ナエナちゃんが行きたいと言った草原とは、幼少時代よく2人で遊んだ思い入れのある場所だ。それと同時に、俺が3年間家に引きこもった原因の場所でもある。ゴブリンたちに追われ、死闘を繰り広げた負の思い出は今でも肌で覚えている。あの時、感じた恐怖や不安も。ナエナちゃんの言葉でより鮮明に思い出してしまった。
「い、嫌だ……。あ、あそこ……だけは、絶対に……行きたくない……」
声だけじゃあなく身体も震え始めて、抑えるように両手で自分の両腕を掴む。足も竦んでしまい、立っていられるのがやっとだ。
「……本当に、無理?」
「もう……あそこには……行きたくない……」
流石のナエナちゃんでも俺の様子を見て少し遠慮しがちな返答をした。
ナエナちゃんのおかげで多少気分は良くなりつつあるが、所詮その程度。それでも家の敷地内で“草原”という名を耳にしただけで身震いしている。今こんな状態であそこに向かったら、どうなるか分からない。仮に草原に向かったとして、俺が負の思い出に見苦しい姿を見せてしまうだけなら問題ない。それで誰かに実害を与えるわけではないから。だけど、今想定している中で一番の最悪なパターンは、あの時のように発狂して無意識に【狂人化】を発動してしまうこと。そうなれば俺は一体誰を攻撃するのだろうか。その答えは必然的に、近くにいる人、もっというなら共に向かうナエナちゃんになる。
もう、嫌だ……。これ以上誰かに迷惑をかけるのは……嫌だ!もし本当に発動してしまって、ナエナちゃんに襲い掛かったら……。
またも悪い妄想の連鎖をしてしまう。だが決して起こりえない事ではない。
湧き上がる恐怖は顔を伏せてしまう。ナエナちゃんが一体どんな表情になっているのか分からないが、今はただこの感情を押さえつけたい。
「……おばさんにね、教えてもらったんだ。数年前、アスタくんが草原でゴブリンと戦ったこと」
やはり聞いていたのか。
「まさか、あの草原にモンスターが出るなんて。しかも1体や2体とかじゃなくて集団でいたんでしょ?正直に言って驚いちゃったよ。でも、それよりも驚いたのはね、アスタくんがそのゴブリンたちと戦ってペレーハ村を護ってくれたことなんだ」
「……護ってない。寧ろ危険な目にあわせてしまった。俺が余計なことをしなければゴブリンたちは森から出て来なかった」
「でもいつか出てきたと思う。もし、その時がアスタくんじゃなくて小さな子供やよぼよぼの老人だったら、間違えなく殺されていた。アスタくんは村の人たちの為に、モンスターを倒してくれた」
「それは……結果論だ」
ナエナちゃんは褒めてくれるが、俺自身そんな実感はわかない。あの日に起きたことは全て偶然、奇跡といっても良い程に都合がよかった。ただ、それだけのこと。
「アスタくんは、何で草原に行きたくないの?ゴブリンが出たから?怖い目にあったから?殺されかけたから?」
それだけじゃない。俺自身が……また発狂するかもしれなくて怖いからだ。自分が自分でなくなるかもしれないから怖いんだ。
そう思いながら顔を少し上げてナエナちゃんの方を見ると、俺の返答を待つことなく彼女は凛々しい表情を見せていた。
「大丈夫……私がいるッ!草原だけじゃない、アスタくんが危ない眼にあったら助ける!ゴブリンだろうとドラゴンだろうと、絶対にッ!!」
自信もって胸を張るナエナちゃん。なんとも彼女らしい大胆な宣言。
ただの言葉、口だけなら何とでも言える。そう思えるのに何故か俺は、ナエナちゃんなら本当にそうしてくれそうだと信用できる。以前までだったら絶対にそう思わない心境に少し驚いている。
「……もし俺の様子がおかしくなったら……どうする?恐怖のあまりに発狂して、見境なく暴れたりしたら?」
「そんなの止めて助けるに決まっているじゃん!」
分かっていた、ナエナちゃんがこう返答してくれるのを。分かっていて敢えて聞いてしまった。予想していたとはいえ、こうして口にしてくれると不思議と嬉しい気持ちになる。それも相まって、さっきまで抱いていた草原に対する恐怖心も薄れてきた気がする。
「それで……どう?また一緒に、草原に行かない?」
◇
結局、俺が折れてしまいナエナちゃんと共に家を出た。昨日の様に担いで運ぼうかと彼女に提案されたが、あんな苦痛は二度も味わいたくはないから丁重に断り、普通に歩いて草原へと向かっている。
昼前のペレーハ村の住民は、曜日関係なく農作業や川の掃除、洗濯や買い物など多くの者が外出している。そのせいで住民たちとよくすれ違い、二度見などされて視線が集まる。俺の事情をある程度は知っているからか、人が人を呼んで一気に注目の的になってしまう。しまいには遠巻きで小言も聞こえてくる。
「あれって……もしかしてアスタくん?」
「うっそ、もうあんなに大きくなったの!?」
「懐かしいわね……。顔を見るのは何年ぶりかしら」
「そういえば昨日も外に出ていたな。もう大丈夫なのか?」
「ママ~、あの人ってアスタのお兄ちゃん?」
てっきり俺のことなんか忘れられていると思っていたが、意外にも住民たちから俺の名前が出てくる。昨日の件を除けば数年ぶりの外出だというのに。どうやらペレーハ村で唯一の花屋ということもあり印象的に覚えられているのだろう。当然、俺もすれ違った住民たちの顔は全員覚えている。だけど、今更どんな反応をすればいいのか分からない。何人か遠くから手を振ってくれるが、俺はそれを無視して黙々と草原へと向かった。
「……すごいね、アスタくん!歩いているだけで、こうも注目されるなんて!案外、スター性があったりして?」
「……ただの悪目立ち。……揶揄わないで」
どちらかというと隣にいるナエナちゃんも原因の1つだろう。
普段ペレーハ村では全く見ることのない、片手剣を装備した若者。これだけでも十分に目立ってしまう。しかし、少し意外なのは小さな子供たちはともかく昔から住んでいる住民たちは、その若者がナエナちゃんだっていうことに気付いていない様子だった。どうやらあまりの成長に彼女だって認識できないみたい。彼女が村から出て8年も経っている、仕方がないと言えば仕方がないのだろう。
だとしたら……傍から見たら、引きこもりの俺が見知らぬ美女を連れて散歩している様に見えているってことか?しかも武器や防具を装備した人を。……怪しさ満点だな。人によっては気味悪がられるだろうな。変な噂が立たなきゃいいけど……。
「アスタくん、顔色が優れないけど大丈夫?やっぱり私が背負っていこうか?」
「いらない、大丈夫。速く行こう」
こんなに視線が集まっている中そんなことしたら、余計に住民たちに不信感が抱かせてしまう。これ以上、この視線には耐えられない。少し歩くペースを速めて、急いで草原へ出られる西門へと向かう。こんなことなら、もう少し身なりを整えておくべきだったかも。
西門の前に着くと、今日の門番と目が合って声を掛けられる。どんな偶然なのか、その門番はゴブリンと戦ったあの日と同じ人だった。門番も近付いて俺だと認識すると驚愕し、まるで病人を相手する様に身構える。
「お前……まさかアスタか?」
門番の問いに小さく頷く。
「そっか、いつの間にかこんなにも大きくなっていたんだな!元気にしていたか?えっと……後ろのお嬢さんは?」
門番に指摘されるとナエナちゃんは笑顔を浮かべながら手を振る。
「やっほ~、お久しぶりです!私ですよ私、ナエナ!」
「えっ、もしかして……あのナエナちゃんか!?はぁー、驚いた……。村に帰って来ていたんだ」
ナエナちゃんの自己紹介に当然の反応を見せる。やはりこんな反応を見せるのが普通なのだろう。ナエナちゃんと門番はそのまま懐かしむ様に会話を始める。暫し話している2人の姿に俺も子供の頃、よく草原へ遊びに行っていた時を思い出す。
「2人とも、また昔みたいに草原に行くのか?」
「うん、そうです!久々に見たくなっちゃって!」
「そうか。……アスタももう一度、草原へ行くんだな?」
何か意味深な口調で話しながら門番は再び俺の方へ見る。
同じことを思ったナエナちゃんは顔を顰める。
「……アスタくんが草原に行っちゃダメな訳でもあるの?」
「いいや、全く!また草原に来てくれて嬉しいんだ……!あの出来事が切っ掛けで、アスタくんの生き方はかなり変わった。正直、もう二度とこの門の前に姿を見せることはないかと思っていた」
門番の言う通り、俺自身も今日まで西門に近付こうとすら思わなかった。ナエナちゃんという共に来てくれる存在がいなければ、恐らく一生ここに来ることはなかった。
「こうしてまたお前をここに通せる日がくるなんてな……。しかもあの日も、今日も、俺が担当に時に。ちょっと嬉しくてな」
「そういえば私たちが遊びに来るときも、いつもおじさんが門番していましたね!」
「アッハッハッハ!まあな。もう趣味みたいなもんだ。ほらっ2人とも、せっかく久々の草原なんだ!こんな所で話すより、また昔みたいに草原で遊んできな!」
「はいっ!アスタ、行こう!」
まるで昔の会話を再現したかのような会話の後、門番に小さく頭を下げてナエナちゃんの後を追う様に西門を潜る。その先には数年ぶりの、あの恐ろしい記憶が刻み込まれた草原が眼に入る。太陽に光で緑色の鮮やく草は風と波打つように揺れ、建築物はなく広々と見られる景色に悪感される。
一応謝ってくるが、まるで反省の色が見えない。あぐらに座りなおして、立っているナエナちゃんを睨む。
「あはは……本当にごめん。……でもね、どうしてもここの景色、アスタくんと一緒に見たかったんだ。昔みたいに……」
ナエナちゃんは遠くの方を見るように横を向く。つられて俺も視線を変えると、そこには昼間の太陽に光で緑色の鮮やく草が視界いっぱいに映った。
ここは丘の上、草原を一望できる唯一の場所。そしてナエナちゃんのお気に入りの場所。
久々に見たな。……いや違う、見ようとしなかったんだ。すぐ目の前だったのに、ナエナちゃんと違って何時でも見られたのに、俺は……あの日の出来事がもう一度起こると思って、来ようとしなかったんだ……。
まるで今まで心を縛っていた何かから解かれたかのように、心は解放感と満足感で満ち溢れた。この数年間による表現できない心の傷みが和らぎ、精神的な癒しに涙ぐむ。
「アスタくん……これを見てもまだ怖い?」
ナエナちゃんは自分も静か座ってそう聞いてきた。すぐには返答できなかった。だけど1つだけ確かなのは、その問いに首を縦に振れないということ。
草原全体は風で左右に揺れる。快晴もあって少し暖かく感じる。太陽の光はそれほど強くなく視界を遮らない。この光景が、今まで感じてきたこと全てをどうでもよく思わせる。
「……ナエナちゃん」
「なに?」
「まだ……ここが好きなの?」
「好きだよ!これからもずっと!」
「モンスターが出たんだよ?しかも1体や2体じゃなく、沢山の」
「私は冒険者になったんだよ?もし出たら倒す!そして次もまた出たら倒す!アスタくんが守ったように、今度は私が守る!それぐらい好きだよ、ここが!」
ナエナちゃんが今でも草原を好んでいることはよく分かった。それに対して俺の気持ちはまだ曖昧だ。
確か俺も、この景色は好きだ。ずっと見ていたいくらい愛おしい。だけど視界の奥に見える森から、またゴブリンの集団がやってくるのではないかと妄想してしまう。またあの時の記憶を嫌でも思い出してしまう。しかし何故だろう、今その記憶を思い出しても全く恐怖や不安が蘇ってこない。実際に見ている草原の美しさが気持ちを和らげてくれているのか、それとも彼女が隣にいるという安心感を抱いているからだろうか。
昔はナエナちゃんとは接触しないようにしていたのに、今では一緒にいたいって気持ちが湧き出るなんて……。本当に人生って何がどう転ぶのか分からないな。神様に会ったり、記憶を持ったまま転生したり、自分の初恋の人と同じ顔の人と会ったり……本当に……分からないな……。
「……やっと笑ってくれた。でも何で今なの?何か面白かった?」
気持ちに余裕ができたのか、無意識に口角が上がってしまったようだ。数年ぶりの人前で見せる笑顔。何故か気分も少しずつ良くなっている気がする。
「なんでだろう……俺も分からない」
「何それ、変なの。……ふふっ」
お互い腰を下ろして景色を眺めながら休憩した後、昨日と似たような談笑を始めた。王都バリエンスでの出来事、バリエンス学園での出来事、冒険者になってからの出来事など、この草原の美しさを見ながらナエナちゃんからの話題は途絶えることなくずっと話し続けてくれた。
「へぇー、貴族の人からの求婚されたんだ。……すごいね」
今は学校の思い出で、ある男子生徒に告白されたことを話してくれている。話すというより、その口調は愚痴に近い。
「全っ然嬉しくない!本当にしつこかったんだよ!断っても何度も何度も“妻になれ!”って言われて、本当に剣の訓練に集中できなかったんだよ!」
相手はなんでも妖精族の貴族らしく、ナエナちゃん曰くかなり偉そうで嫌な奴だそうだ。
「今もその人に求婚されているの?」
「ううん。確か5年生の時だったっけ?そいつから決闘を仕掛けられて、その時にボコボコにして「もう2度と関わらないで!」って言って約束してもらったの。だから卒業以来、約束を守って私の前に現れなくなった」
その決闘……絶対に観客とかいたよね?観衆の中でボコボコにしたんだよね?その人、約束を守っているんじゃあなくて……多分、プライドとかズタボロにされてもう会う気力がなくなったんだろうな。……ヤバい、容易に想像つく。
ナエナちゃんがその男子生徒をボコボコにする光景を想像すると、思わず苦笑いをしてしまう。彼女の怒った様子を見たことがないはずなのに、何故かその時の光景を思い描けた。
「ねぇねぇ~、次はアスタくんの話し聞かせてよ!」
「俺の?」
ずっと喋りっぱなしで疲れたのか、今度は俺に質問してきた。
「いいけど……何が聞きたいの?」
「そうだね……。もし良ければだけど……ゴブリンを倒した時のことを教えてほしいな~……なんて」
やはり冒険者だからか、ただの村人がどうやってゴブリンの集団を討伐ができたのか気になるのだろう。己の好奇心よりも気遣いが少し上回ったせいか、ナエナちゃんの態度が遠慮しがちになっている。
あの時の記憶を思い出しても恐怖や不安はもう感じない。ナエナちゃんが今までの出来事を話してくれたように、次は俺の出来事についても語ろう。
「……うん、別にいいよ」
「ええ、いいの!?」
一気に笑顔に戻った……。そんなに気になっていたのか?まさかそこまで喜ぶとは……。さっきに貴族をボコボコにしたと言い、もしかしてナエナちゃんって戦闘狂に目覚めた?……もしそうなら今後自分の言語には気を付けよう。
「まずはどこから話そうか……。そうだな……まずあそこの森、見えるでしょ?村の住民からあの森でゴブリンが出たって聞いて、俺は1人で確認しに……んっ?」
説明で草原の奥にある森に指をさすと、森からうっすらと人影が見えた。ここからかなりの距離があるせいで良く見えないが、間違いなく何かいる。しかも森から出てきたのは1体だけではない。その者をついて行くように後からぞろぞろと森から現れてきた。その光景を見て思わず立ち上がった。
「……アスタくん、あれって……」
俺に続いてナエナちゃんも立ち上がる。
「う、うそだ……なんで……」
既視感ある小柄、緑色の体、遠くても分かる、分かってしまう。間違いない……森から出て来たのはゴブリンだ。その後ろに続いていたのは他のモンスターたちだった。
とても統一できるとは思えない多種類のモンスター一行は、真っ直ぐペレーハ村の西門へと向かって歩み寄ってきている。
何で……なんでなんでなんで!?あの時、倒したのが全部じゃあなかったの!?しかも今度は他のモンスターたちまで引き連れてきた!
ヤバい……ヤバいヤバいヤバいヤバい!!どうする……どうする……!?
身体が震え始めて、両手で自身の両腕を掴む。ステータスウィンドウを見るまでもなくパニック状態になっている。あの集団を見て、3年前の出来事の恐怖を思い出し、どうすればいいのか分からなかった。
「アスタくん……!」
ナエナちゃんに名前を呼ばれ、身体を震わせながらゆっくりと彼女の方へ向く。すると彼女は俺の頬に両手を当てる。
「さっき私が行ったこと覚えている?“もし出たら倒す!そして次もまた出たら倒す!アスタくんが守ったように、今度は私が守る!”って」
俺の眼を見てそういった。ナエナちゃんの瞳はこんな状況でも全く揺るいでいない。真っ直ぐだった。彼女は両手を離してモンスターの方へ歩き出し、腰にある剣に手を添える。
「えっ、ちょっ、ナエナちゃん……!?」
「アスタくん、見てて。私を……冒険者になった私を……!」
振り向いてそう言うナエナちゃんは笑っていた。その表情は虚勢でもただの勢いでもなく、自信に満ち溢れていたものだった。