正月の夜は、寒いのに騒がしい。吐く息は白いのに、人の声はどこか温かい。神社へ向かう道の両脇には屋台が並び、甘い匂いと香ばしい匂いが、風に乗って交互に鼻をくすぐった。
ショウマは、その匂いだけで、腹が「今日は忙しい」と言い出している気がした。
前を歩く千束は、歩幅が軽い。人混みの中でも、まるで自分の庭みたいに進んでいく。ふと振り返り、いつもの調子で言った。
「ショウマ君、寒くない? 手、冷えてない?」
そう言いながら、千束は自分のポケットから小さなカイロを出して、ショウマの手のひらに押し当てた。唐突なのに、手の中心からじわっと熱が広がっていく。
「……あったかい」
「でしょ。初詣はね、まず手を救うのが大事」
横から、たきなが淡々と訂正する。
「体温低下を防ぐのが重要です。あと、迷子防止」
迷子。ショウマは、その単語だけで肩が少し強張った。人が多すぎる。前も後ろも、色とりどりのマフラーとコートが動いていて、どれが誰だか一瞬で分からなくなる。
ショウマが千束を見失わないように目を凝らしていると、千束が少し速度を落としてくれた。
「大丈夫。ショウマ君、今日は“はぐれない”が最優先ね」
たきながすぐ続ける。
「位置は千束の右斜め後ろ。距離は一メートル以内」
千束が笑う。
「たきな、ショウマ君に“運用ルール”付けるの好きだよね」
「必要です」
「必要って言い切るのが、正月から強い」
ショウマは、二人の会話を聞きながら、少しだけ息が楽になった。言い合っているように見えて、結局、二人とも同じ方向を向いている。その間にいると、流されるだけじゃなくて、ちゃんと“歩けている”感じがした。
鳥居が見えてくる。大きな柱が闇に立っていて、提灯の灯りがゆらゆらと赤く揺れている。鳥居の下をくぐる瞬間、空気が一段、澄んだ気がした。気がしただけかもしれない。でも、そう思える場所だった。
千束が小さく手を合わせるような仕草をして、ショウマに目配せした。
「ショウマ君、ここからは“なんとなく丁寧に”ね」
「なんとなく……」
たきなが、いつも通りの正確さで補足する。
「二礼二拍手一礼です。混雑しているので、手水は省略でも問題ありません」
「省略、ありなんだ……」
「状況判断です」
千束が得意げに頷く。
「ほらね。初詣って意外と柔軟。正月だから」
ショウマは、柔軟という言葉にちょっと救われた。完璧にできなくてもいい。そういう雰囲気が、確かにある。
賽銭箱の前に立つと、周囲の足音や話し声が少しだけ遠のいた。鈴の音がする。どこかで笑い声が弾け、屋台の鉄板が鳴る音が混ざっている。静かではないのに、落ち着く。
千束が手本を見せる。二礼、二拍手。拍手の音は思ったより乾いて、冬の空にすっと伸びていった。
ショウマも真似をする。手を合わせる。
願い事――と考えた瞬間、頭が止まった。
何を願えばいいのか分からない。願いって、そんなに簡単に言葉になるのか。自分の中には、まだ白いところが多い気がする。白いところに、いきなり大きな字で書くのが怖い。
隣で千束が、声を落として聞いてくる。
「ショウマ君、願い事決まった?」
ショウマは正直に言った。
「……決まってない」
「そっか。じゃあ、今日の“ちっちゃい願い”でいいよ。たとえば、食べたいものとか」
ショウマが口を開く前に、腹が鳴った。
思ったより大きく鳴った。
千束が目を丸くして、それから笑った。
「かわいい。今の、神様に聞こえたよ絶対」
たきなが、真面目に言う。
「聞こえた可能性はあります。静音環境ではないですが、至近距離です」
「たきな、そういう分析やめて」
「事実です」
ショウマは、顔が熱くなるのを感じた。寒いのに、耳のあたりが温かい。恥ずかしい。でも、悪い気はしなかった。
結局ショウマは、手を合わせたまま、心の中で小さく願う。
――今日、あったかいものを食べたい。
そして、できれば、迷子にならずに帰りたい。
願いが小さすぎる気もしたが、今の自分にはちょうどいい気がした。
参拝が終わると、千束は待ってましたと言わんばかりに身体を軽く回した。
「よし。ショウマ君、ここからが本番!」
「本番……?」
たきなが即座に言う。
「参拝が本番です」
千束は動じない。
「参拝は“導入”。屋台は“本編”。ね、たきな」
「違います」
「違うって言いながら、ちゃんとついてくるの偉い」
ショウマは、ついていく。ついていくだけで、何かがちゃんと進んでいる感じがした。
屋台の光は、近くで見ると眩しい。湯気が立ち上り、匂いが濃い。甘酒の桶の前を通ると、酒粕の甘さがふわっと広がる。焼き鳥の煙が目にしみる。たい焼きの列には、妙に安心する匂いが漂っていた。
千束が指をさす。
「ショウマ君、たい焼き。正月のたい焼きって、なんか特別じゃない?」
「……特別って何だろう」
「正月の気分が入ってる」
たきなが口を挟む。
「気分は栄養ではありません」
千束が笑う。
「じゃあショウマ君、栄養として食べよう。ほら、並ぶよ」
ショウマが一歩踏み出した瞬間、たきなが言った。
「一つです」
千束が即ツッコむ。
「え、たい焼き一つ? 三人いるよ?」
「一つを分けます。様子見です」
「様子見って、たい焼きに何を警戒してるの」
「熱さと、食欲の暴走です」
ショウマは、そこまで言われると逆に納得してしまった。熱いものは危険だ。食欲も危険だ。初詣は危険が多い。
焼き立てのたい焼きを割ると、湯気が白く立った。あんこの匂いが、寒さの中で一層甘く感じる。
千束が言う。
「ショウマ君、頭あげる」
「……いいの?」
「頭がいいに決まってるじゃん。たい焼きの頭はご利益ある」
「ないです」
たきなが即否定する。
「あるよ、正月だもん」
「根拠がありません」
「正月は根拠がなくても、だいたい許される」
ショウマは、たい焼きをかじった。熱い。甘い。皮がカリッとして、中がふわっと柔らかい。
――うまい。
口の中があんこで満ちると、さっきまでの「願いが分からない」感じが、少しだけ遠のいた。こういうのでいいんだ、と体が思っている。
たきなが、今度は甘酒を見た。
「温かい飲み物を追加するなら、量は少量です」
千束がコップを持ち上げる。
「ショウマ君、甘酒飲む? あったまるよ」
「……飲む」
たきなが即時に条件を付ける。
「一口です」
千束が顔をしかめる。
「たきな、今日ずっと“制限”してない?」
「必要です」
「必要って言い切るの、ほんと好きだね」
ショウマは、コップを両手で包む。温度が手のひらに移ってくる。少し口に含むと、甘さが喉の奥に落ちていく。身体の中心がじわっと温まった。
千束が満足そうに頷いた。
「よし。次、おみくじ!」
木の箱の前に立つ。ショウマは、引き方が分からず、箱を見つめたまま固まった。
千束が囁く。
「ショウマ君、こう。ガチャガチャって振って、棒一本出す」
たきなが訂正する。
「ガチャではなく、おみくじです。振り方は同じですが」
「同じならガチャでいいじゃん」
「良くありません」
ショウマは恐る恐る箱を振った。木の音がカラカラ鳴る。棒が一本だけ出てきた。番号札を受け取り、紙を受け取る。開く。
字が多い。正月の紙は、こんなに小さい字で人を試すのか。
千束が覗き込む。
「ショウマ君、どれどれ?」
ショウマは読んだ。
「……中吉。『急ぐな、足元を見よ』」
たきなが頷いた。
「妥当です」
千束がすぐツッコむ。
「妥当って言うな!」
ショウマは、次の行に視線を落とした。
「……『拾いもの、大切にせよ』」
千束がぱっと笑う。明るい笑いだ。屋台の灯りよりも近い。
「それ、ショウマ君のことじゃん」
ショウマは、紙の端を指で押さえた。拾いもの。そう言われると、胸の奥が少しざわつく。でも、千束の声は軽くて、悪意がないどころか、温度がある。
たきなが淡々と言う。
「解釈としては成立します。ただし、言い方は選ぶべきです」
千束が肩をすくめる。
「じゃあ、“出会いもの”。ショウマ君は出会いもの」
ショウマは、何が正解か分からないまま、少しだけ笑った。千束が言うなら、たぶんそれでいい。
千束は自分の紙を開き、声を上げた。
「大吉!」
たきなも開く。
「小吉です」
千束が覗き込む。
「内容は?」
たきなは紙を折る。速い。防御が堅い。
「問題ありません。想定内です」
「想定内って言うなー!」
三人はおみくじ結び所の前に並んだ。白い紙が枝にたくさん結ばれていて、木がふわふわした生き物みたいに見える。
ショウマが中吉を結ぼうとすると、千束が言った。
「ショウマ君、それは持って帰ってもいいよ。結ぶのは“置いていく”感じ。持って帰るのは“一緒に帰る”感じ」
一緒に帰る。
ショウマは、結ぶ手を止めて、紙を折り直した。ポケットに入れる。紙は薄いのに、そこだけ少し重く感じた。
そして絵馬の前。
ショウマは、木の板とペンを受け取った。書く場所は小さい。小さいのに、書こうとすると悩む。願い事って、やっぱり難しい。
千束が言った。
「ショウマ君、さっきの“ちっちゃい願い”でいいよ」
たきなが補足する。
「具体的な方が達成しやすいです」
ショウマは少し考えて、短く書いた。
――腹いっぱい。
千束が嬉しそうに笑う。
「最高。正直が一番」
たきなが頷く。
「達成可能です。ただし、計画的に」
千束が即返す。
「計画的に腹いっぱいってなに」
「重要です」
千束も自分の絵馬にさらさら書いて、ショウマに見せた。
――ショウマ君が、毎日笑えますように。
ショウマは、息が一瞬止まった。さっきまで「たい焼き」「甘酒」「ガチャ」で笑っていたのに、急に胸の奥を指で押されたみたいになる。
たきなも自分の絵馬を見せる。
――千束が、走りすぎませんように。
千束が即座に抗議する。
「たきな、それ私の願いじゃない!」
「あなたの安全は重要です」
「初詣でまで監督しないで!」
「必要です」
ショウマは、そのやり取りを見て、今度はちゃんと声を出して笑った。千束が満足そうに頷く。
「今の笑い、いただきました。ショウマ君、初詣の勝ち」
勝ち。何に勝ったのか分からない。でも、勝ったと言われるのは悪くない。
神社を出る頃には、足先の冷えが少しだけ和らいでいた。屋台の灯りが背中に遠ざかり、提灯の赤が夜に溶けていく。
千束が歩きながら言った。
「ねえショウマ君。来年も来よ」
ショウマは、来年という言葉を口の中で転がした。まだ遠い。遠いのに、想像すると少しだけ温かい。
「……うん。来たい」
千束が嬉しそうに頷く。
「よし。じゃあ最後、りんご飴で締める?」
たきなが即答する。
「一つです」
千束が笑う。
「はいはい。半分こね」
ショウマは、そこで思わず言ってしまった。
「……一つです」
たきなが一瞬だけ目を向けた。千束が大笑いした。
「ショウマ君、たきな化してる!」
ショウマは、りんご飴の赤い光を見ながら、また笑った。寒い夜だったのに、笑うと不思議と寒さが薄くなる。
初詣は、願い事を決める場所じゃなくて、今日をちゃんと一緒に終わらせる場所なのかもしれない。ショウマはそう思いながら、千束の隣で、たきなの少し後ろで、迷子にならない速度で歩いた。
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