事務所を飛び出して階段を駆け下りる。
この俺から逃げられるなんて思うなよクソガキ。
街に来たばかりの若造がどこに向かうかなんてのは大体見当がつく。
俺は事務所から少し離れた位置にある細道から裏路地へと入った。
散らばったゴミの間で眠りこける半魚人のホームレスを叩き起こす。
「悪いな。首輪を剥き出しのガキがここを通らなかったか?」
頬に魚の鱗をギラつかせているホームレスは迷惑そうに顔をしかめると無言で手のひらを差し出した。
俺は懐から財布を取り出そうとして舌打ちすると、代わりに煙草を一箱そいつに放り投げた。
思わぬボーナスににやつく半魚人は路地の先の細道を指差した。
細道の先は開けた広場になっていて、ネズミ人のたまり場のひとつとして使われている。そのため、それを知っているここら辺の住民は誰も通らない。
やつらは蜘蛛の巣のように街を覆う裏路地のいくつかに違法な検問所を設置し、通行料をふんだくるのを生業にしている。
定期的に憲兵の掃除が入るが、なにぶん数の多さと逃げ足の速さだけは一流のため、狩り尽くすのは諦められていた。
細道を進んで行くと案の定、ネズミたちの鳴き声が聞こえてきた。
「ここを通るには通行料がいるんだぜ。お前は……そうだな、持ってる物ぜんぶ置いてけよ。そうすれば命だけは助けてやる」
キーキーと甲高い声が響き渡る。通路の先、群れの中で一番大きなネズミ人が威圧するように小僧に語り掛けた。
ネズミ人たちはご機嫌のようだったが、それも当然のことだった。
なにせ、こんな朝早くから金づると食糧がいっぺんに彼らの手元に舞い込んだのだから。
だらしなくゆるんでよだれを垂らす口元は、彼らの興味がすでに戦利品をどうやって切り分けるかに移っていることを示していた。
彼らの目はもう、目の前にいる薄汚い子供を肉の塊としてしか見ていなかった。
「そこをどけ。私は珍しく気分が良いんだ。今なら見逃してやる」
凛とした声が響き渡る。
小僧は少しの恐怖も感じていないようにまっすぐとネズミ人たちを見つめていた。
ネズミ人たちは呆気にとられたように固まると、すぐに顔を合わせて大笑いし始めた。
「キャッキャッキャ! 気分が良いだとよ、見逃してくれるとよ! 聞いたか、兄弟!? なんて慈悲深いんだ!」
彼らはひとしきり笑うと懐に手を突っ込んだまま氷雨に近づいた。
「気分が良いのはこっちもさ。なんてったって俺たちは──」
そいつがその後なんと言おうとしたのかは聞き取れなかった。
理由は簡単だ。小僧が刀を抜き放つと同時にそいつの首を叩き切ったからだ。
にやついたままのネズミ人の首が風船のように飛んでいく。それがまだ落下の軌道に入る前に小僧は走り出していた。
「はっ……?」
ネズミ人たちも、小僧の抵抗はもう少し段階を踏んだものになると予想していたのだろう。
一切のためらいのない動きに数舜、反応が遅れた。
その甘えが致命傷となった。
「ギャッ──!」
脇を固めていた3人が斬り捨てられ、ようやく凶器を取り出した時にはすでに彼らは小僧の殺傷圏内にいた。
お手製のニードルガンを向ける暇もなく、前に立っていた数人がさらに斬り捨てられる。
撒き散らされた仲間の血と臓物にネズミ人たちが甲高い悲鳴を上げて後ずさった。動揺する集団の中からネズミ顔ではない、ひとりの純人が小僧の前に押し出された。
男は引きつった笑顔で滝のように冷や汗を流しながら両手を挙げた。
「待て、話し合おう! 俺は純人だ。俺を殺せばあんたも──」
小僧はなんのためらいもなくその男も斬り捨てた。
だが、突如として小僧は膝をついた。幾つもの透明な重りでもつけられたように身体の動きが鈍る。小僧の戸惑う表情は突然起こった身体の変調に理解が追い付いていないようだった。
ネズミ人たちは顔を見合わせ、勝利を確信したように下卑た笑みを浮かべ、再び集団の中から純人を引っ張り出して小僧の前に立たせた。
垢の浮いた純人の少年はようやく立ち上がった小僧に向かって言った。
「へへっ、わかったろう。俺も純人だ。もしテメエが──」
煌めく白刃は一切の迷いなく弧を描き、少年をふたつの肉塊に変えた。
ネズミ人たちの笑顔が凍り付く。
小僧は鈍った身体の動きを確かめるように刀を振ると、凍てつく瞳で死の宣告をした。
「殺せば発動する類の呪いか? 面白いな。だがもう慣れた。さあ、もっと殺し合おうじゃないか!」
ひゅっと、誰かが漏らした恐怖の声をきっかけに、ネズミ人の戦線は崩壊した。
立ち向かおうとする者、背を向けて逃げ出す者。ネズミ人と純人。異郷の剣士にとっては目に映るすべてが平等だった。
幾人かの命知らずが小僧に向かってニードルガンを発射する。小僧は飛来する針の弾丸に向かってネズミ人の死体をかざした。防ぎきれなかった何本かが小僧の皮膚を浅く裂いて血が噴き出す。だが、その痛みさえも戦意の炎にくべるさらなる燃料に過ぎなかった。
狂乱の表情を浮かべて、小僧は突き進んだ。ニードルガンを構えたネズミ人に向かって剣山のようになった死体を投げ飛ばし、怯んだ彼らを一息に斬り殺す。抵抗の意欲を失って逃げ道に殺到している人々に斬りかかる。
犬歯を剥き出しにして笑うその顔からは、剥き出しの闘争心と隠しようのない愉悦の色が滲み出していた。
結局、広間が静まり返るのに3分もかからなかった。
ネズミたちにとっての不運は喧嘩を売った相手が純粋な近接戦闘に特化した剣士だったことだろう。裏路地のような狭い場所では彼らの数もいかせないし、距離をとることも難しい。
もし獲物の得物が大物だったら、あるいは身体能力ではなく特異な能力に頼るタイプの種族だったらもう少し善戦できていたかもしれない。
その間、俺はどうしてたかって?
もちろん機をうかがってたさ。こんなふうにな。
「刀を納めてひざまずけ。てめえが盗ったものを今すぐに返しやがれ」
小僧は俺が向けた銃口をまるで気にしていないかのように振舞っている。
静まり返った広間を一瞥し、もう動くものがいないことを確認してからこちらを振り返った。
「ああ、お前か。盗ったものとはなんだ?」
「とぼけるな。お前が俺の懐から掠め取った財布のことだ。あれはお前ごときにやるもんじゃねえ」
「……ふん。いいだろう」
小僧は軽く鼻を鳴らすと懐から見慣れた財布を取りだした。
やはりこいつが持っていたか。
小僧が財布を見せびらかすように振ったが、俺はヤツの頭に向けた銃口を動かさなかった。小僧はため息をつくと財布を投げて返した。
左手で受け取った財布の重さを確認する。本当は中身まであらためたいところだが、この場では難しいだろう。
くそ、べっとりついてるのはネズミの血か? サイアクだ。
俺は汚れた財布を適当に拭うと懐に納めた。
その間、小僧は所在なさそうに散らばった肉片を足で突いていた。纏っていたぼろきれは戦いの最中にどこかに飛び去り、隠されていた姿があらわになっていた。
肩の上ほどで切り揃えられた黒髪に、隆起した額のこぶ状の2本の角。どうやらこいつは鬼族の少女だったらしい。事務所では鳶色だった瞳が戦闘の余韻で赤く光っている。
亜人の証である首輪はもともとは帯状の黒だったが、茨のように広がりのたうつように赤く明滅している。純人を殺し過ぎたせいだろう。
努めて平静に振る舞っているが、あとひとりでも殺せば許容量を超えるはずだ。さきほどまでの人間離れした怪力もすでに発揮できまい。
俺にあっさりと財布を返したこと、そしてなによりも震えを隠せない膝がその証拠だった。
「はっ。まさかお前みたいな恩知らずがサムライとはな。世も末だぜ」
「……なに? お前今なんて──」
血相を変えた氷雨がこちらに詰め寄ろうとした時だ。
それまで死体の山のなかで息を潜めていたネズミ人が氷雨に向かってニードルガンを発射した。
放たれた針は狙いあやまたず、彼女の足に突き刺さった。
そしてそいつは間髪入れずに首から下げた笛を咥えた。
ピィ────ーッ!! 甲高いネズミ笛の音色が裏路地に響き渡る。
そいつはすぐに俺の放った弾丸で額に穴を開けて沈黙した。
「ちっ。しっかり殺しておけよ」
まずい。今のはネズミ人の獲物笛だ。このままだと俺たちは大挙として押し寄せるネズミたちに轢き殺されるだろう。
くそっ、こんなことになるならもっとまともな装備を持ってくるべきだったぜ。
路地の奥から大勢の人間がこちらに向かってくる気配がする。もうそれほど猶予はない。
「なあ、あんた。サムライのことはどこから聞いたんだ?」
目の前の少女はとうに限界を迎えているはずだが、それでもその身に宿す戦意はいささかも衰えていない。まったく、呆れるほかない狂戦士ぶりだった。その姿に、かつて見た彼女の同胞を思い出す。
「……そうだな。俺について来れば教えてやるよ」
銃だけではネズミからは逃げきれない。
予定変更だ。こいつには俺をここまで引っ張り出した責任を取ってもらわないとな。