虎杖悠仁には幼馴染がいる。初めて会った日から、彼女──星塚椛は良き隣人として虎杖の傍にあり続けた。
肉親が祖父のみと少々変わった彼の家庭環境に何か言及することはなく、ただ彼の元へ通う。
倭助も初めは毎日のように家の扉を叩く星塚に「たまには他の連中とも遊べ」と怒号を飛ばしたり、家に上がらせても「さっさと帰れ」と追い返していたが、大して効果はなかった。
結局倭助もひたむきな彼女に絆され、いつからか茶菓子を出すようになった。
「オマエ、爺ちゃんこわくねえの?」
「えー? 全然怖くなんてないですよ。……お父さんの方が、もっと怖いから」
そういって控えめに笑う彼女に、虎杖はちょっと厳しい家なんだなとだけ思った。ふーんとだけ返した虎杖に、星塚はハイネックのセーターをぐいぐいと伸ばしながら言う。
「倭助さんは悠仁君のこと大好きですから、なんだか羨ましいです」
「そー?」
その言葉をこっそり盗み聞きしていたのか、倭助の部屋から「うるせえ!」とまた怒号が飛ぶ。二人は顔を見合わせて笑いあった。
あれは確か、小学2年生のときだった。虎杖の記憶力はいつも曖昧なので、定かではない。
放課後や休日に星塚は隣の家によく行くが、学校では意外とそうでもなかった。
身体を動かすのが好きな虎杖は授業終わりのチャイムがなってすぐさまボールを持って貴重な10分をグラウンドで過ごしたが、彼女は教室で女友達と話したり、本を読むことが多かった。
星塚はなんというか、勘が異常に良い──今考えてみれば術式を使っていたんだろう。
昼休み、ボールを追うのに夢中になって足元の大きな石に気付かず、虎杖の膝小僧に擦り傷ができたことがあった。
それ自体は保健室に行って、アルコールが染みる痛みに耐えながら処置をしてもらったのだが、自分の身体を庇おうと咄嗟に出した手が擦りむいたことはなんとなく黙っていた。
教室に帰ってきた虎杖に対し、星塚はずかずかと遠慮なく近付き、その腕を取った。そのまま水道に連行され、手を洗わさせられる羽目になったことは中々印象深い。
あのときの彼女の顔は珍しくむっと口を尖らせて顰め面をしていたから。
「……なんでわかったんだよ」
「秘密です。さ、ちゃんと泥は洗い流せましたか?」
「いけたいけた」
「ちゃんと洗わないといけないんですよ! 小さな擦り傷でもそこからザッキンが増殖して、ひどい傷になることもあるんですから!」
「星塚って物知りだよなあ」
「ちゃんと聞いてますか!?」
ぐっと顔を近づける星塚に、虎杖は何度か首を縦に振る。
彼女はまだ訝し気な眼差しで、大きくため息をついたあと、「痛くないですか?」と言って虎杖の手を取った。
「別に? ……あー、ちょっと痛いかも」
「じゃあ私が秘密のおまじないをしてあげます!」
見栄を張ったものの、すぐに本音がこぼれた。星塚は眼を細めて、くるくると指を回す。
「いたいのいたいの、とんでいけ」
そう唱えて、彼女は指先を彼方に放る。すると、なんだか本当に痛みが引いたような気がした。
虎杖にキラキラした目を向けられて、星塚はふん、と胸を張る。
「えーすげえ! 俺もやりたい!」
「私は悠仁君と違って危ないことはしませんから~」
「オマエ結構言うよなあ……」
「ふふん。まあ……他の子が怪我したときにやってみてください」
そうこうしているうちに授業開始5分前のチャイムが鳴った。二人とも血相を変えて教室へと走る。その時の担任は結構厳しくて、遅刻すると頭に拳骨を落とすのだ。
走っている最中、彼女はしきりに手を握ったり開いたりしていた気がする。
こんな調子で二人は小学校生活を過ごしていたが、やがて歳を重ねるにつれて少しずつ男女間で溝が出来てくる。
女は女同士、男は男同士でつるむようになり、男女が少しでも接していたら揶揄の対象となるのだ。
当然虎杖と星塚もそれに巻き込まれた。むしろ遅かったまである。
ほとんど毎日一緒に登校し、下校し、学校でも仲良く話していれば思春期の子供たちに目を付けられるのは必然的だ。
中学に入って、二人のクラスは離れてしまった。最初は寂しそうにしていた星塚だったが、すぐに慣れた。
元より登下校の時以外はそんなに関わりもなかったというのもある。
いつものように星塚がスクールバッグを背負い、「悠仁君、帰りましょう」と教室の扉を開けた時、虎杖のクラスの男子がからかうように口笛を吹き、虎杖の背中を押す。
「オマエら毎日一緒に帰ってんだろ? 付き合ってんのかよー!」
「……? 付き合ってませんけど」
「おい、変なこと言うのやめろよ」
あくまで冷静に対処する二人とは対照的に、教室の空気が徐々に熱されていく。
「確かに、いっつも一緒だよね」
「オレ休みの日に星塚が虎杖の家行ってんの見たことある」
「あたしも!」
嫌な空気を感じ取ったのか、星塚は眉を顰めた。
最初に声を上げた男子生徒が彼女の腕を強引に引っ張って教室に引き込む。
小さく漏れた「いたっ」という声に、思わず虎杖は彼の手を掴んで力を込めた。
人よりも屈強な肉体をもつ彼が思い切り握りしめたものだから、男子は顔を引きつらせて星塚を握っていた手を放す。
「いってえな! なにすんだよ虎杖!」
「星塚が痛がってんだろうが」
不穏な雰囲気が増していく。
険悪な顔で睨み合う二人に周りの人間は固唾を呑み、様子を眺めるばかり。仕方なしに星塚は間に入る。
「虎杖君、私別に怪我してませんから大丈夫です。もう帰りましょう」
「……ああ」
「おい待てよ!」
二人の言葉か、彼を一切見なかった態度のどちらかが癇に障ったらしく、男子生徒の剣幕は余計に荒くなる。その矛先はやがて星塚に向けられた。
「……なんだよ、虎杖虎杖って! オマエ、そんなに虎杖のことが好きなのかよ!?」
「好きですけど?」
途端にざわめく教室。
男は顔を真っ赤にしたかと思えばすぐに真っ青になり、口を何度もハクハクさせたあと、床にへたりこんだ。
星塚は不思議そうにしていたが、他の全員はすぐに察する。クラスの中心人物の恋が破れる瞬間を目撃してしまったと。
さっきまで争っていた虎杖ですら同情の眼差しを向ける。気の毒そうにしながらも、彼は自身の腕を引く星塚に連れられて教室を出て行った。
「なあ、さっきの……」
「え?」
「オマエが……その、俺のこと好きだって話」
帰り道、重々しい口を開いて虎杖は尋ねる。とうの本人はといえば、何でもない顔でこう言った。
「だって悠仁君と私は幼馴染でずっと一緒なんですから。家族みたいなものでしょう? 大好きに決まってるじゃないですか!」
「あー……ま、そうだな!」
次の日には当然話は各所に知れ渡っており、星塚は口々に虎杖について尋ねられた。
彼女が昨日虎杖に返したのと同じように返答すれば、ああなんだと皆納得したように帰っていく。
やがて傷は癒え、件の男子生徒は改めて彼女に告白したが──結果は言う必要もないだろう。
祖父は年老いた男手ひとつで拙いながらも有り余る愛を以て幼い自分を育て上げた。そのことに対し不満があるわけもない。
だが、ふとした瞬間に他の人が持ち合わせているものがないという事実を感じることもある。
例えば、授業参観のとき。昔は来てくれたが、最近調子の悪い祖父に無理をさせるのも忍びなく、虎杖はこっそりそれを知らせるプリントをゴミ箱に丸めて放り投げた。
背後にはよく見知った顔はない。そういう時、星塚はこっそり「私の親、来てないんですよ。お仕事なんですって」と囁く。
「家族、か……」
言われてみれば、本当に彼女は家族のようだった。いつしか祖父から合鍵をもらい、虎杖がいないときでも家に入り浸るようになった星塚のことを思い出す。
帰りが遅くなり、小走りで玄関をくぐれば「おかえりなさい」と声を掛ける星塚。料理こそ虎杖のほうが上手かったが、洗濯や掃除は彼女の独壇場であった。
手先が器用な彼女は、当然のように裁縫も得意だった。これでなぜ料理が下手なのか、虎杖は昔から疑問である。
祖父から幼い頃に買ってもらった防寒具はすくすく育つ虎杖の成長スピードに負け、すぐにサイズが合わなくなった。
子供は風の子を体現したように真冬でも半袖半パンで外を走り回る彼に、星塚はそっとマフラーを巻いた。
「え、わざわざ買ってくれたのかよ!?」
「違います、手編みですよ。私の」
「手編みぃ!?」
ぎょっとしてじっくり観察してみるが、既製品とほとんど変わらない出来だった。少なくとも虎杖から見れば。
「全然わかんねぇ!」
「そりゃあ人にあげるものですから。綺麗に作りますよ」
「いやでもすっごい出来じゃん! 金とれんじゃね!?」
「ありがとうございます。でも、今のところあげるような相手は悠仁君しかいませんね」
「えー、あの子は? クラスで仲良い女子の」
「遠野ちゃん? 彼女はちゃんと自分のマフラー持ってますもん。どこぞの誰かさんとは違って」
「今俺のこと言った?」
「自覚があるなら少しは厚着してください。いくら身体が丈夫でもいつ風邪引くかなんてわからないんですから」
星塚がもし本当に自分の家族だったら。
少し口うるさいが世話焼きな母、しっかりものの姉、上がちゃらんぽらんだから自立せざるを得なかった妹。
いずれかだっただろうか。
──或いは?
「ないよなぁ」
「何がです?」
「別に」
結局二人の関係性は「幼馴染」という枠から変化することはなかった。中学校に入っても、高校に入っても、──諸事情により転校することになっても。
星塚が呪術を使えることには驚いたが、昔から少し不思議な雰囲気を纏っていたので、虎杖は別段驚かなかった。なんならそういうことね、と納得する気持ちだった。
ただ、高専に転校してからは少々顔色が悪くなったように思うのは気がかりだった。
ただでさえインドア気質な彼女は青白い肌をしているのに、より一層体調が悪そうに見えた。
彼女曰く、慣れない任務に気疲れしているだけだと。星塚が高専に来ることになったのは元を辿ると虎杖のせいだ(と、本人は思っている)。
若干の罪悪感が胸に刺さる。申し訳なさそうにする虎杖に対して申し訳なさそうにする星塚、に申し訳なさそうにする虎杖。
「アンタら辛気臭い顔してんじゃないわよ!」と釘崎が一喝しなければ無限ループが始まっていただろう。虎杖は釘崎のこういうところを好ましく思っている。
「まあ、すぐに慣れますよ」と星塚は控えめに笑った。だが、久々に対面した交流会の日は今までよりも更に血の気を失った顔をしていた。
「過労しかねえだろ、原因は」
「でしょうね。椛ったら私の誘いを断って任務ばっかりだったもの」
「僕も一度上に掛け合ってみたけどさ、本人がいいなら行かせてやれってさ。ここらで一回休憩できてよかったんじゃない?」
まあその後は特級呪霊が現れて休憩どころではなくなったのだが。
それからあっという間に時は過ぎ、10月31日──渋谷にて。
「なんで、なんでなんですかあ!」
「いや、しょうがねえだろ。オマエ連絡役として最適なんだからさ」
一級推薦の関係で渋谷に待機する人員は一級呪術師と昇級査定中の者で構成された班分けがなされる。
つまり、星塚と虎杖が同じ班に組み分けされることがないこともないのだが──現実は非情である。
「帳の中では電波が通じない。その中で連絡が取れるというのは非常に貴重なことです。昇級任務としては扱えないのは申し訳ありませんが……」
「あーごめん伊地知さん、こいつそれで文句言ってるわけじゃねんだよな」
「与えられた役目はこなします! でもやっぱり寂しいですよ!」
彼女は各班の班長と連絡を取り合い、帳の下ろされた渋谷内で何が起きているのかを補助監督──ひいては総監部に届けることになっていた。必然的に帳の境界で待機である。
「悠仁君」
縋るような目付きで見上げる星塚。
「何だよ」
「この糸、切らないでくださいね! 絶対!」
「はいはい」
「……死なないでくださいね」
「おう!」
星塚が虎杖に接続するのは──それが最後となった。
虎杖は長い眠りから目を覚ました。九相図長男に負けて、気絶して。それからどうなった?
瞼を開ける直前に聞こえたあの声。
『小僧──せいぜい嚙み締めろ』
その言葉を思い出した途端、脳から雪崩れ込んでくる記憶たち。宿儺の指を呑まされ、肉体の主導権を奪われ。
『美々子!! 美々子!!』
自分とそう歳の変わらない女子高生が賽の目状に切り刻まれる様。頭が上下二つに分かたれる様。
轟轟と燃え盛る炎とマグマの景色の中で、一際大きく輝く隕石が落ちていく。
一つ上の先輩とその担任、呪詛師たちが弄ばれる様。
領域の中、悲鳴すら上げられず、状況を理解すらできずに塵になっていく一般人。
狗巻が喉を酷使して救助してくれた命は、あっという間に物言わぬ塵芥に変わっていった。
胃から逆流してきた液体が、喉元を通り、地面へと吐き出される。
彼の先にあるのは恐ろしいほどまっさらな、何もない空間だった。先ほど膾切りにされた呪詛師以外は。
先ほどまでそこには建物がいくつもあった。人間だって、数えきれないほどいた。
だというのに、もうそこには何の形跡も残されていない。ただの更地と化していた。
『ああ、そうだ。こいつもついでにくれてやろう。くれぐれも、
脳をかき混ぜられるような吐き気が虎杖を襲う。秘匿された心象風景の中で行われた惨劇の記憶が彼の頭に流れ込む。
細切れにされる四肢、大腿骨のへし折られる音。結ばれた誓約。脳髄を弄る指先、引き出された臓物、繰り返される拷問、疑似的な死。生きたまま捌かれる獲物の鮮烈な悲鳴。
──誰の? 虎杖には聞き覚えがあった。耳が覚えている。
『ぁ、ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!』
首元に細い線が一つ。ごとりと落ちた首。
長い髪の隙間から覗く相貌は、見知った顔だった。とても、見知った顔だった。
濁り切った瞳、だらしなく開かれた口、切り口からこぼれていく血液。
「う、ぁ……」
なんで、どうして。そんな言葉は吐き出される前に、えずく音で搔き消される。
里桜高校で真人が虎杖の魂が触れたとき、奴は宿儺の攻撃を受けた。なぜそれが星塚の術式でも起こらないと思えた?
どうして彼女は地元でも呪霊を祓っていたはずなのに高専に来てから体調を崩しがちだった? 本当に、任務に慣れていないだけだったのか?
静まり返った渋谷の街に、虎杖の獣のような荒い息遣いが響く。
「──死ねよ」
フラッシュバックする肉色の光景。わずかに痙攣する少女の身体。断面からこぼれる鉄錆の匂いの液体。
コンクリートに突き立てた指先。爪の先から少しずつ指から剝がれていく。痛みはまるで感じなかった。
「自分だけ!!」
いくつもの命が失われた。自分を乗っ取った宿儺が殺した。自分が殺した。
なのに、己だけは未だのうのうと息をしている。こんな理不尽があっていいわけがない。
「死ね!!」
──なんで俺が死刑なんだって思ってるよ。
──自分の死に様はもう決まってんだわ。
かつての自分が吐いた言葉が滑稽に聞こえた。こんなことを言えるような立場なわけがない。
──俺に、何ができる?
『オマエは強いから、人を助けろ』
『手の届く範囲でいい、救える奴は救っとけ。迷っても、感謝されなくても、とにかく助けてやれ』
『もう、倭助さんってば。……悠仁君は、とっくにそういうことができる人に育っていますよ』
『オマエにも世話になったな。もし……できるなら、アイツのそばにいてやってくれねえか』
『当たり前ですよ。たとえ
『悠仁、オマエは大勢に囲まれて死ね。俺みたいにはなるなよ』
病室で交わした会話。祖父の、幼馴染の言葉が背中を押す。
何もできずに蹲っているだけか? 布越しに伝わるコンクリートが虎杖の身体を冷ましていく。
「行かなきゃ」
──このままじゃ、俺はただの、
「戦わなきゃ」
──人殺しだ。
お前もU R MY SPECIALにしてやろうか