私は昔からゴミも人も嫌いだった。だとすれば当然人ごみも嫌いな訳で、強制されずに、自分の意思で人が多い場所に行ったことなんて、二十二年の人生の中でほとんどなかった。もっといえば、昨日までは正真正銘、一切、一度も行ったことがなかったのだけれど、今日こうして人ごみに来てしまったので、ほとんどと言うしかなくなってしまった。記念すべき初人ごみだ。人ごみ記念日といってもいいかもしれない。
「どうして女性という生き物は記念日に固執するんだろうな」
ふと頭に浮かんだのは、高校三年生時の担任教師の斉藤の言葉だった。
「理解に苦しむよ」
たしかこの会話をしたのは、ちょうど私が地元の大学へ進学したいと相談している時のことだった。こちらからすれば、生徒の進路相談中に自らの恋愛相談をねじ込む教師の方がよっぽど理解に苦しむが、担任の斉藤はいつも通りの真面目な顔で淡々と言ってきたのだ。
「たかが自分が産まれただけの日に価値を見いだす必要があるとは思えん」
「先生、彼女の誕生日忘れてたんですか」
「ほんと、そんな細かいことを気にするなんてナンセンスだよな」
いつもの私は感情の起伏に乏しく、友人達には散々「あいはさ、表情とか感情とか、いつも変わらないよね」と煽られたものだった。「名前の通り愛みたいだよね。JPOPの愛だよ。いつもいつまでも変わらないもの。それは愛ってね」と笑われても、微塵の怒りも感慨も湧かない私だったけれど、この時の先生に対してはさすがにむっとしてしまった。誕生日を蔑ろにする傲慢さに呆れたのではなく、細かいことばかり気にする先生が、自分のことを棚に置いて、偉そうにふんぞり帰っていることに我慢ならなかったのだ。
新任教師の斉藤はその若さとは裏腹な老獪さが有名だった。老獪というか、面倒くささだ。授業中に少しでもよそ事をすると、例えそれがひそひそ話や手紙の交換といった些細なことであっても、目聡く見つけてくる。いや、確かにそれは先生として正しい行為なのかしれない。が、私はただ生徒の青春を妨害したいだけだと睨んでいる。その証拠に、授業に集中していない生徒を見つけると、叱るでも怒るでもなく、数学教師であるにもかかわらず、気取った態度で「I found 問題児」と生徒を指さし「やるべきことより、やりたいことをしろよ」とドヤ顔で言ってくるのだ。どちらかといえば、やるべきことより、やりたいことをした結果、授業をサボっているのだろうから、的外れな指摘といえる。もしかしたら、自分の授業は生徒の皆から心待ちにされていると勘違いしているのかもしれない。
一度、あまりにもうざったい先生に対し、クラスのお調子者の貴子さんが「生徒に指を差すのをやめてくださいよ」と言ったこともあった。「失礼ですよ」
その指摘は真っ当であったし、生徒どころか、他の先生ですら薄々思っていただろうことだったので、私は先生がなんて返事をするのかと少し気にかけて聞いていたのだけれど、斉藤先生はあっけらかんと「何でだよ。いいじゃねえか。先生ってのは、生徒を指差す特権があるんだよ」と信じられないことを言ってのけた。「嫌だったらやり返せばいい。お前らも俺に指差して良いぞ。あれだ。映画のETみたいにな。もしかしたら心が通じ合っちゃうかもしれねえぞ」
「セクハラです」と当時の貴子さんは苦笑していたが、それがセクシュアリーかどうかはともかく、何らかのハラスメントに当たることは間違いなかった。が、斉藤先生は気にしない。
つまり、そんな妙に細かいところを気にし、生徒を馬鹿にする先生が、誕生日を忘れて憤る彼女に文句を言う権利はないはずなのだ。
「さすがに彼女に腹が立ったからな。俺は謝りつつも、こう自分の耳を引っ張ってやったんだぜ」人の三者面談中だというのに、先生は無邪気に自分の耳を人差し指でのばしていた。
「自分の耳を? なぜですか」
「耳にたこができたってアピールだよ。俺流の宣戦布告だ」
「多分それ、通じないですよ」端から見たら耳を掻いているようにしか見えない。
「通じなくていいんだよ。通じちまったらもっと喧嘩になるだろ」
その程度の気概であれば宣戦布告なんてしなければいいのに。そう内心で文句を言っていると「楠木も記念日にうるさい女になるなよ」と先生が言ってきた。「俺みたいに優秀になれ」
「うるさい女にはならないですし、先生みたいにもなりたくないです」
「楠木は真面目だが、謙虚すぎるのが玉に瑕だな」
「先生は傲慢ですが、最低なのが玉に瑕ですね」
「どっちも褒め言葉じゃねえだろ」
「褒めてそれです」
短いつんつんの髪を白い手で撫でた先生は「お前、地元の大学に行くのか」とようやく教師としての本分を思い出したのか、唐突に訊ねてくる。
「いいのかよ、そんな平凡な人生で」
「平凡な人間が無理しても碌な事にはなりませんよ」
「達観してんなあ。それでも吹奏楽部かよ」
「先生は吹奏楽部を何だと思っているんですか」
「楠木、吹奏楽部のエースなんだろ? トランペットエースだ」
「ホルンです」
「その道で食べていこうとは思わないのかよ。音楽学校行けよ。夢を追えよ」
「そんな簡単な道じゃないですよ」
「高校生が言う台詞じゃねえよ。まあ、気持ちは分かるぞ。俺だって大学の頃は音楽で食ってこうとしたんだぜ。女にもてるためにやってたんだ」
「ならどうして教師になったんですか」
「どうせモテるなら、女子高生にと思ってな」
「最低ですね」
そんな話を当の女子高生にしていること自体も最低だった。
「俺はな、人の心を動かす仕事をしたいんだよ。昔の熱血教師はさ、馬鹿な生徒を指導して、心を動かしていくんだぜ。俺もそういう教師になるんだよ。音楽で大成するのは難しかったが、教師ならできる」
「先生も音楽の道を諦めたんですか」
「諦めた訳じゃない。休憩中だ」
「物は言い様ですね」
なぜか良いことを言った風に斉藤先生は胸を張った。ここまで偉そうにできる大人を久しぶりに見たかもしれない。
「楠木ももっと何かに熱中した方がいい。ほら、お前お祭りごととか嫌いだろ」
「まあ、そうですね」
「もっと日頃から盛り上がったほうがいいって。若い内に騒いでおけ」
「私は目立ちたくないんですよね。騒ぐのも性に合いませんし」
「いや」と先生は首を振った。分かっていないなあ、と言わんばかりの横柄な態度で辟易とするが、それを顔に出すほど私は子供ではなかった。
「楠木。お前は目立ってるよ」
「え」
「俺が一番最初にクラスで覚えたのはお前だしな。俺、授業中とかで寝てる生徒とか見つけるの得意なんだよ。楠はいつも学生とは思えないくらい落ち着いているからな。逆に見つけやすい。きっと俺は千人くらいの連中を相手に授業しても、楠木をすぐに見つけるよ」
斉藤先生はいつもこんな感じで適当なことを言う。もし本当に私が目立っているのだとすれば、私の分のプリントだけ配り忘れることもないだろうし、課題の返却を失念することもないはずだろうから、ただ励ましているだけなのだろうとは想像がつく。
「俺は人生をかけて誰かの先生になりてえんだよ」
げんなりしている私に気づかないのか、斉藤先生はとうとうと急に語り出した。私の進路相談のはずなのに、斉藤先生の夢発表会へと替わってしまっている。
「誰かの永遠の先生にな。皆の先生じゃなくてもいい。誰か一人の人生を変えられるような先生に、エンドレスティーチャーになりてえんだよ」
「永遠の日本語訳はエンドレスじゃないですよ」
結局は私の進路相談は、先生の決意表明で終わってしまった。が、あの時の進路相談があったからこそ、今の私があるともいえる。もちろんプロホルン奏者を目指し始めた訳ではなく、中堅大学の文学部に進んだのだけれど、それよりも、あれだけ大見得を切っていた斎藤先生があっさりと教師を辞め、転職をしてしまったので、夢とは大したことなく、永遠とはかくも儚いものなのか、と納得したのは間違いなかった。
あれから四年後。大学生活も終盤に入り、学業よりもどちらかといえば就職活動に力を入れ始めなければならなくなった頃、唐突に斉藤先生のことを思い出したのは、何だかんだ言ってあの先生のことを私が気に入っていたのだろうか。あれだけの啖呵を切っておきながら、速攻で教師を辞めやがったことに、憤りを覚えているのかもしれない。それか、就職活動が上手くいっていない中、あんな人が教師として無事に採用されたことに対するやっかみもあるのかも。いずれにせよ、腹立たしいことには違いなかった。
「愛はさ、真面目すぎるんだよ」
授業後、図書館でエントリーシートを書いていると真弓が声をかけてきた。中学からの友人である彼女は、既に大手商社からの内定をもらっており、悠々自適なモラトリアムを満喫しているらしく、定期的に遊びに誘ってくる。
「そこまで根を詰めなくてもいいと思うけど」
「そうはいっても、まだ就職先も決まっていないし」
「愛は何になりたいの?」
「とりあえず志望はマスコミ系と印刷系と商社」
「ばらばらじゃん。手当たり次第はよくないよ。自己分析とかやってる?」
「一応は」
「ちょっと見せて」
常に持ち歩いている自己分析ノートを真弓に差し出す。本来であればあまり他の人に見せたいものではないが、今はそんなことをいっている余裕はなかった。
「……あー」
が、さすがにため息をつかれると平然としてはいられない。何か私に内定がない理由が明らかになったのかという期待と、自分の人生を否定されたかのような不快感が同時に押し寄せてくる。
「やっぱり、愛は真面目すぎるんだよ」
「真面目なのはいいことなんじゃ」
「まあ、そうかもしれないけどさ」
あ、そうだ、と真弓は唐突に手を叩いた。「そういえば愛って、ホルンまだやってるんだっけ」
「やっているの定義は分からないけど、暇なときには吹いてます」
「ほんと真面目だねえ」バカ真面目だねえ、と頬杖をつく彼女の声には嘲りはなく、どちらかといえば呆れているようだった。「音楽関係の仕事とかには興味はないの?」
「まあ、ないですね」
「本当に?」
「甘い世界じゃないことは嫌というほど知っているんで」
へー、と興味があるのかないのか分からない、曖昧な相づちを打った彼女は「そういえばさー」と唐突に話題を変えた。あまりに急な話の流れに面食らうが、なんてことはない。元々彼女は今から話す内容を伝えたいがために、私に話しかけたのだろう。先ほどまでの会話は前座に過ぎなかったというわけか。
「今度近場のライブハウスでやるライブなんだけど、たまたま用事入っちゃって。捨てるのももったいないし、行かない?」
「え? 行きませんが」
「即答じゃーん」何が面白いのか、真弓はあはは、と笑っていた。私には面白さが分からなかったけれど、真弓は何を勘違いしたのか、「まあ、気が向いたらで良いからさ」と私の手にチケットを握らせて、そのまま立ち去ってしまった。昔から真弓は私と違って賑やかで鮮やかで、とにかく華やかな人だった。こんなつまらない私に構ってくれるのが不思議なほどに目立つ人で、彼女の周りにはいつだって大勢の人がいた。
そんな人が、どうしてわざわざ私にライブのチケットをくれたのだろうか。私とライブなんて正反対の性質を持っているだろうに、とその時には不思議に思うだけで、実際に足を運ぶ気なんて微塵もなかった。
気が変わったのはライブの当日だった。行く気はないと言ったはいいものの、せっかく真弓からもらったチケットを無駄にするのも忍びなく、結局はライブハウスへと行くことにした。
行って、すぐに後悔した。前方には演者が歌うステージがあり、そこを取り囲むように柵があるのだけれど、観客用の席はほとんどなく、ただ階段のような段差が後方へと続いているだけだった。広さはそこそこあるものの、大勢の人がぎゅうぎゅうと後ろから押してくるせいで、狭い以外の感情が浮かばない。見渡す限りの人の海は満員電車よりも窮屈で、気を抜けば倒れてしまいそうだった。人混みは嫌いなのに、どうしてきてしまったのか。昔の自分を殴りたくなった。
ライブの始まりは唐突だった。部屋全体が一瞬真っ暗になったかと思えば、何かが爆発したかのように、部屋全体がびりびりと震えた。それがギターの音だと気がついたのはしばらくしてからだった。あまりの爆音に、音を音として認識できなかった。
ステージを浮かび上がらすように、スポットライトがぽっかりと全体を照らす。爆音の発生源は四人いた。色とりどりの髪色をした男性四人が、それぞれの楽器をかき鳴らしている。ギターとベースとドラムとキーボード。軽音部との協奏で聞き慣れた音ではあるけれど、その時とは全く印象が違う音だった。
弦が弾かれる度に、全身を殴りつけるかのような音が会場を蹂躙し、低いベースの音は、体全体が共鳴器具へと変わったかのように、体の内側から零れだしている。そんな暴力的な音だというのに、曲として纏まっているのだから不思議だった。
楽器を演奏しながら、真ん中にいる赤髪の男が何かを叫ぶ。どうやら曲名だったようで、周囲の人々から地響きのような歓声がなった。規則的なビートが鳴り、それに併せて周囲の人間がアンテナのように右手をあげ、バンドへと手首を垂らしていた。まるで助けを求めるかのように、手を伸ばし、誰もが同じ方向を見て、同じ動きをしている。このバンドがなければ、ここにいる人たちは関わり合いになることすらなかっただろうに、今では粒の揃った米のように、同じ動きをしている。そこに個性なんてなかった。消え去っていた。中央にいるバンドの圧倒的な迫力に比べれば、他の人々の個性なんて誤差でしかない。そう思わされる。
感動と焦燥感が同時に溢れ出す。他の人と同じように手をあげ、体を揺らしてみるけれど、どうもうまくいかない。嫌だった。このままだと私はこの民衆の波に飲まれてしまうのではないか。存在が消え去ってしまうのではないか。そもそも生まれてきた意味すらなくなってしまうのではないか。そんな恐怖すら覚えた。
「今日は来てくれてありがとう」
いつの間にか曲が終わり、MCが始まっていたけれど、私は顔を上げられなかった。音楽自体には感動していた。バンド自体も好きになっていた。けれど、それでも私は憂鬱だった。理由は分からない。この場所から逃げ出したい。このままだと嫌だった。何もかもが嫌で、このまま何事もなく、何にも無く終わるのが嫌だった。顔を両手で覆う。そこで初めて自分が涙をこぼしていることに気がついた。ポケットからハンカチを取り出し、拭う。そしてこれ以上涙が零れないようにと前を向いた瞬間、MCをしていたバンドマンと目があった。赤髪の彼は、ぼんやりとこっちを見ながら、頬を緩め、こちらを指差していた。いったい何が始まるのか。私の後ろに何があるのか、と後ろを見る。が、何も起きない。
視線を前に戻すと、バンドマンはマイクを手に持ち、こほんと一度咳払いをしたかと思えば、どこか照れくさそうに、同時に先ほどまでの軽薄な調子を崩し、若干真面目な顔になったまま「I found 問題児」とマイクすら口元に近づけずに言った。「やるべきことより、やりたいことをしろよ」
はっとした。視界を覆っていた、どこか黒々とした何かが崩れていくような気がした。
「斉藤先生」
よく見れば確かに面影があった。皺は増え、髪色は変わっているものの、全体の雰囲気はあの時のままだ。そうか、と声が自然と零れる。急に教師を辞めたと思ったのだけれど、先生は本当にバンドマンになれたのか。彼の本当の夢を叶えていたのか。
そうか。いいな。ぽつりと零れ出た言葉に自分自身で驚く。いいな? 何がいいのか分からない。いや、分かっていた。本当は私も分かっていた。就職活動がうまくいかないのも、自己分析が的を射ていないのも当然だ。私は社会の歯車として、真面目にサラリーマンとして働くなんてまっぴらごめんなのだから。私は本当はプロのホルン奏者になって、ずっとステージの上に立っていたいのだから。観客席で他の人と同じように盛り上がるのではなく、ステージの上で皆を盛り上げたいのだから。私が最初から今日のライブで感じているのは憧憬と嫉妬だったのだから。あんな風に。先生みたいになりたい。そう思えた。
だから。
気づけば先生は既にギターをいじっていた。先ほどのことなど何もなかったかのように、また爆音で演奏を始めていた。自然と私は斉藤先生を指差していた。そのまま逆の手で自分の耳を引っ張ってみせる。いったいいつになるかは分からないが、このライブハウスよりも大勢の人の前で演奏してやる。私の思いが指先から飛び出し、先生へと届くように、何度も何度も心の中で願った。