「一介のサラリーマンのお前じゃこんなところ来れねえだろう」
上司の田口さんはその分厚い唇をぶるぶると震わせながら左手に持った箸を突きつけてくる。真っ赤で妙に高級感のある箸の先端には粘着質な液体が纏わり付いており、部屋全体をぼんやりと照らす間接照明を反射し、怪しく光っていた。
僕たちがいるのはオフィスビルの最上階。主に社外の重鎮と打ち合わせを行うために作られた会食場だった。数年前に自社ビルを新設したはいいものの、前社長の見栄のせいか、それとも建設会社との付き合いのせいか、不必要に高いビルを建てたせいで、屋上はしばらくただの展望台となっていたのだが、そこに会食場を作る、という噂は社内に広がっていた。平社員の中でも、更に平。地面に押しつぶされたヒラメにも負けないくらい平坦な僕の耳にも入るほどだったのだから、よっぽどの事だったのだろう。よっぽどの、利権が絡んでいたはずだ。
「でも、まさか自社ビルの屋上にこんなところができるとは思いませんでしたよ」
僕は田口さんに負けずと手元にあった箸を持ち上げ、突き出しながら言う。「なんで次郎系ラーメンの店なんですか」
会食場自体は洒落た雰囲気だった。部屋全体が中華風で、赤を基調とした壁に覆われている。部屋全体も広く、満願全席をイメージしたのか丸いテーブルがいくつも並んでいた。なぜか賃貸マンションのベランダのような大開の窓があるが、それ以外は瀟洒な雰囲気だ。商社である我が社とかけているのだろうか。
「とはいっても、出てくるメニューがラーメンだったら意味ないですよ。しかも一種類だけじゃないですか」
「一種類じゃねえよ」田口さんは皺で埋め尽くされた顔を更にくしゃくしゃにし、太い唇をぬっと突き出した。「油の多さとか、チャーシューの量とか選べるだろ」
「誤差ですよそんなの。四捨五入したらゼロです」
「いいんだよ。次郎系は一種類でも全国民を幸せにできる」
「僕は今幸せじゃないですよ」
「この非国民が」
人事に通報すればパワハラ認定されるのではないか。本気で訴えてやろうと考えるも、すぐに断念した。田口さんの将来を思いやった訳ではなく、怖じ気づいた訳でもない。単に、次郎系ラーメンが原因で非国民扱いされた、なんて通報したら、馬鹿にされそうだと思っただけだった。
「いいか。次郎系は素晴らしいんだよ」
「素晴らしい、ですか」
「例えばこのチャーシューのことを考えてみろ」
今まで仕事で色々な人から指示を受けてきたが、チャーシューについて考えろと指示を受けたことはなかった。
「このチャーシューも元々は豚だった訳だろ。そんな豚の命を俺たちはいただいてんだよ。貴重な命を。でもよ、せっかくその貴重な命を使うなら、よりよく使ってやりたいじゃねえか。だろ? そういう意味では次郎系ラーメンは最強なんだよ。豚骨もチャーシューも全て使っているからな。無駄がねえ。きっと豚も感謝してるぜ。こんな有意義に使ってくれるなんて、感動したってな」
「そうかもしれませんが」と私は一度頷いてみせる。ビジネスマンとして生きていく中で身につけたスキルだった。癖とも言って良い。「でも、豚にとっては最悪なんじゃないですか」
「どういう意味だ」
「豚にとって人間は憎き敵ですよ。自分を殺した相手ですから。そんな奴に、自分の死体を良いように扱われているなんて、最悪に決まってるじゃないですか」
「でもよ、今まで育ててきてもらったんだ。確かに憎いだろうが、最後の最後、肉塊や骨でそいつらを喜ばせられるってんなら、悪い死に方じゃない。恩返し肉片だ。感動するだろ?」
「なんか食欲無くなりましたよ」
「小食だと早死にするぞ。俺みたいに」田口さんはそう言いながら机上に乗せられた全マシの大盛りラーメンを啜った。それで小食なのであれば、全人類小食と言えるのではないか、と指摘したくなる。「ああ、俺はいつもこの量を食べてる訳じゃねえぞ。でもな、人生で一回くらい全マシの次郎系ラーメンを食べ切りたいじゃねえか。そうじゃねえと死ぬに死ねない」
「それ食べたら塩分過多になって死ぬんじゃないですか?」
「お前は昔から上司に対して口が悪いよな」くちゃくちゃと麺を咀嚼しながら唇を尖らせた田口さんは、ただですら細い目をすっと狭めた。「それが社長に対する言葉かよ」
社長。田口社長。未だに慣れない言葉だ。まさかあの田口さんが社長になるなんて。信じられない。就任した時、つまりは一週間前にはあまりの衝撃で、聞き間違いだと思ったほどだった。僕の耳もついに限界か。短い付き合いだったな、と聴覚と別れを告げたくなるほど、信じられない話だった。幹部を差し置いて出世だなんて、いったい田口さんの何が評価されたのだろうか。
田口さんの武勇伝は社内でも語り草だった。もちろん悪い意味での武勇伝だ。例えば、大口の取引先相手との折衝で、ほぼ決まりかけていた案件を、田口さんがひっくり返したとか、社内の機密情報をメールか何かで誤って全世界に放出させたとか、そういった悪い噂には事欠かなかった。社内の全ての失敗は、元を辿れば田口さんに行き着くとすら言われるほどなのだから、どうしようもない。逆になぜクビにならないか不思議なくらいだったが、まさか社長になるとは。いったい何があったのか。
「でも、さすが田口さんだとは思いますよ」
僕は精一杯のおべっかを言おうと試みる。「社長就任後、最初にやったのが最上階にラーメン屋を作る、だなんて。田口さんらしいです」
「それ、褒めてねえだろ」
「鋭い」
「お前なあ」鼻の穴を大きくし、下唇をぬるっと出した田口さんは、「俺だって好きでラーメン屋作ったわけじゃねえんだよ」と額に浮かんだ大粒の脂汗を手の甲でごしごしと拭った。「上の意向だ」
「上って。社長の田口さんより立場が上な人なんて、我が社にいないでしょう」
「お前は幸せそうでいいな」
「何ですかそれ」
「新卒の頃からお前はそんな感じだったよな。『その仕事は田口さんの分担じゃないですよね』だとか『意思決定をしない部長に何の価値があるんですか』とか。そういったことを平然と言う」
「まあ、だから出世できないんですけどね」
「お前に出世は似合わないって」
「パワハラです」
「パワハラは我が社の伝統だぞ」
嫌すぎる伝統だったが、否定はできない。良くも悪くも、というより悪くも悪くも我が社は古い体質で、パワハラセクハラサービス残業が蔓延っていた。「我が社は労働法を適用していない」とは有名な幹部の台詞だ。日本を代表する大企業だというのに、堂々とそんなことを言ってしまうのだから、救いようがない。
「お前はもっと容量よく生きた方が良い」
突然田口さんは面倒くさい上司のようなことを言い出した。というより面倒くさい上司に他ならなかった。
「お前はさ、なんか反骨精神がダダ漏れなんだよ。そりゃ上司からすりゃ鬱陶しい。そんな奴が仕事でミスをしてみろ。ここぞとばかりにつけ込まれる。俺を見習えよ」
「オレヲミナラエヨ?」田口さんの発する言葉の意味が一瞬理解できなかった。田口さんとは即ち反面教師であって、見習うところなんてない。「田口さんを見習って、何か良いことがあるんですか」
「あのなあ。俺はこう見えて意外と世渡り上手なんだよ。数々のミスをしてきて、許されてきた実績がある」
「嫌な実績ですね」
「コツはな、惨めさを演出するんだよ」
別に聞いてもいないのに、田口さんは説明してくる。聞きたくなかった。親の子供の頃の恋愛事情並みに興味が無い。
「人間は怒るのが本能的に好きなんだ。悪者を正す自己肯定感、世の中の理不尽への憂さ晴らし。そういうのを発散できるから、人間は失敗した奴に怒りをぶつけるんだよ。でもな、怒るのにもエネルギーはいる。怒り甲斐のない奴もいるんだ。例えば」と田口さんは人差し指をピンと立てた。
「万引きしたお母さんがいたとする。そのお母さんを窃盗犯だ、ってひたすらに糾弾するとするだろ。んで、その後にそのお母さんの家が貧乏で、息子のために泣きながら万引きをしていたことが分かる。万引きってのは悪いことだが、そういう理由を聞くと怒るに怒れないだろ。惨めだなって感じるし、罪悪感を覚える。そうなりゃこっちのもんだ」
「要するに何が言いたいんですか」
「だから、怒られるな、やばいなって思ったら、自分の足の骨でも折ればいいんだよ」
「はあ?」
「そうすりゃ、上司も怒りにくいだろ。骨を切って憎きを絶つんだ」
「足折るくらいなら、素直に怒られますよ」
「まあ、そうか」
「あと、どんなに田口さんが世渡り上手だったとしても、会食場を次郎系ラーメンの店にしたのは、さすがに擁護できませんって。ラーメン屋なんて作っている場合じゃないでしょうに」
机上に乗せられたラーメンを啜る。太い麺がスープを巻き取るようにして口に入り、すぐに口内が一杯になる。それを慌てて飲み込みながら言葉を続けた。「今日も朝ニュースでやってましたよ」
「何がだ。占いか?」
「我が社の不祥事疑惑」
ああ、と田口さんの顔が強ばる。あの太平楽で悠々自適な田口さんの顔が歪む位なのだから、相当なのだろう。
不祥事疑惑、とはいっているものの「疑惑」をつけているのは我が社の職員くらいだった。マスメディアも取引先も、全てが確定事項だと認識している。それは紛れもない事実で、我が社の職員が「疑惑」と呼んでいるのは、なんてことはない。会社が認めていない以上、職員としてそう言わざるを得ないというだけだった。
不祥事、ときけば曖昧模糊とした「悪いこと」のように聞こえるが、今回の我が社のスキャンダルは不祥事としか言いようのないものだった。粉飾決済、政治家との癒着、幹部による横領、贈賄。数え上げれば切りが無い。よくもまあここまで法に触れられるものだ、と感心するくらいだった。
「正直詰んでますよね。幹部の人たちはもう責任取って辞めてもらうしかないですね」
「おいおい。他人事みたいに言うなよ」
「他人事ですから」
「お前な、それはあれだぜ。俺にも仕事辞めろって言ってるようなもんだぜ」
「あ、そうか。田口さんも幹部でしたね。なんかウケますね」
「ウケねえよ」
「でも、本当にどうするつもりなんですかね。このままだと倒産するんじゃないですか?」
「かもしれねえなあ」
仮にも社長なのだから、そこは嘘でも大丈夫と言うべきなのではないか、と文句を言いたくなる。「まあ、神に祈るしかねえなあ」
「そんな投げやりな」
「でもまあ、人間がどうしようもない状況に陥った時にできることは神頼みだけだ。昔からそうだろう」
「それも我が社の伝統だったりするんですか?」
「そうだな」
田口さんはラーメンを啜りながら「前の社長の猫がいなくなった時には、みんなで神頼みしたもんだ」と平然と言ってきた。
「それ、本当ですか?」
「まじだぜまじ。どこ探してもいなくてよ。神隠しだって社長が騒いでたんだ。結局は倉庫にあったソファで寝てたんだけどよ」
「とんだ神隠しもあったもんですね」
「本当だぜ。お前はちゃんと神隠しに遭ったら、場所が分かるようにしとけよ。靴とか残してよ」
「そんな律儀な神隠しがあってたまりますか」
それっきり田口さんは何も言わなくなった。言いたいことが終わったというよりかは、大盛りの次郎系ラーメンを食べるのに必死になっているようで、はふはふと何かに急き立てられているかのように、麺を口へと運んでいる。食欲のなくなる食べ方だ。
どうやら田口さんの言うとおり、本来の彼は小食なのだろう。半分も減らない内に彼の箸は止まった。ふぅと心底長い息を吐き出し「もういいかな」と珍しく弱気な言葉を吐いた。
「残すんですか?」
「人間、限界があるってことがよく分かった」
「勿体ないですよ」
「いいんだよ。もういっぱいいっぱいだ。これ以上頑張っても辛いだけだっての」
自分で大盛りを注文したくせに、この体たらくなのかと悲しくなってくる。あの田口さんも年には勝てないのだろうか。
ぐっと体を伸ばした田口さんは、その太いおなかを一度ぽんとたたき、立ち上がった。僕に背を向け、大きな窓へと足を進める。その背中はなぜだろうか。かつての彼の背中よりも少し小さく感じた。
「田口さん」
僕はそんな彼の背中を見ないようにしつつ、自然に、いつも通りに声をかけた。かけたつもりだった。「もしよければなんですけど」
「なんだ」
「僕と一緒に他社へ行きませんか」
田口さんが立ち止まる。僕に背中を向けたまま、信じられない物を見た、と言わんばかりに顔だけでこちらを振り返ってくる。その目は大きく見開かれ、口はぽっかりと空いていた。
「ちょうど競合他社からスカウトが来てるんです。ここより給料は安いですけど、泥船に乗るよりはマシじゃないですか」
「なんで俺を誘うんだよ」
「僕、借りは作りたくないんですよね」
「借り?」
「ほら。僕が若手の時に、田口さんが庇ってくれたことあったじゃないですか」
「庇って?」
「ハンバーガー事件の時ですよ」
ああ、と田口さんはたるんだ頬を緩め、ふっと微笑みを浮かべた。「懐かしいな」
「あの時の借りを早く返そうと思って」
「今となっては良い思い出だな」
取引先の社長への接待のため、僕が手頃な和食屋を用意したのだけれど、どういうわけかその店では「ハンバーガーフェア」を行っており、日本料理とアメリカンなバーガーを掛け合わせた、挑戦的な料理しかメニューになかった。しかも取引先は和食にうるさい人で、「こんな物は食べ物じゃない」と憤慨しとっとと帰ってしまったのだ。取引どころか、両社の関係性すら損なうほどの、面倒な事態になった。が、その時に田口さんはあっけらかんと「俺が予約したんですよ」と当時の部長に報告をした。「常識的に考えてくださいよ。ハンバーガーが嫌いな人がこの世にいると思います?」と腰を低くしながら言い、「私なんて最近毎日ハンバーガーですよ。終電で帰った後、100円で食べるハンバーガーは最高です」と妙に切実な声で言い、上司を納得させた。謝罪と言い訳がない交ぜになった、歪な交渉だったが、とにかく。僕は怒られずにすみ、田口さんはしばらくハンバーガーバカと陰で呼ばれることとなった。
「そんな昔のことを気にするなんて、お前も律儀だな」
田口さんはカラカラと乾いた笑い声をあげた。「あと、お前は今も若造だ」
「悪い話ではないでしょう。先方もあと一人くらい引き抜きたいと言ってましたし」
「だからといって、普通社長引き抜くか? 業界が震撼するだろう」
「大丈夫ですよ。雇われ社長なんだし。それに、僕も田口さんと一緒なら、新しい職場でも安心して働けます」
「随分と高く買ってくれてるんだな」
「自分より無能な人がいたら、ほっとするじゃないですか」
「割引しすぎだ」
ガラガラ、と音がした。何かと思えば、田口さんが大きな窓を開け放ち、バルコニーへと出ていた。真っ赤な西日が差し込むせいで、彼の後ろ姿がぼやけて見えた。
「悪くない話だ」
がさがさのしゃがれた声で、田口さんは言った。「本当に悪くない話だ」
「いい話ですからね。泣ける話です」
「だがなあ」
まいったまいった、と田口さんは両手で髪をわしわしと掻いた。猫が顔を拭っているようにも、ハエが身震いをしているようにも見える仕草だった。「俺にも家族がいるんだ」
「奇遇ですね。僕もです」
「下の子は小学生に入ったばかりでな。しかも最近習い事も始めたんだ。上の子は大学にも行きたがっているし、しかも妻は腰痛の治療で病院通いだ」
「そうなんですか」突然始まった田口さんの身の上話に面食らう。そういった、彼のプライベートな話は聞いたことはなかった。今更ながらに、田口さんも彼なりの人生を歩んでいるのだ、と実感する。
「家のローンもまだ残っているし、まあ。とにかく金が必要なんだよ。それに」
「それに?」
「俺はな、何だかんだ言ってこの会社が好きなんだよな」
白い煙を口から吐き出しながら、ふがふがと、まるで何かを恥じるかのように彼は言った。「世話になってきたからな。だから、まあ。最後までベストを尽くしてみるさ」
「この会社と心中するつもりですか」
「いや」
それじゃあ意味ねえだろ、と彼は首を振った。「心中じゃねえ。会社は生き延びる」
「何ですかそれ」
「ああ。お前それ持ってけよ」
会話をぶつ切りにして、唐突に田口さんはラーメンの底に敷かれた封筒を指差した。あまりに突然だったため、すぐにはその言葉を飲み込めない。「それ?」
「その封筒。今後人生に困ったら読んでみろ」
「今、上司に絡まれて絶賛困ってますけど」
「名言が書いてあるからよ」
鼻で笑い、封筒を放置して帰ろうとも思ったが、そうすれば後が怖かったので、しぶしぶ懐に入れて、部屋を出た。ラーメン屋から一歩出ると、途端に無機質な白色の、見慣れたオフィスビルへと周囲が一変する。先ほどまでいた場所がいかに異常だったかが分かってしまう。
廊下の角にあった社員用のエレベーターに乗り込み、一息つく。と、途中で見知った顔が乗り込んできた。今から出張にでも行くのだろう。営業部の同期が二、三人ほどぞろぞろと入ってくる。
「ねえ聞いた?」
僕の存在なんて見えていないのか、彼らは大声で話し始めた。「さっきニュースやってたんだけど、うちの会社の脱税とか癒着とか、そろそろ警察が捜査するらしいよ」
「まじで?」と一番後ろにいた男性が声をあげる。「誰が捕まるのかな。専務?」
「いや」と言い出し始めた女性が首を振った。「社長だって」
「社長? 古い方? 新しい方?」
「新しい方。なんか、社長が個人的にやってた証拠が出てきたとか、ないだとか」
「なんだそれ」
「証言があったとか、ないとか」
ちーん、と滑稽な音が響き、エレベーターの扉が開く。いつの間にか一階まで降りていた。開くボタンを長押しし、そのままエレベーターから出ようとする。が、思いとどまった。そのままエレベータに戻り、最上階のボタンを押下する。
田口さんが横領や脱税を? その証拠が出てきた? 冗談としか思えなかった。たしかに彼は駄目で無能な上司ではあったが、自らが悪事に手を染める勇気なんて持ち合わせていない。そんな勇気があれば、普通に出世するはずだ。
そう。普通に出世。そうだ。冷静に考えれば、田口さんが社長になるなんて、あるはずがない。そう言えば単純な悪口に聞こえるかもしれないが、紛れもない事実だった。出世レースの土俵にも立っていなかった田口さんが、幹部をすっ飛ばして社長だなんて、明らかな異常な人事だ。
「捨て駒か」
誰もいないというのに、独り言が零れる。そうだ。そうとしか思えない。この不祥事の責任を全部田口さんに擦り付けるつもりなのだ。
そんなことができるのか? 内なる自分が問いかけてくる。社内で解決できるレベルの不祥事であれば、確かに誰かに擦り付けられるだろうが、贈賄や不正経理といった、刑事事件の責任を一人に負わせることなんてできるのか。いくら他の人々が田口さんがやったと言ったところで、本人が否定すれば意味がないのではないか。警察だって馬鹿じゃない。責任逃れのために誰か一人に罪を押しつけていることなんて、よく調べれば分かるのではないか。
頭ではそう分かっているというのに、なぜだか胸のざわめきは消えない。気づけば僕は先ほど貰ったばかりの封筒を手にしていた。田口さんからの贈り物なんて碌な物ではないことは間違いなかった。が、それでも気になった。
『骨を切って憎きを絶つんだ』なぜだか田口さんの言葉が頭のなかでリフレインする。『今まで育ててきてもらったんだ。確かに憎いだろうが、最後の最後、肉塊や骨でそいつらを喜ばせられるってんなら、悪い死に方じゃない』
封筒の中に入っていたのは一枚の紙だった。三つ折りにされた紙を開く。そこには妙に縮こまった文字があった。
『恩返し肉片って感動するだろ?』
エレベーターが屋上につく。慌てて会食場に飛び込み、田口さんの名前を呼ぶ。が、返事はない。ひゅうと風が吹いた。開けっぱなしになった大きな窓から生暖かい西風が入り込んできている。先ほどまで田口さんがいた場所には誰もいなかった。ただ、彼の履いていた靴が綺麗に並んでいるだけだ。
「そんな」知らず知らずのうちに、声が零れてしまう。
「そんな律儀な神隠しがあってたまりますか」
静かな部屋だった。ラーメンから立ち上る湯気がまっすぐに昇り、天井へと伸びている。僕はその消えゆく湯気をぼんやりと見ることしかできなかった。