「…………」
鎧戸の隙間からハンスとイングリットが宿を発つのを見届けたハインツは、静かに視線を窓から逸らした。そのまま椅子に腰かけると、受け取ってから机の上に放っておいた器の中身を口に運ぶ。少し冷めたスープは、それでもなお美味しかった。
二日酔いで調子が悪いと言った彼のために、ハンスたちが持ってきてくれた朝食。それを口にしながら、ハインツは昨日のことを思い出していた。
ハンスの生還を祝った宴会は、それは賑やかなものだった。粗野でありながらも温かい言葉がいくつも飛び交い、大きな机の上に所狭しと並べられた料理の数々があっという間に消えていく。そんな宿の人たちまで巻き込んでの盛り上がりの中で、ハインツはいつもの如くゲルトと飲み比べを始めた。
そんな二人の様子を、ハンスもまたこれまで通り暫く見守ってから、イングリットと連れ立って宿の外へと出ていく。パーティーの面々と宴会を開くたびに見受けられる、いつも通りの光景。それが再び見られたことに、ハインツは安堵を覚えた。
それと同時に、狙い通りのシチュエーションを作れたことにも。
「……ゲルト」
「あら、もう降参かしら?」
「……話したいことがある」
そう言った彼の表情とトーンは、宴の場に似つかわしくない重苦しいものだった。だが、それも仕方のないことだろう。何せ、そんな重苦しいことを話そうとしているのだから。
対して、ゲルトはこういった場らしい蠱惑的な笑みを変わらず浮かべたまま言葉を返した。
「……明日聞くわ」
「……大事な話なんだ」
「わかっているわよ。けれど、この場所でする類の話ではないでしょう?……いくら、彼が席を立っているとはいえ」
「!!」
てっきり大事な話があるということが伝わっていなかったと思っていたところに、言わなかった部分までを見抜かれて、ハインツは驚きに大きく目を見開いた。そんな様子の彼に、彼女は面白いものを見る様な視線を隠さない。
これが年上の余裕という奴なのだろうか。そんなことを考えていると、ふとゲルトの視線が鋭くなったような気がして、ハインツは姿勢を正した。
「……ええと、それじゃ」
「いいから、今日くらいは大人しく飲みなさい」
「…………」
「何であれ、無事に帰ってきたのは事実でしょう?……そこは素直に祝ってあげなさいよ」
そう言って彼女は並々酒の入ったジョッキをこちらに押し付けると、自身もジョッキを呷る。こくこくと喉を上下させ酒精を腹の中に流し込むと、仄かにアルコールの香りの混じった吐息をふうと吐いた。
実に堂々たる飲みっぷり。それをまざまざと見せつけられてしまっては、流石にハインツもこれ以上
彼が無事に戻ってきた。そのことに対する喜びは本当のものだ。みんなで街に帰ってきた時、思わず自然とおかえりという言葉が口を突いて出てきたように。
「……そうだな」
「ふふ。それじゃあ、仕切り直しね。乾杯」
「ああ。乾杯」
お互いにジョッキを掲げて、酒を口に運ぶ。さっきまでと同じものを飲んでいる筈なのに、何故だか美味しく感じられて、ハインツは小さく笑った。
「その調子よ。それで酔いつぶれたら、二日酔いという口実もできるでしょうし」
「?」
「何をとぼけているの?話がしたいのでしょう?明日の朝、二日酔いを口実に部屋に引き込もっていれば、どうせハンスはどこかへ出かけるでしょうし、その間に済ませるわよ。場所は貴方の部屋でいいわね?」
「……っ?!げほっ、ごほっ!」
怒涛の勢いで紡がれた彼女の台詞に、気持ちを切り替えて酒を飲んでいたハインツは思わず口の中のものを噴き出しそうになる。寸でのところでそのような醜態は阻止したものの、慌てて飲み込んだアルコールの一部が気管に入って激しくむせた。
咳き込んで肩を震わせる彼の上から、ころころという楽し気な笑い声が聞こえてくる。かと思えば、背中には優しく労わるようにさすられる手の感触が現れる。
どうやら、今日は何から何まで彼女の手のひらの内らしい。散々に弄ばれ、色々を諦めたハインツはその後浴びるように酒を飲んだのだった。
果たして、迎えた朝。ゲルトの読み通り、ハンスは外へと出ていった。イングリットもついていたことだし、またどこかへいなくなってしまうようなことはないだろう。
心なしか重い頭で、ぼんやりとスープを飲みながらそんなことを考えていたハインツの耳に、足音が聞こえてくる。徐々に近づいてくるその音は、やがて自室の前でぴたりと止まった。
「……入るわよ?」
トントントンというノックの音に続いて、ドア越しのくぐもった女声が問いかけてくる。返事をすると、ドアが開いて燃える様な赤がハインツの目に飛び込んできた。
彼女───ゲルトは部屋に入るなり彼の姿を見つけると、怪訝そうに眉を顰める。
「……まだ食べていなかったの?」
「いや、実の所本当に二日酔い気味でさ。にしても、このスープ美味いな」
「……はあ」
そんな大きくため息を吐く彼女の姿を横目に、ハインツは器を持ち上げてスープを飲み干した。口元を拭うと、器を窓際の棚に追いやって、ゲルトに向かって椅子を指し示す。あきれた様子だった彼女も、その動作が意味するところを酌んで大人しく席に着いた。
部屋に唯一存在する椅子を彼女に差し出したため、ハインツは簡素な木組みのベッドに腰かける。
話したいことがある。そう声を掛けたがために、彼女はこうして部屋までやって来た。だというのに、なかなか言葉が出てこない。目線は所在なくあちこちを駆け巡り、乾いた唇を何度も唾液で濡らす。
そうした彼の様子にしびれを切らしたのか、ゲルトは滞留する空気を切り裂くように口を開いた。
「それで、話したいことというのは何かしら?」
ややあって、ためらいがちに、しかし確かに彼女のことを真っすぐに見据えながら、ハインツはそれを口にする。
「…………ハンスのことだ」
「…………」
その名前が口に出された瞬間、空気がまるで質量を持ったかのように重苦しくなった。
ゲルトは自身の燃える様な髪とは正反対の凍える様な視線を彼に向けると、静かに言葉を続ける。
「……まだ魔族だと?」
「いいや。それはもう疑っちゃいない。あいつはハンスだ、紛れもなく」
彼女の突き刺すような視線を受けながら、しかし臆せることなく、ハインツはそう答えた。
崩れ落ちたダンジョンの入口で再び会った時の問答。その後の街までの道のり、街についてからのやり取り。それらすべてが彼の人物が他の何者でもなく、自分たちと共に過ごしてきたハンスその人であると物語っていた。
けれども、だからこそ胸の内に湧き上がってきたものがある。
「……けど、あいつは何かを隠してる。おれたちに、黙ったままで何かを」
それは、疑念だった。
ハンスは、仲間である自分たちにも言えないような隠し事をしているのではないか。そんな疑いが、昨日からずっと頭の中を占めている。
彼に投げかけた、どうやって生き残ったのかという問い。それに対する答えが、あまりにも都合が良かったから。
百歩譲って、たまたま回復を受けられる設備があったという所まではいい。敵があんなにも多かったこととの一応の整合性は取れてはいる。だが、それでもなお、ハンスが一人であの数の敵を倒しきることができたという所にハインツは疑問を感じた。
彼の剣と盾を使った戦闘技術は、確かに優れたものだ。特に防御と回避の技術については、ギルドの中でも有数のものがあるだろう。しかし、あくまでそれは技術がというだけだ。
魔術が使えない以上出来ることの幅は狭まるし、攻撃面に関しては魔物複数を同時に相手し続けるには火力不足。
つまるところ、ハインツの知っている彼は、例え何かしらの手段で回復ができたとしても大勢の魔物を相手にして生き残れるとは思えなかった。
にも拘わらず、ハンスは自分一人であの場を切り抜けたという。その、これまで見てきた彼の戦いと、彼自身が語る戦いとの違和感。それこそが、ハインツが抱いた疑念だった。
もしかすると、彼は魔術を実は使えるのではないだろうか。もしかすると、彼一人ではなかったのではないだろうか。一度抱いてしまったら、次から次へと疑いが湧き上がってくる。
何を隠しているのだろうか。何故隠しているのだろうか。
……どうして言ってくれないのだろうか。
ハンスはいい奴だ。少なくとも、これまで仲間として過ごしてきた時間の中では。
だから、ハインツはハンスのことを信頼していた。そして、向こうもこちらのことを信頼してくれていると思っていた。
そんな彼が、明らかな隠し事をしている。あんな白々しい言葉を放ってまでも、自分一人で抱え込もうとしている。
その態度に、ハインツは苛立ちを覚えた。悔しさが込み上げた。
そんなに自分は頼りない人間なのだろうか。これまで仲間として過ごした時間は、関係は、そんなに薄く乏しいものだったのだろうか。
烈火のごとく燃え上がった感情はしかし、それを彼に直接言葉として伝えるに及ばなかった。
何故ならハインツは、そんな感情を彼に対して持ってしまっている自分自身が嫌で仕方がなくて、怖かったから。
自分たちはハンスに命を救われたのだ。否、生贄に差し出して生き延びようとしたのだ。そんな彼に対して、仲間に対して、疑いの言葉を吐くことなどできる訳がない。
けれども同時に、疑いそのものはどうやっても頭から無くなってはくれない。
命を救われたという恩と、その恩人に対する疑念。表向きではこれまで通りに振舞おうとしても、どこか彼に対して隔意を感じてしまう。そのことが、どうしようもなく苦しい。
だからなのかもしれない。こうして、自分以外にこの話を聞いてもらおうとしたのは。
「…………」
そんなハインツの端的な言葉と、その裏にある複雑な想いを感じ取ったのか、ゲルトは口を噤んで目を閉じる。
やがて、深紅の瞳が見開かれると共に、彼女は重い口を開いた。
「……ええ。そのようね」
「……!やっぱり……そうだよな、ゲルトもそう……」
彼女の言葉に、自分だけが疑いを抱いていたわけではないと知って心なしか安堵した表情のハインツは、思わずそんな言葉を零す。
だが、そんな様子の彼に水を差す様に、ゲルトは続けた。
「でも、それがどうかしたのかしら」
「……え?」
「……隠し事の一つや二つ、誰でも持っているでしょう?」
「それは……」
虚を突かれた。あるいは、急に梯子を外されたとでも言うべきか。言葉を発そうと開かれたはずのハインツの口は所在なく蠢いただけで、何の意味ある音も紡ぐことができない。
人は隠し事くらいする。彼女の言ったそれは、少し考えてみればごく当たり前のことだった。何もかもを他人に明け透けに打ち明ける人物など、ほとんど存在しないだろう。他ならぬハインツ自身でさえ、自分に関すること全てを皆に教えているかと問われれば、答えは否だ。
ゲルトの言ったことは確かに理解できる。理屈の上では、理解できる。
「……それは……そうだけど」
けれども。
そうではないのだ。ハインツは、そういった理屈の話がしたいわけではないのだ。
「……でも、俺たちには言ってくれたっていいじゃないか。だって、ここまで一緒にやって来た……仲間だろう?」
言ってしまえば、それは純度100%、混じり気なしの感情論だった。
パーティーとして、同じ時間を過ごしてきた。お互いの背中を預け合ってきた。そうやって築き上げてきたものがあった。
頭ではわかっている。ハンスにだって、隠し事はあって当然だ。今回だって、言いたくないことがあったのだろうということは。
それでも、抗いがたい想いがあった。仲間には、それを話してほしいと。もっと自分たちのことを、信じてほしいと。
絞り出すようなハインツの言葉が、宙に溶けていく。微かな息遣いだけが部屋の中に残り、湿った沈黙で空気が満たされていった。
そんな中、ゲルトは俯いた彼に対してぽつりと声を漏らす。
「……仲間だからこそ、言えないこともあるのではなくて?」
その声は優しく、どこか諭すような声色だった。あるいは、言い聞かせる様な。
「ぇ…………?」
「仲間として過ごしてきて、その関係性が心地よいものだったからこそ、却って口が重くなる」
どこか遠くを見つめながら、彼女は言葉を続ける。
「……もし、それを口にしたことで疎まれたら。もし、それを知られたことで忌避されたら。赤の他人にならどうでも良くても、親しい人にそうされるのは──耐え難いことよ」
「そんなこと……!」
するわけがない。頭の中に浮かんだ、空想上の自分の姿を振り払うように、ハインツは思わずベッドから立ち上がって叫ぶ。
それは、あまりにも生々しい姿だった。ゲルトの語ったそれは、今の自分の延長線上にいるようでに思えた。現に自分は彼に対して疑念を抱いていて、隔意すら生じつつあるのだ。
「本当に?本当に確実に、何を打ち明けられてもそんな態度は取らないと断言することができる?」
「っ…………!」
だから、ハインツは何も言えなかった。問い詰めるように瞳を覗き込んできた彼女に対して、真正面から言い返すことができなかった。
絶対にそんなことはないと、自分自身に確信が持てなかったから。
「……ふふ、少し苛め過ぎたかしら?」
そんな、ぐらぐらと揺れる彼の心中を見透かしてか、ゲルトは一瞬口元に笑みを浮かべる。
「……でも、それが答えよ。可能性がないなんて言い切ることはどうやってもできない」
けれども、続く言葉は冷たく、鋭くて。
「だからこそ、どれだけ信じていても、寧ろ信じているからこそ、それが裏切られることを思うと……怖くなるのよ」
それでいて、どこか弱々しいものだった。
「…………あ」
ふと、ハインツの喉の奥から、声が漏れ出る。
さっきからずっと、頭の中はぐちゃぐちゃだった。これまでの自分が抱いていたものが全部間違いだったように思えて、何が正しいのかわからなくなって。心の中には、複数の色の違う感情が入り混じっていて。まるで、足元から地面が消えてしまったような、そんな錯覚すら覚えるようだった。
けれども、ようやくわかったような気がした。ゲルトが何を言いたかったのか。ハンスが、何故あんな見え透いた嘘を吐いたのか。
みんな、怖いのだ。嫌われることが、あるいは嫌いになってしまうことが。それが親しい相手で、仲間だから。
一度は失ってしまったとも思った、かけがえのない存在だから。
ハインツの中に、灯がともる。疑念に囚われて搔き消えそうだった炎が、息を吹き返す。
疑念を抱いた。隠し事をされたことに、苛立ちと悔しさを覚えた。でも、何よりも感じていたのは──恐怖だ。
自分は、彼を見捨てた人間だ。彼を、仲間を見殺しにした人間だ。その、長い影のようにつき纏う事実が、怖かった。
戻ってきた彼は、まだ自分のことを仲間だと思ってくれているのだろうか。恐怖が自信を陰らせて、目までもを曇らせて。生じた不安は、やがて疑念に姿を変えた。
だからこそ。そうだからこそ。自分がやるべきことはたった一つ、単純なことだ。
仲間だからと言うのなら。信じてほしいと言うのなら。何よりも先に、まずは自分が信じてやるべきじゃないか。
だって彼は、確かに生きて帰ってきたのだから。
「……ゲルト、ありがとう。わかったよ。俺のすべきことが」
一寸先も見通せない闇の中で一歩を踏み出すというのは、それがどんなに小さな一歩だとしても恐ろしいものだ。ありったけの勇気を振り絞っても、それでも足りないかもしれないほどに。
「……俺、待つよ。いつか、あいつが隠してたことを言いたいって思える日までさ」
だから、信じて待つ。一歩を踏み出す勇気が湧いてくるまで。それが、ハインツの選んだ道だった。長く、険しいだろうけれども、それでもずっと向こうまで続いているであろう、その道こそが。
「……それじゃあ、私は部屋に戻るわ」
そう言って、ゲルトは椅子から立ち上がる。ドアへと向かいながら後ろを一瞥すれば、見違える様な姿のハインツの姿が目に飛び込んできた。
この部屋を訪れた時、迷いに揺れていた瞳には煌々と炎が灯り、不安と焦燥がないまぜになっていた表情は清々しく晴れやかで、決意に満ちたものに変わっている。
彼女は、思わず自分の口角が上がるのを感じた。まだまだ青いところはあるが、それを補って余りあるほどの熱量が彼にはある。だからこそ、彼はこのパーティーのリーダーなのだ。
「ああ。……改めて、ありがとう、ゲルト」
「いいのよ。リーダーがあれじゃあ、パーティーとしてどうしようもないもの」
「はは、違いない」
肩をすくめたゲルトの台詞に、面目ないとばかりに苦笑いを零すハインツ。やり取りもそこそこに、今度こそ彼女はドアの向こうへと身を翻す。
そんな去り際の背中に、言葉が投げかけられた。
「……ゲルトのことも、待ってるぞ」
ぱたん、と軽い音を立てて扉が閉じられる。一歩、二歩。廊下に響く足音に混ざって、小さなため息が漏れ聞こえた。
ハインツは鈍いところがあるが、決して頭の出来が悪いわけではない。寧ろ、頭の回転という意味ではそれなり以上のものを持っている。多少のヒントが揃えば、正解を探し当てるのは苦ではない。
どうやら、少しばかり入れ込み過ぎたようだ。ゲルトはそう、自嘲する。
ハンスが一体何を隠しているのか。その内容については、ゲルトとて何も知らない。
けれども、何かを隠しているということ自体には、ずっと前から気付いていた。
隠し事をしている人がどういった行動をとるのか、彼女はよく知っていたから。
「……人のことを言えないわね、私も」
ハインツは待つと言った。隠していたことを言いたいと思える日まで待つ、と。
果たして、そんな日は来るのだろうか。
未来のことはわからない。けれども、今はできないことは確かだ。それは自分にとっても、恐らくはハンスにとっても。
──ようやく手に入れたこの居場所を失うのは、ひどく恐ろしいことだから。
「再発行……ハンス・グライツェン?」
彼──エミールがその文面を目にしたのは、ギルド内の一室でのことだった。
彼は元々冒険者として活動していたのだが、自身の才能に限界を感じ、ギルドの運営に転身した人物だ。戦闘や魔術の技量には乏しかったものの実務の才覚には確かなものがあったのか、運営に携わって以来めきめきと頭角を現し、今では若くして事務方の実務トップにまで上り詰めている。
冒険者ギルドはローネブルクの軍事力の大きな部分を占める一大勢力だ。冒険者として名声を得るという夢に破れたエミールの野望は、そのギルド内において実質的なトップに立ち、街の有力者となることだった。
さて、そんな彼がこのハンスと書かれた文面に反応したのには訳がある。それは、少し前にあったややこしい案件でその名前を目にしたからだ。
その案件とは、とあるダンジョンにまつわる事後処理についてのものだった。ローネブルクのミリシア経由でダンジョン発見の報告を受け、ギルドが冒険者を探索に派遣したのだが、その冒険者パーティが持ち帰ってきた報告が問題になったのだ。
ダンジョン内に大量の魔族言語で記された文献があった。だが、同時に大量の魔物が発生し、ダンジョンを封鎖する事態になった。報告の内容は端的に言えばこのようになる。
だが、これがギルド上層部の頭を悩ませた。魔族言語で記された文献。それは、ギルドが喉から手が出るほど欲しいものだったからだ。
これまでの歴史上の事実として、魔族が人類よりも優れた魔術を用いていることは既に明らかになっている。故に、魔族、ひいてはその魔術についての情報を得ることができれば、他勢力よりも優位に立つことができるだろう。
十字軍以降、教会勢力が情報においては他勢力の一歩先を行っていた状況にあって、大量の文献を手に入れられる機会は貴重で、逃しがたいものだ。
よって、ギルドとしては出来ることならば教会に横やりを入れられる前に秘密裏に文献を回収したかったのだが、大量の魔物がいるということが二の足を踏ませた。
大量の魔物と対峙する上では、単純に人数という物量か優れた魔術による大火力かのどちらかが必要となる。しかしながら、両方ともどうやっても目立ってしまい、教会の介入を招く危険性があった。
そんなわけでギルド内でも議論はあったのだが、結局は別件絡みで教会との関係を荒立てたくないということもあり、当該パーティーに箝口令を敷いた上で棚上げする形に決着した。これが、少し前にあったややこしい案件だ。
冒頭の名前は、件の冒険者パーティーの内、唯一の未帰還者として記されていたものだった。崩落したダンジョン内に取り残されたため生存の見込みは薄く、現に死亡を認定されてギルドの名簿から除外されていた。
だが、この手元の文面によればそんな人物が実は生存しており、ギルドを訪れてメダルの再発行まで受けたらしい。
「……ふむ」
再発行に際しては、本人確認が取れた上で所定の料金を納めれば行えることになっている。この本人確認というのはギルド職員による何点かの質問によって行われており、大抵は知った仲の職員が対応する。そのため、そもそもそのような知り合いがいない場合には再発行は認められない。
このような属人的な制度には批判的なエミールであったが、その有効性には一定以上の評価を与えていた。見知った人物と実際に会って話すという行為から得られる情報は極めて多く、それらから些細な違和感を拾える可能性が高いからだ。
つまり、こうした段階を踏んで再発行を受けたということは、この自称ハンス・グライツェンは限りなく本人と考えることがだろう。
「…………」
エミールの思考が加速していく。
これらが意味することは、魔物の大群で満たされたダンジョンに一人取り残された人物がどうやってか無事に生還したということだ。
入口が封鎖された以上逃げ場はなく、物資も減る一方だったはずだ。別の出口を見つけて脱出に成功したというような単純な話ではないのは、付近で魔物が大量発生したという知らせがなかったことからわかる。死亡認定から再発行までの期間の長さも、それを裏付けていると言って良いだろう。
一方、件の冒険者パーティーはギルド内でも比較的上位の実力を持っていて、そのことはエミールの頭の中にも入っている。しかしながら、ハンスという名前にはあまり聞き覚えがないことから、逆説的に彼が特筆すべき実力者ではないと判断することができた。
以上を総合すると、孤立無援の中で優秀な、しかし常識的な実力の冒険者がある大量の魔物を単独で討伐し、ダンジョンを脱出したということになる。
だが、それはあまりにも現実味の無いものだった。もしそのようなことが起こりうるのであれば、人類は自由にこの大地を行き来できたことだろう。
しかしながら、現実には多くの人が魔物に手も足も出ず、僅か一匹のオークを倒すことさえできれば、それだけで駆け出しの冒険者と呼ばれる。
故に、大量の魔物に一人で立ち向かったハンスを待ち受けるものは死以外にはないはずだ。だが、彼は生きて帰ってきた。
このように想定と現実との間に齟齬があった時、考えられる可能性は二つだ。すなわち、想定に間違いがあるか、想定していなかった要素があるか。
──例えば、ダンジョンに眠る魔族の文献のような。
文献だけではどうにもならないかもしれないが、それ以外にも魔族に由来する未知のものが存在し、それによって彼が生き残ったのだとしたら。
一体それは、ギルドにどれほどの益を齎すのだろうか。
何よりそれは、自分をどこまで押し上げてくれるのだろうか?
エミールは頭の中で算盤を弾く。
魔族由来の強力な何かを手に入れられればよし。文献や情報を手に入れる程度でも十分な成果になる。
もし空振りだとすれば、それはハンスが実は特筆すべき実力の持ち主だったということ、つまり想定に間違いがあったということになるが、その場合はパーティーの評価を一段階上げることができる。例の件に向けて、箔の付いた冒険者パーティーを用意することはギルドにとってプラスに働くだろう。
つまり、この件はどう転んでも利用することができる。己の野望の、実現のために。
エミールは、自分が笑みを浮かべていると感じた。口元は大きく弧を描き、喜色が立ち昇る。
そうとなれば、動くのは早い方がいい。彼は浮かんだ笑みを務めて押し殺しながら、ギルド長のスケジュールに目を通した。