ノア市の朝は静かだ。ウラ道ヤクザ、五大企業の会社員、公安局員。日々生存競争に明け暮れる誰もが静寂を享受し、つかの間の平穏に身を浸す。
俺はこの時間が好きだった。まだ薄暗いうちに起き出し、濃いコーヒーを淹れ、パンを焼く。食事ができるまでの間に部屋の中を掃除してカーテンを開け、ゴミ出しをする。ラジオの雑音を聞き流し、タバコを吸いながら新聞に目を通す。
口うるさい大家にも頭のおかしい依頼人にも邪魔されない空白の時間。ただ静かに目の前の日課をこなしていると、まるで自分がまともな人間になったかのような錯覚が得られるのだ。
だが、そんな貴重な時間も邪魔者によってあっけなく崩れ去った。
事務所のドアを強く叩く音が響いた。
時計を確認する。時刻はまだ6時前だった。
俺はうんざりしてため息をついた。
こんな時間から訪ねてくる来客に心当たりはない。十中八九、押し込み強盗だろう。
看板ぐらい読めよクソったれの亜人どもめ。金目のものは置いてませんとデカデカと書いてあるだろうが。
マグカップを置いてソファーから立ち上がる。
拳銃を取り出し、足音を殺してドアへと近づく。
扉の向こう側の下手人に気付かれないように、静かにドアスコープを覗き込んだ。
そこにいたのは貧相なガキだった。
その辺の道端で拾ってきたような、イヤに薄汚いぼろきれで身を隠している。
うん? よく見ればその下にはそれなりにまともな服を着ているようだ。あれは見たことがあるな。確か、日本の和服ってやつだ。
腰に見えるふくらみは、おそらくヤツの得物だろう。
「おい。開けろ」
思ったよりも高い声がドア越しに響いた。
きっちり気配を殺していたつもりだったが、そいつにはお見通しだったらしい。
ドアスコープ越しに鳶色の目がこちらを睨みつけている。
顔を上げ、剥き出しになった首元には亜人特有の帯状の黒い痣があった。
めんどくせえ。なんでこんな朝っぱらから不審者に絡まれるんだ。
「えーと、何のご用で?」
「千夜(ちよ)というご老人からここで食事にありつけると聞いた。飯を食わせろ」
またかよ。
千夜というのはこの建物の大家だ。
御年72歳、いまだ矍鑠(かくしゃく)とした彼女は格安で建物を貸してくれるかわりにこうして頻繁に面倒事を押しつけてくる。
先日は2日に渡って犬人の演奏会の休憩所としてこの事務所を解放させられた。おかげで丸2週間、この事務所は犬のションベンのにおいが染みついてとれなかった。
本音を言えばこの客人にも丁重にお帰り願いたいところだったが、あの婆さんがそれを許してくれるとは思えなかった。下手をすればここから追い出されることもありえる。
それはまずい。路頭に迷っても行くあてがない。野垂れ死にはまっぴらごめんだ。
それにこいつは純人に近い種族に見えるし、さすがに室内でションベンをまき散らしたりはしないだろう。
洗濯ばさみをして寝るのに比べれば、たった1食恵んでやることぐらいなんでもない。
そう納得しようとしたのだが、
「おい、早く開けろ。殺されたいのか」
正直まったく気が進まなかった。
なぜ10歳以上も年下のガキにこんな舐めた口を利かれなければならないのか。
「なあ坊主。お前、金は持っているのか? 違うよな。持ってりゃこんなとこに来るはずがない。タダメシ食おうっていうんだろ? ならそれ相応の頼み方があるとは思わないか?」
「ふん、扉越しに凶器を向ける臆病者が語る礼儀とやらは随分ご高説だな。いいからさっさと開けろ。私は腹が減っているんだ」
坊主の手が腰の得物を握った。
その瞬間、ひやりと冷たい感触が心臓を人撫でして、俺は抵抗を諦めた。
ま、ここまでだな。
俺は気持ちを切り替えてドアを開けた。
一応の礼儀として銃口は下に向けておいたが、引き金に指をかけたままだ。
礼も言わずに扉をくぐってきたガキは拳銃を見てつまらなそうに鼻を鳴らし、そのまま俺の横を通り抜けて奥へと歩いて行った。
本当にイヤになるぜ。
俺は脇を濡らす汗に深くため息をつくとその後を追った。
「……ここは公衆便所なのか? 臭すぎる。よくこんなところで飯を食えるな」
人様の家に上がり込んで開口一番放った言葉がこれである。
まあ多少腹は立つが、それもどうでもいい。どうせこんな無礼なガキは3時間後には道路のわきで物言わぬ肉塊になっているだろう。気にするだけ時間の無駄だ。
俺はこめかみをもみほぐすと小僧に向かって言った。
「ちょっと待ってろ。いま何か──」
小僧は俺の言葉を無視してソファーに座ると、食いかけの食事をつつき始めた。
サラダをたいらげ、スープを飲み干し、パンを噛み千切って飲み込む。丹精込めて作り上げた俺の朝飯はあっという間に小僧の腹の中に消えてしまった。
最後に空になった食器の前で手を合わせると、小僧は立ち上がってこちらを向いた。
「馳走になった」
「……まあいいけどよ。3分もあれば作ってやったのに、そんなに腹が減っていたのか?」
「食べかけなら毒を盛られていることもないだろう」
「……左様で」
「味は酷かったがな。食べ物に罪はない」
「…………」
口の悪さは空腹からではなく生まれついてものらしい。
「で、お前さんはどちらから来たどなた様なんだ? 千夜の婆さんに何て言われた?」
「……氷雨(ひさめ)だ。昨夜遅く、極(きわみ)の国からこちらに来た。今朝早く掃除をしていた千夜殿に声を掛けられた」
はーん。まあだいたい予想通りの回答か。
あの婆さんは若者の世話焼きが大好物だ。このいけ好かないガキも、婆さんからすれば可愛い孫も同然なんだろう。
しかし、極の国ねえ。どこかで聞いたことがあるが、どこだったか。
「えーと、ひさめさ──」
しかしその先の問いは続けられなかった。
鋭利で冷たい金属が俺の喉元に触れていたからだ。
小僧は一瞬で得物を抜いて突きつけていた。
ゆっくりと唾を飲み込む。
何が気に障ったのか知らないが、こいつが数センチ手を動かせば俺はお陀仏だ。頸動脈からの出血多量で死ぬ。
「……気安く名前で呼ぶな」
恐ろしく冷たい瞳だった。
気が気じゃない。まさか呼び方ひとつでここまでブチ切れるとは。キレやすいってレベルじゃない。もはや不発弾じゃないか。
「梶谷(かじたに)と呼べ。他人から名前で呼ばれるのは好きじゃない」
なら最初からそう言えよ。
内心そう思ったが、口に出す余裕はなかった。
目だけで必死に頷く俺の誠意が伝わったのか、金属の感触はゆっくりと離れていった。
緊張から解放されてソファーに座り込む。シャツが汗で貼り付いて気持ち悪い。
「……すまなかった」
小僧は流石に良心が咎めたのか、一言謝罪をすると玄関へと歩いて行った。
クソったれが、礼儀知らずってレベルじゃねえぞ。どういう教育受ければこんな風に育ちやがる。
荒く息を整える俺の耳に玄関から話し声が聞こえてきた。
「レゲット! 起きとるかい? こっちに来たお嬢さんは……あら、氷雨ちゃん。あのひねくれものにイタズラされなかったかい?」
「うん、大丈夫」
「そうかいそうかい。またなにか困ったことがあったらここに来なさいね。いつでもいいから」
「ありがとう、千夜さん……じゃあ、また」
千夜婆さんが来たみたいだ。
あの小僧の囁くような話し声からは先ほどまでとは同一人物だと思えないほど棘がなかった。
どうやら人並みの敬老精神は持っているらしい。
扉が閉まり、階段を下りる音が遠ざかっていく。ようやくいなくなったようだ。
安堵する俺のもとに千夜婆さんが顔を出した。
「レゲット、あの子に意地悪しなかっただろうね……おや、どうしたんだい? 腰でも抜かしたかい? 若いのにだらしないねえ」
一通り言いたいことを吐き出すと千夜婆さんは勝手にコーヒーを淹れてくつろぎ始めた。
長居をするつもりらしい。
案の定、聞いてもいないことをペラペラと喋り出す。
「いい子だったろう、あの子は。慎み深くて、礼儀正しくて、親切で……」
とうとうぼけたかこのババア。どんな解釈をすればあのガキが聖人に見えるのか。
俺からすれば裏路地のチンピラの方がまだ、挨拶をする分だけ常識というものをわきまえている。
「若いころのあたしにそっくりだよ」
たしかにそのとおりだ。傍若無人、慇懃無礼、他人の住居に上がり込んで無茶苦茶な要求をするところなんて瓜二つだ。
そうか、似た者同士だからこれだけ入れ込んでいるのか。大いに納得がいった。
俺は一通り評価をあらためると新聞を読み始めた千夜婆さんに尋ねた。
「そんな話をするためにわざわざ寄ったのか?」
「それもあるけどね。あんた、そろそろ今月分の家賃を払っとくれよ」
「ああ、そうだったな……」
カレンダーを見ると確かに集金の日を過ぎている。
俺は財布を取り出そうとした。
「ん……?」
ズボンを探り、上着を探り、果てはシャツのポケットにまで手を突っ込む。
が、ない。朝食の前まで確かに懐に納めていたはずの財布の姿が忽然となくなっている。
どこかで落としたか? いや、まだ外には出ていない。
なら盗まれたか? 俺が接触したのは千夜婆さんと薄汚い小僧だけ。だとすれば犯人はひとりしかいない。
「あのクソガキ……!」
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