僕は、中学校からの帰り道をゆっくりと歩いていた。なるべくゆっくりと。1秒でも遅くなるように。それでも一歩一歩確実に進んでいた。家に近づくにつれて心臓の鼓動が早くなる。
気がついたらもう家の前だった。逃げ出したい気持ちを押し殺して、ドアを開ける。
「……ただいま」
顔を俯かせたまま、静かにドアを閉める。
「ねぇ、こんな時間まで何してたの?」
突然、目の前から聞こえた母さんの声に心臓が跳ね上がる。いつもはリビングで酒を飲んでるのになんで玄関にいるんだ。まさかずっと待ってたのか? なんのために? 真っ白になる頭を必死に回して言い訳を考える。
「と、友達と勉強してたんだ!」
咄嗟に嘘をついた。僕に友達なんていないし、そもそも遅くなったのはゆっくり歩いていたからだ。
母さんの様子を伺うと、近くにあった棒状の靴べらを握り締め、腕を振り上げていた。
そのまま僕の顔に振り下ろす。
体が反応し、無意識に顔を守る。
痛い。その衝撃で僕は後ろのドアに倒れこむ。座り込んだ姿勢のまま、顔を俯かせた。顔を上げる勇気も立ち上がる元気もなかった。
「あのさぁ、この前のテストの点数を覚えてる? 順位は? あんたは友達と遊んでる暇なんてあるの? たかが337点で? おまけに136位なんてふざけてるの? お母さんは悲しいよ。本当に勉強する気なんてないでしょ。大体さぁ、最近帰るの遅くない? こそこそ帰ってきてさぁお母さんが気づいてないとでも思った!? 毎日毎日息子が遊び呆けて、成績が下がっていくお母さんの気持ちを考えたことはあるの!? あんたなんて人の気持ちも考えられないクズよ! こんなんじゃお医者さんになんてなれないわよ! 大学にだって行けないばかりか高校にだって受からないわ! ねぇ知ってる? 斉藤さんの息子さんは毎回490点以上で1位なんですって。対してあなたはどう? 成績をあげてお母さんを安心させようとかって思わないの?! このクズが! 人として生きてる価値もない! 勉強すらまともにできない低脳なんだからさっさと勉強しなさい!」
だんだん無表情を崩し、ヒステリックに叫ぶ母さんから目を逸らす。こういうときは心を無にして嵐が通り過ぎるのを待つのが1番いい。……あぁ、そういえばこの前テストの結果を机の上に置いたんだっけ。それを見たから玄関で待っていたのかと得心が行った。
母さんが肩で息をしながらこちらを睨みつける。
「わかったら返事をしなさい!」
「……はい」
今にも消えそうなほど小さい声で返事をする。1秒でも早くこの場を離れたかった。震える足を叱咤し、不格好に立ち上がる。震える手を抑えて靴を脱ぎ、身を縮こまらせて母の脇を通り抜け、自分の部屋へ逃げた。
床に散らばる参考書を避けて歩き、ベッドに腰を下ろした。いつもは棚には所狭しと参考書が敷き詰められているのだが、地震でもあったように床に散乱していた。勉強机の上にはくしゃくしゃになったテスト結果の紙が転がっている。
また母さんが部屋を荒らしたのかとため息をつく。一冊一冊を手にとって、カバーを整えながら棚に仕舞っていく。
本を片付けていると、リビングからドン! という大きな音がなった。体がびくりと縮こまる。母さんが酒を飲んで、机でも叩いているのだろう。聞くたびにびくりとしてしてしまう自分が情けなかった。
「あ゛──! ほんとにあの子は! あんな点数じゃ誰にも言えないじゃない! いつからあんな子になっちゃったのかしら! 勉強もできない! 家事もできない! お母さんのことを心配する気もない! 何にもできない子なんて産むんじゃなかった!」
ついでに声も聞こえきた。反射的に体が縮こまる。いつもは聞き流せるはずなのに、なぜか「
そのとき、リビングで電話の音がなった。
「もしもし、たっくん? どうしたのぉ? ……今から飲むから来ないかって、そんなの行くに決まってるよぉ! ちょっと待ってねぇすぐ行くからぁ!」
語尾にハートマークでもついていそうな甘ったるい声が聞こえてきた。さっきまでヒステリックに叫んでいたとは思えない豹変ぶり。気持ち悪いと思うのと同時に、母さんの機嫌がよくなったことに安堵してしまう自分がいた。
軽快な足音が部屋の前を通り過ぎ、ガチャと玄関のドアが開く音が聞こえた。どうやら母さんは出かけていったようだ。家には僕一人になった。音を聞くことに集中していたのか、いつの間にか手が止まっていた本の片付けを再開しようと、持っていた本を目をやった。
あれ、なんで濡れているんだ? なぜか本の上に水滴が落ちていた。また一つ、水滴が増える。その原因を探ろうと、水滴の上に手を持ってくると、手は僕の頬に触れた。頬は濡れていた。
──僕は、泣いているのか? なんで? 母さんに言われるのはいつものことじゃん。なんで今さら?
なぜだかわからないけど、胸が張り裂けそうなくらい悲しかった。涙が溢れて止まらない。
ベッドに倒れこみ、枕に顔を押し当てて、声を押し殺して泣き続けた。
涙が止まったのは数時間後のことだった。びしょびしょの枕から顔を離し、寝返りを打つ。何をするでもなく、ただぼーっと天井を見つめる。そうしていると、取り止めもない思考が溢れてくる。
──なんで僕は生きているんだろう。
──なんでこんな苦しい思いをしなきゃいけないんだ?
──こんなに頑張ってるのに、僕には何もできない。
だって僕は頑張ったんだ。精一杯の努力をした。たくさん勉強をした。それでも僕は全然だめだった。もともと落ちこぼれだったのが、少しましになったくらい。いくらテストを頑張っても、一位なんていざ知れず、平均を取るのが限界だった。それも最近は下がり続けているが。しかも僕ができないのは勉強だけじゃない。むしろできることが一つもない。何をやってもダメで、母さんを怒らせてばっかりだ。気が利かないのなんて当たり前で、言われたことも満足にこなせない。いつも失敗ばかりで周りに迷惑をかけることしかできなかった。
──あぁ、そうか。僕に生きる資格なんてないんだ。
──僕が生きてても、周りの人に迷惑をかけるだけだ。
僕は妙案を思いついた。なんで最初からこうしなかったんだろうと思った。さっさとこうしてれば、僕は他の人の邪魔をするなどなかったのに。
──あぁ、僕が生きているせいで母さんに迷惑をかける。生きているから、こんなに苦しいんだ。
──じゃあ、死ねばいいじゃん。
いい気分だった。苦しみから逃れられると考えるだけでワクワクしてきた。それはまるで、新品のおもちゃを開封する子供のような気持ちだった。
ベッドから体を起こし、まずは丈夫な紐を探した。紐を見つけて、輪っかを作るように縛った。その紐を天井から吊り下げ、足元には本を積み上げた。
僕は本の上に立った。
──これで楽になれる。
輪っかに首を通した。
──もう、苦しまなくていいんだ。
足元の本を蹴飛ばした。一瞬の浮遊感。
直後、首が締め付けられる。呼吸ができなくなる。
──これが最後の苦痛だ。
──苦しい。くるしい、くるしい。くる、い……。
──やっと、おわっ……た……
僕は死んだ。
♦︎♢♦︎♢♦︎
僕が目覚めると、真っ暗だった。
本能的に、微かに見える明かりのほうへ進もうとしたが、思うように体が動かせなかった。それでも進んでいるのか、明かりはだんだん大きくなっていった。そして明かりは僕を包み、暗闇が消えた。
「おめでとうございます! 立派な赤ちゃんですね〜!」
ぼんやりとしか見えないが、そこには何人かいたと思う。僕はそのうちの1人に抱えられていた。よくわからなかった。僕はそんなに簡単に抱えられる身長ではなかったはずだ。よく周りを見ようにも、視力が悪いのか、とても霞んで見える。
「お゛あ゛あ゛あああぁぁ!」
自分が何をやっているのかもわからなかった。ただ本能のままに動いただけなんだが、僕は泣いているのか?
──何か大切なことを忘れているような気がする。そういえば、僕は何をしていたんだっけ。なにかとっても良いことだった気がする。長年の願いが叶うような。
「お母さん、無事に出産できましたよ〜! 可愛い女の子ですね! はい、持てますか? こう、頭を支えてあげて……。そうです!」
「私の子供なのですね……。この子が……」
何やら喋っているようだが、混乱している僕には聞こえなかった。
──そうだ、僕は確か、また母さんに怒られて……。
「あなたの名前は
──そのあとは確か、涙が止まらなくなって……。
「
ふと手に何か当たったので、反射的に握りしめる。
──苦しくて、もう楽になりたくて、もう誰かに迷惑をかけたくなくて
──じゃあ、
「ふふふっ。赤ちゃんが指をぎゅっと握り締めてくるのは本当なのですね。愛しています、
──あぁ、
何が起こったか考えついた瞬間、目の前が真っ暗になった。
そんなことがあっていいはずがない。でも死んだ僕が、こうして生きているってことは、そうとしか考えられない。今思ったことが合っているなら、この状況も説明できる。
──今の僕は
「鈴? 泣き止んだのですか? 私がママですよ、
こんなのってあんまりだ。僕はもう死んだんだ。もうやめてくれ、放っておいてくれよ。なのに、なんで。
僕は、死ぬことすらできないのか。
──