──この世界は目の当てられないほど醜いものばかりだった。そして、それは私にしか見えない。
彼女の視界には絶えず人ならざるものが映っていた。
目玉だけが肥大化した1本足のもの、人間の手足をいくつも繋げたようなもの、肉片と汚泥を撒き散らすもの。
吐き気を催すようなそれらと目が合うと、自身を視認できると気付き襲いかかってくる。下を向いて歩くのが常だった。
その日も、家の近くを徘徊する化け物が怖くて彼女はぐずぐずと泣いていた。膝を抱えて外界を見ないようにしていると、ふと声がかかる。
「なんで泣いてんの? なんかあった?」
ノイズがかかったような化け物の声ではない。淀みのない透き通った声音だった。少女はその声に反応して顔を上げる。
そして初めて、人は光ることができると知った。
陽の光に照らされて輝く明るい髪の毛、屈託のない笑顔を浮かべる口から覗く歯。
脳が真っ白になるような感覚に襲われて、彼女は何も言えないまま口を開けていた。涙が粒のままころりと落ちていく。
「俺こないだ岩手から引っ越してきてさ。まだ全然知り合いいねーの。だから一緒に遊ぼーぜ!」
「え、あ……」
そう言って少年は少女の手を取って、外へと連れ出した。
彼を見ていれば、化け物のことを見ずにすんだ。考えずにすんだ。
そのことがどれだけ彼女にとって救いになったのだろう。
散々近所を連れ回されて、2人とも土と汗まみれの姿だった。少女の身体は疲労困憊だったが、心は驚くほど爽やかな気持ちである。自然と口角も上がった。
日の落ちる前に帰路へ着く。子どもの行動範囲なんてたかが知れていて、あっという間に家に着いてしまった。
名残惜しさに俯く少女。少年は彼女に声を掛けようとして、ようやく互いに自己紹介をしていないことに気付く。
「あ、ごめん。そういえば名前聞いてなかったな!」
「わ、わたし……星塚、星塚椛」
「俺は虎杖悠仁! 家隣だしまた会おうな!」
夕日をバックに大きく手を振る虎杖。星塚も遠慮がちに手を上にあげた。
彼といると、感じている不安も恐怖も太陽で焼き尽くされるみたいに消えてしまう。玄関に飲み込まれていく虎杖を眺めながら、彼女はそう思った。
そして、こうも思った。
──ずっと、一緒にいたいな。
当然だが星塚はいつでも虎杖と一緒にいられるわけではない。学校で虎杖はよく外で遊んでいたし、星塚は室内で本を読んだり友達と座って話をすることが多かった。
虎杖がいないとき、星塚はどうしても視界をちらつくソレが気になってしまう。怖くて、涙が出てしまったり、友達が知らずに通り過ぎてしまった時には悲鳴をあげてしまった。
当然彼女の親は不思議に思う。
娘から話を聞いてみたり、病院で原因を調べてもらったり。愛する子どもに対して親身になり続けた。
それでも原因は分からない。病院の検査は異常なし、他の子に聞いてみてもやはり何もない。
不思議が不気味に変わるのは、仕方がないことだったのだろう。やがて、不気味が恐怖に悪化していくことも。
母は仕事だと言って家を空ける時間が長くなった。父は出張へ行ったまま帰ってこなくなった。
決して母に虐待されていたわけではない。必要なものは言えば用意してくれるし、冷蔵庫の中にはきちんと彼女の分の食料は用意されている。
だが、それはただ生命や生活を維持するためのものでしかない。
年端のいかない子どもにとって必要な愛情が欠けていた。星塚は常に孤独感を抱えたまま、星塚は1人だけの食卓に座り続けた。
そんな中、虎杖悠仁に対しての感情が高まり続けていくのも無理はないだろう。
「はっ……、はぁっ……!」
ある日、星塚は一心不乱に駆けていた。帰り道のことなど一切考えず、闇雲に。
うじゅるうじゅると謎の粘液を垂れ流しながら背後から迫る六つ足の呪霊。視線がかち合った瞬間から執拗に彼女を追い立てる。
「ぉいで……オいでェ……!」
短い手足を必死に振り乱して呪霊から距離を取ろうとする。だが、その差は縮まるばかりだ。
路地裏から開けた場所へ出てしばらく進むと、星塚は謎の浮遊感に襲われた。
後ろを気にしながら走っていたため、気付かなかったのだ──目の前の川に。
「……っ!!」
とぽん、と控えめな水飛沫が上がり、星塚は川の中に落ちていく。昨日は生憎の雨、増水して勢いを増す濁流の中で星塚は藻掻く。
声を上げようと口を開ければ泥水が口へ入り、水面を叩く僅かな抵抗も流水の激しさに意味を成さない。
やがて手足を動かす力も失い、意識が朦朧としていく。荒立った水中の中、口から吐き出された最後の水泡だけがゆっくりと浮上していった。
「星塚っ!」
よく聞きなれた少年の声が耳に届き、星塚の指先が微かに跳ねた。
先ほどよりもはるかに大きな水飛沫──もはや水柱というべきだろう──が川の中央に立つ。
虎杖は勢いの衰えることのない川をすいすいと泳ぎ、気絶した星塚を川べりまで運ぶ。
いつも生白い彼女の肌は病的に青ざめていた。虎杖はどうするべきか慌てふためく。
そういえば、こういうときは人工呼吸をすると聞いたような聞いてないような。曖昧な知識で不安ばかりが募るが、目の前の少女をこのままにしてはおけない。
虎杖は覚悟を決め、星塚へ顔を近付ける。
「ごめん!」
大きく息を吸って少女に空気を吹き込もうとしたとき──
「げ、ほっ……! げほ、ぅ、ぇ……」
「星塚!」
星塚の身体が上下し、口元から泥水を吐き出した。コンクリートが茶色く汚れていく。虎杖は星塚の身体を起こし、背中を摩った。
またすぐに意識を失ってしまったが、先ほどとは違い微かではあるもののしっかり呼吸をしている。だが、その顔色は依然として血色がない。
虎杖は冷たくなった星塚を抱え、自分の家まで急いだ。
その後、虎杖の家の風呂で身体を温めて星塚は家へ帰った。
虎杖は「どうせ隣なんだから泊まっていけば?」と言ってくれたものの、これ以上迷惑をかけるのも彼女の本意ではない。
湯船にしっかりと浸かり身体の芯まで温めたものの、寒気が襲う。少しだけ身震いして、自室へと戻る前に星塚はリビングの机に書き置きを残した。
次の日、星塚の予想通りに体調は悪化していた。身体が発火しているような熱さだというのに、背筋がゾクゾクする。
階段から落ちないように手すりを握りながら居間へ降りると、大きなレジ袋が机に置かれていた。
中身を改めれば無造作に入れられたスポーツドリンクやゼリー、冷えピタ。
そう、別にネグレクトを受けているわけではない。体調を崩した旨を伝えればこんな風に必要な物資だって用意してくれる。
星塚は冷えピタの包みを開け、ひんやりとしたジェルを額に貼り付けて布団に再度潜る。
ぼんやりとした意識の中、星塚は淡々と両親のことを思い出す。
母は今頃何をしているだろうか。恐らくは会社で仕事をこなしているのだろう。少なくとも日が変わる頃まで帰ってくることはない。
父は今頃何をしているだろうか。今は関西の方に出張中だと母が言っていた気がする。次に帰ってくるのは2週間後のはずだ。……顔も見たくない。
頭の中の両親を消し去り、次に浮かぶのは明るい笑顔の少年のことだった。
彼は今、何をしているんだろう?
星塚は寝返りを打って布団を肩まで被る。
学校で授業を受けて、休み時間は友達とグラウンドに出て遊んで、給食はお代わりするだろう。いつだって彼は食欲旺盛だったから。
確か今日の献立にはプリンがあったはずだ。自分が休んだのならその分余っているので、じゃんけんで所有権を争っているに違いない。
全身全霊で勝負に挑む虎杖の姿を想像して、星塚は思わずくすりと笑いが漏れた。
その後はまた授業。ご飯を食べたからきっと眠たくなるはずだ。
前の方の席なのに爆睡している虎杖は先生に教科書で叩かれる。教室の皆はその少し間抜けな彼の姿を見て笑うんだろう。
そのあとは──そこから彼女の意識は途切れた。
「う、……」
それから何時間経ったのだろう。身体を起こすと寝汗で寝間着が湿っていた。服が身体に張り付く不快感に星塚は顔を顰める。
そのままのそのそと鈍重な動きで布団から這い出て、机に置きっぱなしのぬるいゼリーを吸い込んだ。陽の光とエアコンの温風を浴びて、中途半端に生温くなったそれは思っていたよりもマズイ。彼女の顰めっ面が悪化する。
なんとか飲み込み、空っぽになった袋をゴミ箱に投げ捨てた。
熱はすっかり引いていた。だが、心に穴が空いたような虚しさは一行に消えることはない。
静寂に包まれた空間にいるのが耐えがたく、星塚は2階へ降りるとテレビのスイッチをつける。こちらを認識していないただの映像だが、人の声がするだけで何となく落ち着く。
『それでは新郎新婦の登場です!』
大きな液晶パネルに映っていたのは、幸せそうな男女だった。フリルやレースが施された豪奢なドレスに身を包む新婦の姿は世界で1番幸せそうに見えた。
2人が向かい合う中、神父は告げる。
『病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、死がふたりを分かつまで、これを愛し、慈しみ、貞操を守り続けることを誓いますか?』
新郎も新婦も、「誓います」と神の前に告げた後、誓いの口付けを交わす。星塚は画面を食い入るように見たまま動かない。
参加者は新たな夫婦の誕生日を祝い、中には涙しているものまでいた。
『彼に出会ったのは……運命だと思うんです』
記者が新婦にマイクを向ける。彼女は涙で化粧が少し崩れていて、頬が紅潮していた。
『運命の赤い糸って分かりますか? 私と彼は、その糸で小指が繋がっていたんですよ、きっと』
ねえ、と同意を求めるように新郎を見上げる。新郎はしばらく硬直していたが、やがてゆっくりと首を縦に振った。
もしも、本当に運命が存在するのなら。小指に赤い糸が繋がっているなら。
その相手は彼がいいな、と星塚は思ってしまった。
熱はとっくに下がったはずなのに、頬に触れた手は暖かい──いや、熱い。
星塚は頭に浮かぶ自身と虎杖の結婚式の映像を必死に頭を振って消そうとする。だが、一向に消える様子はない。
──私は、もしかして。
「あ、ぅ、……うわあぁぁ──!!」
布団へ飛び込み、地上に打ち上げられた魚のようにのたうち回る。
──悠仁くんのことが。
星塚が恋を自覚した瞬間であった。
「……なにこれ?」
感情の渦に溺れ、布団の上で暴れていた星塚は、ふと異変に気付いた。指の先から、赤い何かが突き出ている。
初めは血かと思ったが、服や布団に滲む様子もないため違うだろう。本能的に、危険なものではないと感じた。
「えい」
手を振れば、連動して動くそれ。伸びろと念じればにゅるにゅると指先から出てくる。
少し気持ち悪い。星塚は顔を歪めて先端を掴み、引き抜こうとした。
だが、引っ張れば引っ張るほど伸びていく糸。同時に自分の何かが失われるような感覚に襲われる。
そして、糸が放つ雰囲気はいつも見る化け物と似ている気がした。
星塚の推測は間違ってなかった。いつも通り虎杖といない時に化け物に襲われた際、指先から出した糸で足を引っ掛けると、化け物は足を取られて転んだのだ。
これであの化け物たちに干渉できる。いつも逃げるしかなかった星塚にとって、自衛手段ができたことは幸いだった。
化け物は見える星塚だけでなく、時折何も見えない人にも襲いかかる。その毒牙が虎杖へ向かったとき、何もできないようではいけない。
そういうわけで、彼女は近所にいる異形の中でも1番弱そうな奴を狙って戦ってみることにした。
誰も周りにいないことを確認して、星塚は深呼吸をして息を整える。
そして、同年代の中でも小柄な方の星塚よりも少し小さく、間の抜けたような顔をしている化け物に向けて、糸を放った。
初撃は失敗。狙いを外し、空を切った。
自分が襲われていることに気付いたのか、化け物は星塚の方へ向き直った。背中の小さな羽で羽ばたいて彼女へ飛びかかる。
星塚はできる限り引き付けてから前転で交わす。彼女は体育はあまり得意ではなかったが、虎杖がよく練習に付き合ってくれた。その成果が今発揮されている。
もう一度、星塚は糸を伸ばす。一部が化け物の手に絡み、それを起点にぐるぐると巻きついていく。
解こうと暴れる化け物だったが、やがて抵抗すらできないほどに糸は絡みついて離れない。
そこからどうするべきか分からず、星塚は固まってしまった。これは殺せば死ぬものなのだろうか。殺しても良いのだろうか。
逃げられるのも嫌なので、とりあえず指を動かしてなんとか糸の締め付けを強くする。
ギチ、ギチと糸が肉に食い込む音と、化け物の濁った悲鳴が聞こえる。
「これもっと強くしたらどうなるんだろう……」
子ども特有の残酷な好奇心につられ、星塚はより力を加えていく。
やがて──柔らかいものが弾ける音がして、化け物は無数の肉片と化した。
突然の衝撃で腰が抜け、星塚は地面にへたり込む。肉の欠片や体液が降り注ぎ、彼女の顔や服に付着した。やがてそれは塵となり、霧散していく。
そこには何も残らなかった。だが、星塚の手の中には確かに先程までの感覚が残っている。
何かしらの生命を手にかけたおぞましさ、今まで逃げるしかなかった化け物を倒しきった達成感という別ベクトルの2つの感情に襲われる。
最終的にはギリギリ喜びが勝った。
死体もなくなるし、自分がいくらこれを殺そうが問題はないだろう。むしろ虎杖の安全を確保できるのできるのだから、自分にとっては嬉しいことしかないだろう。
星塚は1人で納得し、その場を後にした。
それから、星塚は周りに誰もいないときは化け物を始末することにした。当然自分の力では勝てない相手と出会うこともあるが、その時は逃げる。
この指先から伸びる糸はただ糸として使うだけではなく、別の用途にも使えることに気付いたのは初めて化け物を倒したときからしばらく経ってからだった。
まずは虫、その次は鳥、猫……と段階を踏みつつ、彼女は生命に糸を繋ぐことを覚えた。
視覚や聴覚をジャックしてみれば、人間のものとは随分違う色彩や音の聞こえ方には驚いたものの、すぐに慣れた。
高等動物になると難しいものの、虫や鳥ならばある程度は命令通りに動かすこともできる。
この力は呪霊には中々通じない。ある日授業で習ったゴムが電気を通しにくいのと同じように、何かしらの抵抗力があるのではないかと星塚は考えていた。まだまだアレら相手には肉弾戦を仕掛けるしかなさそうだ。
そして、ふと星塚は思い立った。
この力を、虎杖に使ってみるというのはどうだろう?
別に私利私欲のためではない。
彼は心根こそ優しい少年だが、悪目立ちする頭髪を持っているため、上級生から絡まれやすかったのだ。
幸い虎杖は持ち前の身体能力で乗り切っていたが、いつか大怪我を負ってしまうのではないか。星塚の心労は耐えなかった。
糸を繋げてしまえば、虎杖が危険なときも自分が察知できる。
そう、決して虎杖が何をしているのか、誰と話しているのかが知りたいという自分勝手な欲望のためではない。 断じて、ない。
星塚は何度も心の中で言い訳をしながらも、そっと虎杖の小指に糸を絡める。
この糸は誰にも見られることはなかったが、もしも自分と同じように見える人間がいたときのために、極限まで細めたものを。
別の人間の情報が絶えず頭の中に流れるというのは非常に脳に負荷がかかる。初めは頭痛や吐き気に苦しめられたが、そのうち慣れた。
「先生、悠仁君が不良に囲まれてます!」
「またか!」
「……救急車呼んでおいた方がいいですか?」
今日も星塚は虎杖の危険を察知し職員室まで走る。
虎杖が不良に絡まれるのは何も目立つ頭髪のせいだけではない。
善性の塊である彼は、目の前で困っている人間を見逃してはおけなかった。
今回は路地裏でカツアゲにあっていた男子中学生を助けようとしたがために、虎杖は不良たちと揉め事を起こす羽目になったのだ。
打算も何もなく、ただ人のために咄嗟に動ける彼の魂は素朴ながらも清澄であった。その輪郭を捉えている星塚だからこそ、虎杖から放たれる輝きに身を焼かれていた。
でも、パチンコだけはやめてほしいかも。たまに持ってきてくれるお菓子の詰め合わせは嬉しいけれど、普通に法を犯すのは勘弁して欲しい。
そんな俗っぽい部分すら、愛おしく思えてしまう。あばたもえくぼとはこのことか。
公衆電話に硬貨を入れながら、星塚は口角を上げる。
彼女の想いは年月を経て高まる一方であった。