プラネットストーム停止の任務で赴いたラジエイトゲートからグランコクマに戻り、ティアが最初に彼を見て感じたことは、純粋な違和感だった。
牢屋に入れられたルークは、何時もと変わらないようでどこか違う気だるそうな顔で、ひらひらと手を振る。
「おう、お疲れ。ローレライの鍵、ちゃんと動いただろ?」
「え、ええ。あの、ルーク……教官は……」
「まだ拉致られたままだ……って、そりゃあ知ってるか。まあ、俺が行くって言ったら、みんなして準備が整うまで待てって言ってさ、だからこんなとこで寝てんだよ」
不機嫌を隠そうともしないルークは、さっきから牢屋のベッドに腰掛けて、手に持ったリグレットの譜銃をぼんやりと眺めている。
「……ったく、どうせあいつ等の狙いは俺なんだし、一人で十分なんだから邪魔すんなよな」
「モースの狙い?」
「ただの勘違いだ。ディストの奴が余計なこと言ったせいで、あいつを何とかすれば俺を操れるとか思ってるらしいぜ」
馬鹿馬鹿しいと吐き捨てるルークは、限りなく何時も通りに見える。昨日グランコクマに残ったモースの部下を、笑顔で拷問して情報を聞き出したという話を、実際に見ていないティアはなかなか信じることができない。
しかも牢屋に入れられているのは、夜中に見張りの兵士たちを張り倒し、アルビオールを盗もうとしたからだと言う。
ティアにも早くリグレットを助けに行きたいという気持ちはあるし、彼の行動も理解できるが、流石に乱暴過ぎる。
皆がルークを抑え、慎重になっているのにはしっかりと理由がある。二日前に現れたモースは、人の形をしていなかったのだ。緑色の皮膚と、常人の二回りも三回りもある巨体。モースは何らかの要因で、すでに化物と化していた。
「つーか、そろそろ行くか。お前らが帰って来たんだし、もう待つ理由もねえだろ。やっぱ一晩考えてみたけど、早く動いた方が都合がいいしよ」
ルークが引き出した情報からすでに、モース一派はレムの塔と呼ばれる創世歴時代から聳える塔に潜伏していることが判明している。それはリグレットが独自のルートで得て、そして斥候を送って裏を取っていた事実でもある。
やることが決まってるんだから、足踏みする意味がない。
そう言ってルークは、一晩だけはラジエートゲートへと向かったティアとアッシュとラルゴの帰還を大人しく待つと強引に約束させ、自ら牢屋に入ったとティアは聞かされている。
あくまでも彼は自らの意志で牢屋に入っており、それは決して強要されたものではないのだ。
「ティア、ちょっと下がってろ。この鉄格子、壊すから」
「ええ」
そういう事実を知っていたからなのか、ティアはルークが当然のように告げた牢屋の定義を壊すような言葉に、疑問すら抱かずに頷いてしまっていた。
「え、壊すって……?」
そして彼の言葉に一拍遅れて首を傾げた瞬間――牢のある地下に轟音が鳴り響いた。
「よし、じゃあ行くか。流石にもう誰も文句は言わねえだろ」
取り上げられていたはずの木刀を肩に担ぎ、叩き折った鉄格子から、彼は平然と悠然と出てくる。
牢屋にまで入ってやったのだから、多少我が儘を言っても許されるとでも、本気でそんなでたらめな理屈を信じてるかのような不敵な笑みを浮かべるルーク。
「ティア、さっさと行こうぜ。早く行かねえと、あいつに怒られそうだし」
「ルーク、あなた……」
たぶん、彼は怒っているのだ。
下手な人質を取られるくらいなら、自分が人質にでもなった方が遥かに安全。あわよくば本拠地に入り込み敵を一網打尽にでも、などと効率と数の上での安全性を重視したに違いないリグレットに、怒りを抱いているのだ。
ティアは先日の、ディストとの空での抗争についての報告書を読ませて貰っている。
あの怠けているようで意外と責任感が強いシンクが書いたそれは、確かな信憑性がある。それにはルークの保有する、一見意味不明な技術についても明記されていた。
ルークなら別に、鉄格子を壊さずとも牢屋から出ることが可能なのだ。
何も考えていないようで実際はかなり計算高いルークが、わざわざ宮殿の一部を破壊して、皇帝に借りを作るような真似はしない。
やはりルークは、平静を装ってはいるが、内心はかなり荒れているのだろう。
無駄に不敵で自信に満ちた笑みを崩さず、轟音によって集まって来た兵士に「悪い悪い、ついストレスで」などと謝ってるルークを見ながら、ティアはある意味後先を考えないで行動してしまった上司の件と合わせ、複雑な溜め息を吐いた。
――これは、かなり荒れそうだ。
*
レムの塔へと向かうアルビオール。メンバーはリグレットを除く、あのヴァンとの戦いに赴いた者達に、ディストを加えただけの少数精鋭だ。
「アリエッタ……リグレットに意地悪する人、嫌いです」
「私も今回は我慢なりませんわ。幼い子供を人質にして彼女を脅すなど言語道断、非道です」
「私も……まあ、流石にやりすぎって思うかな」
憤るアリエッタとナタリア、そして一応恩があるからか控えめに中傷するアニス。
リグレットの救出を目的とする今回の出陣は、ティアの予想通りに荒れていた。特にモースのやり方が気に入らないと、皆はかなり苛立っている。
「確かにな。卑怯な手段だよ、人質ってのは」
「そうでもねえだろ」
いきり立つ女性陣に頷き、ガイが腕を組んで上げた同意の声は、しかしある意味最も意外な人物に否定される。
「卑怯な手って言われんのは、大概が有効で優秀な立派な戦略だ。モースが選んだ手は、どっちかっつーと評価されるべきだぜ」
淡々とした、それこそ不気味なほど冷淡なルークの意見は、確かにその通りだとも思える。ナタリアは非道だと言うが、結果として民間人の死傷者は出ていない。今の所の被害者は、誘拐されたリグレットだけだ。
しかしだ。しかしそれは何か違うと、ティアは不安な気持ちでルークを見る。
戦争にもルールは存在する。使えば確かに有効な毒ガスも、戦場で堂々と使われることはない。
人道や道徳によるルール、そして社会が社会を縛り監視する仕組みの中では、悪辣な手は忌避されてしかるべきものだ。
ともすれば、自分もそういう手段を当然取ると、ルークはそう主張しているように聞こえる。
「まあ、どうでもいいんだけどな」
「随分と余裕がありませんね。思考が戦闘のそれになっていますよ」
あくまでも淡々と言うルークに、ジェイドがやれやれと肩をすくめながら視線をやる。一時はらしくなかったジェイドだが、流石と言うべきなのか、今はすっかりと以前の食えない性格を取り戻していた。尋常ではない様子のルークをからかえる精神は、ティアには多少理解し難い。
「余裕なんざあるわけねえだろ。ディストのくだらねえ推測真に受けてる能無し共が、あいつに拷問でも何でもをしてねえっつー確証はねえんだ」
「リグレットも、まあその程度は覚悟の上でしょ。あいつだったら、ルークの心配もお節介扱いしそうだけどね」
「……勝手に言ってろ」
皮肉げに笑うシンクだが、ティアの見立てでは、言葉通りのことは全く思ってなさそうだった。今は何時もの軽薄さが感じられない。
先ほどから地味に嫌みを言われ、居心地が悪そうにしている背後のディストが動いた気配に、ティアは首を少し動かして後ろを見た。
今回の件に協力することで、ディストは免罪されることになっている。モースと繋がっていて、しかもレムの塔という拠点を与えた張本人なのだから、連れて行かない選択肢はなかったのだ。
「……し、しかし」
若干どもりながらも、ディストは既に平静を装うつもりもないルークに主張する。
「私の推測は、間違っていないのではないですか? あなたが寒気を訴え、リグレットの心配を始めた時刻と、彼女が拉致された時刻は同じなのですから」
「知らねえよ、そんなこと。誰もお前を攻めてねえだろ。むしろモースにしろお前にしろ、目的のために無意味な道徳とかを捨てる姿勢は誉めてんじゃねえか」
めんどくせぇと乱暴に吐き捨てるルークに、ディストはまた怯えてティアの後ろに隠れる。
先ほどから続くやりとりに、ティアは辟易する。一度やんわりとディストを庇ったら、さっきからこの調子だ。
ルークを煽るジェイドにしろシンクにしろディストにしろ、そろそろ止めて欲しい。無駄な努力だ。
彼はたぶん、この事件が終わるまで元には戻らない。
ジェイドの指摘通り、ルークの思考は既に戦うためのものになっている。彼はその情け容赦を排除した脳髄で、一年前邪悪に笑いながら世界を動かした時のように、全てを終わらせるための計算をひたすら行っている。一年前の、止まることを知らない状態に戻っている。
……だから、もう邪魔をしない方がいいのに。
ティアは何故か悲しくなる自分を不思議に思いながら、リグレットを助け出すために動き出したルークを、ぼんやりと眺めていた。
*
ディストが設置した対空譜業兵器があるため、アルビオールで教団のものに似た旗が突き立てられたレムの塔の天辺に乗り付けることはできなかった。
地上からは先端が見えない、白亜の巨塔。隠れ家にするには明らかに不相応なそれは、しかし存在感を示す本拠地として使用するにはこれ以上ない物だ。
堅く閉ざされた分厚く大きな扉の前には、純白のローブを着込んだ、巨体の門番まで立っている。
モースはレムの塔を城とでも思わせたいのかと、ティアは冷たくそれらを見やる。
船とアルビオールの速度差から計算し、モース一派より約五時間遅れて到着だった。リグレットは未だ捉えられており、その身に危険が及んでいる可能性もある。穏やかな気持ちでいられるはずがない。
「ローレライか?」
明らかに人間には見えない門番が、妙な響きを持つ声を出す。
深く被ったフードの下から覗く顔は緑色で、身体は不自然に膨張している。目の前の存在から感じる歪な第七音素の反応に、ティアは何となく理解した。
素養がない者が無理に第七音素を使用した対価として、彼――それにモースも、人の姿、そして寿命までもを捨てたのだ。
「見りゃあわかるだろ、そんなこと。くだらねえ質問してねえで、さっさと開けろ」
「まだ準備が整っていない。モース様からの指示があるまで、この扉は開かれない」
どこか下非た声色で答える門番に、ルークは眉根を寄せる。ティアもその愉悦の情が混じった話し方に、思い当たるものがあった。
この不愉快な雰囲気は、弱者をいたぶり見下す時の独特のものだ。
「あなたたち、何をするつもり――いえ、リグレット総長に何をしているの?」
「知れたことを。我々の理念を理解させているに決まっている」
今度ははっきりと浮かべられた嘲笑に、シンクが同質の笑みでもって返す。
「理念、ねえ。リグレットがあんた達の理念に共感して仲間になれば、ローレライ様もついて来るって考えてるわけ?」
飛躍しすぎだし、あの石頭が共感するなんて有り得ないでしょ、と鼻で笑うシンクに、しかし門番は余裕の笑みを崩さない。それどころか一層不愉快な笑みを深くし、ティアとシンク、そしてルークを見た。
「ローレライも契約者を見殺しにはしないだろう。ハハハハハ、今頃はあのヴァンの犬も我々の理念の素晴らしさに泣いてるだろうな」
――ァァァァアアアアアアアアアアッ!!!――
「この声……っ!」
言葉が終わると同時、押し殺された悲痛な絶叫が響き渡った。
門番の手に浮かぶ譜陣から聞こえる、リグレットの限界まで漏らさずに我慢した、その分余計に悲痛に響く悲鳴。その痛々しい声に、ティアの理性が一瞬で崩壊しそうになる。
「あのいけ好かない女は、モース様に拷問されている。ふっ、あの女を痛めつけるだけでローレライを動かせるなんて、我々にとってはいい話ばかりだ」
「……とことん屑のようだな、てめぇ。聞き覚えのある声だと思ってたが、その腐った性格、モースの取り巻きの詠師か」
「久しぶりだな、特務師団長。どうだ、見違えただろう? 今なら生意気なお前にも、導師のレプリカにもあの女にも負けんぞ」
剣の柄に手をかけるアッシュに、門番は挑発的に口の端を吊り上げてローブを脱ぎ捨てた。
譜陣からは、ローレライに協力するように言えと叫ぶモースの声と、ひたすら響くリグレットの痛みに耐える声。
もはやこれは、リグレットに対する拷問ではない。ただ痛めつけ、ルークに見せ付けているだけだ。
沸々とわき上がる怒りを抑え、ティアは杖を構える。平和的な解決をする気はない。相手がその気なら――
「――そこを、退いてもらうわ」
――潰すまでだ。
「だ、だめ……です……」
敵を排除するための詠唱を始めようとしたティアの腕を、今にも泣きそうなアリエッタが桃色の髪を振り乱して必死に引いた。そして化物と化した元詠師に向かって、震えながら訴える。
「やめないと……やめないとダメ、です。早く、早く扉をあけて……じゃないと……!」
「ふはははははっ! 獣はよくわかってるじゃないか!! そうだ、少し強いだけの貴様等では私には勝てん。私もあの裏切り者、強者に尻尾を振ることしか知らない女を正しく導いてやる役をやりたかったが、丁度いい! 代わりに貴様等に説教をしてやろう!」
「あ、あんたねぇ……っ! 言ってることむちゃくちゃじゃん!」
「おっと、ここにも裏切り者がいたか! 安心しろ、お前もリグレットと同じように、我々の有り難い説教で正しく導いてやる。素晴らしさのあまり涙が出ることだろうな!!」
歯を軋ませるアニスに、わざわざリグレットの悲痛な悲鳴をより大きな音で聞かせ、元詠師の男は高笑いして拳を構える。
「違う、違うの……! そうじゃないです!! 止めないとあなたが……」
「アリエッタ」
フォンスロットを開き、音素を取り込み始めた男を、それでもなお止めようとして瞳に涙を浮かべるアリエッタ。その肩を掴み、仮面を外したシンクは――引きつった笑みを浮かべて、極まった諦観をゆっくりと首を横に振って示した。
「はは……もう、遅いよ。あいつ……モース達は、終わった」
二人の尋常ではない様子に慌てて後ろを振り返ったティアは――シンクと、否、仲間達全てと同じく、諦めた。
それを見た瞬間、ティアは確信する。
――もう、無理だ。この男がこの先五体満足で生きることは、たった今不可能になってしまった。
彼――あの彼が、本気でキレてしまったのだから。
黒い大きなマフラーで口元を隠し、俯きながらゆらりと歩を進めるルーク。
自信と力に満ちた詠師が迫り来るのを気にも止めず、ルークは悠然と歩み続ける。
そして無造作に片腕を突き出した彼の周囲で、金色の第七音素の粒子が踊る。金色の光に次の瞬間には真紅が混じり、一気に輝きを増す。
「お前――――」
「は……?」
第七音素の力の本質は、干渉。
ルークはそう言ったが、第七音素を振るう彼は、事実そのような控えめな言葉では足りなかった。
激しい焔を湛えた緑色の瞳と、波打つ焔の髪。
真紅に染まる世界を従える彼は、ただ一言、世界に命じる。
「――――邪魔」
轟、と世界が軋んだ。腕より放たれた第五音素の力――一本の極太の炎の柱は、詠師はおろか堅く閉ざされた頑強な壁を焼き貫く。
第五音素譜歌ジャッジメント――ティアが始祖ユリアより受け継いだ譜歌に酷似した、しかし遥かに上回るその力は、彼の前に存在する障害を文字通り消し飛ばしたのだった。
扉に円形に開いた巨大な穴。皮膚が炭化して全身が痛々しい黒色に染まっている男は、その穴の向こうに倒れ伏し、痙攣している。
「モースに繋げろ」
「ガハッ……ッ!」
歩みを止めず、既に身動きさえ取れないような男に近づいたルークは、容赦なく男の腹部を蹴り上げた。
「三秒以内にモースに俺の声を伝えろ。そしたら命だけは助けてやる」
「ざ……っ!? ぶ、ぶでぃで……」
「――もういいよ、お前」
「ぎゃぁぁァアアアアアアアァアアアアアアッ!!」
ゴキリ、と背筋が冷たくなるおぞましい音が響く。
焼け付いた喉を、それでもどうにか動かそうとしていた男の手を、ルークは呼吸するように踏み潰した。踏み潰して、骨を砕いた。
続けてもう片方の手、そして両足。ルークは歩くついでのように、次々と骨を踏み砕いた。
「ジェイド、お前ならできるだろ? モースと話したいんだ、頼む」
気絶した男に最低限の治癒術をかけ、命だけは助かるようにして、レムの塔の内部、その中心にある大規模な昇降機に向かうルーク。まるで抑揚のない平坦な声に、ティアはただひたすら恐怖する。
「……ええ、少し時間を頂ければ可能です。上に向かいながらやりましょう」
「そっか、助かる。それとディスト」
「は、はいっ!」
「道案内、よろしく頼む。最短で上まで連れてってくれ」
「わかりました、皆さん早く昇降機に!」
彼が発する透明な重圧に、鬼気迫る様子でディストが走り出す。まるで日々の日課をこなすように機械的に行われたルークの凶行に、呆然とすることしか出来なかったティア達は、ついで弾かれたようにディストを追った。
「この音機関は壊れていたんですがね、私が使うにあたって修理したのです。侵入者対策として管理者――今はモースの権限で停止することも可能ですが、そのシステムを構築した私ならば動かせます」
ディストは昇降機の床のハッチを開き、その中にある複雑な配線と装置をいじり始めた。専門外のティアには何をしているのか理解できないが、流石にディストは普段のように嬉しそうに解説はせず、額に汗さえ浮かべて作業を続ける。
「ただ、この昇降機で最上部、モースの所までは行けません。途中で私が増設した物資運搬用のリフトに乗り換え、そこからもう一度昇降機に乗り換えて、ようやく到着です。おそらく十五分程度はかかるでしょう」
「ねえ、ここってディストの拠点の一つだったんでしょ? 何でモースにあげちゃった……って言うか、何でディストってばモースに協力してたの?」
「私はモースから、ネビリム先生のレプリカ情報をもらうことになっていましたからね。ダアトからの脱出と隠れ家の提供が取引条件だっただけです」
しかし、奴はレプリカ情報なんて持っていませんでしたけどね。このディスト様を騙すなんて……と、アニスに答えた後でディストはぶつぶつと呟きながらハッチを閉める。
数秒してすぐに昇降機は上昇を始め、ディストは満足そうに、そしてルークを横目で見ながら安堵したように頷いた。
ティアもつられるようにして横のルークに視線を移す。ルークは何をするでもなく、怒りからか瞳を細めて、ただ静かにジェイドが譜陣を描き終えるのを待っていた。それが嵐の前の静けさに思えて不気味だが、どうすることも出来ない。
周りを見れば、程度の差こそあれ皆が皆難しい顔をしていた。リグレットの安否を心配する者、ルークの暴挙に不安をあらわにする者。戦いを控える今の状況では、最悪とも言える雰囲気だ。
「あの……モースの目的とは、結局何なのでしょう。リグレットを使いルークを手中におさめ、それからモースは何をしようとしておりますの?」
どこか怯えている様子のナタリアが、小さく両隣のアッシュとラルゴに問いかけた。落ち着かないのか、手に持った弓を無為に撫でている。
「モースは典型的なスコアの盲信者だ。スコアの復活だろうな、狙いは」
「モースの野郎は、おそらく自分でスコアを詠むつもりだな。さっきの詠師の姿、あれは無理に第七音素を体内に取り込んだ拒否反応だ」
モースとそれなりに関わりがあったラルゴとアッシュは、確信を持ってナタリアに答えた。
ティアの考えも、二人と同じだ。
モースはルークをローレライと勘違いしている。ローレライの協力をもってすれば、ユリアのスコアに迫るものを詠めると思っているのだろう。
ルークにそんなことをさせるためだけに、リグレットを痛めつけるなど言語道断だ。あまりにも無意味で、不用意としか思えない。
「…………第七音素汚染による、理性の崩壊……厄介ね」
おそらく今、モースは普段通りに思考出来ていない。先ほどの詠師もそうだったが、理性がまともに働かず暴力的になっている。人質を取られている現状は、厄介としか言いようがないのだ。
「ルーク、繋がりましたよ。あの男が使っていた譜術を模倣したものですので、そのまま喋るだけで結構です」
一息吐いたジェイドが、片手に譜陣を携えルークに向かって頷く。それまで一言も発さずに沈黙を保っていたルークは、迅速に譜陣――その向こうのモースに冷たく言い放った。
「ルークだ。今からそっちに行く、それまで何もすんなよ。……ジェイド、もういい」
相手の反応も待たずに、ルークは一方的に会話とは言えない会話を終えた。
「ねえルーク、よかったの、あんなので? もっとしっかりと言わないと、リグレットが危ないんじゃない?」
「大丈夫ですよ、アニス。彼の狙いはルークなのですから、今のでルークの存在は示せましたし、何より相手を刺激するのはよくありません」
不安げにルークを見上げたアニスに、ジェイドが心配ないと首を振った。
押し殺された平坦な声は、しかし下手に脅すよりも、下手に出て頼むよりも、よほど効果的だとティアも冷静に判断する。
そもそもだ。
そもそも、ティアがよく知っているルークは、とてつもなく短気だった。成長して帰って来た彼だが、それでもやはり我慢の限界というものはある。
理性が危ういモースと、怒りを抑えに抑えたルークの間では、まともな会話は成り立たなかっただろう。
昇降機の上昇が止まり、扉が開く。
その瞬間にディストを危険な色で染まった瞳で見やるルークに、ティアは共感を覚える。
リグレットを無意味に傷つけ侮辱する奴らとなど、言葉を交わすことでさえもおぞましい。
*
レムの塔――完成に至る前に放棄された、その塔の事実上の最上部。暗色の重たい雨雲が間近に見える、天蓋すらないそこに、リグレットはいた。
冷たい灰色の金属製の板に、身体を固定されているリグレット。両手は頭上で纏めて拘束され、足も同じように無骨な金属製の枷で封じられている。
昇降機で到着すると同時に視界に入った、貼り付けにされた意識を失っているリグレットの横には、不気味な緑色の巨体、人を捨てたモースが宙に浮いて存在していた。
「…………ひどい」
纏う黒の軍服は焼け焦げて破れ、そこから覗く肌には生々しい傷がある。熱で赤黒く変色した傷は幾つもあり、瞳が閉ざされた顔は青ざめていた。
辺り一帯にある残留音素の反応から、容易に予想がつく。モースは抵抗出来ないリグレットに、譜術を食らわせていたのだ。
「り、リグレットは……無事なのですか……?」
足下に血だまりが出来ているのだ、無事なはずがない。震えるナタリアもわかっているが、理解したくないのだ。
「モースッ! お前……お前、これが女性にすることか!」
「少なくとも、ルークを動かすことが狙いなのだとすれば、ここまでする必要性は皆無ですね」
今にも刀を抜いてモースを斬りつけそうなガイの肩を掴み、眉一つ動かさないジェイドが首を横に振る。
奴をこれ以上刺激するなと、ジェイドは無言で告げる。下手に動けば、リグレットが死ぬ。
「ようこそ、ローレライよ」
リグレットに片手を向けながら、モースは不自然に響く声を発する。
「まさかあの餓鬼がローレライだったとは、夢にも思わなかったぞ。貴様はこの位しなければ、到底言うことを聞くような奴ではないからな」
浅い呼吸をする瀕死のリグレットの真下に、譜陣が浮かび上がる。モースはそれを確認して満足そうに頷き、悔しさと怒りで震えるティアの背後を指差す。
「ローレライ以外は、皆あの檻に入れ。ローレライ、貴様は全ての武器をこちらに渡せ」
あの檻と示されたのは、複雑な作りをした大きな透明な箱。ただの檻には到底見えないそれに眉を寄せる自分たちに、ルークが静かに頷いた。
「大丈夫だから、入っててくれ」
「で、でも……ルーク、あなたは大丈夫なの?」
「ティア、頼む」
明らかにモースは戦力を削ごうとしている。あの透明な箱は、以前にシンクの報告書で知ったディストが作った音素を遮断するというそれに違いない。一度入ってしまえば、自分達は何も出来なくなる。
しかし、ルークだってそんなことは理解しているはずだ。理解した上で、モースに従えと言っているのだ。
「……わかったわ、気をつけて」
だからティアは全てを飲み込み、頷いた。瀕死の人質を取られている今、彼に任せるしかないのだ。
モースと同じように、無理に第七音素を取り込んで人外と化した三十名程の集団が、檻の後ろから現れる。
ダアトから姿を消した、モースに組する者達だ。
緑色の人外に引き連れられ、ティア達は檻に入れられる。その中の一人が、ルークから全ての武器を奪い取り、リグレットの下の譜陣に投げ込んだ。
木刀、銀の装飾ナイフ、薬を入れた道具袋、そして預かっていたリグレットの二挺の譜銃。それらを受け入れた譜陣は、怪しく輝く。
「貴様の武器の性質は知っているぞ。この譜陣から武器が出た瞬間、リグレットは死ぬと思え。それと、今から貴様に封印術をかける。避けるなよ」
モースは手のひらに収まるほどの箱を取り出し、佇むルークの頭上にそれを投げる。蓋が開いた箱からは光が溢れ、ルークに降り注いだ。
「ふはははは、さて、これでようやく準備は整った。ローレライ、私に協力してもらうぞ」
「…………終わりか」
勝ち誇った笑いを漏らすモースに、ルークは顔を伏せて小さく呟いた。
「ちっ……! どうするつもりだ、あの屑! 封印術までかけられたらどうしようもないぞ!」
「ディスト、あんな物まで渡してたんなら言っときなよ!」
危険な展開にアッシュとシンクが、透明な壁を叩く。過去、あのジェイドをも無力化した封印術だ。モースの用心深さを計り誤っていた。
脳裏に響く警鐘に、ティアはジェイドとディストに向かって目前の壁の対処法を問おうとして――
「くはは……ははははっ……ハーッハッハッハッハッ!! やっと終わったのか、準備が! 今更、さんざん待たせて、やっと準備が終わったのかよ! ――おせぇんだよ緑豚ッ!! てめぇ何ちんたらやってんだ!! もっと早く動きやがれってんだ、このウスノロが!!」
――思わず息を飲んだ。
ルークは笑っていた。憤怒に顔を歪め、邪悪に口元を吊り上げて、口調とは真逆の冷たい殺意を瞳に込めて、笑っていた。
「な……何を……貴様、変な真似をすればリグレットの命は――」
「――殺してみろよ」
尋常ではない、それこそ頭がイかれたのかと思うほど高笑いを、不気味なほどぴたりと止めたルークは、今にも振り出しそうな空を仰ぎ続ける。
「勘違いすんなよ。てめぇがリグレットの命を握ってんじゃなくて、リグレットがてめぇの命を握ってんだ。リグレットがこれ以上何かされたら、死ぬのはてめぇなんだってことを忘れるな」
「な――……」
何だ、それは。何なんだ、そのむちゃくちゃな言葉は。どうしてルークは、そんな荒唐無稽なことを、真理を語るように言っているのだ。
片手を空に掲げたルークの周囲に、金色の粒子が集う。そして口早に詠唱された治癒術の暖かな光がリグレットを包み、ついで土色の粒子が舞う。
「……あれは、ティアの第二譜歌か?」
土色の粒子はリグレットの周囲を覆う障壁へと変貌して行く。ガイの唖然とした呟きの通り、それは確かに最高の硬度を誇る障壁、第二音素譜歌フォースフィールドに酷似していた。
「な……何をした、ローレライ!?」
「てめぇに巻き付いてた爆弾を外してやっただけだ。よかったな、リグレットが助かって。これでお前の死因がたった一つだけどなくなったんだ」
本気で言っているルークに、明らかにモースが殺意を向けた。完全に無力化したと思っていた相手に、まんまと出し抜かれたのだ。頭にくるのは当然だ。
「ふ、ふざけるな、貴様には私の――私たちの悲願、スコ――」
「うるせぇよ。てめぇの悲願になんざ興味ねえ。普段なら聞いてやるが、こちとら今は機嫌が悪ぃんだ。考えるのももう面倒だし、今からは一切合切考えることはやめて、ひたすらてめぇをしばき倒す」
ここまで手の込んだことをして、ここまで人を捨て、ここまで人をやめた――モースをここまで駆り立てた悲願を、聞くことすらせずにルークは切り捨てた。
ぽつりと、雨粒が空より落ちてくる。強くなってきた風に、焔の髪と漆黒のマフラーをはためかせ、ルークは感情を消した瞳でモースを睥睨する。
ティアは悟った。
ルークは待っていたのだ。
この時を、ひたすら待って、静かにしていたのだ。
今からは間違いなく――嵐が来る。
「ふ、ふざけるな!! 武器のない貴様に、封印術をかけられた貴様に――何が出来る!」
叫び詠唱を始めたモースに、ルークは普段とはかけ離れた――殺すためだけに生きているような冷酷な顔で告げる。
「お前、間違いだらけなんだよ。俺はそもそも――」
――サンダーブレード――
人をやめた賜物か、モースは凄まじい速度で譜術を発動した。空に生み出された雷の大剣が、電流を迸らせながらルークに――今や民間人と何ら変わらない力しか持たないルークに堕ちる。
透明な壁越しにそれを見ていたティアは、思わず目を瞑る。
「……私は……不謹慎ですが、私は今、期待しています」
「え……大佐?」
粉塵が舞う向こうを見ながら小さく呟いたジェイドに、ティアは何を言っているのだと目を剥く。
「ルークは今まで、頑に本気を出そうとしませんでした。何時も戦闘には直接関わらず、後ろから小細工を弄する程度。その彼が怒り狂い、敵を殺す気で戦おうとしている。損傷していたとは言え、私の槍を容易く破壊した彼の真の実力には、非常に興味があります」
雷光煌めく戦場を、一つの影が駆け抜ける。それは決して速くない。むしろ戦を生業とする者達――自分達と比べれば、遅い部類に入る。しかし、間近に雷撃を受けたとは思えないほど軽やかに走っていた。
粉塵を突き抜けたルークは、宙に浮かぶモースへと迫る。
モースは最早凶器と化したその棍棒のような緑色の腕を、ルーク目掛けて横に振るった。
しかしルークは地を這うように体勢を低くして、その暴力をくぐり抜け――
「――俺はそもそも、剣士じゃねえ」
――右の拳をモースの腹に叩き込んだ。
「穿衝破!!」
そして真っ直ぐに突き出した拳を引き戻すと同時、左の拳を振り上げる。収束された音素が解き放たれ、衝撃波となってモースを襲う。
「な、なんだ……全く効かな――」
「鷹爪豪掌破」
「――なぁっ……!?」
威力の低さに安堵したモースの腹に、身体を捻りながら跳躍していたルークの、上空から斜めに軌跡が描かれる回し蹴りがめり込む。着地、そして繰り出される掌底。掌より放出された音素は爆発し、モースは僅かに後ろに下がった。
「――アルバート流ってのは、アルバートが戦時に何千何万もの敵を薙払う為に作った流派だ。戦場で敵を殺すための流派が、剣がなけりゃあ戦えないはずがねえだろ。アルバート流ってのはそもそも剣術じゃなくて、戦術なんだよ」
ルークはあまりに無力だった。完全に攻撃が入っても、モースは多少怯む程度。
今のモースにとっては、ルークなど小虫に過ぎなかった。
「瞬迅拳」
「小癪なガキ――」
「双牙斬」
距離を取ろうとしたモースの足に、高速の突きが決まる。ついで間を置かずに振り下ろされ、跳躍とともに閃き振り上げられた五指の先の音素を纏った爪が、モースの皮膚に浅い切り傷を負わす。
「チョロチョロチョロチョロと……! 死ね!!」
「烈穿――」
今の弱体化したルークなら致命傷になりかけない一撃、真っ直ぐに突き出されたモースの右の拳を、斜め前方に踏み出すだけで交わしたルークは、地を強く踏みしめ脇腹に左の拳を叩き込む。
「――双撃破」
左の突きと寸分違わぬ位置に右の掌底、そして音素の爆発と共に再び衝撃波を伴う左の拳を振り上げた。
止まることなく打ち込まれる拳。それは遂に、モースを後方に吹き飛ばした。
今のルークは、あまりに無力だった。しかし彼は、強かった。
圧倒的な能力差を、技術だけで上回る彼。一発当たれば負けという状況で、しかし彼は攻め続ける。
「焼け死ね――エクスプロードッ!!」
放たれる譜術を巧みに避け、そして捌き、敵に肉迫する。
「岩斬滅砕陣」
空中で回転し、組んだ両手に遠心力と重力を加え、地面を叩き割る。音素によって爆ぜた地は、瓦礫となってモースを襲う。
――ルークは間違いなく天才だった。生まれて七年という若さで剣を振り、鍛えられた兵士達を倒す様は、確かに天才だった――
「守護氷槍陣」
「ガァアアアアアア――――!!」
ルークを中心に地面より咲き乱れた幾本もの氷の槍は、モースの足を貫く。
「それに、俺は封印術なんかかけられても、十分に強え。間違えんなよ、小悪党」
淡々と言うルークは、足を縫い止められたモースに迫る。
――ルークは間違いなく天才だった。しかしそれは、十年に一人はいる天才。遥か昔、勇者や英雄と呼ばれた存在には、到底及ばない天才――
「襲爪雷斬」
第三音素、雷を纏った爪はモースを真上から切り裂き、そして切り上げる。そして曇天――今や豪雨が降り注ぐ空に舞い上がったルークは、モースの頭上に雷と共に悪魔のような凶悪な爪を堕とした。
――しかしルークは、強かった。脆弱な人の身でありながら、強靭な人外を嬲る。どれだけの修練を積めば、あれほどまで戦うことに特化できるのか、ティアには想像もつかない。どうしてあれほどの高みに上り詰めることが、少し才能がある人間に可能なのか、ティアは理解したくない――
「な、何故だ!! 第七音素の、導師の力を得た私が――」
「翔破裂光閃」
フォンスロットを開き、反撃しようと試みるモース。しかし閃光を放つ無数の突きに貫かれ、モースは動くことすら出来ない。
「絶破烈氷撃」
爆発して肉体を抉る氷。
「烈震天衝」
巻き上がり身体を穿つ大地。
「空破絶風撃」
拳から放たれる、圧縮された風の一撃。
「紅蓮襲撃」
炎を纏う上空からの蹴り。
ルークの攻撃は続く。モースの反撃を紙一重で避け、時には受け流し、そして一方的に打つ。
とめどなく放たれるルークの拳と足、そして爪。小さな小さな傷は、やがて重なり繋がり、深く大きくなる。
モースにとって、今のルークは小虫に過ぎなかった。しかしそれ以前に、ルークは世界にとっても小虫に過ぎなかった。
モースは見落としていた。小虫に過ぎなかったルークが、でも、確かに、世界を震撼させたということを。
封印術があっても、武器がなくても、そんなこと、きっとルークには関係ないのだ。
――ルークはきっと、真の意味で勇者にも英雄にもなれない。勇者も英雄も、人間がなるものだから――
「魔王絶炎煌」
とどめとばかりに、ルークはモースの脳天に、空高く上げられた脚を振り下ろす。炎を纏った脚はモースの頭頂部から顔面にかけてを焼きえぐり、大地を割った。
「最後に、俺はローレライなんかじゃねえ。俺は――ルークだ」
――人を捨ててまで得た力を持つ人外に、脆弱な力しか持たない人間は勝ってはならない――
――ルークはきっと、勇者にも英雄にもなれない――
――だって彼は、純粋な人外――悪魔なのだから――
地に這い蹲り痛みにもがき苦しむモースを、冷酷な瞳で見下ろすルークは、無造作に顔面を蹴り上げた。そして重い肘の一撃で追い討ちをかける。
「今の俺じゃあ、てめぇを楽に殺してやることも無理みてえだ。――そういうわけで、地道にその脂だらけの肉をこそぎ落としてやるよ」
邪悪に笑い、ルークは作業を始めた。ダメージで動きの鈍ったモースを、ただ無機質に、しかし反撃の余地を残さぬ徹底ぶりで嬲り続ける。
「まったく、無駄に頑丈な身体してんじゃねえよ。しかも治癒力も高いし――ハハハッ、これじゃあ気絶も出来ねえな」
「がっ! も、もう止め……っ!」
「はあ? お前が俺にくだらねえ封印術なんかをかけて、武器まで奪ったんだぜ。そんなことさえしなけりゃあ、さっさと楽になれてたってのによ。お前、脳まで腫れ上がってんじゃねえの?」
当然のようにモースをいたぶる彼は、ただただ怖かった。何時ものやる気のない顔とも、真剣になった時に浮かべる不敵な笑みとも違う、透明に純粋に邪悪でしかない笑顔。
吹き荒れる風に焔の髪を暴れさせ、打ち付ける暴雨を血で染める。
その様はまさしく――赤い悪魔。
残虐を体現するルークを、皆はただ放心して見つめていた。見つめることしか、出来なかった。
「……アルバート流は……俺の身体は、あそこまで強くなれるものなのか……」
脆弱な力を圧倒的な技に乗せて暴れ狂う赤い悪魔と、起源を同じくするアッシュは、取り憑かれたかのようにその惨劇を目で追う。ティアはルークから目を離すことなく、感じるがままに口を開いた。
アッシュは、間違えている。
「あなたは……いえ、例え誰でも、ルークにはなれないわ。いくら肉体が同じでも、精神は――心の在り方は、同じでは有り得ないわ」
今や、ただの血達磨と化したモース。命はあるようだが、最早生きているだけとしか言えない状態のモースから離れ、ルークはリグレットの下へと向かう。
「ほんと……何が間違いだらけ、だよ。見苦しい言い訳」
呆れ果てたように、深く深く溜め息を吐いたシンクは、先程のルークの言葉を辿る。
「アルバート流は剣術じゃなくて戦術。弱体化しても十分に強い。ローレライじゃなくてルーク。……そんなの、全然関係ないじゃないか」
顔色は悪いが、治癒術により傷が癒えたリグレット。ルークは先程までの悪魔のような形相を消し去り、安堵しきった穏やかな、そしてどこまでも優しい表情で、彼女を拘束していた枷を外す。そして両腕でリグレットを優しく抱きかかえて、こちらを振り向いた。
「モースが犯した間違いなんて、実質は一つだけじゃないか」
馬鹿みたいとシンクは鼻で笑って、疲れ果てたように肩をすくめる。
「この世で一番手を出すべきじゃない奴に、手を出しちゃったって、ただそれだけのことだよ」
先程までの惨劇に、そしてモースの惨状に固まるモース一派を気にも止めず、ルークはゆっくりとした足取りでこちらに向かって来た。
「…………ええ」
リグレットを救い出したルークの、穏やかで慈愛に満ちた表情に、ティアは自然と漏れる苦笑を隠そうともせずに、小さく頷いた。
「そうね――教官は、ルークの大切な人だもの」
皆が見つめる中、歩むルークの腕の中で眠るリグレットが、意識を取り戻したのか小さく身じろぐ。それに気づいたルークは腕を揺らして振動を与えながら、嬉しそうな笑顔を見せる。
「リグレット? 気づいたのか?」
「ん……すみま…せん、閣下」
「…………っ……」
穏やかに幸せそうに身を委ね、途切れ途切れに紡がれたリグレットの言葉に、ルークは一瞬その笑みを強ばらせた。
「……あー、まあ、お熱い寝言吐けるなら、大丈夫そうだな」
どこか影のある苦笑を浮かべて、ルークはリグレットを床に下ろした。それから面倒臭そうに頭をガリガリと掻き、首に巻いていたマフラーをリグレットに雑にかける。
「おう、みんな。とりあえずリグレットは助けたし、そろそろ帰ろうぜ」
「私たちは見ての通り、閉じ込められてますからねぇ。帰ろうにも帰れませんので、頑張って助けて下さい」
「ルーク、超振動で壊せるか?」
先程までとはまるで別人のような呑気な声で、呑気なことを言うルークに、ジェイドが笑いながら手の平で透明な壁を叩き、ラルゴが真面目に聞いた。
「えっと、ぶっちゃけ無理だな。かなり疲れてるからさ、今やったら細かい制御とか出来なくて、お前らごと蒸発させちまうこと請け合いだ。ジュワッて感じで」
「じょ、蒸発って、冗談きついぞルーク……!」
「いや、冗談でも嘘でもねえから困ってんだよ、俺は。うん、マジでどうしよう? 誰か助けてくれ」
「私たちに聞かないでよね! さ、さっきまでは凄かったのに! 半分くらいは白馬の王子様的なポジションだったのに! もう今ので全部台無しじゃんっ!」
へらへらと笑うルークに、ガイとアニスがばんばんと壁を叩きながらがなる。
先程から「う、無茶をした反動が……!」などと、そんな台詞を棒読みで吐いて誤魔化そうとしているルークに、皆はキレていた。
「ルーク、今はふざけている場合ではありませんわ。モースの部下がまだおりますのよ」
「この屑が! 最後の最後で能無しに成り下がるな!!」
「いや、最初から最後まで空気だったお前には言われたくない。俺にもプライドがあるんだ、空気アッシュ」
甘んじてナタリアの怒声までは受けたが、何故かアッシュにだけ異様に冷たい反応を返して、ルークは再び頭を抱える。
「分解バラすにしても、今の状態じゃあ時間がかかるし――って、お前らと無駄話してたせいで、あいつらが来たじゃねえか!! もう死ね、アッシュ! 死ね、死ね、邪魔ばっかすんじゃねえよ、死んじまえアッシュ!!」
瀕死まで追いやられた自分達の指導者に衝撃を受け、今までただ立ちすくんでいたモースの部下達が動き出した。
獣のような雄叫びを上げ、理性が消え去った彼らは本能の赴くままに、ルークに襲いかかる。
ルークは何故かありったけの怨嗟をアッシュにぶつけ、とりあえず逃げるために走り出した。
「ちょ、ちょっと大佐! この檻、本当にどうにもならないんですか!?」
「嫌ですねえ、ティア。何とかなるなら、私は今ここにいませんよ。それにこれはディストの作品なのですから、私に聞かずにこの男に聞いて下さい」
「言っておきますが、私の設計は完璧です。音素を遮断していますから、中からはほぼ間違いなく壊せませんし、外からは……壊す人間がいません。流石はこの私、薔薇のディスト様、完璧ですね」
「威張らないで!」
無駄に胸を張るディストを睨みつけ、ティアは痛くなってきた頭を押さえた。
さっきより、明らかに状況が悪い。モースと同等の力を持つ者達が、三十を超えているのだ。
今の弱体化したルークでは、流石に無理だ。一対一なら負けないのだろうが、三十には絶対に勝てない。
「…………何を遊んでいるんだ、あいつは」
「教官!」
壁の向こうで辛そうに額を押さえて上体を起こしたリグレットは、後ろに三十と二の緑色の化物を引き連れ、何か喚き散らしながら走り回っているルークを眠気眼で見る。
そして透明な檻に入れられている真横のティアに視線を移し、不思議そうに首を傾げた。
「ティアか。助けに来てくれた……のだよな?」
「そ、そうなんですけど、助けて下さい! 出られないんです」
「リグレット! 起きたんならこっち手伝えじゃなくて手伝って下さいマジで!! 死ぬ、俺死ぬっ!!」
半泣きのルークは、すでに敵に囲まれていた。封印術により低下した身体能力では、純粋に速度が出ないらしい。
しかし事情を知らないリグレットは、ふらつきながら立ち上がり、怪訝そうに眉を寄せる。
「確かに大した戦闘能力ではあるが、お前なら何とかなるだろう。以前ディストの攻撃を防いだ時に使っていた、ティアの譜歌と同じ力もあるし。出し惜しみしないで、意識集合体の力を使えばいい」
「あれは集中力がいるんだよ! 封印術かけられて今身体がガタガタだし!」
「封印術……お前、どこまで呪いに好かれているんだ」
「好かれてねえよ!! つーか死ぬぉぉおおおっ!?」
一斉に全方位から譜術を放たれたルークは、絶叫しながら障壁を張り、床に這い蹲った。何とか無事なようだが、死んでもおかしくない状況なので、ティアには全く笑うことが出来ない。
避けることが出来たのは奇跡に近いのだ。真っ青な顔のルークには、本当に余裕がないらしい。
「私の武器は――あそこか」
言って、リグレットは駆け出した。
包囲を抜けようと、いつの間にか手元に呼び戻していた木刀を構えるルークを横目に、彼女は走りながら火の玉を生み出して、敵に投げつける。爆発して小さな火柱を上げたそれは、陽動程度にはなったらしく、ルークは敵の隙をついてリグレットの方へと走り出した。
合流した二人は背中を合わせ、それぞれの得物を構えて敵を見据える。
「ルーク」
「何だ!?」
「ありがとう、助けてくれて。あと、導師に聞いた。一千万ガルド、絶対に返す。私はいらない」
「今言うなよそんなこと! つーかお前の情報網使わしてもらうために払った金だから、あれは」
「そうか。なら貰っておく」
「……絶対に返すんじゃなかったのかよ」
「寝ぼけたことを、ビジネスだったのなら話は別だ」
ふざけたことを言い合う二人は、しかし油断なく再び周りを囲み始めた敵達を視線で牽制し、呼吸と間合いを計り、そして来たる開戦の瞬間を待つ。
じりじりと、魔物が集団で狩りを行う時と同様に包囲を狭める敵。
次第に緊張感が増し、重く冷たく張り詰めて行く空気。いつの間にか仄かな白光を纏い始めた譜銃を構えるリグレットは、その中で至って普通に平然と後ろのルークに言う。
「ルーク。今更言っても仕方ないが、私はどうやら貧血らしい。実はさっきから、立っているだけで辛いんだ。だが安心しろ、五人は私が責任を持って始末する」
「安心しろ。俺だって封印術のせいで笑えるほど身体が重てえから。無駄な希望持たないように言っとくが、余裕なんざ欠片もねえぞ」
残念だったなと、感覚が麻痺してきたのか、ルークは勝ち誇った笑みで返した。
「ふむ……やはり楽は出来ないか。まあいい、それよりモースはどれだ。奴は私が復讐ついでに血達磨にする」
「俺がもうやった。あそこの血達磨、あれ、モースだ」
「な、ふざけるな! 私の分が残っていないぞ!」
「ああん? てめぇの目は節穴かよ。よく見ろ、まだ死んでねえだろうが」
どうだと言わんばかりに、ルークは自らの悪行を、むしろ誇らしげに胸を張ってひけらかした。リグレットは僅かに瞳だけを動かして、横たわる赤色に染まった物体を一瞥する。
「虫の息だな。あれではやり甲斐がない」
「拗ねるなよ。俺にだってちゃんと権利があったはずだぜ。封印術かけられるとか、もうアレだ、間違いなく今回の一番の被害なんだからよ」
「無駄口を叩くな、来るぞ」
「……お前、貧血って嘘だろ。いつも通りじゃねえか」
リグレットのあんまりな言い様に溜め息を吐いたルークは、しかし次の瞬間には吊り上げた瞳を爛々と輝かせ、痺れを切らして詠唱を始めた敵を見据え、木刀を横にして腰の右側で構える。
「お、おい! そんな状態で本当に戦うつもりなのか?」
「無謀だ! 屑共、死ぬつもりか!」
あまりに悠然としているルークとリグレットに、ガイとアッシュが声を荒らげる。
「逃げたくとも逃げられないんだろうよ、こんな場所だからな。俺たちを解放しようとすれば、その間に敵にやられる。結局、二人でやるしかねえんだ」
特に心配するようなこともなく、床に腰を下ろしてしまっているラルゴ。そんな彼に続き、ディストまで座ってしまった。
「敵対したことのないあなた達にはわかりませんよ、あの二人の恐ろしさは。この程度で倒せているのだったら、私の傑作は健在のはずです」
ラルゴとディストの投げやりとも取れる態度を、ティアはしかしどうとも思わなかった。
あの二人は――あの二人は、笑っているのだから。
全身をしならせ、ルークは木刀で降り続ける豪雨ごと大気を切り裂く。刃より放たれた脆弱な扇状に広がる衝撃波が、譜を紡ぐ三体の敵の喉に当たり弾け飛ぶ。
「ハッ! 急所に直撃してもこれだ、 やってらんねえぜ!」
入れ替わるようにしてリグレットが譜銃のトリガーを引き、全方位にばらまかれる音素の弾丸が敵を射抜いた。
「心配するな、止めは全て私が刺す」
「おう。背中は任せたぜ、契約者サマ」
「まったく、何時の間に私はそんな厄介な契約をしてしまったんだろうな」
――譜術の発動を妨害された人外の群は、雄叫びを上げる。その中心では、赤色と金色が不敵に笑いあう。
こうして、再び戦いの火蓋は切られたのだった。
*
そこは、鉛色の天を突く白亜の巨塔の天辺。
吹き荒れる風と叩きつける雨に晒された、大きな大きな円を描く舞台の上。
この世で最も空に近い場所で――彼らは踊っていた。
背中を合わせてくるくると、赤と金の髪を振り乱し、絡ませながら。
吹き荒れる風の音、舞台を叩く雨の音、そして暴れ狂う敵の音――ありとあらゆる事象を音楽として、彼と彼女は激しく舞う。
ステップを一つ、乱れ飛ぶ譜術を避け、彼女は光輝く槍を放つ。
ターンを一つ、迫り来る敵を避け、彼は木刀の切っ先を突き立てる。
ただ一時も、一瞬ですらも彼らは止まらない。
回転して立ち位置を入れ替え、彼らは踊る。縦横無尽に閃く刃の軌跡、百花繚乱と咲き誇る銃口の火花。
華麗に敵の攻撃を避け、鮮やかに舞いながら敵を討つ。
数多の敵から吹き出る血をもって化粧とし、地に落ち弾ける雨の雫をもって衣装とし、濡れそぼった赤と金の髪を棚引かせ、二人は踊り狂う。
絶対的な死の淵で手を取り合い、悪魔と魔女は無邪気な笑みを浮かべて、陽気に跳ね回る。
「――ルークとリグレット、綺麗……です」
「ええ。綺麗で、とっても楽しそう」
天を突く白亜の巨体の天辺で、人を忍ぶように悪魔と魔女は踊る。そこには煌びやかなシャンデリアはなく、洗練された旋律もない。
在るのは鉛色の空と、風雨が奏でるでたらめな音だけ。
「私、知りませんでしたわ。人とは、ここまで美しく戦えるものなのですね」
「てゆーか、何か見せつけられてる気がして妬けちゃうな。二人ともあんな楽しそうな顔しちゃって」
それでも数少ない観客である少女達は、魅せられていた。余裕も保証もない命を賭した戦いを、楽しげに笑い合いながら行う二人に、魅せられていた。
汗を浮かべ、血を滴らせ、息を乱しに乱しても――それでも二人は舞い続けた。
限界など既に越え、そこら中で死神が嘲笑っている。それでも二人は、笑いながら踊り続けた。
――そして長い長い時が流れ、豪雨はおさまり、吹き荒れていた風は凪ぐ。
風雨の音色が止まって、曇天より晴れ間が覗いた頃――敵は全ていなくなっていた。
零れ落ちる陽光の下、日溜まりの中で彼らは笑いあう。
「くはははっ、すげぇすげぇ。勝っちまったよ、俺ら」
「私がお前の背中を預かったんだ、負ける筈がないだろう」
「流石だよ、お前。やっぱ強ぇな」
「封印術をかけられて、あれだけ動けるお前も…………え……?」
「おい、リグレ……あれ…………?」
――そして彼らは笑ったまま、ぐらりと大地が揺れた衝撃で、倒れてしまったのだった。
* * *