走る。走る。背中に突き刺すような魔物の視線を感じながら、一直線に。
既に外の光は見えている。ダンジョンの出口はもうすぐだ。その事実だけを支えに、白い少女を背負ったハインツはひたすらに走る。
横を行くゲルトが、息も絶え絶えに詠唱を始める。彼女の声に従って炎が渦巻き、一点に向かって凝集していった。不可視の力によって抑え込まれた炎が、眩いばかりの光を放つ。
そうして、駆け続けた足場が石から土へと変わった瞬間。外の新鮮な空気を吸い込んだゲルトが、最後の一節を叫ぶ。
その瞬間、炎の塊が頭上に向かって放たれ、凄まじい爆音と爆風が三人の背中を激しく叩いた。
「…………う」
爆発からどれくらいたっただろうか。土煙が舞う中、ハインツは目を覚ます。疲弊しきった身体に鞭を打ち、どうにか上体を起こした彼は、未だふらつく頭でぼんやりと目の前の景色を見つめる。
ダンジョンの入口があったはずのそこは、大量の土砂に埋め尽くされていた。変化はそれだけにとどまらず、至る所で崩落が起こって周囲の地形が変わっている。
そんな、土砂まみれの周囲を所在なく見渡したハインツは、ふと視界の端の人影を見つけた。
「っ、イングリット!ゲルト!」
跳ね上がるように立ち上がった彼は、必死の形相で仲間の名前を呼ぶ。そうだ、ダンジョンを飛び出た瞬間、ゲルトの魔術が炸裂して爆風で吹き飛ばされたのだ。土砂に巻き込まれていないのは幸いだが、もしかすると。
ふと浮かんだそんなマイナスな考えを打ち消す様に頭を振ると、ハインツは二人の元へと駆け寄る。早鐘を打つ心臓を落ち着けながら様子を伺えば、どちらも規則正しい呼吸をしていた。
大きな外傷も見られない。つまりは、ただ気を失っているだけだ。それがわかって、彼は大きく息を吐く。
──助かった。
……
呼吸が不規則になる。腹の底から吐き気がこみ上げてきて、地面に吐瀉物がぶちまけられる。
どこかから、声が聞こえた。それは、先ほどハインツ自身が放った言葉。
『ハンス。…………頼む』
頼む。そう言って、ハインツはハンスをあの場に残して逃げ出した。魔物の大群の中に、たった一人置いて。
あの時、自分はどんな気持ちでその言葉を口にした?苦渋の決断?断腸の想い?
いいや違う。本当は、助かったと思ったんじゃないのか?
自分の失態のせいで魔物が湧き出てしまって、そのせいでパーティーのことを危険に晒した。戦ってもどうしようもなくて、誰かが犠牲にならないと生き残れそうになかった。
だから、自分が名乗り出るべきだった。囮になると、自分のしでかしたことの責任を取ると。そう言おうとして……けれども、中々言葉が出なかった。
それはきっと、命が惜しかったから。自分は助かりたいと思っていたから。
そんなとき、ちょうどハンスが名乗り出てくれて……心底、ほっとしたんじゃないのか?
自分のあまりの浅ましさに吐き気がこみ上げて、ハインツは再び嘔吐する。口腔に満ちる胃液の苦々しさは、まるで彼に現実を突きつけるかのようだった。
ハンスは死んだ。いや、ハインツが殺したのだ。その言葉で、命令で、魔物に食われて、自分が助かるための贄になることを押し付けて。
何が冒険者だ。何がリーダーだ。自分は、ただの人殺しだ。
夜空の下、低く、押し殺したような嗚咽がいつまでも鳴り響いた。
イングリットにとって、ハンスという人物は不思議な人物だった。
彼と彼女が初めて出会ったのは一年ほど前のパーティーを結成したとき。冒険者ギルドからの依頼があり、修道院から派遣されたのが出会いだ。
それまで、イングリットにとって世界とは修道院のことだった。両親を亡くし、幼少期からずっと修道女として暮らしていた彼女は、外の世界のことを何も知らなかったのだ。
だから、冒険者パーティーに加わって過ごす日常は、そのすべてが真新しいものだった。行く先々の風景、日々の食事、そして出会う人々。イングリットは、世界は広いものだと知った。
けれども、そんなたくさんの出会いの中でも、普段から一緒に過ごしている筈のハンスはどこか違った存在だった。
修道院にいたころに出会った人たちとも違う。冒険者としての日々で出会った人たちとも違う。
では、何が違うのか。そう言われると、うまく言葉にするのは難しい。けれども、敢えてそれを言い表すとすれば、“目”だとイングリットは答える。
ハンスの目それ自体が珍しい色をしているだとか、そういうわけではない。彼の容姿はいたって普通の若い男のものだ。
だけれど、目先のものばかりに気を取られてしまうイングリットと違って、ハンスはもっと大きな視点から物事を見ていた。
落ち着きがあって、色々な物事を知っていて、自分と五か六しか年が違わないはずなのに、どうしてこんなに見えているものが違うのだろうと、よく疑問に思ったものだ。
そうして、そのことについて彼女が尋ねると、彼は決まって苦笑交じりにこう言った。「生きていれば、そのうちわかる」と。
ハインツとゲルトがお酒を飲んで大暴れしている間などは、二人で夜空を見上げながら話をした。これといった話題もない、取り留めもない話。けれども、その中で向けられる彼の暖かい視線と、頭を撫ぜる優しい手つきが、イングリットは好きだった。
彼女は、そんなハンスのことを密かに父親のようだと思っていた。父親というものがいたのならば、それはきっとこんなような人なのではないかと。
「…………ん」
ゆらりゆらりと規則正しい揺れの中、イングリットは目を覚ます。背中に感じる温かさと揺れがなんとも心地よい。
そんな半ば微睡んだままの彼女は、霞がかった視界の中で、自らを心配そうにのぞき込む視線に気付いた。
「…………ハンス?」
「っ!」
その名前が紡がれた瞬間、突然揺れが止まる。自らを支えていた腕が強張って、身体を強く締め付ける。
その変化に、彼女の意識は完全に覚醒した。
イングリットは、自らを横抱きにしていた人物の顔をまじまじと見つめる。ハインツは、その視線をただ黙って受け止めた。
続いて彼女は周りを見渡す。まず視界に入ってきたのはゲルト、そして…………それだけ。辺りにいるのは自分と、ハインツと、ゲルトの三人だけ。
脳が、理解を拒む。何か自分が見落としているだけだと、必死に言い聞かせる。そうして、イングリットは祈るようにして、震えながらその言葉を口にした。
「……ハンス、は……」
答えは、返って来なかった。
現実が。どこまでも静かで、寒々しい現実が押し寄せてくる。
「あ…………」
光景が。脳裏に蘇る。魔物の大群に埋もれて、見えなくなっていく彼の姿が。
「ああ…………」
ハンスは、もういない。
そのことがわかってしまって、イングリットの双眸から涙が溢れ出す。
もっと話したかった。もっと色々なことを教えて欲しかった。
もう、あの眼差しを向けられることはない。もう、あの手に頭を撫ぜられることもない。何気なく過ごしていた日々は、もう決して戻らない。
何故なら、彼は死んだのだから。それも、他ならぬ──
「……わたしの……せいだ…………」
か細い声が、罪のありかを告げる。
なぜ、ハンスは死ななければならなかったのか。それは、魔物が湧きだしてきたからだ。
なぜ、魔物が湧きだしてきたのか。それは、あの広間に足を踏み入れたからだ。
なぜ、あの広間に足を踏み入れたのか。それは──自分が、探索を続けることを提案したからだ。
いい案だと思った。予め完全な地図が存在していれば、これからこのダンジョンに立ち入る人たちのためになる、と。
自分で考えたその提案が、いい案だと言われて受け入れられた時は嬉しかった。いつもみんなに引っ張られるばかりの自分が、少しだけれど成長できたような気がして誇らしかった。
けれども、それが。イングリットのその言葉が。既に結論を出して、ダンジョンから立ち去ろうとしていたみんなの足を止めた。
きっと今頃、全員そろって楽しく話をしていたはずだ。おいしいごはんを食べながら何でもないような話をして、笑顔が溢れていたはずだ。
「わたしが………余計なことを言わなければ…………っ!」
「いいえ」
そんな、彼女の悲痛な言葉は、氷のように冷たい声によって遮られた。
イングリットは、思わずその言葉を発した人物の方を向く。
「私があいつを見殺しにしたのよ。貴方のせいじゃない」
彼女の視線の先にいたのは、能面のような表情をしたゲルトだった。その言葉に、色は無い。ただ、淡々と述べられただけだ。
罪と、その所在が。
そうして、二人分の罪の告白が夜に溶けていったあと。ハインツは、口を開く。
「……全ては、リーダーの俺の責任だ。全部、俺が命令したことだ。…………恨んでくれ」
恨んでくれ。それが、彼の本心だった。
みんな、自分の罪を主張する。他の誰でもなく、自分のせいだと言う。
それが、途轍もなく苦しかった。一番悪いのは、他の誰でもなく自分のはずなのだ。
責められたかった。詰られたかった。お前のせいだと言って欲しかった。
パーティーの行動の責任を取るのがリーダーだ。それをしてこそのリーダーだ。だから、せめて、この責任くらいはとらせてくれてもいいじゃないか。
ハインツの言葉に応える声はない。ただ、後には空しく沈黙が残るのみだ。
それもそのはずだろう。
全員、最も罪深いのは自分だと思っているのだから。
ギルドへの報告は、何事もなく終わった。
あの場所にあったダンジョンは、多くの魔族言語で記された書物が存在する学術機関的な場所であったということ。
しかしながら、魔術によって探知できない罠が設置されており、大量の魔物が発生したということ。
そのため自分たちはダンジョンから脱出し、魔物の地上への進出を防ぐために入口付近を崩壊させたということ。
その際、パーティーメンバーの一人が犠牲になったということ。
それらを報告し、ギルド側から労いとお悔やみ、それとあのダンジョンに関する口止めを受けると、依頼は終了した。
それで、今回のことは全部終わりということになった。
あれから1週間ほどになる。
ハインツは、まるで自傷行為か何かのような鍛錬に明け暮れるようになった。毎晩、ボロボロになって宿に帰ってきて、うわ言を言いながら床に就く彼の姿は、見ているだけで痛々しかった。
イングリットは、部屋に閉じこもって出てこなくなった。ドアの隙間から漏れ聞こえてくる悲痛な声は、いつも誰かに謝っていた。
そんな、まるでパーティーが音を立てて崩壊していくような状況の中。ゲルトもまた、ある場所を訪れていた。
その場所にやってくると、彼女は辺りをぐるりと見まわす。あちこちが崩落したままのこの光景を作り出したのは、他でもない彼女自身だ。
そんな光景の中を歩いて、彼女はとある地点で立ち止まる。辺りで一番手ひどく地形が変わっているその場所。大量の土砂で埋め尽くされているのは、ダンジョンの入口だった所だ。
ゲルトは、自分でもどうしてこんな所にやって来たのかわからなかった。ここに今更来たところで、何が起こるわけでもない。過ぎ去ってしまった時が、何か変わるわけでもない。
ここに残っているのは、ただ彼女がしたこととその結果だけだ。
眼を閉じれば、ゲルトは今でも鮮明に思い出すことができる。
あの時。ハンスが、突然自らが囮になると言い出した時。ゲルトは、その場に残るつもりでいた。
状況は厳しかった。正直なところ、絶望感を抱いてすらいた。いくら焼いても変わることなく押し寄せてくる敵。彼女の魔力も無限にある訳では無い。限りあるものが着実に減っていく感覚は、ガリガリと精神を削っていくようだった。
だから、なるべく多くが生き残るためには、確かに彼の言ったことは正しかったのだと思う。犠牲を承知で、誰かが囮になるということは。
けれども、その正しさがゲルトの心に火をつけた。
絶望で失いかけていた気力が戻る。ふらふらの身体に力が入っていく。
彼女にとって、このパーティーは居場所だった。一人たりとも欠けてはいけないものだった。
どれだけ正しくて、尤もらしい事だったとしても。それでも、彼を置いていくことなんて許せるわけがなかった。
ハインツが退くと言っても、ゲルトの気持ちは揺るがなかった。
既に限界を超えていたイングリットと、それに付き添ってハインツが退くのはいい。
だが、自分はまだやれる。やって、ハンスと無事に二人で帰ってみせる。自分には、そのための力があるのだから。そのための魔術があるのだから、と。
だから。もし彼が正しいことを言っただけだったのならば、ゲルトは決して首を縦に振ることは無かった。ハンスを置いて逃げ出すことはしなかった。
けれども、そうではなかった。そうではなかったのだ。ハンスは、口ではいちいち尤もらしいことを言って、恐らく大多数にとっての正解であろうことを言って。
その目では、ただただ生きて欲しいと言っていた。自分はどうなってもいいから、みんなには生き残って欲しいと。
ゲルトは、そんな彼の瞳を直視してしまった。自分たちを想う彼の心を、そのために命すら使おうとする覚悟を目にしてしまった。
その、あまりにも眩しい姿にゲルトは折れた。折れてしまった。自分も持っていたはずの覚悟を、大きく上回るものを見せられて。
「flamma, fluctuare et saltare, volutare et colligere」
彼女の詠唱に応じて、小さく炎が渦巻き、目の前の一点に向かって集まっていく。
この魔術は、ハンスと共に作り上げたものだ。ゲルトの炎を操る魔術の欠点であった、燃えないものには効果が薄いということを補った、爆発を引き起こす魔術。
もっと自分にできることを増やそうと、パーティーに貢献しようと手に入れた力の使い道が
この魔術で、ゲルトはダンジョンの入口を崩壊させた。そうして、この地形が崩壊した光景を作り出した。
こんなことができる力があったのにも関わらず、彼女がやったことはかけがえのない人を置き去りにしたうえ、閉じ込めただけだ。
「 scintillare et fragor」
最後の一節を読み上げると、火の玉は真っすぐに進み、ダンジョンの入口があった場所で炸裂する。小さな爆発が起こり、土砂を少しばかり跳ね飛ばした。
「は、ははは……」
自分は、何をやっているのだろう。
「あはは……」
本当に、何をやっているのだろう。
「…………ハンス」
その日も、ゲルトは崩落したダンジョンの前にいた。
何をするでもない。ただ、やってきては座ってぼうっと一日を過ごすだけ。それが、今の彼女の生活の全てだ。
ハンスに生かされた。だから、生きなければならない。でも、何をして生きればいいのか、ゲルトにはわからない。
だからこうして、今日も座って、時折瞳を閉じて、過ぎ去った日々のことを思い出している。それが何にもならない、どうしようもない現実逃避だとはわかっているのに。
「……ゲルト」
だが、今日は、そんな彼女の名前を呼ぶ声があった。
「……イングリット、ハインツ…………」
振り向いた彼女は、その先で見つけた二人の名前を呟く。
そうだ。イングリットに、ハインツ。二人とまともに顔を合わせたのは、一体何日ぶりだろうか。
「……どうしてここに」
「……わたし、ずっと部屋に閉じこもってて。ゲルトが、毎日どこかに行ってることすら知らなかった」
ゲルトの問いに、イングリットは静かな調子で言葉を返す。
「……それだけじゃなくて、ハインツがいつも怪我をして帰ってきてることも全然知らなくて。……自分のことしか、考えてなかった」
「…………」
「……苦しいのは、みんな一緒だったのに」
みんな、苦しかった。その言葉は、まるで胸に染み込んでいくようだった。
自分たちの誰にとっても、ハンスはかけがえのない存在だった。そんな、当たり前のことすら見えなくなっていた。
「……ゲルトを見つけたのは、偶然なんだ。ハンスのことに、ちゃんと向き合おうって思って。それで、ここに来て──ゲルトを見つけたんだよ」
「……ゲルト。誰が悪いとは言わない。誰が悪くないとも言わない。……これは、俺たちみんなの罪だ。俺たち三人で、背負っていかなきゃいけないことなんだ」
イングリットに続いて、ハインツが言葉を紡ぐ。そうして、一呼吸置いた後、彼はゲルトに声を掛ける。
「だからさ。ちゃんと終わりにしよう。ハンスのことをちゃんと……送り出してあげよう」
その日から、三人は土砂の山に立ち向かった。
ハンスのことをちゃんと送り出す──きちんと、葬ってあげるために。
恐らく、遺骸はもうほとんど残ってはいないだろう。魔物によって啄ばまれ、原型はとどめていないことだろう。
それでも、骨のかけらでも。身に着けていた、装飾品の一部でも。彼が、確かにこの世界に生きていたという証拠を残したかった。
ゲルトが魔術で土砂を爆破して退かし、岩を砕いて細かくする。イングリットは防御魔術を応用して爆破をコントロールしつつ、三人の体力回復を行う。ハインツは、力仕事で岩の撤去を進めた。
一度封じたダンジョンの入口を、もう一度こじ開ける。
それは、無謀な行為だった。ともすれば、せっかく閉じ込めた魔物が出てくる可能性もある。そもそも、そのような土木工事を三人ですることがまずあり得ない。
けれども、そんな無謀な行為を通して。壊れかけていたはずのパーティーは、再び一つになっていった。
それはまるで、いなくなってもなお、ハンスが三人を結び付けてくれたようで。
そうして、ついに三人はダンジョンの崩落部分、その最奥にまでたどり着く。岩一枚を隔てた向こう側は、自分たちがかつて逃げ出したダンジョンの内部だ。
最後の扉とも言うべき岩を取り除くハインツ。そこから中の様子を探る大役を任されたのは、ゲルト。
果たして魔物が出るのか、はたまたただの空間が広がっているのか。
いつでも防御魔術を発動できるように背後でイングリットが構える中、彼女はそっと岩壁の向こう側を覗き込む。
そうして、ゲルトの視界に入ってきたのは────
「────ハンス?」
「え?ゲルト?……え?」
困惑の表情を浮かべた、ハンスだった。