どこからか物音が聞こえ、僕は暗闇の中でぼんやりと目を開いた。
最近どうも寝付きが悪い。中学生活にも慣れてきたはずなんだけど、どうしてだろうか。
真冬の寒さのせいなのか、それとも何かに期待してしまっているのか。いやまさか。そんなはずはない。ぶんぶんと首を振りながら身体を起こす。
寝相が悪いせいか足先は冷え切っている。カーテンを開くも、外は吸い込まれそうなほど真っ暗で、舞うような白雪が時々車のヘッドライトに照らされるだけだった。ホワイトクリスマス、と口の中で言葉を転がす。だからなんなのだろうか。僕には関係のない話だ。
腰を上げ、壁伝いによろよろと歩き、何とか灯りのスイッチを押す。パチンという音と共に部屋全体が急激に明るくなった。部屋の全てが鮮明になっていく。乱れたベッド、中途半端に開いたカーテン、汚れたフローリング。
そして、サンタクロースの姿があった。
あまりの出来事に、僕は素っ頓狂な声を出し、飛び退いてしまう。こんな深夜に大声を出したら、お母さんに怒られてしまうな、なんて場違いなことを考えてしまうほどには混乱していた。
「あまり大声を出すんじゃねえよ」
目の前に現れたのは飛び出したビール腹が醜い中年男性だった。全身赤色のもこもことした服は、使い古しているのかところどころ黒ずんでいて、まだらになっている。肩には大きな白い袋がある。明らかに丈夫そうで、布はなく、プラスチックか何かでできているのだろう。光沢がある。人一人が入りそうなくらい大きな袋だ。髪は白く、髭は長い。そのせいか酷く老けて見える。
「お前、ワシが誰だか分からないのか?」そいつは囁くような小声で訊ねてくる。
「い、いや。分からないです」
「本当に?」
どこか悲しそうに目を閉じたそいつは、被っていた赤いフードを後ろに流し「ワシはな」とゆっくりと語りかけてくる。
「ワシはサンタクロースだ」
「え?」
「本物のな」
もはや発作的だった。僕は慌てて床を蹴り、部屋の扉に手をかける。逃げたかったのだ。
こんな怪しげな男と二人きりだなんて、恐ろしくて仕方ない。
「おいおい騒いだらだめだろう」
あと一歩で部屋から出られそうだったのに、後ろから羽交い締めにされる。そのまま身体を持ち上げられ、ベッドに座らされた。お母さん!と叫ぼうとするも、その大きな手で口を塞がれてしまう。
「静かにしなさい。近所迷惑だ」必死に首を振り、手を振りほどく。「不法侵入の方がよっぽど迷惑ですよ」
「ワシはサンタだからいいんだよ」
「サンタなんていない!」
僕は即答する。たしかに目の前の男性はサンタクロースにそっくりだったけれど、だからといって本物だとは思えなかった。
「偽物に決まってる」
「ワシは本物だ」
「絶対嘘だ。通報しますからね」
「なんでそこまで疑うんだ」自称サンタは、本当に分からないといった様子で首を傾げた。「大抵の子供は、ワシに会えば喜んでくれるんだが」
「僕はもう中学生なんだ」
「考えてもみろ。サンタじゃないなら、そもそもこの家にどうやって入ったっていうんだよ。そんなことができるのはサンタくらいだ」
「ピッキングしたとかですよね」
自称サンタは目を細め、長いため息を吐く。明らかにうんざりし、諦めたのか一度は部屋を出て行こうとしたけれど、僕が咄嗟にスマホを操作したのを見て、留まった。「どうすれば信じてくれる?」口調こそ疑問形だったけど、その態度は横柄だった。最後には僕が納得すると、そう思っているに違いない。見慣れた態度だ。
思えば、僕のお母さんも彼とよく似た態度を取っていた。あれはまだ僕が小学生一年生の頃のはずなので、六年前のことだ。その頃はまだお母さんも酒を飲んでおらず、働いてもいなかった。
「冷や奴に何を載せるかなんて、そんなことで文句を言わないの」
僕の両親はどちらも冷や奴が好きで、よく食卓に並んでいたのだけど、その都度僕は文句を言っていた。お父さんの好みにより、いつも豆腐には納豆がかかっていて、それが気に入らなかったのだ。豆腐にはやっぱり醤油がいい。駄目だとしてもめんつゆだ。子供にしては渋い主張だと今では思うのだけど、とにかく。僕はほぼ毎晩そんな文句を言っていた。
「どうすれば納得してくれる?」お母さんは、そんな僕に愛想を尽かしたのか、苦笑いしながらいつもそう言ってきた。でも、結局僕は最後まで納得しなかったし、お母さんも納豆載せ豆腐をやめなかった。お父さんはといえば、「やっぱり、豆腐と言えば納豆だよな」と当然のように言い、「豆腐に醤油って、両方とも大豆じゃないか。ダブル大豆だ」と、お母さんと一緒にいつも笑い合っていた。納豆の原材料も大豆だと知ったのは、もうしばらくしてからだ。またいつか、お父さんに、納豆載せ豆腐もダブル大豆だよ、と文句を言おうと決意する。
目前のサンタも、その、お母さんと同じ雰囲気を醸し出している。そういえば、あの時のお父さんも「文句ばかり言うとサンタさんが来なくなるよ」と言っていたような気もした。
だから、あの時のことを思い出してしまったのか。そう思うと憂鬱になる。サンタのせいで嫌なことを思い出した。
「どうしたんだよ、暗い顔をして」
すぐ目前で声がして、はっと顔を上げる。呑気な不法侵入者は、深く刻まれたほうれい線を真横に伸ばし、汚い笑みを浮かべていた。
「トナカイでも連れてきてやろうか。あいつらの鼻は明るいからな」
「鼻の光るトナカイって本当にいるんですか?」
「ああいるとも」
でっぷりと膨らんだ腹をぽんと叩き、胸を張る。大きい。態度も身体も、どちらも大きい。
「まあ、今ではほとんどいないけどな。鼻が光るせいで、肉食動物に追われるんだ。ずっと逃げ続けないといけないってのは、中々辛いもんだよ。弱気な赤鼻トナカイは自殺しちゃうらしい。怖いよな」
「残酷な世界なんですね」
「冗談だよ。面白かっただろ」
笑えなかった。意味不明な中年男性が意味不明な話をして、笑えるはずがない。これが夢だったのならば、明日笑い話にしても良いけど、残念なことに現実だった。
「けどまあ、鼻の光るトナカイがいるってのは本当だ」
「なら、見せて下さいよ」
「今日は連れてきてねえんだけどな」
「やっぱり、嘘じゃないですか」その、あまりに雑な言い訳に呆れる。
「嘘じゃねえよ」自称サンタに動揺した様子はなかった。それどころか、悠然と僕のベッドに腰掛けてすらいる。百歩譲って彼がサンタだとしても、こんな乱暴なサンタを認めたくはない。
「最近路駐が厳しくてな。駐車場代も馬鹿にならないから、家に置いてきた」
「夢のない話ですね。サンタなのに」
「金の切れ目が縁の切れ目って言うからな」
どこか他人事のように自称サンタは言う。早く帰ってくれないかと願うも、最悪なことに彼は言葉を続けてくる。
「まあでも、あの諺は嘘だ。縁は切れても私怨が残る。いいかい?今から大事なことを言うからよく覚えて起きな。テストにも出るから」
「何ですか」
「愛情は金に換算できないってことだよ。もし換算しようとする奴がいたら、それは駄目な奴だ」
「まあ、たしかにそうかもですね」お金が世の中の全て、なんて確かに先生には怒られそうな言葉だ。「テストには出ませんけど」
「あと、サンタクロースが来たら肩を揉まなければならないってのも大事なことだ」
「テストに出ますか?」
「地理で出る」
どこまで本気なのか、一〇五頁だと嘯く自称サンタクロースは、手元に置かれた大きな袋をたぐり寄せ、目を細めた。太い眉毛は黒々としていて、髪や髭とあっていない。
「お前、今日は何してたんだよ」
「急になんですか」
「せっかくのクリスマスだ。まさか家でだらけていたわけでもねえだろ」
「そのまさかですよ」
実際本当に何もしていなかった。母も仕事から帰ってきてすぐに眠ってしまったし、僕はそもそも部屋から出ていない。別にいつもと変わらない、ただの日常だ。
「クリスマスっていっても、ただの平日ですよ」
「そんなことない。いいか、クリスマスってのはな、家族と一緒に暮らさないといけないんだよ。そういう特別な日だ」
「それだけですか?」
「いや、まだある」サンタはくつくつと喉音を鳴らす。「クリスマスにしか、できないこともある」
「なんですか?」
「サンタの恰好をして、プレゼントを運ぶこととかな」
たしかにそれはそうだけれど、それは特殊な事情だとは思った。
なぜか満足げな自称サンタは、枕元に置かれた目覚まし時計を勝手に手に取り、もう三時か、と呟いた。そう聞くと途端に眠気を実感するのだから不思議だ。けど、さすがにこの状況で眠れるほど心臓に毛は生えていない。
「この目覚まし時計、いいな。お前、良いセンスしてるよ」
「え?」
「赤い目覚まし時計。いいねえ。格好良い」
「赤色が好きなんですか」
まあな、と彼は嬉しそうに頷く。何が嬉しいのかさっぱり分からない。
「好きじゃなかったら、こんな恰好をしないさ。そもそも赤色が嫌いな奴なんていねえよ。格好良いし、速さが三倍になるし。まあワシが赤い服を着てるのは汚れが目立ちにくいからだけどな。赤はいいぞ。なんでも赤くすべきだ。道路や建物が全部真っ赤になる日も近いんじゃないか?」
「近くないですよ」
「紅白ともいうしな。赤は目出度い色なんだ。ワシは白も好きだぞ?白血球と同じ色だから」
「何ですかそれ」まったくもって、意味が分からない。
「白血球は格好良いんだよ。あいつ、ウイルスを殺すとき、自分も死んじまうんだぜ。格 好良いだろ。どうせ死ぬなら憎い奴も道連れにって奴だ。憧れるじゃねえか」
まるで、白血球を偉人か何かのように話す自称サンタは薄気味悪く、それ以上に迷惑だった。よっぽど僕の目覚まし時計が気に入ったのか、「これも紅白だな」とまじまじと見つめている。
「やっぱ、いいな」
「でも、その時計、壊れてるんですよ」
「そうなのか?」
「上についてるベルが一個取れちゃってるんですよね。元々は二つあったんですけど」
ふーん、と興味なさそうに返事をし、手に持った目覚まし時計を何やら弄り始める。手持ち無沙汰だったのだろう。乱雑に手の中で転がしていた。それがいけなかったのかもしれない。
ガシャリと音がした。見ると、彼が手にしている時計、その一つだけ残ったベルが完全に取れている。壊れてしまったのだ。「あー」と気づかぬうちに声を漏らしてしまう。「壊した」
「まあでも、子供の夢を壊してないからセーフだろう」
「アウトですよ」それで時計破壊が許されるわけでもないし、彼の正体が何であれ、子供の夢は既に木っ端微塵になっている。
「でも、いいだろ。どうだ?片方だけより、両方ない方がすっきりしただろ?」
「どういう意味ですか」
「例えば、だ。洗濯をすると、片方だけの靴下がよく見つかるだろ?でもな、あれは片方だけだから見つかるんだよ。両方なくなればそもそも気付かないからな。だから、片方だけより、両方ない方がすっきりするんだよ」
いったいどこがすっきりするのか分からないし、サンタを名乗るのであれば片方だけの靴下にも愛着を持って欲しかったけど、大事なのはそこではない。僕の時計を壊しておきながら、開き直っていることが問題だった。
「悪かったよ」僕が無言で見ていることに気づいたのか、彼は言う。けれど、まったく悪びれる様子はなかった。「そうだ。プレゼントとして時計をあげよう。ワシはサンタだからな。今日はそのために来たんだ」
「いらないですよ」
「なんだよ。選り好みするのか?いいか。プレゼントってのは気持ちが大事なんだよ。だから、自分が好きな物を相手にプレゼントするのが一番なんだ」
「それはそうですけど」
「遠慮をするなって」
「遠慮じゃないです。ただ」
口の中が乾き、言葉が続かない。言うべきではない。そう頭では分かっているのに、口は勝手に動く。それ以上言ってしまえば、また嫌なことを思い出すというのに。
「ただ、僕は良い子じゃないので、サンタなんて来るはずがないんですよ」辺りの静寂がより鮮明になる。サンタはさすがに驚いたのか、目を丸くして妙な顔になっていた。それでもひるんだ様子はなく、飼い犬に手を噛まれたといったような、そんな仕草すらしてきた。
僕はベッドの下に潜り、こっそりと書いていた小さな手紙を取り出す。それを自称サンタに突きつけた。彼は、一瞬目を細めていたが、そこに書かれた内容をさっと流し見て、脂肪でたるんだ目を大きくする。
「もし本物のサンタなのだったら、僕のほしいプレゼントをくださいよ」
「お前」
「どうして……プレゼントをくれないんですか」
どうしてか。そんなことは分かりきっていた。不可能だからだ。サンタがいるかどうかなんて関係ない。僕は、五年前のことを思い浮かべる。思い浮かべたくないのに、閉じた心の扉を打ち破るように、当時の記憶が鮮明に蘇る。
頬が熱くなる。殴られたと気付くより早く、僕は泣き出している。まだ身体も小さかった僕は自分の部屋のベッドの下で震えることしかできなかった。罵声が聞こえる。父さんと母さんが互いに罵り合う声だ。ガラスの割れる音、床を叩く音、母さんの悲鳴、父さんの呻き声。それがない交ぜになった悲痛な怨嗟が頭の中を埋め尽くす。昔はこんなことなかったのに。母さんと父さんも仲が良かったはずなのに、どうしてこんな。あんたのせいよ。そう声が聞こえる。酔っ払ったお母さんの声だ。嫌というほど聞いた、いつもの声だ。あんたが産まれてきたから、こんなことになったのよ。いったい父と母がどうして別れたのかはしらない。いや、本当は分かっているけど、認めたくなかった。僕が良い子ではなかったからだ。僕がいい子でなかったから父さんと母さんが喧嘩をするんだ。僕が生まれてきたから父さんと母さんが殴り合うんだ。僕のせいで父さんと母さんが別れたん
だ。僕のせいで母さんは泣きながら働かないといけないんだ。僕がいるせいで。
「サンタさんへ。お父さんに帰ってきてほしいです」
自称サンタが淡々と僕の手紙を読み上げる。だけど、僕は彼の顔を見れなかった。上を向いていないと涙が零れてしまうのだから。涙を流すのは悪い子なのだから。
「なるほど」
自称サンタは、そんな僕の実現不能なプレゼントに対しても動じなかった。なるほどなるほど、と仕切りに頷き、ベッドから立ち上がる。
「気が変わった」
「え」
「そろそろお暇するよ」
唖然とする僕を他所に、自称サンタは両手で袋を持ち上げ、両手で担ぎ上げた。一度二度バランスを崩した彼は、ゆっくりと立ち去っていく。
僕はなぜか彼の後を着いて行っていた。あれだけ帰る素振りを見せなかったというのに、
いったいどういうことなのだろうか。まだ少し涙で目が濡れていたけど、欠伸をしてごまかした。
「結局プレゼントはくれないんですね」
玄関で靴を履いた自称サンタに向かい、ぽつりと呟く。そんなことを言うつもりもなかったというのに。まさか、何かをもらえると期待していたというのか。いや、そんなことはない。そのはずだ。
「何だよ。お前も意外と強欲だな。プレゼントはもうやっただろうに」何も貰っていないというのに、自称サンタは自信満々だった。はぁと溜め息を吐き、しょうがねぇなあ、と何やらポケットをごそごそとし始める。取り出したのはくしゃくしゃのレシートだった。ボールペンで何やら文字を書き、手渡してくる。
「ほらよ。クリスマスカードだ。明日まで読むんじゃねえぞ」
「すごくいらない」
「本当に欲張りだな」
無理矢理僕のポケットにレシートを押し込んだ自称サンタは「しょうがねえなあ」と肩をすくめた。重そうな袋を僕から遠ざけ、服の中からビニール袋に入った何かを取り出す。
「これ、やるよ」
「何ですか、これ」
「プレゼントってのは気持ちなんだよ。一番好きな物を渡すのが一番なんだ。お前も好きだっただろう」
それじゃあな、と去って行くサンタの背中を見送る。家から不審者が帰っていった。本当なら安心するべきなんだけど、なぜだろうか。不思議と寂しい気分になった。その、寂しい気分を紛らわすために、サンタがくれたビニール袋をのぞく。こんな庶民的なサンタがいてたまるか。そんな僕の小さな憤りはすぐに消え去っていった。
僕はようやく、彼がどうやって我が家に入れたか理解した。ピッキングではない。単に鍵を持っていたから。そういうことなのか僕は顔を下げたまま、こっそりと目元をふく。それから無理やり頬を吊り上げ、顔を上げた。袋に入った二つの食べ物を取り出し、ベッドの上に並べる。納豆と豆腐だ。お前も好きだっただろう。最後にサンタクロースが言い残した言葉を思い起こす。僕は別に好きじゃなかったというのに。
「お父さん、これもダブル大豆だよ」
やっぱり豆腐には納豆だよな。そう笑う父の声が夜の街に溶けていく。やっぱり、クリスマスは家族で過ごすべきだな、とそんなことを思った。
いつの間にか、気づくと僕は自室で横になっていた。どうやってベッドに戻ったのかまったく覚えていない。やっぱり、今のは夢だったのだろうか。だとすれば悪夢だったのだろうか、それとも良い夢だったのだろうか。
手元にあるレジ袋に気づいたのはその時だった。やっぱり夢じゃなかったのか。そう思うと微妙な気持ちになる。夢よりも夢らしい意味不明な時間だった。
携帯電話の受信音が聞こえたのは、再び眠りにつこうとした時だった。聞き覚えのない受信音に驚き、慌てて自分の携帯電話を確認する。電話はかかってきていなかった。音の発生源を耳で探す。と、ベッドと壁の隙間から鳴っていることに気がつく。壁に貼り付き、手を伸ばして何とか拾い上げる。
そこにあったのは、時代遅れの二つ折りの携帯電話だった。元々は赤色だったのだろうけど、色がほとんど剥げてしまっている。無意識のうちに画面を開き、ボタンを押していた。目覚まし時計を止めるような感覚だった。
「おい、今どこにいる。逃げてんじゃねえぞ」
電話越しに、いかつい男の声が聞こえてくる。すぐに切ろうとするけれど、なぜだかできなかった。ゆっくりと耳に当てる。
「お前な、結婚で大事な三つの袋って分かるか」電話越しの男は、低い声にドスをきかせながら、淡々と話す。「金袋と堪忍袋だ。金袋がねえのに、堪忍袋の緒まで切らしちまったら、お前はもう終わりだぞ」
「二つしか無いじゃないですか」
「もう一つはお前の命だよ。慰謝料だか何だか知らねえけど、命を失いたくなければ、とっとと金を返済し」
僕は慌てて携帯電話を切った。ベッドの上に投げ捨て、頭を軽く叩く。この携帯電話は、おそらくあの自称サンタの、お父さんのもののはずだ。彼は借金をしていたのか。いったいどうして?
なぜだか、急に不安になってくる。こんな深夜まで起きてしまった罪悪感か、それとも異常なクリスマスの後遺症か。何だかとっても嫌な予感がする。
とりあえず、豆腐と納豆を冷蔵庫に入れようと、リビングへと足を進めた。真っ暗な廊下をひたひたと進み、お母さんの寝室の隣にゆっくりと入る。真っ白な冷蔵庫を開くと、暗闇の中から希望を見いだすように、まばゆい光りが僕を包んだ。大丈夫だよ。何も心配することはない。そう囁いてくる。
自称サンタの、お父さんの言葉がふと頭によぎる。「愛情は金に換算できないってことだよ。もし換算しようとする奴がいたら、それは駄目な奴だ」
そう言っていたお父さんが借金をしていた。どうして?電話口の言葉を思い出す。慰謝料と確かに言っていたはずだ。よく分からないけど、多分お母さんに払うためのもののはずだ。なんでお父さんはサンタの恰好をして、わざわざクリスマスに来たのだろうか。お母さんに、僕と会うことを禁止されていたから?だから、サンタのフリをして?そんなことをしても、お母さんに見つかってしまえば意味は無い。学校帰りに待ち伏せしてくれた方がまだいい。お父さんは言っていた。クリスマスにしかできないこともあると。サンタの恰好をして、プレゼントを運ぶこととかな、と。深夜に、大きな袋を担いでも妙に思われない日は、確かに今日だけだ。
背筋に冷気が走る。冷蔵庫のせいかとも思ったけど、いつの間にか閉めていた。お父さんが、赤色のサンタの服を気に入っていた理由を思い出す。汚れが目立ちにくいから。なんで赤色の服だと汚れが目立ちにくいのか。いったい、何の汚れが目立ちにくいのか。そういえば、彼の服は少し黒のまだらになっていた。袋は真っ白だったけれど、明らかに丈夫で光沢のあるプラスチック製だった。結局あの重そうな袋には何が入っていたのか。
僕はふと思い出し、ポケットに丸めて入れたレシートを取り出す。クリスマスカードと言われていた奴だ。コンビニの名前と商品名が印字された表に、小さく文字が書かれている。
「俺は弱虫な赤鼻トナカイなんだぜ」
ぽつりと読み上げる。もちろん返事はない。冷蔵庫の低い振動音だけが僕の耳を震わしてくれる。真っ白な冷蔵庫。そういえば、お父さんは白色も好きだと言っていた。なんでだっけ。そうだ。白血球が好きだったから。どうせ死ぬなら憎い奴も道連れに。そういうところに憧れると言っていた。
後ろから音がした。慌てて振り返る。そこにはお母さんの寝室がある。きっと寝返りでも打ったのだろう。そうに違いない。そう思っているのに、おそるおそる近づく。だけど、そこで僕は気づいてしまった。その音の正体は僕の動悸の音だと言うことに。あれだけ騒いでいたのに、どうしてお母さんは起きてこなかったのか。閉じられた扉に手を伸ばし、開き、電気を点ける。
そこにはお母さんの姿はなかった。あるのはお母さんの影だけだ。
そう。ベッドにまるでお母さんの姿を貼り付けたように、真っ赤な跡が残っていた。そこでようやく僕は、ツンとした刺激臭がすることに気づき、気づいてしまったせいでその場で嘔吐してしまう。腰からずり落ちるように崩れ落ち、自らの足が赤いペンキのような何かでぬめり気を帯びていることに気づいた。
僕は逃げようとした。訳が分からなかった。とにかく、この現実から逃げたかった。だけど、足下が滑り、その場で転んでしまう。その際に、レシートを落としてしまった。
ひらひらと舞い落ちたレシートは、右へ左へと揺れながら、ゆっくりと落ちていき、裏側を上にして足の上に乗る。知らず知らずのうちに、僕は目を落としていた。頭の中で、書かれた文字を読み上げる。
「どうだ?片方だけより、両方ない方がすっきりしただろ?」