冒険者ギルドからの使いが来たのは、おれがイングリットと共にギルドを訪れて無事に身分証明書を再発行してもらってから、数日が経った頃のことだった。
その時のおれたちは、一言で言えばのんびりと過ごしていたというべきだろうか。
おれが戻って来てから、いや、そもそもあのダンジョンでおれが一人残った時点から、みんなには気の休まるような日はそう無かったはずだ。残された者がどういう想いを抱くのかを、おれは知っている。
……尤も、そういう想いをみんなに抱かせたおれには、そんな訳知り顔をする資格はないが。
何が言いたいのかといえば、みんなには休息が必要だった。肉体的にも、精神的にも。
きっとみんなの方からすれば、おれとてそうだと思われているのだろう。普通に考えれば、おれが適当にぶち上げたように何かしらの治癒を受けられる設備があったとしても、閉鎖されたダンジョンで魔物と戦い続けるというのは精神に多大な損害を与えるはずだ。生きてはいても発狂していておかしくはないし、寧ろそれのほうが自然だと自分でも思う。
いっそのこと、狂ってしまえたらどんなに楽だっただろうか。何も思い悩むことなく、ただの生ける屍となることができたのだから。
だが、おれという人間は狂うこともできない。普通なら精神が焼き切れそうな目にあっても、決して。だって、おれは
つまりは寿命まで、肉体的にも、精神的にも、健やかな状態を保つことができるという
だから、おれには何の問題もない。どこもかしこも、健康そのものだ。ただ、今のおれが大丈夫だといくら言ったところで、大丈夫ではないと思われることは間違いない。
そういうわけで、パーティーで揃って宿でのんびりと、それこそとりとめのない話をしたり、ちょっとした買い物に行ったり、辺りを出歩いたりと過ごしていたのだが、ギルドからの言伝はおれ含めてみんなのそんなある種弛緩した空気を引き締めるには十分なものだった。
「──話?ギルド長が?」
「ええ。ハンスさんに尋ねたいことがあるようで、ギルドの方まで顔を出して欲しいと。こちらにある通りです」
「…………」
宿の食堂で朝食を取っていたところにやって来たギルド職員の男は、澄ました顔でそんなことを言った。
このタイミングで来たということは、十中八九この間のダンジョンの話だろう。男が差し出した手紙に目をやりながら、おれは考える。
ギルド長とは、その名の通りギルドの長だ。そしてこのローネブルク冒険者ギルドに限って言えば、それはあの食えない爺さんのことを指す。
アルブレヒト・フォン・ブルクハルトシュタイン。グレーに染まった髪と髭の厳めしい顔つきの彼の歳は、おそらく60を超え70近くというところだろうか。名前からすると貴族だと思われるのだが、実際はどうであれ、平民出身者が大半を占める冒険者の世界でそれを名乗っているというのがまさしくこの爺さんの食えない所だろう。
おれもこのローネブルク冒険者ギルドに籍を置いている身として何度か顔を合わせたことがあるが、まず間違いなく只者ではない。歳に似合わず伸びきった背筋に、オークの一匹二匹程度はそのまま射殺せそうなほどの眼光。
それでいてローネブルクの市参事会でも辣腕を振るっているのだから、例えフォンが気に入らない冒険者であっても、彼がギルド
さて、そんな爺さんからの顔を出して欲しいとの言伝であるが、これは実質的には出頭命令だと考えていい。
彼の持つ雰囲気からしてこのような呼び出しをすることには少々の疑問符が付くものの、私信という形で直筆の署名が入った文章まで持ってこられたのだから疑問を挟み込む余地はない。
ギルドに向かわなければならないのは確定として、あとは何をどこまで聞かれて、それになんと答えるべきか。そんなことに思いを寄せながら、使いに返答しようとしたその時。背後から聞こえてきたのは、まるで氷の刃のような鋭く冷たい響きの言葉だった。
「それは
思わず後ろを振り向いたおれの視線の先で、険吞な雰囲気を纏ったゲルトが男に問いかける。
「……さあ?私は存じ上げません。ただ、
「……そう。なら、これはギルド長ではなくブルクハルトシュタイン殿が個人的にハンスと話したいことがあるという理解でいいのよね?そうでなかったら……ねえ、ハインツ」
彼女のその言葉と共に突如水を向けられたハインツはしかし、意を得たとばかりに大きく頷くと口を開く。
「ああ。もしギルドとしてハンスに何か聞きたいことがあるんだったら、彼は俺のパーティーの一員だ。最低でもリーダーの俺は同行させて欲しいものだな。……まあ、私的な関係だったら口を出す気はないが」
使者に向かって発せられた、二人の言葉。ここまでくれば、二人のやろうとしていることは明白だ。つまりは、この突然のギルド長による呼び出しは公のものではないと釘を刺そうとしている。
少し心配が過ぎるようにも思うが、確かにギルドが公におれを査問したという事実があれば、色々を正当化することができるのもまた事実だ。あの爺さんが拷問好きだとは思えないが、ギルドにそういう輩がいる可能性もある。
だから、二人がこうして心配をしてくれているということがおれにとっては素直に嬉しく、また心が痛んだ。だって、きっとこれはおれが一度いなくなったせいなのだろうから。
あの時、おれが一人残ったことは今でも正しかったと思っている。例え心に傷を負うことになったとしても、取り返しのつかないみんなの命が救われるの方が大事だと思っていたし、今こうしてまた一緒に居られることがその正しさを示している。
でも、分かっていたとは言え、こうして直視することになったその傷跡は、酷くグロテスクだ。或いは、本当に醜いのはおれ自身か。
その醜いものから目を逸らすかのように、おれは口を開く。
「ありがとう、ゲルト、ハインツ。でも、大丈夫だ。ただちょっと、
「…………ええ。それで構いません。ただ、その代わりというわけではありませんが……このままギルドまでご一緒頂いても?」
「……そういうことらしいから、少し出かけてくる。まあ、昼過ぎには帰ってきたいところだな」
せっかちな使者の言葉を受けて、おれはみんなの方を振り返ると努めて明るく告げる。特に最後の方は男にもよく聞こえるように大きな声でだ。
そうして出かけようとするおれを、ゲルトとハインツは様々なものが入り混じったような微妙な表情で見送る。そんな二人と比較すると、イングリットはもっと心配が前面に押し出た顔をしていた。
「……ハンス、気を付けてね」
そう言う少女らしい少女の眼差しからは、こちらを案ずる真摯な想いが伝わってくる。同時に、ほんの少しの恐れも。
自分のした行いの結果が、こんなところからも垣間見えているようで。それを塗り隠すかのように、おれは言葉を吐いた。
「ああ。すぐに帰ってくる」
どの口が言っているのかと問いたくなるような、薄っぺらな言葉。
そんなものであってもイングリットが表情を明るくしたのをせめてもの慰めとして、おれは男と共に冒険者ギルドへと向かった。
斜め前方を歩く、ギルドからの使いである男。くすんだ金髪をした彼のことを、おれはほとんど知らない。
先導する道は真っ直ぐにギルドへと向かっていることから、所属に偽りはない。もしかすると何かで顔を見かけたことくらいはあるかもしれないが、少なくとも言葉を交わしたことは無いはずだ。
つまり何が言いたいのかと言うと、おれたちの間には気まずい沈黙が横たわっていた。これが使いに来たのが受付の面々だったのならば、もう少しはましな道中になったと思うのだが、現実にはこれだ。
恐らくは裏方の人間なのだろうが、ギルド長の使いで来るならそれなりの人物のはずだ。気が向けば爺さんに尋ねてみるか、そんなことを考えながら、おれはいつの間にか着いていた冒険者ギルドの扉をくぐった。
「おはよう、ルッツ。それにフリーダ嬢。この間は色々迷惑をかけたな」
ギルドの中に入るなり、おれは少々大きめの声で受付の所にいた二人に挨拶をする。ちゃんとおれがここにやってきたという一種のアピールというところか。裏口などではなく正面から入った時点でそこまでの心配はないと思うのだが、念には念を入れての予防措置だ。
「あら、ハンスじゃない。おはよう、今日は……」
そんなおれの声を聞きつけてか、フリーダ嬢が朗らかに返事をする。が、しかしその声は途中でしりすぼみになって行った。
その理由を、おれは前を行く人物に求める。なぜなら、彼女の視線は使いの彼へと向かっていたからだ。
二人分の視線を受けてか、男は小さく首を振るとおれの方を振り返る。その表面に、苦笑いとでも言えるような表情を貼り付けながら。
「行きましょうか、ハンスさん」
その穏やかな言葉に、おれは頷いた。頷くことしか出来なかった。穏やかで、しかし有無を言わせぬその響きに。
これは、明らかに命令をする立場の人間の言葉だ。そう目の前の男の正体に思いを巡らせながら、おれは彼に続いてギルド内を奥へと進んで行った。
案内されるがままに廊下を進み、階段を上り、そうして行き着いたのは一つの部屋だった。
重厚な木のドアには、上席書記官室という文字が刻まれている。おれはあまりギルドという組織の階層構造を知らないが、部屋を一つ割り当てられている役職が、そう軽い物でないことくらいはわかる。
だが、彼はそんな
「どうぞ、お入りください」
「……どうも」
言葉に従って部屋に入ったおれは、一歩進んだところで立ち止まった。視界に入ってきた部屋の様子は取り立てて華美というわけではないが、仄かに香る花のような匂いと品のある調度品が落ち着いた雰囲気を醸し出している。執務机とその上に置かれたペン、それに書類や書籍の山からは質実剛健とでも言うべき仕事ぶりが伝わってきた。
だが、おれが立ち止まったのはその様子に感服したなどといった理由ではない。
「扉くらい、自分で閉めますよ」
後ろを振り向き、扉に手をかけたままの男に向かって言葉を発する。
「……いえ、ギルド長の客人にそんな」
声をかけられた側の彼はまるでお手本のような困った顔をするが、おれは見逃さなかった。表情を貼り付ける前の一瞬、目が危険に細められたことを。
こうしておれが彼に声を掛けた理由は二つだ。ひとつは、扉に余計な細工をされないようにするため。物理的な鍵なら最悪ぶち破ればいいが、魔術的なものだと厄介だ。
そして、もうひとつ。
「いいや、あんたの方こそそんな雑事をするべきじゃない。──そうでしょう、上席書記官殿?」
「…………やれやれ、用心深い方だ」
おれがその肩書を口にすると、男は首を振って扉から手を放し、自然そのものといった様子で執務机の向こう側に腰を下ろす。どっかりと座り込んだその姿からは、先ほどまでの使用人然とした立ち振る舞いから一転して、立場のある人物らしい重みと自信が感じられる。
年若く、具体的には20代後半あたりに見える彼ではあるが、なるほど、これでは上席書記官だというのにも納得だ。
上席とついている辺り、その下に複数の書記官がついているような管理職的な立場にも思えるし、机の様子からは実務もこなしているように見える。同い年では本当に案内係や使い番をやっている者もいるだろうにその役職に就き、なおかつそれに見合った風格を兼ね備えている彼は、つまるところ相当な切れ者なのだろう。
「まあ、あなたも掛けてください。……ああ、その前に、是非扉を閉めて頂きたい。あなたの仰っていた通りに──どうも」
もう取り繕うことはないとばかりの慇懃無礼な口調。嫌味を聞き流しながら言われた通りに扉を閉めると、おれは机のこちら側に置かれた椅子に腰かける。そうして再び正対したところで、彼は口を開いた。
「さて、何からお話ししましょうか。……ああそうだ、私はエミール・ザーゲヴァルトと言います。ギルドでは上席書記官を拝命しております」
「……ハンス・グライツェンだ。ここのギルドに所属している」
「ええ。存じ上げております。先日も、あなたに関する書類に目を通させてもらいましたよ」
……知られている。目の前の人物に、おれという存在のことを。
知られているということには、良い場合と悪い場合があって。今回に関しては、明確に後者だ。
先ほど彼が口にした書類という言葉。おれに関するそれとして心当たりがあるものは二つある。すなわち、ダンジョン探索の報告書とギルド章の再発行申請書だ。
前者では実質的な死者として、後者では生者として記された名前。その二つを結びつける際に、目の前の優秀であろう人物が何を想起したのか、何を期待したのか。
容易に答えに行き着いたおれは、もう一つの答えを得るべく口を開く。
「その節はどうも。……ところで、ギルド長の所へはいつ行くんだ?おれはその用でここに来たんだが」
「……ああ、失礼。お伝えし損ねていたようだ」
おれの問いに対して、エミールと名乗った男はまるで今さっき思い出したとでもいうような表情で告げた。
「ギルド長は急用で外出してしまいましてね。代わりに私が御相手しようと思うのですが、いかがですか?」
その姿におれは確信する。今回おれのことを呼びだしたのは、ギルド長でもギルド自体でもなくこの男だと。
最悪ではないはずだ。だが、間違いなく最善ではない。ともすれば、最悪に近いかもしれない。となれば、ここで打つべきは逃げの一手だろう。
即座に考えを纏めると、おれは吐き捨てるように建前を述べて席を立つ。
「……帰らせてもらう。おれはギルド長と話をしに来たんでな」
「まあそう言わずに。これもお伝えしていなかったのですが──」
そのまま出口に向かって踵を返したおれの背中に掛けられたのは、そんな声だった。
これとは何なのか、思わず首だけを向けて声の方を見れば、彼はデスクの一角を指さして笑いながら続ける。
「──この部屋の施錠はここでするんですよ」
おれは言葉を無視して、ドアノブに手をかけた。入ってきた時の逆で、ドアを引いて外に出ようとする。自らが閉めた、施錠されている筈もないドアは、それで当然開くはずだった。
だが、伝わってきたのは何かがつかえているような鈍い感触だけ。押しても引いても、扉は開きそうにない。それが意味するところは、先の言葉が真実だということに他ならなかった。
……やられた。
その四文字が頭の中を埋め尽くす。完全に相手のペースに乗せられたまま、まんまとここに閉じ込められてしまったのはやられたとしか言いようがない。
だが、それを態度に出してしまえば挽回すら望めなくなるだろう。おれは思わず天を仰ぎそうになったのをどうにか堪えながら、努めて平静にエミールの方を振り返る。
「……用件は?」
「わかるでしょう?……ダンジョンについてですよ」
厭らしい笑みなどではなく、あくまでにこやかな表情のまま、彼は言葉を続ける。
「なに、あまり時間は取らせません。話を聞かせてさえ頂ければ、すぐに帰っていただいて結構です。何せ、私は荒事が苦手なもので」
人を閉じ込めておいて荒事が苦手とは、結構な言い分だとおれは思う。だが、ここまでの手法が荒っぽいものではなく、スマートなものであるのもまた確かだ。
ここまでしているからには、恐らく彼はおれから
そのような手段として考えられるものはただ一つ──魔術だ。
もしそうだとすれば、どうにかなるかもしれない。そんな推測を立てたおれは、話を進めるべく口を開く。
「……聞きたい事項は?用意周到なあんたのことだ、纏めてあるだろう?」
「ええ、勿論。では早速一つ目を──あなたは、パーティーと共に探索に向かってから先日救出されるまで、確かにダンジョン内に居ましたか?」
質問の言葉を聞いた一瞬。おれは、とてつもない安らぎを感じた。
心の底からリラックスできているような状態。緊張や力みといったものが全てどこかに消えていって、あらゆる重しが無くなるような感覚。
今ならば、心の奥底にあるものだってスルスルと吐き出すことが出来そうで────
「…………ああ。確かに、おれはあの場所にずっと居た」
──次の瞬間、我に返ったおれは、どうにか質問に対する肯定の言葉を返した。
背筋に冷たい汗が流れるのをはっきりと感じる。ほんの一瞬、けれども確かに感じたあの口が軽くなる感覚。あれは間違いなく魔術によるものだ。
魔術はその性質上、他者の意識に干渉するのは難しいのだが、方法がないわけではない。例えば、自分の魔力を他者に取り込ませることができれば、先程の様な干渉も可能になる。
だが、一体いつ、どのようにしておれは奴の魔力を取り込んだのだろうか。
「…………ふむ。まず大前提の確認は取れましたね。では続いて──あなたは、救出されるまでどのようにして生き残りましたか?」
「……魔物を倒して、その肉を食って、体液を啜って生き残った」
「…………なるほど。危機的状況におけるその精神力は驚嘆に値しますね」
再び襲い掛かって来た一瞬の陶酔を振り払い、質問に答える。おれの答えに奴は感心したような素振りを見せるが、そんなものは無視だ。
エミールに会ってから今に至るまで、何かを飲み食いしたわけでも、直接触られたわけでもない。何か彼に関わるもので身体の中に取り入れたものといえば──
──空気、か?
思えば、この部屋に入った時から何か花の様な香りがしていた。気分が落ち着いて、リラックスできるような匂いが。
定式化された質問の言葉は、恐らく詠唱の代替。これらを纏めると、彼の使う魔術は香りと共に魔力を他者の体内に送り込み、特定のワードに反応して口を軽くさせると言ったものなのだろう。
だが、気になることはもう一つある。
「詳細な質問もしましょう。──あなたは、どのようにして魔物を倒しましたか?また、その際にダンジョン内のものを使いましたか?」
目の前の彼は、おれの方を見て質問をする。が、その後すぐに微妙に視線がずれるのだ。その先にあるのは作業机の上のランプだと思うのだが、何の意味があるのか。
考えられるのは、やはり魔術絡みのこと。おれの返答のタイミングで見るあたり、発言の真偽でも見分けているのだろうか?
方式はわからないが、事の真偽がわかるのはおれ自身だ。だとすれば、彼の魔術から逃れている今のこの状態ならば。
「……最初は手持ちの剣で、折れてからはオークの棍棒を奪って戦った。時折、ダンジョン内にあった装置を使って回復をしながら」
「…………」
一瞬の沈黙が、嫌に長く感じる。今のおれの発言のうち前半はともかく、後半の内容に関してはまるっきり嘘だ。
通用するか、それとも。顔では平静を保ちつつも、内心胃の痛い思いを抱えながら、エミールが口を開くのを待つ。
「……術者を必要としない回復手段。……なるほど」
果たして、彼の言葉は抑制の効いたものだった。抑えめで、控えめで、けれども、明らかな喜色を湛えた。
思わずといった調子で、張り付けたような薄気味の悪い笑顔ではない、欲の籠った本当の笑顔が彼の仮面の下から零れる。
その顔のほうが今までのよりもよっぽど似合っているぞと言いたいのは山々だが、それよりも大事なことがある。
彼は、おれの嘘に食いついた。それを嘘だと見破ることなく。
「では、最後に確認です。──あなたは、確かにダンジョン内で装置による回復を受けましたか?また、それはダンジョン内のどこに存在しますか?」
「……ああ、確かに装置で回復しながら戦った。装置は、その時にはダンジョン最深部の大広間の壁に開いた穴の向こうの部屋にあった」
「…………よろしい!実によろしいですよ、ハンスさん…………いや、
そして、更にもう一手。これは彼の鋭さを当てにしてのものだったのだが、流石に期待通りだ。
上機嫌そのものといった様子だったエミールはしかし、おれの言葉の些細な違和感に鋭敏に反応する。
「ハンスさん、今その装置は……んん──あなたは、今現在のその装置の所在と状態を知っていますか?知っているのならば、それを経緯を含めて教えてください」
「……少なくとも、おれが救出された時点では場所は変わっていない。だが、魔物に回復されるのを防ぐために全て壊した」
「は?……いや…………そう、ですか。……わかりました」
回復ができるような装置。そんなものがダンジョンにあるとわかれば手に入れたいのが人の性だろうが、あまり真に受けてもらっても困る。あの場所に実際に残っているのは、魔物の培養装置の残骸なのだ。
なまじ魔術を使って尋問した分、おれの言葉をまるっきり信じて動いて、それで実際には無かったと逆恨みされても面倒だ。
そういうわけで、もう装置は壊したという言葉を彼に引き出させたのだが、効果は覿面だった。
一瞬とは言え、心の底からであろう唖然とした表情を見せ、明らかに意気消沈した様相を呈していたのだから。
「…………」
だが、そんな様子を見せたのも束の間、エミールは一切の表情を消して黙り込む。少し俯いた顔からは何も読み取ることができず、物音ひとつ無い静寂が部屋を支配する。
おれの発言を受けて今後の動きを考えているのか、次の質問を考えているのか。もしかすると、自身の魔術について考えているかもしれない。
全てが推測の領域ではあるが、あの一瞬感じた奇妙に安らいだ感覚は、彼の魔術の強力さを物語っている。
体内の魔力が吸い込んだものも含めて、全て不老の維持のために瞬時に消費されるというおれだからどうにかなったが、そうでなければ完全に彼の手中に収められていたはずだ。
これまでどのようにして使ってきたかは知らないが、人から話を聞くには極めて有用で、恐らく彼自身も信頼していた術なのだろう。
だとすれば、それを疑うのは難しいはずだが、果たしてどうか。
長いような、短いような沈黙の中。おれがそのようなことを考えている間に、エミールもまた考えを終えたようだった。彼は顔を上げると、最初から見せていたのと同じような笑みを張り付けてこちらを見る。
そのままデスクの上の何かを操作すると、彼が指し示したのは──部屋の出口だ。
「……ハンスさん、今日はありがとうございました。どうぞ、気を付けてお帰りください」
「……それじゃあ、失礼する」
どうやら、ここまでのようだった。彼の言葉に返答をすると、おれは踵を返して扉へと向かう。手を掛けて引けば、少し前のことが嘘のように何のつかえもなく扉が開いた。
最後に、おれはちらりと背後の様子を伺う。背中越しに見えた彼は、変わらずにこやかな表情のままだ。
それを確認したところで、おれは今度こそ部屋を後にした。
……どうなる事かとは思ったが、どうにか凌げたか。
気を張り詰めたまま廊下を進み、ギルドから外に出て帰路に着き、宿屋が目に入ってきたところで、おれは漸くひとつ息を吐く。
太陽は少しばかり傾いてきたが、まだ沈んではいない。すぐに帰ってくるという約束は、どうにか守れただろうか。
頭の中にイングリットの姿を思い浮かべながら、おれは小さく笑う。
老いない自分は、いつまでも同じ人たちと一緒に居ることはできない。だから、この先の宿で待っているであろう皆との別れも、いつかきっと来るはずだ。
けれども、出来ることならば、皆とは笑って別れたいと思う。悲しい別れは、きっと一度で十分なはずだ。
だから、その日が来るまでは。傷が癒えて、跡が綺麗に消えてなくなるまでは。
帰ってこよう。今日みたいに、皆の下へ。
宿の軒先に、二階からおれの姿を見つけたのか、駆け出してくる白い少女とその後を追う二人の男女の姿を見つけて、おれは歩調を速めた。