僕たちはいつもふたりでいた。
特に理由があったわけでも、事情があったわけでもない。でも、なぜか僕たちはいつも一緒だった。あの子がいる場所には必ず僕もいるし、あの子がいる場所には必ず僕もいる。
それは小学校の時からずっとだった。中学生になっても、それは変わらなかった。みんなは僕たちのことを奇妙な目で見てたけれど、それでもいいかと僕たちは笑い合った。僕たちはふたりでひとりだった。
お父さんに殴られたときも、先生に叱られたときも、友達にいじめられたときも、あの子はやさしくしてくれた。きっとあの子も、僕と同じ境遇だったのだと思う。あの子は僕によく似ていた。中性的な顔つきも、肩口まで伸びた黒髪も、琥珀色の目も、すべてが綺麗で、見ているだけで癒やされた。幻想的という言葉が、これ以上なく似合っていた。
そんなあの子はいつも「大丈夫だよ」と優しい笑顔を浮かべて、僕を慰めてくれるのだ。
「きっと、大丈夫だから」それがあの子の口癖だった。
僕とあの子はたくさんお話をした。お父さんのげんこつがすごい痛いこと。友達に給食をランドセルに詰め込まれたこと。ぜんぶがぜんぶ気が重くなるようなことばかりだったけど、それでも僕とあの子は笑って話した。僕もそうしたかったし、あの子もそうしたかっただろうから。
中学を卒業した後も、僕とあの子は一緒だった。依存かもしれない、と考えたのはそのときからだ。あの子も僕と同じように考えていたのか、少し不安そうだった。
受験に合格し、高校に通うことになった。家から遠い高校だったから、近くのアパートに下宿することにした。お金は奨学金を借りた。これで父親からはもう殴られないし、先生も優しい。そして何より、
「ねえ、一緒にお弁当を食べようよ」
仲のいい友達ができた。あの子以外の初めての友達。髪の長い女の子。あの子と同じくらい優しくて、そして暖かい元気な子だった。
「わたし、卵焼きが好きなんだ」
彼女はよくそう言っていた。その言葉通り、高校にもってくる弁当の中にはいつも卵焼きが入っていた。
「わたしはね、お弁当に卵焼きが入っているだけで、一日が楽しくなるの」
同じクラスの時も、違うクラスの時も、彼女は僕と一緒にご飯を食べて、そしてそのたびに全く同じ言葉を口にした。
「どんなに嫌なことがあっても、卵焼きがあるだけで乗り越えられるし、忘れられるんだ」
僕が子供ぽいって笑うと、彼女はひどく意外そうな顔をして、「きみには言われたくないな」と笑い返してきた。
「入学した時なんて、捨てられた子犬みたいだったもん。いまはだいぶマシになったけどね。思ったんだ。この子には卵焼きをあげないとって」
とにかく彼女は卵焼きが好きだった。だけど、あるとき彼女のお弁当に卵焼きが入ってない日があった。
そのときの彼女はひどく落ち込んでいた。お母さんが作り忘れたんだ、と嘆いていたけど、その嘆きで、僕は初めて、みんなの持っているお弁当はお母さんが作ってくれたものだということを知った。お母さんは、お父さんといつもどこかにいって、僕のご飯はコンビニ弁当の食べ残りだった。
「わたしは卵焼きがないと幸せになれないよ」
彼女は半分ないていた。でも、さすがに高校生が卵焼きで泣くのも妙だと思ったのか、すこし慰めると、いつものような明るさを取り戻し、ぱくぱくと弁当を食べ始めた。
「あれだね。卵焼きがないと幸せになれないから、代わりの幸せをつくるしかないね」
そう健気に笑う彼女は既に幸せそうだった。そう言おうと思ったけど、せっかく機嫌が良くなったのに、水を差したくなかったから、つくるってどういうこと? と訊ねた。
「ほら、人ってのは幸せがないと生きていけないじゃん。だから、幸せがないときは勝手に作るんだよ。わたしは今あたまのなかに卵焼きをつくっているの。イマジナリーなハピネス。イマジナリーなたまごやき」
まるで意味が分からなかったけれど、楽しそうな彼女を見ているだけで、僕も楽しくなった。お父さんにもお母さんにも会えなくなっていたけど、むしろ昔なんかより遙かに寂しくなかった。
だけど、唯一寂しかったのは、高校に入ってからあの子となかなか会えていないということだった。
なかなか、というほどじゃないかもしれない。だけど、昔と比べれば会う頻度は減っていた。二人で一人だったのに、もしかしたら今では違うのかもしれない。そう思っていた。それでもあの子は僕の最高の友達で、一番僕を支えてくれている人だということは本当だった。
高校を卒業した後、僕は高校の近くにあった工場で働くことになった。あの子も一緒の場所で働いてくれた。だけど、卵焼きが好きな友達は大学へと進学してしまった。それでも、はなればなれになっているわけではなく、連絡はとりあっていた。
「ねえ。どうせもう働いているならさ」
働き出してから三年がたってからも、僕たちの関係は続いていた。けっして付き合っていたわけではないけれど、お互いがお互いを意識しているのは分かっていた。だから、レストランで彼女にそう言われたとき、僕は彼女の次に出てくる言葉を、自然と予想できてしまっていた。
「どうせ働いているならさ、結婚しようよ。ほら。もう私を養えるじゃん」
そうだね、と僕が頷くと、彼女は見たこともないくらい、満面の笑みを浮かべた。卵焼きを食べているときよりも、もっと魅力的な笑顔だった。
そして、今日、僕たちは結婚した。結婚式は小さなものだった。でも、それでも僕たちは満足だった。彼女のドレスは美しかったし、僕たちが愛し合っているのは神様なんかに誓わなくても分かっていた。学生結婚であるのに、新婦側のみなさまは心から祝福してくれた。
だけど、唯一気がかりだったことは。
「でも、まさか本当にだれもこなかったんだね」
新郎である僕の関係者がだれもこなかったことだ。
「来ないだろうとは聞いていたけどさ。ま、いいんだけど」
お父さんとお母さんはこないだろうと思っていた。もしかしたら来るかもしれない、と期待しなかったと言えば嘘になる。だけど、どんな顔をして合えばいいか分からなかったし、正直に言えば、すこしほっとしていた。
だけど、まさかあの子まで来ないとは思わなかった。今日結婚すると、きのう直接言ったのに。あの子だって、うん。よかったね、といってくれたのに。
少し不満だった僕は、ウエディングドレスをぬぎ、部屋でくつろいでいる妻に訊ねた。あの子が来なかったんだ。あの、高校の時にも僕といつも一緒にいたあの子が。どうしてかな。そう訊いた。
すると妻はあはは、って子供のように笑った。お腹をかかえ、目尻に浮かんだ涙をそっと拭っている。
「きみ、いつも一人だったじゃん。私以外に誰とも話してなかったよ。あの子? いったいどの子なのよ」
楽しそうに笑う彼女の言葉にはっとした。そんなわけないじゃないか。確かにあの子は。そう言えばいいだけなのに、言葉が出てこない。
「ねえ、きみに一つ聞きたいことがあるんだけど」
少し動揺していたけれど、僕は頷いた。いつの間にか、机の上には卵焼きが置かれている。いつ作ったのか分からなかったけど、湯気が出ているから、きっとできたてなんだろう。とても美味しそうだ。
「きみ、いま幸せ?」
僕は、彼女の言葉をじっと心に染みこませた。僕はいま幸せか。何度も何度も頭の中でそう繰り返す。そのたびに、得も言われぬ喜びがせり上がってきた。そうか。僕は今幸せなのか。
知らず知らずのうちに声に出てたみたいで、妻は満足そうに笑っていた。机の上に置かれた卵焼きを一口頬張り、そしてすぐに僕へと差し出してくる。彼女に習ってひとつ口へと放り込んだ。
甘い。その甘さをかみしめるほど、僕は幸せだと言うことがまじまじと分かった。そして、ようやく理解した。僕にとっての幸せは、誰かに愛してもらうこと。そして。
『ほら、人ってのは幸せがないと生きていけないじゃん』
高校の時の、昼ご飯の風景が頭にふわりと浮かんだ。
『だから、幸せがないときは勝手に作るんだよ』
ああ、そうか。そういうことだったのか。なるほど。だとすれば、あの子が結婚式にこなかったのも、当たり前だったのかもしれない。きっと、あの子はもういなくなってしまったのだろう。もうその必要がないから。
美味しそうに、少し潤んだ目で卵焼きを頬張る妻を見つめる。そうだ。僕はもう幸せなんだ。頭の中で、愛してくれる人をつくる必要がないほどに。
僕は口の中で、大丈夫だよ、とつぶやいた。もういじめられないし、なぐられない。あの子がいなくても、僕はもう大丈夫。幸せになったよ。そうつぶやく。
きっとその言葉が、僕の幻想的な友達に届くことを信じて。