものが壁に触れたのか。
僕はそのまま動かなかった。
耳を澄ます。
……こ、つ。
二度目は、一度目よりゆっくりだった。
こちらが聞き終えるのを待っていたみたいな間。
僕は首だけを動かし、奥の部屋の襖を見た。
閉じたままだ。隙間から明かりも漏れていない。
二人はまだ眠っている。
起こさないで済むなら、その方がいい。
僕は枕元のスマホへ手を伸ばし、時刻だけ見ようとする。
画面がついた瞬間、通知欄の未読が暗い部屋の中でやけに白く浮かんだ。
夜禍協会アプリ。
どうやら新しい通知に気づいていなかったらしい。
開くかどうか、そこで一拍だけ迷う。
迷う理由はない。
情報があるなら取る。怖がるのはそのあとでいい。
僕は通知を開いた。
____
【夜禍警報】 0:13
南三条で夜禍確認。現在協会員が対応に向かっています。付近住民は屋内待機を継続し,呼び声,物音,窓外の異常に対する確認行動を行わないでください。
窓は見ないで,鍵を閉めて,目と耳を塞いでください。
対象は人型(大)です。
絶対に確認しないでください。
___
南三条。
視線がその地名の上で止まった。
南三条は、自分たちのいるエリア。
このアパートが含まれる範囲。
冷たい汗が一筋落ちた。同時に首筋の産毛が逆立つ。
理性は落ち着いている。文字も文意もきちんと読める。むしろ頭は冴えた。
慌てさせない無機質な通知文の乱暴さ、その必要性、協会側がわざわざ「確認行動を行うな」と重ねている異常さまで、一行ごとに理解できる。
そのくせ、身体だけが先に危険を受け取っている。
何かがこちらを認識しているような、していないような、曖昧な感覚が皮膚の上に張りついた。
僕はスマホを伏せ、音を立てないように起き上がった。
毛布をずらす。肘をつき、片足から順に力を入れ、体重を逃がしながら。
床板の冷たさが足裏へ伝わる。ここで室内灯をつける気はなかった。光をつければ、家の内側にいる自分の位置だけがはっきりする。
外へ出る、という選択肢は最初からない。
問題は、家の中まで異常が入り込んでいないか、二人を起こすべき段階かどうか、その二つだけだった。
僕はまず玄関の方を見た。
暗がりの中に、扉の輪郭だけが浮いている。チェーンは掛けた。鍵も閉めた。寝る前、自分で確認している。
そのはずだ。
がり。
三度目の音は、擦れるようだった。
さっきより近い。
僕は玄関から視線を外し、窓へ向けた。
カーテンは閉じている。布の向こうに夜がある。
通知文が脳裏で繰り返される。
窓は見ないで。
確認行動を行わないでください。
リスクを予期して、備えなくてはいけない。
……大丈夫、夜禍協会とやらの業務内容に巡回があるなら……視認自体は問題ないはずだ。
指先でカーテンの端を摘む。呼吸音すら最小限に留めようと、気づけば口呼吸になる。
カーテンと、窓枠、その間にほんのわずかにだけ隙間を作る。
街灯の光が細く差し込んだ。
外の見え方が、すぐには飲み込めなかった。
見えている。ちゃんと見えている。だからこそ嫌だった。
アパートの前の道。
塀。
電柱。
街灯。
本来なら輪郭が分かるものは分かる。見慣れた夜道なら、たぶん何でもない風景だ。
だが、街灯の輪の外側、その境界のところだけが妙に濃い。
暗さが、普通の暗さより重い。
影、と言ってしまうには輪郭がある。
人影、と言ってしまうには大きすぎる。
何かがそこにいる、というより、そこだけ夜が沈殿して人の外形を真似ているように見えた。
立っているようにも、生えているようにも見える。
頭の位置らしきものはある。
肩らしき横幅もある。
ただ、人型であるだけ。
それを「何」と呼べばいいのかだけが決まらない。
そして、大変嫌なことに。
こちらを見ているような気配があった。
ぞわりと全身の肌が粟立つ。
視線を向けられたわけではないだろう。
それでも、あちらに認識という機能があるなら。
いま自分のいる位置はもう十分に把握されていてもおかしくない。
僕はカーテンを閉じた。
ごり、がり。
また鳴った。
音の発生源はどこだ?
窓の外なのか、玄関の向こうなのか、それとも建物のどこかなのか。
本当に分からない。
奥の部屋の方を見る。
起きる気配は、まだない。
ここで二人を起こすべきか。
……いや、起こさない。
結論は出た。
起こして得られるものが、いまは少なすぎる。
僕は窓と玄関の両方を視界の端へ入れられる壁際へ移動し、そこへ背を預けた。
スマホは手の中に残す。画面をつければまた光が漏れるから、そのまま伏せる。
耳を澄ませる。
同時に、耳を塞げ、という通知文まで思い出して、苦い気持ちになる。
本当に耳を塞いでしまうと、家の中の異常確認まで放棄することになる。だから、今僕にできることは気を張ってナニカに備えることだけ。
音は、不規則に鳴り続き、全く休まらない。
時計を見る。
もうどれだけ時間が過ぎたのか分からなくなっていた。
外に何がいるのか、まだいるのか、もういないのかも分からない。
僕は壁に背をつけたまま、朝を待つ。
今日の夜は、これまでの人生で最も長かったように思う。
眠る気は、もうなかった。
◾︎◾︎◾︎◾︎
いつの間にか、窓の外が薄く明るくなっていた。
夜が明けたのだ。
ああ、頭が重たい。徹夜明けはいつもそう。
遠くで、車が一台走った音が聞こえた。世界がいつもの時間に戻り始めているように感じる。
僕はスマホの画面をつけた。時間は明朝を指す。
平日の朝だとしても、人によってはまだ早い時間だ。
そうしてようやく、僕は痛む腰を上げて、カーテンに向かう。
念のため隙間から外を確認するが、ちゃんと朝になっていた。遠目には車も走っている。
ドッと安心感が到来し、全身の力が抜ける。
このまま倒れ込んで眠ってしまいたい欲にかられるが、朝食の準備をしないといけない。
カーテンを開け、カラカラと窓も開けると、外の空気の匂いが鼻をくすぐった。
窓から地面を見下ろし、昨夜不可解な化け物がいた所に目を向ける。
何も無い。普通のアスファルト塗装された道路だ。
それでも、僕たちが住むこの南三条で夜禍の警報が出ていた。
あれは、間違いなく存在する。その事実だけで、背中の内側がひやりと冷えた気がした。
襖の向こうで、小さな物音がした。
布の擦れる音と、体を起こしたような音。
そのあと、あんずちゃんの小さな声が聞こえてきた。
「……ん……」
ほどなくして、澄雨さんの声もした。
「あんず……起きる……?」
「……」
「そっか……」
寝起きの、力が抜けたままの声。緊張した様子はないが、眠りが深かったわけでもなさそうだ。
流しへ行って、水を一杯飲む。
ぬるい水が喉を落ちていく感覚で、ようやく身体が覚醒してきた。大きく、深呼吸をすると、胃に水が溜まっている感覚があった。
襖がスっと細く開く。
先に顔を出したのはあんずちゃんだった。髪が少し跳ねていて、新しい枕の跡が頬にうっすら残っている。次に、後ろから澄雨さんが顔を覗かせた。
「おはよう」
僕が言うと、あんずちゃんは少しの間こちらを見てから、
「……おはよう」
と返した。
澄雨さんも、その後ろで小さく言う。
「おっ、おはよ……」
まだ寝起きのままの、力の抜けた声だった。
澄雨さんはどこかぼんやりしている。
「ちゃんと寝れた?」
そう訊くと、あんずちゃんは少し考えた。
「ねた」
「そっか」
澄雨さんは、あんずちゃんの返事を聞いて、笑う。
それだけのやり取りなのに、妙にほっとする。
「澄雨さんは眠そうだね?」
僕が澄雨さんに聞く。
「ね、寝れたよ、たぶん……」
「たぶん?」
「あ、え、えへ、あの、なんか、途中で何回か、起きた気もするけど……よく分かんなくて……えへへ……」
昨夜のこと、完全に何も感じていなかったわけではないのかもしれない。
だが、ここで「夜中に音しなかった?」と直球で聞く気にはなれなかった。
だから、僕は「そっか」とだけ返した。
あんずちゃんは、まだ少し眠そうな目のまま、襖を開いてトコトコとダイニングテーブルに向かい、椅子に座った。
ご飯待ちのようだ。クスリと笑みが浮かび、活力が湧いてきた。
よし、美味しい朝ごはんを作ってあげるぞー。
「朝ごはん、ホットケーキにしよっか。バナナを入れちゃおっかな?」
冷蔵庫を、ガサゴソと漁り、材料を取り出して作り始める。
いいね……料理はいい……。心を安らげてくれる。
「ココアも出しちゃおうかな……あんずちゃん、カップをーーー」
そう言って振り返ると、あんずちゃんはすでにカップを握りしめていた。
僕たちの分もちゃんとテーブルにある。
い、いつの間に……。
「あんずの」
そう言って、自分のカップを両手で握る。
「うん。可愛いコップだね」
こくり。
澄雨さんは、そのやり取りを見てから、まだ少し眠そうな顔で髪を耳にかけた。
「あ、あの、てっ、手伝うね」
「ありがと。じゃ、ココアの粉とお湯を出してもらえる?」
「あ、え、えへへ! うん!」
朝は来た。でも、「夜」は未だ僕の脳裏を離れない。
かちちちち、と鳴るガスコンロ。
ゆらりと燃え始めた火が、なぜか妙に印象的だった。
「……あんずちゃん、卵割る?」
こくり。
卵を手に取ったら、いつのまにかエプロン装備のあんずちゃんが隣にいた。
びっくりしすぎて「夜」の衝撃が半分飛んだ。