酔いから覚めたら妻子持ちのDV男に憑依してたんだけど   作:くじらん421

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お久しぶりです。
抜本的に変える……!と意気込んだはいいものの、ゼロベースでやるとなると、気力が出てこず、更新できないままになると学んだ作者です。

なので、一旦の方針として9話以降から大きく変えて、1話〜8話は順次改善するというやり方にしようかと思います。元々1〜8話は書き方を変えるだけなので、まああとでいいかなと......ユルシテ

9話はすでに投稿しておりましたが、展開を大きく変えたので、内容は7割変わっています。7割も違えば、それは新話ですね(断言)

ずっと待ってくださった方、拙作を非公開にしていたことで心配してくださった方、ありがとうございます。

リハビリとしての作品ですが、楽しんでもらえるよう、のんびり進めていきますのでご一緒していただけたら嬉しいです。


9. 善のバディ

「今日は、あんずちゃんが先に出る?」

 

食卓の向こうで、あんずちゃんが小さく頷いた。

 

「忘れ物はないかな?」

 

「ない」

 

「ん、よし、じゃあ行こうか」

 

あんずちゃんを学校まで送る道は、いつもと変わらない朝の景色だった。

 

昨夜、あれほど濃密だった圧迫感が、まるで嘘だったかのようだ。

 

何事もなく通学路を行き、会話はないものの苦しい沈黙はない穏やかな時間。気づけば学校に着いていた。

 

校門の手前であんずちゃんを見送り、小さく手を振る。

 

さて、次は澄雨さんだ。

 

スーパーまでは昨日と同じ道を歩く。彼女は必要な買い物を何度も確認し、僕は冷蔵庫の中身を思い返しながら、不足している物をメモに書いて手渡した。

 

「仕事帰りに買ってきてくれる? 今夜はハンバーグにしようと思ってさ」

 

「あ、う、うん。え、えへへ」

 

昨夜は夜禍が家のすぐ近くまで現れたというのに、今朝は夕飯の献立を話している。

 

人間というのは案外図太い生き物なのかもしれない。いや、そうでなければ暮らしていけないのだろう。

 

そもそも夜禍というのは、この世界では人々の生活に根付いた現象だ。僕らが身近な災害に感覚が麻痺して、都度その恐ろしさを思い出すように。

この世界の人々もまた、夜禍と折り合いをつけて生きているのかもしれない。

 

スーパーの入口まで来ると、澄雨さんがこちらを振り返った。

 

何か言いたそうにしているが、言葉が出てこない様子。

 

「あ、じ、じゃあ……いってきます」

 

「いってらっしゃい。無理しないでね」

 

「う、うん!」

 

ぱっと表情を明るくした彼女は、自動ドアの向こうへ小走りに駆けていった。

 

ようやく一人になり、肩の力を抜く。

 

さて、帰ったら何をしよう。洗濯物の残りを片付けるか。部屋の隅をもう一度拭くか。それとも、昨夜届いた通知について整理しておくか。

 

そんなことを考えているうちに、大きなあくびが一つ。

 

……いや。二度寝しよう。さすがに眠すぎる。

 

乾いた目の違和感を無視しながら、帰るかと歩き出した、その時だった。

 

ポケットの中でスマホが震えた。

 

 

【 榊原(さかきばら) (みお) 】

 

 

画面に表示された名前に見覚えはない。

 

だが、善のスマホに登録されている以上、善にとっては知らない相手ではないのだろう。

 

数秒だけ画面を見つめ、それから通話ボタンを押した。

 

「はい」

 

「鳴川先輩、昨夜の件、把握してますよね」

 

挨拶もなく飛んできたのは若い女性の声だった。

 

敬語ではあるが、柔らかさはない。わずかに苛立ちも混じっている。

 

「南三条の通知、見てますよね」

 

「……昨夜の件?」

 

「そうです。私たちの担当地区案件です」

 

担当地区、か。

 

「……把握はしているよ。詳細を教えてもらえるかな」

 

電話の向こうが黙った。返答に何か引っかかるものがあったのだろう。

 

「……昨夜、日付が変わる直前に、南三条で夜禍の確認通知が上がりました。先輩のアパートの近くです。初報は住民通報で、協会から目視確認の指示が出たので、私は先行して現地へ向かいました」

 

彼女は事務的に続ける。

 

「到着した時点では、目撃位置に夜禍はいませんでした。まず灯りの届く範囲と死角になりやすい路地を確認しましたが、姿はなし。その後、応援班と合流して周辺を巡回。四丁目側まで確認しましたが再出現もなく、昨夜はそのまま霧散扱いになっています」

 

なるほど。

 

彼女の説明で、ある推測が正しかったことが分かった。

 

この世界では、「夜禍を見ること」そのものが絶対的な禁忌ではない、ということだ。

 

「で、先輩」

 

彼女の声が少し低くなる。

 

「なんで対応しなかったんですか」

 

「うん?」

 

「担当地区に夜禍が出たら、私用中でも急行義務がありますよね。定例巡回とは別です。緊急信号には最低限応答しなければいけませんし、応答と現在地の報告は必須です。昨夜、先輩はそのどちらもしませんでしたよね」

 

返す言葉がすぐには出なかった。

 

昨夜、僕は家の中にいた。澄雨さんとあんずちゃんがいて、外には夜禍がいて、警報が鳴っていた。

 

だから家を出なかった。

 

それは間違いない。

 

だが、もし本来の鳴川善が夜禍協会の人間だったのなら。

あの判断は正しかったのだろうか。

 

「……急行義務、か」

 

「そうです」

 

「連絡だけでも必要だったんだね」

 

電話の向こうが、また黙る。

 

この返し方も、彼女の知る鳴川善らしくないのだろう。

 

「ええと、昨夜は色々あったんだ」

 

「そうですか。あえて聞きますけど、何をしてたんですか」

 

僕は答えなかった。

 

「通知は見ましたよね。見てないでは済みません。居住圏ですし、端末ログにも――」

 

その時だった。

 

背後に、人の気配を感じ、反射的に振り返る。

 

そこに立っていたのは、耳からスマホを下ろしたばかりの少女。

 

「端末ログにも、通知の既読履歴が残っていましたから」

 

彼女はスマホをポケットへしまいながら言った。その声音は不機嫌というより、警戒に近い。

 

「榊原……澪さん?」

 

名前を確認するようにつぶやくと、彼女は怪訝そうに眉をひそめる。

 

「通知を無視して、朝になっても応答なし。何かあったのかと思って確認に来ました。招集信号が出ると、担当者の応答状況と最終位置は班内で自動共有されます。……先輩なら、そんな機能があることにも気づいてなさそうですけど」

 

「そうなんだ」

 

素直に返す。善なら、ここで軽く悪態の一つでも返すか。少なくとも、「そうなんだ」と素直に受け止めるような人間ではないだろう。

 

「ここで立ち話をする内容でもないね」

 

そう言うと、彼女は露骨に訝しげな表情を浮かべた。

 

「……先輩、どうしたんですか」

 

「場所を変えない?」

 

「……は?」

 

「仕事の話をするなら、落ち着いて話せるところの方がいい。ゆっくり説明したいこともあるし」

 

「いや……まあ」

 

困惑がそのまま顔に出ている。

 

「じゃあ、そうしよう」

 

短い沈黙が流れる。

 

榊原さんは僕の顔をじっと見つめた。提案そのものではなく、「鳴川 善」がそんな提案をすることに違和感を覚えているのだろう。電話越しでも噛み合わない感触はあったはずだ。

 

それが実際に顔を合わせ、声の調子や言葉の選び方まで含めて疑いを深めることになる。

 

そう、いい流れだ。

僕は、君の知る鳴川 善ではないよ。

 

「……どこに行くんですか」

 

「どこでもいいよ。この近くで、落ち着いて話せる場所ってある?」

 

「ありますけど」

 

「じゃあ、そこへ行こう」

 

「先輩」

 

彼女は数歩離れた位置から僕を見ている。今の僕が何をするか分からない。そんな警戒が、その距離には表れていた。

 

「本当に、どうしたんですか」

 

さっきよりも低い声。

 

ほんの少し震えているようにも聞こえる。

 

「ちゃんと説明するよ」

 

「……なら、いいです。駅前にあります。ここから少しなので」

 

「ありがとう」

 

「ついてきてください」

 

「わかった」

 

歩き始めてしばらくは、お互いに口を開かなかった。少し前を歩く彼女を何となく眺めているうちに、一つ気づく。

 

歩き方に無駄がない。速すぎず、遅すぎず。

 

そして――普通の歩き方ではなかった。

 

人混みでは、自然に人の流れを読みながら進む。僕との距離も一定に保ったまま、こちらの歩幅まで計算しているように見える。信号待ちでは横断歩道の真正面には立たず、周囲を見渡しやすい位置へ半歩ずれる。

 

常に周囲を警戒しながら歩いている。

 

夜に人が死ぬかもしれない世界の最前線で働き続ければ、こういう身のこなしになるのかもしれない。

 

「あの。見ないでください」

 

前を向いたまま彼女が言った。

 

「あ、ごめん」

 

気づかれていた。視線にも敏感なのだろう。……でもどうやって?

 

そんなやり取りを挟みながら歩くこと数分。駅前の大通り沿いにあるファミリーレストランへ入った。まだ朝食の時間帯が終わったばかりで、店内はそれほど混んでいない。

 

目があった店員へ「二名です」と伝えると、榊原さんがすぐに口を挟んだ。

 

「端の席でお願いします」

 

案内されたのは、窓際の一番奥。背後が壁になる四人掛けのボックス席だった。

 

警戒心が染み付いているのだろう。自然とそういう席を選ぶらしい。

 

僕は彼女と向かい合って座る。それから卓上の注文用タブレットを手に取り、僕はコーヒーゼリーを注文した。

 

そのまま彼女へタブレットを渡す。

 

榊原さんはまた不思議そうな顔をしながら受け取り、自分の注文を済ませた。

 

その指先を眺めながら、ふと考える。

 

彼女は鳴川善の何を知っているのだろう。

どれほど嫌っているのだろう。

 

そして、善は彼女にどんな態度を取ってきたのだろう。

 

沈黙が流れる。

 

先に口を開いたのは彼女だった。

 

「で」

 

たった一言。

 

「昨夜、なんで来なかったんですか」

 

僕は彼女の目をまっすぐ見返した。

 

「さっきも伝えたけど、行けなかったんだよ」

 

「何が違うんですか」

 

「外へ出てもいいのか、判断できなかったんだ」

 

彼女の眉がぴくりと動く。

 

「南三条で夜禍が確認されました。しかも先輩の家の近くです。判断材料として足りませんか」

 

「僕には、全然足りない」

 

鳴川 善なら言い訳をするか、逆に開き直るか。

 

彼女の中に違和感を積み重ねる。

 

店員が運んできた水を一口飲んでから、

 

「昨夜の件で、確認したいことがある」

 

「……何ですか」

 

「君と僕は、同じ担当と言ったけど、他にも同エリアの担当者はいるのかな」

 

「……は?」

 

呆れたような声が漏れる。

 

「今さら何を言ってるんですか。南三条から四丁目寄りまでの第二種区域。このエリアは先輩と私だけが担当しています」

 

ペア。あるいは、ツーマンセル。

 

夜禍への対応を一人だけに任せるには危険が大きい。

 

夜禍協会が、安全な夜を維持する組織なら、複数人体制になるのは当然だ。でも、得体の知れない化け物に対して、たった二人で大丈夫なのだろうか。

 

「つまり、君は僕の……」

 

「バディです」

 

言葉を補うように彼女が言う。その響きには、諦めと疲労が混ざっていた。

 

「本当はいろいろな人と組めたはずでした。誰とでも連携できるように、本来はそうなってるそうです。でも、私たちの組み合わせはほぼ固定されています」

 

「そうなんだ。どうして?」

 

彼女は即答した。

 

「あなたが事故るからです」

 

彼女は指を折りながら数え始めた。

 

「現場で勝手に突っ込む。指示されたルートを外れる。勝手な判断する。報連相しない。連絡しても返さない。業務報告は雑。機嫌が悪い日は人の話を最後まで聞かない、言うこと聞かない」

 

おっと、出るわ出るわの大盤振る舞い。鳴川 善がごめんね。

 

彼女は一気に言ってから、口を閉じた。少し言い過ぎた、と思ったのかもしれない。

 

「……言っときますけど」

 

顔を横に背ける。

 

「悪口じゃありませんから。全部、事実です」

 

「分かってるよ」

 

「どうだか」

 

顔を背けたままこちらに目をむける彼女に、僕は苦笑する。

 

「でも、おかげでだいぶ把握できた」

 

「……何をですか」

 

「鳴川 善が、どんな人だったのか」

 

「………あの、先輩」

 

「うん」

 

「本当に、何なんですか、さっきから」

 

彼女は眉を寄せた。

 

「一人称が『僕』になってるし。正直、身の毛がよだつというか……不自然なんですよ」

 

その反応は当然だ。目の前にいる人間は、顔も声も鳴川 善なのに、中身だけがまるで別人なのだから。

 

僕はすぐには答えず、別の質問を投げた。

 

「確認なんだけど、夜禍を見ること自体は業務として認められている……いや、定められているんだよね」

 

「はあ。まあ、必要ならやるしかないですからね」

 

「必要なら?」

 

「そりゃ、私は普通よりは多少夜禍耐性ありますよ。でなきゃこの仕事もできませんし、協会員の中でも耐性が強いおかげで2級下位にもつかせてもらってます。というか、先輩はいつもそう言って私に目視させるじゃないですか。この際だから言いますけど、やめてください。多少耐性があるだけで何も感じないわけじゃないんです。目視した次の日はずっと気分悪いんですから」

 

へえ。なるほど。

 

「夜禍耐性……ね。ちなみに僕はどれくらい?」

 

「くそよわ。なんで協会員なのか不思議なレベルです」

 

おい、鼻で笑ったぞこの子。なんか、ふっきれてない?

 

「……一般向けの警報は、かなり強い内容だった」

 

『窓の外を見るな』

 

『目と耳を塞げ』

 

『決して確認するな』

 

「最初は、夜禍は見た瞬間に襲ってくる存在なんだと思った。でも、それだと君たちの業務と噛み合わない。だから整理してみた」

 

僕は指を一本立てる。

 

「見ることそのものが危険なんじゃない」

 

二本目。

 

「見る側の資質・耐性に差がある」

 

三本目。

 

「一般人は見ない方がいい。でも、夜禍耐性を持つ協会員なら、短時間の確認は可能」

 

つまり。

 

「つまり、夜禍は物理的な影響よりもむしろ、人間の精神へ影響を及ぼす存在なんじゃないかとーー」

 

――ゴン。

 

彼女が握っていたグラスを、テーブルへ叩きつけた。

 

まるで不愉快な言葉を遮るかのように。指先に力が入り、わずかに震えている。

 

怒っている。

 

……いや。

 

違う。

 

怯えている。

 

「そんなの……」

 

彼女の声はかすれていた。

 

「そんなの、当たり前じゃないですか」

 

震える息を押し殺すように続ける。

 

「何で、そんなことを今さら聞くんですか」

 

「僕には当たり前じゃないんだ」

 

「……は?」

 

「僕は知らないんだ、その当たり前を」

 

そう言った瞬間だった。彼女の表情から、「問題児の先輩を叱っている」という色が消えた。

 

代わりに現れたのは、協会員としての警戒だった。

 

瞬きが止まり、呼吸が浅くなる。肩が小さく上下し、目は見開かれ、瞳孔がゆっくりと開いていく。額にはうっすらと汗が浮かんでいた。

 

人間が本気で恐怖を感じた時の反応だった。

 

彼女の右手が、ゆっくりとスマホへ伸びる。

 

逃げるためか。あるいは、応援を呼ぶためか。

 

どちらにしても、彼女はもう僕を「鳴川先輩」として見ていなかった。

 

「騒がないで」

 

静かに言う。

 

「逃げない。暴れもしない。だから、まず話を聞いてほしい」

 

意識の裏をつき、彼女の手へ触れる。

 

「大丈夫」

 

できるだけ穏やかな声で続ける。

 

「深呼吸して」

 

返事はない。

 

「息を吸って」

 

ゆっくりと言う。

 

「そう。そのまま」

 

握った手へ力を込める。

 

少しずつ、少しずつ呼吸が戻ってきた。

 

彼女はまだ震えていたが、ようやく声を絞り出す。

 

「……せ、先輩は」

 

喉が震えている。

 

「鳴川先輩は……どこにいるんですか」

 

僕は静かに答えた。

 

「ここにいるよ」

 

一拍置く。

 

 

 

 

 

 

 

 

「鳴川 善の身体なら、ここにある」

 

 

 

 

 

 

 

彼女の顔から血の気が引いた。

 

「ひっ……!」

 

息が詰まる。

 

「あ、あなたは……何なんですか……」

 

彼女は僕を見つめたまま、ほとんど泣きそうな声で続けた。

 

「なんで、そんな……なんでもないみたいな顔して、話せるんですか……!」

 

彼女にとって鳴川 善は。

 

きっと、()()()では無いのだろう。

 

だからこそ、彼女は恐怖している。

 

僕は静かに尋ねた。

 

「君にとって、鳴川 善はどんな人だった?」

 

彼女は一瞬だけ目を伏せた。

 

「し、知りません! あなたに言えることなんて、何も……っ」

 

「大丈夫、ただ、君にとっての感想でいい。ほら、嫌なやつだったんだろう?」

 

握った彼女の手首を指先で叩く。

 

「乱暴で、いい加減で、迷惑の塊のようなやつだ」

 

手首を指先で叩く。

 

「大丈夫、僕の目を見て。そう、ここは安全だ。鳴川 善はいない」

 

手首を指先で優しく叩く。

 

「夜禍もいない。空調が効いてて、静かで、心地いい」

 

とん。とん。とん。

 

手首を通じて、一定のリズムを彼女に伝える。

 

「鳴川 善がどんな人だったのか。ここで吐き出すと、君は楽になる。言葉に乗って悪感情が体から出ていく」

 

「言葉に……乗って……?」

 

「そう。話すほど、君は楽になる。さあ、教えてーーー」

 

 

君にとって、鳴川 善はどんな人だった?

 

 

しばらく沈黙が続くが、やがて、彼女は諦めたように口を開いた。

 

「最悪です」

 

まるで、告解のように。

 

「言うことは聞かない。勝手に動く。乱暴。説明は最後まで聞かない。機嫌が悪いと空気まで悪くなる。私はいつも……振り回されてばかりで」

 

「そっか、そりゃ理不尽だ」

 

「本当はもっと皆を助けたいのに、役に立ちたいのに、いつも邪魔してばかりで。一体何度、篠崎さんに文句を言ったか」

 

「篠崎さん……ね。その人は、君のために何かしてくれた?」

 

「できることはするって約束してくれました。実際、いくらか楽になったこともあります。篠崎さんが上司で、本当に良かった」

 

少しだけ間を置く。

 

「私は、鳴川先輩が嫌いでした。好きな人なんていないと思います。澄雨さんも、なんで……」

 

ふむ。

 

「……でも。そんな人でも。現場では必要な人だから。みんなのために、私は我慢しないといけないんです。余計に面倒なんです」

 

僕は頷いた。

 

「なるほど。面倒な人だったんだね。榊原さん、君はずっと、頑張ってきたんだ。えらいね。とってもえらい」

 

「わ、私は、がん、頑張ってーー?」

 

「そうだ、君は頑張ってきた。とても偉い。そして、報われるべきだ」

 

「……報われる」

 

「そう。報われるべき。だから、嫌なやつがいなくなる。そうなったらどう?」

 

「そ、それは」

 

「いいんだ。正直に言ってごらん。僕は君の味方だ」

 

そして、彼女は、小さく、小さく、こぼすようにつぶやいた。

 

嬉しい、と。

 

僕は彼女から手を離す。

 

「言えたじゃん」

 

肩を軽くポンと叩くと、榊原さんがハッとして、何度か瞬きをした。

 

「……あれ、私、何の話してましたっけ」

 

「鳴川 善について、色々と教えてくれたよ。本当に厄介な人だったようで」

 

「ああ……そう。そう、でしたね。ずいぶん喋った気がします……頭がすっきりしてる」

 

「溜め込んでいた不満を吐き出したからじゃないかな?」

 

「……そういうものですか」

 

「そういうものだよ」

 

彼女は、納得したように頷いた。

 

残すべきものは、残ったらしい。

 

「まあ、つまりさ」

 

僕は彼女を見た。

 

「僕は、鳴川善じゃない」

 

その一言は。

 

彼女の中に自然と染み込み、積み重なっていた違和感を決定的なものへ変えた。




8月1日(土)
榊原澪が心情を吐露した後の描写を変更しました。
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