実際、ゲートを潜った理由は諸説ありますが、『厩務員さんが離れたことで寂しくなった』説が有力ですね。
私はこの作品ではその状況を『レースのプレッシャーに押し潰された』として描きました。
・会場は数万人の視線と凄まじい歓声が響く
・公式戦の経験がまだ1度しかない
・注目選手として過度な期待がかかる
・唯一信頼できる人が離れ、圧迫感のあるゲート内に独りぼっち
こうして字面にすると心が弱い人によってはパニックになってもおかしくないなと、ある意味ではサイレンススズカの行動はわからなくもないなと思ってしまうのですが、みなさんはどうでしょうか?
18.弥生賞①
「サニー、緊張はあるかい?」
「少し緊張はありますが、大丈夫です」
「そうか。とりあえず、今日はあくまで前哨戦で勝ち負けは二の次だ。やれることを全てやろう!」
「はい!行ってきます!」
元気な返事でサニーはゲートへと向かう。
あれから今日までいくらか状態は上向いた。
少なくとも以前のような気負いや萎縮は見られない。勝てるかどうかはともかく無様なレースにはならないだろうと思えるくらいには持ち直せた自信が宮下にはあった。
サニーを送り出し、観客席の選手関係者席へと向かう。
席を見渡すとそこには錚々たるトレーナー陣がいる。
ほぼ全員が宮下よりも勝ち星を上げていて、重賞レースもいくつも勝っているような者ばかりだ。
それに比べて自身は重賞未勝利の身。
サニーには自信を持てと発破をかけたが、自分も強い気持ちを持たなくては実力者ばかりが集うクラシック戦線では戦えないなと宮下は思った。
「宮さん!中央の重賞で戦うのは久しぶりですね!お手柔らかにお願いしますよ」
「おお、館野君か。こちらこそ、よろしく」
声を掛けてきたのは3年後輩の館野英弘。
過去には逃亡者ツインターボや女傑ヒシアマゾンなどの人気選手を担当した中央屈指の個性派トレーナー。
館野は中央の上位リーディングに名を連ねるトレーナーにしては珍しく、ローカルレースを中心に活動するトレーナーで、その縁から宮下ともよく会話する仲だった。
「宮さんの担当、なかなか人気集めてるじゃないですか。クラシックの一つくらいはいけるんじゃないですか?」
ニコニコとした表情で館野が宮下を煽てる。
「やめてくれ。中央の重賞に出ることすら久しぶりなんだ。クラシックを勝つことなんて意識できるわけがないだろ」
わかりやすいお世辞に宮下ははっきりとした否定をする。
「そんなこと言って、いつも僕を福島で出し抜くじゃないですか。あー、怖い。やっぱり何考えてるか悟らせないから怖いですね『捲りの宮下』さんは」
「その言葉をそっくりそのまま返すよ。『逃げの館野』君」
お互いが冗談を交えつつ、冷やかし半分でお互いを持ち上げる。
『捲りの宮下』 『逃げの館野』
2人がこの様に称されるのには理由がある。
両者ともに福島レース場を得意とし、使用する戦法は真逆ながら、どちらも大胆なレース運びで鮮やかに勝ち切ることから付けられた二つ名だ。
ローカルを主戦場とするトレーナーや一部のコアなローカルレース好きのファンにとって、福島開催のレースに宮下か館野の担当する選手が出場するということは一種の楽しみであり、2人の担当がぶつかるレースとなれば、より注目される夏シーズンの風物詩と認識されている。
「まあ、そんな冗談は置いておいて、宮さんはあのサイレンススズカをどう思いますか?」
館野が話題を変える。
「ああ、彼女のスピード能力はずば抜けているな。中距離レースをあのスピードで走り切られたら誰も勝てないだろう。ただ、彼女の走りはまだまだ未完成な部分が多いと感じるな」
宮下は淡々とサイレンススズカを評す。
実は宮下はサイレンススズカのトレーニングを偵察しながらある考えに至っていた。
スピード能力は圧倒的だが、気性面に問題があるのではないか?
彼女は単走トレーニングでは抜群のタイムと躍動感のある走りをするが、併走トレーニングとなるとタイムはともかくとしても走りに躍動感がなくなってしまうことが多かった。
担当トレーナーもそれを気にしてか、アドバイスや指示を出すものの彼女の走りに変化や改善は見られず、場合によってはトレーニングメニューを変更してしまうことさえあった。
こういった彼女たちのちぐはぐな関係を目の当たりにしたことで、宮下はサイレンススズカがまだまだ発展途上であり、気性面にムラがある可能性を推測していた。
「宮さんもそう思いますか。僕も同意見ですね。だからですけど、あのデビュー戦だけでダービー候補と持ち上げるマスコミやファンは気が早過ぎると思います」
館野も宮下の意見に賛同する。
「全くだ。ちなみに館野君はあの子のデビュー戦の逃げをどう見る?」
宮下が"逃げの館野"に意見を求める。
「うーむ。逃げ戦術家としてはあの走りを『逃げ戦術』とは呼びたくないですね。あれは"ただ走ってるだけ"です。あんなレース運びが通用するのは条件戦までですよ。駆け引きやペース配分を考えないで勝てるほど重賞レースは甘くないですから」
館野が先ほどまでのニコニコした表情から一変して真剣な目つきで回答する。
「なるほどな。まあ、逆を言えば、重賞レースで同じ走りが出来るのなら本当の本物だろう。とりあえず、今日はあの子の真価が問われるレースになるな」
「ええ、そうですね。今年のクラシック戦線には去年に比べてデビュー戦から大物感のある子がいませんから、ああいうスター候補を僕は歓迎します。まあ、だからといって楽には勝たせませんけどね」
館野はレースに対しての意気込みを語る。
「相変わらず、怖いね。また何か企んでいるのかい?」
宮下が眉を顰めながら館野に問う。
「"企んでいる"とは人聞きが悪いですよ。レースに"彩を加える"と言ってください」
館野がしたり顔で反論する。
「よく言うよ、全く」
おーっと、誰かが扉の閉められたゲートから出ようとしています。あれはサイレンススズカ選手でしょうか?何かトラブル発生でしょうか?
驚く場内アナウンスに会場の全員が反応し、ゲート付近に観衆の注目が集まる。
「宮さん!これは面白くなってきたんじゃないですか?」
予期せぬハプニングにニヤける館野が宮下に話を振る。
「また、悪い顔をして。まずは選手の心配だろ?」
あんまりな表情をする館野を宮下は窘める。
「心配はしてますよ。でも、勝負の行方がわからなくなったのも確かでしょう?僕らにも勝機が生まれたんですから喜ばしいことですよ」
「まあ、それは…そうだな…」
館野の指摘に対して、指導者としての感性を持ちながら、勝負師としての感性に胸が躍る自分がいることは認めざるを得なかった。
19.弥生賞②
「サイレンススズカさん!閉められたゲートから出るのは反則となります!ゲートから出ないでください!」
近くにいた係員が突然ゲートを出ようとするサイレンススズカを慌てて制止する。
「ごめんなさい…。でも、胸が苦しいので、出来れば出たいです…」
サイレンススズカは胸を押さえながら係員に訴える。
「スズカ!一体どうしたの!?大丈夫?」
サイレンススズカのトレーナーが大慌てで駆けつけ心配する。
「トレーナーさん。ごめんなさい。気分が悪くなってしまって…。一度外に出してもらえませんか?」
ゲート内でうずくまるサイレンススズカが扉の隙間からトレーナーに助けを求める。
「今ゲートを出ますと規定により身体検査の後、大外枠発走のペナルティとなりますが、どうされますか?」
近くにいる係員がペナルティの注意をしつつ、トレーナーに決断を迫る。
「スズカ…どうする。ペナルティを受けてでも、外に出たい?」
トレーナーが渋い表情でサイレンススズカに問う。
「ごめんなさい…。かなり辛いので、出させてください…。迷惑をかけてごめんなさい…」
苦悶の表情でサイレンススズカはゲートを出ることを申し出る。
「係員さん。彼女を一度ゲートから出します。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
「わかりました。ではゲートを一度開けます。身体検査をして異常がなければ大外枠発走でレースに参加となりますが、異常が見られた場合は発走除外になることはご了承ください」
「わかりました…」
係員とトレーナーのやり取りが終わり、サイレンススズカがゲートから出る。
[大丈夫かな?あの子。どうしたんだろう?]
サニーはその光景を遠くで眺めていた。
「サニー!大丈夫か?何があったんだ?」
「あっ、トレーナーさん。何があったかは私もよくわかりません。ただ、あの子がゲートに入ってしばらくしたら、ゲートの下から出ようとしたんです。そしたら係員さんとかトレーナーさんとかが集まってきて騒ぎになりました」
「そうか…。あの感じだと、観衆の目線や歓声に当てられて緊張や恐怖心がピークに達したんだろう。デビュー戦なんかとは注目度が違うんだ、繊細な気質の子ならそうなっても仕方がないだろう」
公式戦のレースには観衆の目がある。
観衆の目は多大な緊張やプレッシャーを感じさせる。大人のプロアスリートですらそうなのだから、年端も行かない少女たちにとって大変なことなのは明白だ。
加えて、ウマ娘は人間の何倍もの聴覚を有する。目線だけでなく、歓声もまた彼女たちにストレスを与えるとなれば、生半可な精神力では到底耐えられないものなのだ。
「なかなかの騒ぎになってしまったが、サニーは特に何もないかい?」
「はい。私は何もありません。大丈夫です」
「ならよかった。さて、本命の1人にアクシデントがあった。だからだが、このレースはいいスタートが切れれば逃げを打とう。アクシデントの影響で様子見に切り替える選手もいるはずだ。それを逆手に取っての積極策で上位を狙おう」
「わかりました!やってみます!」
力強く答えるサニーの目には迷いはない。
サイレンススズカ選手の身体検査が終わりました。異常は見られなかったため、大外枠からの発走となります。
一度ゲートを離れた選手も係員の指示に従い、再度ゲート入りをしてください。
「勝てるチャンスは十分にある。自信を持って行こう!」
「はい!」
サニーがゲートに再び向かい、宮下もスタート地点から離れていく。
[サニーは思ったよりも冷静だ。これなら良いレースが期待できるかもしれない。ただ、戦局の予想が難しいことに変わりはない。レースの流れを見ながらサニーが的確な判断ができるかどうかが勝敗をわけそうだ]
まだざわつきが収まらない中山レース場。
波乱含みの弥生賞がまもなく始まる。
20.弥生賞③
「サニーブライアンさん!ゲート入りをお願いします!」
係員に促されサニーがゲートへと入る。
「ふー、よし!」
大きく深呼吸をして集中する。
観客席のざわめきがまだ収まらず、ターフ上にもいくらか混沌とした雰囲気が残っているが、自分には動揺はない。何故なら、この混沌とした状況こそが自分にとっては千載一遇のチャンスなのだ。
もともとレース前にサニーは宮下に言われていた『荒れた展開になればサニーの持ち味が出せる』と。今、まさにその状況が目の前に起きている。
弱気になり、戦う前から諦めていた自分を励まし続けてくれた宮下の期待に応えるためにも何としても勝ちたい。
不安がないわけではない。
それでも今はただ勝利だけを目指す。
態勢完了
ガシャン
うわー
ゲートが開いた直後に会場からどよめきが起こる。
さぁ、ゲートが開いて弥生賞がスタートしましたが…
あーっと、大外スタートのサイレンススズカが大きく立ち遅れました。
このへんが1戦のキャリアか!
これは大きなビハインド!
大きく遅れて最後方からのレースになりました!
サイレンススズカ痛恨の出遅れ
[ああ、あの子はもうダメだ]
会場のざわめきに反応してサニーが後方を流し目で確認する。
本命に起こったアクシデントを見てサニーは改めてレースの難しさを思い知る。
先頭は立ったのはスーパーマクレガー。
続いてポートブライアンズ、メイショウモトナリ。その外をついてゴッドスピードといった態勢になります。
[うっ、みんな速い…。スタートは失敗しなかったけど、先頭を取れなかった…]
苦手なスタートを無難に決めたが、ダッシュがつかず第1コーナーを4.5番手で回る。
[位置取りは仕方がない…。慌てずに悪い位置にならないように待機しよう…。あとはペースだけど…]
コーナーを回りながらサニーは位置関係とペースの確認に入る。
[先頭は取れなかったか…。相変わらずテンの仕込みが恐ろしく上手いな館野君は…]
先頭を取ったのは館野の担当のスーパーマクレガー。『逃げの館野』の異名に違わない鮮やかなスタートダッシュに宮下も舌を巻く。
隊列が落ち着き、向正面の直線に入る。
サニーの位置は4番手。
内に入っているので距離のロスはないが、位置関係に気をつけないと閉じ込められる可能性もあるため、微妙な位置だ。
[うーん…。ペースが遅い…。もう少しペースを上げたいけど、前の子たちに動く気配がない…。どうしよう…]
レースも半ばに差し掛かり、全体のペースをサニーが察知する。
自分のペースでないことはわかっているが、位置的に流れに身をまかすしかない状況にサニーはヤキモキしている。
[前半1000mが62.2秒か…。まずいな…。想定以上のスローペースな上にサニーの位置取りがいいわけでもない…。抜け出せるタイミングを見計らわないと入着すら出来ない状況だ]
実際に先頭を走るスーパーマクレガーはペースを上げず、むしろ13秒台のラップを刻むほどにスローな流れを作り出している。
[このままだと決め手勝負になる。3コーナーあたりで早めに仕掛けて欲しいが、サニーは気付けているだろうか?]
レースが始まってしまえば、あとは担当自身の判断を見守るしかない。トレーナーとして長い経験を積んでいるが、勝負所で苛まれる緊張感は今だに慣れないものだ。
[もうすぐ3コーナー…。前の動きを見極めよう。空いた瞬間に抜け出さないと私に勝ち目はない…]
宮下の想いが伝わったのか、サニーもここがターニングポイントと踏んで抜け出しの準備を測る。
すると3コーナー手前で3番手を走っていたポートブライアンズが失速してきた。
[今がチャンス!行くなら今しかない!ここで抜け出してスパートをかける!]
それを見たサニーはすかさずペースを上げ、先頭を奪うべく、進路を確保する。
[よし!いい判断だ!このまま抜け出せば…!?]
うおー
いい展開に喜んだのも束の間、サニーの背後から忍び寄る人影に会場から歓声が沸き起こった。
21.弥生賞④
さあ、外目をついてスーッとオレンジの体操服ランニングゲイル、いい脚で上がってきた!
ランニングゲイルが一気に捲る!
勝負所と見たサニーがペースを上げようとした瞬間に大外から一気に捲る選手がいた。
ランニングゲイル
天才・奈瀬文乃が送り出す、今年の期待選手。
スローペースで流れる展開を見越し、向正面の直線から一気にスピードを上げてあっという間に先頭を奪う。
[やられた!先手を打たれた…。あの動き方は完全に狙ってのものだな。さすが奈瀬君だ…]
展開を完全に見切り、担当に的確なタイミングを伝えていなければあれ程の大胆な仕掛けは出来ない。天才の異名をとる奈瀬の手腕が光る絶妙な采配に宮下は舌を巻く。
[えっ?私よりも早く仕掛けてる!?このまま持つの?って、速っ!まずい、行かないと離される!]
ランニングゲイルの速い捲りにサニーは驚愕しつつもギアを入れ替える。
おーっと、早くも来ている!サイレンススズカも来ている!
そして、エアガッツも押していく!
ランニングゲイルの後方からサイレンススズカ、一番人気のエアガッツも押し上げてきて、いよいよ先頭争いが激しくなっていく。
[後ろから来た!まずい、囲まれ…。あっ、空いた!]
エアガッツが押していくが…あっーと、前が詰まったエアガッツ!
後方勢の押し上げでサニーの進路が塞がれかけた瞬間に前を走るメイショウモトナリが急激な失速をする。
その失速は窮地に陥りかけたサニーにチャンスを与え、勢いに乗るエアガッツに不利を与える。
願ってもないチャンスにサニーはスパートをかけて空いたスペースに体を捻じ込み、2番手に押し上げる。
ランニングゲイル!ランニングゲイル!
まだ4バ身のリードがある!
ここから大きく羽ばたくか!
最終コーナーを回り2番手集団が直線を向き始めた頃、先頭のランニングゲイルはただ1人だけ、独走状態に入る。
[ウソでしょ…。先頭の子、全然落ちない…。あんなの追いつけない。でも!せめて2着以内は!]
勝利を諦めざるを得ない程につけられた先頭との絶望的な距離。それでも次へ繋げるためにサニーはポイント獲得の為に必死に脚を伸ばす、が…
残り200!
ここで外目をついて10番オースミサンデー!
サニーがバ群を抜け出し、単独2位に踊り出ようかというところで大外からオースミサンデーが強襲する。その脚色は素晴らしく、追い縋るサニーを一瞬で抜き去る。
[あぁ〜、ダメだ…。あの子にも追いつけない…。やだ…負けたくない…]
諦めたくない気持ちはあるが、体がついてこない。前を行く2人をただただ見守るしかない自分の弱さに打ちひしがれながら残りの50mを走り抜ける。そして…
サイレンススズカは伸びない!
エアガッツも伸びない!
勝ったのは、ランニングゲイル!!
そして、2着にオースミサンデー!
弥生賞
サニーブライアン
3着
初挑戦のGⅡは3着に終わった。
22.得られたもの
[3着か…。この難しいレースをよく頑張ってくれた。勝てなかったとはいえ、褒めてあげないとな…]
皐月賞優先出走権の獲得
サニーには明確に伝えなかったが、宮下は優先出走権の獲得がこのレースの目標だった。
結果としてサニーは3着に粘り、宮下の期待に応えてくれた。
負けたとはいえ、下を向く敗戦ではない。
突然のアクシデントに戦局の読めないレース展開。この難しいレースを捌き切ったこと自体がサニーの成長の証と思うと宮下にはある程度の満足感があった。
「宮下さん。ご無沙汰しています。今日はありがとうございました」
声をかけられ振り返るとランニングゲイルの担当の奈瀬が立っていた。
「ああ、奈瀬君か。こちらこそありがとう。強かったな君の担当は。それに流石の戦局予測だった。あれ程のレースをされては僕にはノーチャンスだった」
宮下と奈瀬は親しい仲ではないが、お互いに戦術理論に注目していたこともあり、研修会や合同練習などで一緒になることがあるといくらか意見を交わすことがあった。
「いえ、作戦が上手くハマっただけです。それにこの作戦は宮下さんの福島での捲り戦術を参考にして作ったものですから、ある意味ではあなたに勝たせてもらったようなものです」
そう言う奈瀬の言動は丁寧な言葉遣いながらとても堂々としている。
「相変わらず、謙虚だな。しかし、天下の奈瀬君に参考にしてもらえるとは光栄だ。僕も君の戦術を参考に次は勝てるように努力するよ」
「ええ。次もいいレースをしましょう。ではまた皐月賞で」
そう言って奈瀬は立ち去った。
現役No.1と言われながらもこの風格にこの謙虚さ。これで自分よりかなりの歳下なのだから恐れ入る。天才の名は伊達ではないなと改めて思った。
「宮さん!惜しかったですね。宮さんのところの子」
続いて声をかけてきたのは館野だった。
「よく言うよ。君の担当に蓋をされ、ペースも握られた。何一つ思い通りにならなかったのに惜しいもなにもないだろ」
負け惜しみとはわかっているが、難しいレースにした張本人を前に宮下は物申したくなった。
「言っときますけど、狙ってはいませんからね。たまたま、ああなっただけですし、結局ウチの子は惨敗ですからね」
「わかっているよ。しかし、君とやるとなるとアドリブでは限界がある。今日という日は本当に巡り合わせが悪い。恨むならそこだ」
「まあ、そういうことにしてください。しかし、彼女いい子ですね!あの後方勢の末脚から逃げ粘れたんですから素晴らしいですよ。お世辞抜きでクラシックワンチャンありますよ!」
館野がサニーを賞賛する。
「どうかな…。まあ、成果も成長も見られているからね。あと1ヶ月でもうひと伸びあればいけるかもね」
「影ながら応援していますよ。ではまた、やることがあったらよろしくお願いします」
そう言って館野も立ち去った。
[さて、サニーを迎えに行かないと。しかし、本当によく粘ってくれた。勝てなくとも収穫はあった。皐月賞はより万全に狙いに行きたいな]
負けたとはいえ、手ごたえはあった。
サニーの成長に喜びを噛み締めながら、宮下はターフで待つサニーの元へと向かった。
[ハッ、ハッ、ハッ…]
ゴール板を過ぎ、スピードを緩める。
息遣いはまだ荒く、過酷なレースの余韻が体に残る。
1着 11 3
2着 10 3.1/2
3着 4 クビ
サニーは脚を止め、振り返り、掲示板に灯る着順を確認する。
[6バ身と½…。遠い…。あと3ヶ月で私はこの差を埋められるの…?]
現実が理解できるとより自分の無力さに打ちひしがれる。
着順ももちろんだが、何よりも先頭につけられた差が悔しかった。
何故なら、この着差はあのダービーでルナスワローがつけられた差と同じだからだった。
当時、観客席からダービーを観ていた自分からすれば、着差がどうであれ、ダービー2着ということがとても誇らしかったが、ルナスワローは当時からこう言っていた。
私の夢が叶ったあのダービーは私の一生の宝物。
でも、6バ身もつけられてしまったこと自体は悔しいよ。
今、サニーはその言葉の意味を理解する。実際に同じ差を"競技者"としてターフ上で突きつけられると、その距離が果てしなく遠く感じてしまい、入着出来たとはいえ、とても誇れるものではないからだ。
[これが今の自分の実力…。まだ前哨戦なのに…。こんな実力で私はダービーに出れるの…?]
加えて今回のレースが3着だったこともサニーにとってはショックだった。
何故なら、ルール上3着ではポイントの加算にはならないからだ。
しかし、次に控えるのは皐月賞。
今日の結果を見れば皐月賞で2着以内など不可能と言わざるを得ない。そうすると皐月賞の次のレースで確実に結果を出すしかないが、一度きりのチャンスを確実にものにできる保障はない。
弥生賞前に一度は払拭できた不安という暗い影が再びサニーの心を覆い始めていく。
「サニー!お疲れ様。いいレースだった。よく頑張った」
「えっ?あっ、えっ?」
不意に声をかけられたサニーが驚く。
「あの難しいレースをよく粘ってくれた。3着とはいえ、サニーの成長が見れたことと皐月賞の出走権が取れたことは大きな収穫だ」
宮下は笑顔でサニーを讃える。
「あっ、そ、そうですか…」
褒められたサニーは戸惑いの表情を見せる。
「どうしたんだい?疲れたのか?顔色が悪いが…」
「そうですね…。大変なレースだったから疲れたのかもしれません…。とりあえず、ダウンしてライブの準備をします…」
そう言ってサニーはそそくさと控え室の方へと向かって言った。
[サニー…。どうしたんだ…。まだ何か悩んでいるのか…]
自身と対照的な反応をするサニー。
宮下はその表情を見て不安に駆られる。
運命のダービーまであと3ヶ月と迫った春の日の出来事だった。
作中で主人公のトレーナーが異名で呼ばれていますが、たぶん実際は言われてません。
話相手のトレーナーのモデルになっていた方は実際に呼ばれていたようなので、話を面白くするためにそれに合わせて捏造しました(笑)
ただ、モデルの方が実際に福島競馬場でかなりの成績を挙げていたことは本当のようで、同僚の方々からも絶賛されるくらいに素晴らしい技術があったようです。
サニーブライアンを評した際に言われる『フロックでもなんでもない』と言う言葉はこの方にも言えることで、そう考えるとこのコンビの結成と成功は既に約束されていたように感じますね。