レンタル彼女【BanG Dream!】   作:山神薙人

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Canto Ⅶ 松原花音と水族館デート②

 

 

 インテリアに文房具、キッチン用品に日用雑貨など、たくさんのお店を回って、荷物にならない程度にショッピングを楽しんだ僕たちは、水族館へと足を向けていた。

 

 通行量の多さからか開きっぱなしになっている自動ドアを抜けて、ビルの4階部分に広がる屋上庭園のような場所に出ると、早速、ギラギラした太陽に出迎えられる。

 

 太陽の熱烈な歓迎を受けた僕たちは、慌ててビルのそば――屋根つきの遊歩道に避難した。劇的な変化があるわけではないが、直射日光が遮られるだけでもだいぶ涼しい。これを通って水族館に行けるという構造になっているのはかなり有り難かった。

 

 万が一にもはぐれないよう松原さんの手をしっかり握りながら歩いていると、ようやく本日のメインである水族館が見えてきた。

 

 エスカレーターを昇り、ドアをくぐって、広い受付スペースへと足を踏み入れる。

 淡いブルーの間接照明のみで照らされた薄暗い館内は、砂漠のような屋外から一転、冷蔵庫の中に入ったんじゃないかというくらいキンキンに冷えていた。

 

 暴力的なまでに冷えたエアコンの風を全身に浴びて、僕の身体から急速に汗がひいていく。隣を見やれば、松原さんもすいと目を細めてこの涼しさに浸っていた。縁側で涼む猫みたいな愛らしい表情に思わず見入ってしまう。

 

 ぱっと瞼を上げた松原さんに「どうかしました?」というような怪訝な顔を向けられて、僕は慌てて手元のスマートフォンに目を落とした。

 

 メールボックスを開いて、そこからチケットの予約ページへ。事前に買っておいた二人分のオンラインチケットが有効になっているのを確認してから、画面に写るQRコードをスタッフに提示する。

 

 無事受付を済ませた僕らは意気揚々と展示フロアへ進んだ。

 ショッピングモールがあそこまで混んでいたので、もしかすると水族館も超満員になっているかもしれないと恐れおののいていたのだが、それも杞憂だったようで、館内は思ったよりも空いていた。

 

 これなら落ち着いて楽しむことができそうだとほっと一息ついて、二人で順路通りに見てゆく。

 

 水族館の楽しみ方はまさに千差万別で、人の数だけあるのだろうが、どうやら松原さんは、一つ一つの水槽を丹念にじっくりと見るタイプのようだった。魚よりお話に夢中なカップルや、水槽の写真だけ撮って去ってゆく女子高生や、その他大勢に追い抜かれようと全く動じることなく、アクリルパネル越しに広がる海の世界をじっと観察している。

 

 今日のデートでは比較的僕に主導権があって、終始、あっちへ行こうこっちへ行こうと僕が率先して提案していたのだが、水族館に入ってからはその関係もすっかり逆転していた。僕のやることと言えば、手を引かれるままについていって、松原さんが零す感想に相槌を打つだけ。

 

 だけど、僕としてはこの形こそ、まさに理想のデートスタイルだった。何より、松原さんの表情がきらきらしているのがいい。その楽し気な表情を世界で一番近くで見ていられるというだけで僕は幸福だった。

 

 チンアナゴがひょこっと顔を出すサンゴ礁エリアに、ボニンブルーと呼ばれる小笠原の真っ青な海を再現した大水槽。

 マゼランペンギンたちの鳴き声がこだまする屋内開放型のプールの横にはちょっとしたカフェスペースもあって、そこで、名物だという白黒に渦巻くソフトクリーム――ペンギンをイメージしているらしい――を食べたりもした。

 

 場所が場所ということもあって匂いなんかも心配だったけど、水族館側で対策がされているのか、不思議とこういう施設特有の生臭さは全くなく、むしろアロマのいい香りがするくらいで快適だった。こういうところも、インターネットでおすすめデートスポットに挙げられている理由なのかもしれない。

 

 そうして水族館をゆっくり見て回って、やがて僕らは真っ暗なフロアへと行きついた。

 

 入口の遮光カーテンをくぐってすぐに気づく。そこは、クラゲのフロアだった。

 真っ暗な部屋の中には、青白い仄かな照明に照らされた幽霊みたいなクラゲたちがゆらゆらと揺らめいている。

 

 真っ赤な縞模様のアカクラゲ、でっぷり太ったオワンクラゲ、さんかくぼうしのエボシクラゲに、長い触手のギヤマンクラゲ……。

 

 様々なクラゲの水槽が並ぶ中で、しかし、一番の目玉は、部屋の三分の一を占めている大きなミズクラゲの水槽だった。

 

 ビッグシャーレと名付けられたその円盤型の水槽は人の腰くらいまでの高さしかなく、わきにある階段を上って、クラゲを俯瞰で見ることができるという珍しい構造になっていた。

 

 僕らもさっそく、階段から水槽の上に設えられたスペースへと移動して、クラゲたちを見下ろしてみる。

 

 横から眺めるとの違って、クラゲたちは皆、たぷたぷと波打つ傘を僕らめがけて開いていた。雨の日の店先でよく見る、水滴を振るい落とすためのしゃっくりみたいなその開閉運動……。その単調な動きを見ているうちに、何だか眠くなるような気さえしてくる。あるいは、これが癒されているということなのかもしれない。

 

 二人でじっとクラゲを見ているうちに、そういえばと僕は思い出した。

 

「松原さんは、どうしてクラゲが好きなの?」

 

 クラゲのイヤリングを買ったときから気になっていた僕のその疑問に、松原さんは、足元に揺蕩うクラゲを見下ろしながら「そうですね……」と答える。

 

「ゆったり、のんびり漂う感じがすごく好きなんです。見た目も丸くて可愛いですし。……それに、クラゲは……私と一緒だから」

「……一緒?」

 

 僕がそう聞き返すと、松原さんはしまったといわんばかりに気まずい表情を見せた。

 

「その……別に深い意味はないんです。そんなに楽しい話でもないですし」

 

 わたわたと顔の前で手を振る松原さん。

 でも僕は、さっき松原さんがこぼしてしまった一言――晴天の下でいつまでも残っている水たまりのようなその一言がどうしても気になった。それは、明るい彼女がふいに匂わせた憂いのようで――それを知らなければ、彼女のことを理解できないような気がした。

 

「無理にとは言わないけど……。松原さんがよければ、聞かせてよ」

「…………」

 

 松原さんは話すべきかどうか迷っているようだった。

 踏み込みすぎたかもしれない。それでも、前のめりになってしまうぐらい彼女のことが知りたかった。

 

 とたとたと通路を駆ける音がして、兄弟らしい二人の男児が勢いよく僕らを追い越してゆく。通り過ぎるとき、弟のほうが松原さんの肩を掠めて、彼女の身体が傾いだ。後ろから母親の注意の声が飛ぶ。はしゃぐ兄弟を追いかける母親に「すいません」と謝られる。

 

 その間も松原さんは黙したままだった。ぶつかったときの余波でクラゲのイヤリングが揺れていた。その揺れが収まったとき、松原さんの唇が薄く開かれた。

 

「クラゲは……自分では、ほとんど泳げないんです」

 

 閉めた蛇口からぽたぽた垂れる水滴のように松原さんが訥々と話し始める。

 

「ただ水流に乗って移動しているだけで、流れに逆らうことができない……私も一緒です。自分から何かを始めることが苦手で、いつも周りに引っ張ってもらって。今日も……そう。人の波に流されて、迷子になっちゃって……私も、いつも流されているだけなんです」

 

 クラゲを見ているのか、それとも憂愁に俯いているのか――。

 彼女の心の内は分からなかったが、クラゲの水槽が放っている青い光のおかげで、その伏せられたかんばせに差した哀しみだけはよく見えた。

 

 ただ流されているだけ……。

 僕も、真下で揺らめくクラゲたちに目を移してみる。

 

 クラゲたちは、その海月という名前の通りに真ん丸な身体を震わせながら、水槽のあちらこちらをあてどなく彷徨っている。

 もちろん、彼らとて全く泳げないわけではないだろう。詳しく調べたことは無いが、秒速10ミリメートルくらいの遊泳能力はあるはずだ。だが、その程度の運動量では流れに逆らって泳ぐことなど到底できやしない。

 

 僕らの現前に立ちふさがった、クラゲが流されているだけだという事実。

 その事実が揺らぐことは決してないのかもしれない。

 

 だけど――と僕は思った。

 

「僕には……泳いでいるように見えるよ」

 

 僕らには、まだ一つだけ、残されているものがある。

 

「事実は、決して変わらないかもしれない。でも、認識を……見方を変えることはできるよ。もしそれがただ流されているだけなのだとしても、僕にとっては――きっと、クラゲにとっても――それは泳いでいるってことなんだよ。松原さんの迷子が……楽しいショッピングに変わったみたいに」

 

 松原さんの顔に亀裂が走った。

 驚きのまま僕を見て――そしてもう一度、クラゲたちに目を戻す。

 

 クラゲたちは……何も言わない。彼らが何を思っているのかは究極的には分からない。だから、結局は僕ら次第なのだ。僕らが世界をどう見るかに、すべてが懸かっているのだ。

 

「……私にも、そう見えるかな」

「きっと、見えるよ」

「私も、クラゲみたいになれるかな」

「きっと、なれるよ」

 

 何か眩しいものを見ているかのようなその表情が、徐々に緩んでゆく。口角に形作られたその波頭が顔全体に広がって――やがてそれは笑顔になる。

 

「あなたは……太陽みたいな人ですね。いつも私に勇気をくれる」

 

 松原さんがすっとこちらに振り返った。

 

「実をいうと、今日ここに来る前、ちょっと怖かったんです。どんな人が来るんだろう。私の彼氏はどんな人なんだろうって。だけど、こんなに素敵な人で――本当に良かった」

 

 繋いだ手が優しい力でぎゅっと握られる。

 

「そんなんじゃ……ないよ」

 

 でも、僕にはとてもそうは思えなかった。

 うつむく僕に、松原さんは「いえ」と強く首を振った。

 

「たとえあなたがそう思ったとしても、事実がそうなのだとしても――少なくとも私にとっては、カッコいい、自慢の……彼氏なんです」

 

 その真っすぐな言葉が僕の胸に突き刺さって、そこから幸福が火花のようにちりちりとあふれ出す。その熱が僕の頬を炙る。見ると、松原さんも青い照明を跳ねのけてしまうくらいに顔を真っ赤にしている。

 

 恥ずかしさでリンゴみたいになりながら二人で見つめ合って――それが、なんだかおかしくって、どちらからともなく笑いだした。

 

 

 ……そこまで大きい水族館でもないから、2時間くらいであらかた見終わってしまって、僕らは、出口近くにある売店を少し冷やかしてからそのまま外へ出た。

 

 時刻は6時を過ぎた頃だろうか、夏ということもあり、空はもうすっかり漆黒のドレスへの着替えを済ませている。コンクールで着られるようなそのドレスは、しかし、曇りのために一切の飾りを失っていて、ライトアップされた樹木から少し遠ざかるだけで靄のような薄闇がひたひたと這いよってきた。

 

 路線の関係もあり、僕と松原さんが帰りに利用する駅はそれぞれ違った。どこで別れようかと悩むうちにも足は進んで、自然と松原さんのほうの駅へと着いてしまう。

 

「ありがとうございます。こっちの方まで」

「いや、たいした遠回りでもないし問題ないよ」

 

 「じゃあ」と改札の前で別れを告げようとして――行き交う人の多さに、俄かに心配になった。

 

「というかその、こんなこと聞くのもアレなんだけど……迷わないで帰れそう?」

 

 僕の言葉に松原さんが「うっ」と言葉を詰まらせる。

 

「ダイジョウブ……です!」

 

 むん、と握りこぶしを作る松原さん。明らかに大丈夫ではなさそうだ。

 

「せめて家の最寄りまで送るよ。……もう少し一緒にいたいしさ」

「わ、私もそう思って――」

 

 改札に響く大きな声。当の松原さんも、思ったより声が出てしまったとばかりに口を抑えた。しゅぼしゅぼと恥ずかしそうに縮こまって、そろそろと僕に近づいてくる。

 

「じゃあ、ちょっとだけ延長ですね」

 

 今度は大げさなくらいに小さな声でそう囁いた松原さんは、一度離した僕の手を、宝物に触るような手つきでまた握った。

 

 

 いくつかの路線が通っているこの駅は乗降者の多い駅らしく、ホームに着いた電車からは大量の人が吐き出されてきた。

 元々電車に乗っていた人がさっと席に座って、車内には刹那、真空が生みだされる。そこに吸い込まれるようにして、ホームから一気に人がなだれ込んだ。

 

 僕は松原さんの手を引いて、若干フライング気味に車内に入った。座席の前の空間――はもう埋まっていたので、瞬時に目標を切り替え、その横、ドアのそばの空間へ。

 

 座席の端のしきりとドアの間に生まれたその三角の間隙に松原さんを立たせて、そこに覆いかぶさるようにして僕も立った。こっちのドアはしばらく開かないから、こうしていれば松原さんのスペースは確保できるはずだ。

 

「ご、ごめん。ちょっと狭い……かも」

「い、いえ! 私のために……すみません」

 

 壁に手をつき、後ろに立つお兄さんを背中でぐいぐい押しながら、にへらと笑って応える。間違っても松原さんをぺちゃんこにするわけにはいかない。

 

 とはいえ、今のところ車内は満員電車というほどではなかった。各々がスマホを取り出すスペースくらいはギリギリあって、みんな前にかけたバッグの上で窮屈そうにスマホを操作している。

 

 乗客が増えたり減ったりを繰り返して、目的地まであと2駅。この分ならいけそうだと僕が思ったとき、不安げな瞳で僕を見上げていた松原さんの表情が突然ひきつった。

 

 シュルシュルとスピードを落とす電車。アナウンスが流れ、反対側のドアが開いて――瞬間、僕の背中にとてつもない圧力がかかる。

 

 僕は振り向くことも出来ずに、正面のドアにはまっている、暗闇を背景に鏡のようになった縦長のガラスへと目を向けた。

 

 そこに映っていたのは、人、人、人。

 人で溢れんばかりのホームから次々と乗り込んでくるユニフォームを着た人の群れだった。

 

 駅名のアナウンスを聞いて合点がいく。確かこの近くにはドーム球場があったはずだ。恐らくは野球の試合終了のタイミングとちょうど被ってしまったのだろう。

 

 車内は、最初の第一波ですでに、互いの顔と顔とが触れ合ってしまうくらいぎゅうぎゅう詰めになっていた。それでもまだホームで待つ人の三割も収容出来ていなくて、後から後から新たなお客さんが乗り込んでくる。

 

 ホームに鳴り響く次の電車をご利用くださいという声。

 もう人が入らないという状態で、諦めずにドア付近にたまっている人の塊を、みかねた数人の駅員さんが力を合わせてぐいっと押した。数人分の隙間を求めてぐらつく車内。押し込まれ、圧力から逃げようと後方へ引く足がそのまま別の人への圧力となり、ついには反対側の僕のところまでやってくる。

 

 誰かの肘が脇腹に当たって、「ぐえ」と情けない呻きが漏れた。松原さんを心配させないよう、急いで顔を取り繕う。もし位置が逆だったらと思うとぞっとした。壁に突っ張ったままの手に改めて力を入れ直す。

 

 ピポンピポンと音が鳴ってドアが閉まるものの、何かが引っかかっているのかまた開いてしまった。どうやら一人の乗客の半身が入りきってないらしい。駅員さんが懸命に押しているが微動だにしない。

 

 不意に松原さんと目が合う。その距離は、初めに電車に乗った時よりもずっと近い。

 

 上目遣いに僕を見つめて――だけどその眉は、何かを決したように立ち上がっていた。

 

 僕の胸先で発された「えい」という小さな掛け声。と同時に、優しい力で松原さんに引き寄せられた。咄嗟のことで抵抗もできないまま僕の身体が前に進んで、僕と松原さんとの間にあった空間を埋める。その先にあるのは当然、松原さんの身体。ふんわりと受け止められ、僕たちはそのまま正面から抱き合うような体勢になった。

 

 そうして僕の後方に新たに生み出されたスペースも、蠢く人ごみに呑まれ、瞬く間に埋まってしまう。

 しかし、先ほどまで周囲から受けていたあの強烈な圧力はすっかり失せていた。ドアの開閉音がして、電車が息を吐いて動き始める。どうやらあの半身はみ出ていた乗客が無事に入ったことで、各人の場所が固定されたらしい。あぶれていたピースが綺麗にはまって、ついにパズルが完成したのだ。依然として余裕はないものの、次の駅まではこの安定した状態が保たれるだろう。

 

 車内にひとまず訪れた平穏――だが、忘れてはならない。この平穏は僕と松原さんの犠牲の上に成り立っているのだということを。

 

 身体をぎゅうと密着させた僕らは、同じように顔面も密着させるわけにはいかないので、互いの肩の上に自分の顔を避難させていた。

 

 身動きが取れないせいで、顔をそらすこともできず、耳と耳とが触れあってしまいそうなほど近い。互いに相手の様子を確認することができないから、顔を見られることがないのがある意味で救いなのかもしれないが――相手の顔がどんな風になっているかは、互いに分かり切っていた。

 

 人いきれでむわっと暑い車内――。かっかっと火照る顔――。

 ただでさえ限界なところへ、松原さんのうなじから立ちのぼってくる馥郁とした香りがさらに追い打ちをかけてくる。

 

 この熱気の中にあって、なお爽やかな花とソープの優しい香りには、しかし、仄かに癖のあるノイズが混じっているように感じられた。何だろうとすんすん鼻をうごめかせて、はっと思い当たる。それは、彼女の体臭に違いなかった。それも、この夏という季節に醸された濃密な体臭――。

 

 背徳感がぞぞと背中を這いまわる。本来なら嗅ぐことのできない彼女の秘めた臭いを吸い込んでいるという事実に、全身がぞくぞくした。まるで一気飲みでもしたかのように脳が恍惚で痺れてゆく。

 

 だが、酩酊している頭の中で、それでもまだ残っている理性が待てよと警鐘を鳴らした。彼女の体臭を嗅げているということは、逆もまたしかりというわけで……、

 

「あの……まつばら――」

「ひゃあ!」

 

 臭いについて断っておこうと口を開いた途端、松原さんが悲鳴をあげてびくんと身体を震わせた。

 こいつ何やってるんだという周囲からの視線に、すみませんすみませんと二人で頭を下げ、なんとか事なきを得る。

 

「ご、ごめん。急に話しかけて」

 

 今度はなるべく声を抑えて話しかけると、松原さんは「んっ」と色っぽい声をあげて、僕の口から逃げるように首を傾けた。

 

「私こそすみません。その……息が……耳元に」

「ほんとにごめん、そこまで考えてなかった」

 

 肩を落とす僕。「しょうがないですよ」と励ましてくれる松原さん。

その囁く吐息が僕の首筋にあたって、若干くすぐったい。確かにこれが急に耳元に来たら変な声を出してしまうかもしれないなと、妙なところで納得してしまった。

 

 そんなこともあり、というよりそもそも満員電車なので、特に会話のないまま、黙って電車に揺られる。

 

 気まずい沈黙を無機質に埋めてゆく、地下鉄特有のキンキンとうるさい走行音。

 だけど、そんな騒音を貫いてしまうくらい、僕の心臓はばくばくと跳ねていた。

 

 華奢な肩、しなやかな二の腕、きゅっと締まったお腹、なだらかな二つの膨らみを擁する胸……。

 

 電車が揺れるたび、その柔らかな身体がむぎゅっと押し付けられたり、逆に僕が押し付けてしまったり。こんなほぼハグみたいな体勢で、意識するなというのが無理な話だった。

 

 だけど、と僕は徐々に頭をもたげてくる卑俗な考えを、何とか理性でシャットアウトする。いま抱くべき感情はこれではない。僕を信じて身を預けてくれた松原さんが安心できるような気持ちでないとダメだ。息を吸って、吐いて。高揚を少しずつ収めてゆく。

 

 そうして僕が煩悶している間に、幸か不幸か、次の駅へと到着してしまった。

 お客さんが大勢降りて、車内にだいぶ余裕が生まれる。僕と松原さんも自然と離れて、初々しい付き合いたての距離感へと戻った。

 

 恥ずかしさで顔を見ることができないまま互いにもじもじしていると、気づけばもう目的の駅だった。どこか呆けたように佇む松原さんに声を掛け、ホームへと降りる。

 

 改札の前の開けたスペース、その端で僕らは改めて向かい合った。

 

 ……別れるとき、何か気の利いたことでも言ったほうがいいのだろうか。

 そう思ってはみたが、いくら頭を捻っても、良いアイデアは浮かんでこない。

 

 黙ったままの僕に、松原さんは数度、何かを言いたげに口を開きかけたが、そのたびにきゅっと下唇を噛んでやめてしまった。

 

 やがて僕の乗るべき電車の時刻がやってきて、僕は仕方なしに「じゃあ」と手をあげた。

 「はい」と消え入るような声で答えた松原さんが、背を向けて改札へと進む。

 

 その後ろ姿を見送ってから、僕がホームへ振り返ったとき、後ろから「あの!」と呼びとめられた。

 

「また、会えますよね」

 

 誰もいないホームに響く声。

 何かを願うような瞳。

 

「……うん」

 

 その願いをかなえてあげられるのは、きっと僕だけだった。

 

「次のデートまで、このイヤリングは大切にとっておきますから!」

 

 大きく手を振って歩き出す松原さん。

 彼女がもう振り返ることはないと思った。

 

 だって、彼女の最後の表情は、夜空に煌々と輝く満月のような――とびきりの笑顔だったから。

 

 

 『実績解除:二人目』

 『好感度上限引き上げ、及び、複数キャスト同時指名が可能になりました』

 

 





こんにちは、山神薙人です。

いかがでしたか?

花音は千聖とはまた違った可愛さがあっていいですね!!!

次回は千聖&花音のドキドキ♡お泊りデートの予定です。

ではまた!!!!!!!
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