褐色の簡素な外套で全身を隠したリグレットは、砂塵が舞う賑やかな大通りから外れた小道で、既に人手を離れて永い小さな石造りの家の前で佇んでいた。
砂漠に臨む都市ケセドニア。オールドラントの流通を担う都市にして、最も闇が深い都市だ。
影で顔が隠れるほど深く被ったフードから覗く冷たい碧眼で、風化した家の扉を見やり、一度目を瞑ってから扉に左手を伸ばす。
ユリアシティで別れたルークには、情報屋に会いに行くと言ってあるが、目の前の廃墟にいるのは先日襲撃してきた元オラクルが所属している反国家団体だ。墓参りツアーなどと称して世界を周り、自らを餌として情報を集めてようやく突き止めたアジト。リグレットはその入口に立っているのだ。
ルークに知られれば、また無茶をするなと泣きそうな顔で言われるかも知れないが、それはお互い様だ。彼の口から直接どこに、何をしに行くかを聞いたわけではないが、容易に予想がつく。
ルークが向かった場所は、赤い悪魔の始まりの地――アクゼリュス。確証はないが、オールドラントに会いに行ったのだろう。
「目的は宣戦布告――妥当な手ではあるのだがな」
現在の硬直状態を考えれば、何かきっかけが必要であるのは確かなのだ。単身で乗り込むことには賛成できないが、協力が必要かと聞いた時、ルークは「今回は俺だけで大丈夫だ」と答えた。
また一人で全て背負い込むつもりかとも疑ったが、リグレットはルークの言葉を信じた。ユリアシティでルークが言った、一緒に戦うという言葉を信じた。
「そろそろ行くか」
小さく呟いて思考を切り替え、そのまま扉を十回ほど独特のリズムでノックする。以前から使っているケセドニアの情報屋から引き出した、反国家団体に志願する者が使う符帳だ。
ノックを終えて直ぐに、扉の向こうから男の低い声で返答がある。
「合い言葉は」
「合い言葉? それは聞いていないな。これでいいか?」
答えると同時に、リグレットは古ぼけた扉を向こうにいる人間ごと蹴破り、何もない室内に入る。そして仰向けに倒れている、紋章を削って消したオラクル騎士団の鎧を着込んだ男に、銃口を向けた。
「な、ま、魔弾……!?」
「懐かしい名前だな。アジトは……ああ、やはり地下にあったか。ザルだな、せめて入口は隠せ」
何もない一部屋だけの家というより小屋に近い建物だが、男の後ろの石の床には、不自然な四角い枠があった。地下にあるアジトの入口だ。
若干呆れながらも、よく考えれば一人で来たのだから、警戒されないのは当然のことだったと思い直す。
「まあいい。今日はお前たちを潰しに来た。抵抗してもいいが、逃げずに例外なく全員で抵抗しろ。その方が楽でいいからな」
不穏な空気に気付いたらしく、地下へと続く扉が開かれ、そこから手に手に武器を持ち、大量の人間が流れ出てくる。
総勢五十名ほど。組織全体の規模から考えれば一部なのだろうが、いくら本部と言えど影に潜んでいる事実を踏まえれば、一カ所に集まっていていい人数ではない。
つい先日、精鋭六名が真っ昼間からの襲撃に踏み切ったばかりだ。組織全体の意向として、表立っての大規模な作戦を計画していた可能性は十分にある。
リグレットはフードを外して怜悧な瞳を左右に走らせ、四方を囲うように移動する人間を観察する。
割合としては、やはりオラクル騎士団を抜けた者が多く、半数を占めている。騎士団で採用している高性能な白銀の全身鎧、それをそのまま使用しているから一目で分かった。残りの半数はそれぞれ思い思いの装備で身を包んでいるが、だいたいの者が過去にルークによって潰された幾つかの組織の出身だろう。
この反国家団体は、主にルークを殺そうとする者達の集まりでもあるのだ。
「ヴァン・グランツの理想を追う者、ルークに恨みを持つ者、国家に不満を持つ者。この場には様々な人間がいることだろう」
全方位から、それも室内に収まらず、外からも囲う大勢の人間。剣、槍、弓、杖、様々な凶器が僅か一足分の距離で突き付けられている状況で、リグレットは譜銃を下ろした自然体で淡々と語る。
「様々な人間が、様々な信念を持って集ったこの組織。今この状況で高尚な理想を掲げることができる貴様等は、尊敬に値する。しかしだ、私は私のために、たった今からその理想、信念を――折らせてもらう」
軍の作戦でも教団の密命でもない、完全な独断による凶行。
リグレットは、既に経験して知っていた。ルークは敵対者に何処までも非道だが――彼の敵の定義は異常に狭すぎるということを。
ルークが真に敵として認識しているのは、リグレットが知っている限りではヴァン・グランツだけだ。
それ以外では、例え己の命を狙う者でも敵と認識しない。モース達も先日の襲撃者達も、ルークは結局命を奪わないどころか逃亡にまで手を貸している。
だから、今リグレットを囲っている者達が、ルークの命を奪うために行動を起こしたとしても、彼は傲慢なことに、自らが危機に陥りながらも殺さない不断の努力で対応するのだろう。
それが彼の信念なのだから。
ルークのその信念は戦を生業としている者達からすれば、甘えているとしか言いようがないが、ルークはそれを実行するに足る実力を身に付けた。
だからリグレットは、何も言わない。一歩間違えれば自殺にもなる殺さない覚悟を、本気で実行している彼を、軽々しく否定していいわけがないのだ。
リグレットはルークを大事に思っている。だからどんな理由があろうとも、ルークが不本意にも信念を曲げてしまう可能性をもたらす要因を野放しにしておくことができない。
だがそれ以前に、ルークの命を狙う連中が許せない。いくらかつて志を供にした同胞でも、何も知らないくせにルークに刃を向けるのならば迷わずに撃ち取る。
「魔弾のリグレット殿」
「ヴァン・グランツの部下か……久しいな」
かつてヴァンの直属の部下だった白銀の鎧を着込んだ男が、円陣から一歩進み出て来る。すでに袂を分かった同胞――今は許すことの出来ない敵。
リグレットは刹那の間、どうしようもないほど感傷に浸る。しかし次の瞬間には、鎧の男の瞳を真正面から見つめ返していた。
「だがな、私はもう魔弾ではない。私は閣下の理想を否定し、この世界をその理想に近づける道を選んだ」
「今は金色の魔女……ですか。あなたはこちら側の人間だと思っていました。まさか、あの方の副官だったあなたと敵対する日が来るとは……。いえ、どちらにしろオラクル騎士団主席総長が単身で乗り込んでくるとは、正気ですか?」
オラクルの――かつてのオラクルの鎧を纏う男は、一縷の希望を持っていたのかも知れない。リグレットが再びヴァンの理想を追うという。
リグレットは静かに首を横に振った。
「金色の魔女として、オラクルの総長としてここに来たわけではない。後任には優秀な部下や、あの傑物カンタビレがいるからな。私が何時までもあの席に座り続ける必要はない。元より相応しくない人選だ、そろそろ潮時だろう」
皮肉気に口の端を吊り上げて、リグレットは外套の中から二挺の譜銃を取り出す。
「私はリグ…………いや、私は私として、私のためにここに来たのだ」
もう話すことはないとばかりに、リグレットは真っ直ぐと前を見据え毅然と宣言した。
「かかってこい、自らの信念を貫く尊い者達。しかし覚悟しろ。何人たりとも、私の大切なものを奪おうとする者は許さない」
*
蒼く透き通った空を仰ぎ、肺の中の空気を全て吐き出す。空高くを飛行するフレスベルグの上から、俺は細めた瞳を真下に向ける。
眼下に広がるのは巨大な穴――アクゼリュスの崩落跡。
「さてと……オールドラントの奴、マジでしばき倒してやる」
世界中を回ってオールドラントの形跡を探したわけだが、最後の最後でようやく当たりが出たってわけでもない。俺がわざとアクゼリュスを避けてたのだから、この結果は必然なのだ。
アクゼリュス。俺が自身の生い立ちと、レプリカとして産み出された理由を知った地であり、そして好き勝手に自分らしく生きてやると誓った地である。
「で、街も人も全部消しちまった場所……か」
もう一度肺の中の空気を全て吐き出し、俺が自らの手で作った大地に広がる深淵を覗き込む。
ほんと、上等じゃねえか。わざわざこんな場所を選びやがるとは。俺に喧嘩売ってるとしか思えねえ。
普通ならわかりようもない、オールドラント独特の音素反応……つーか不愉快極まりない空気に、嫌悪の念を目一杯のせて見下ろしてやった。
オールドラントは、俺の手によって二度重傷を負っている。しかしそれは核となっているヴァンが傷を負っただけで、オールドラントという存在自体には何の影響も与えてないのだ。今もアクゼリュスの崩落跡なんかに引きこもってんのは、ヴァンの身体が癒えるのを待ってるからだろう。
はっきり言って今のままじゃあ、オールドラントが攻めて来て俺が追い返すってな具合のいたちごっこになる。だから直接話をつけるしかねえのだ。
「じゃあふーちゃん、ありがとな。ちょっくら行ってくるわ。アリエッタの所に先に戻ってていいぜ、用事が終わったら……まあ適当に、ダアトにでも行って足見つけるからよ」
フレスベルグの頭を軽く叩き、俺は大空へと身を投げ出した。風が身体を叩き、重力によって凄まじい速度で崩落跡へと吸い込まれて行くが、特に何の抵抗もしない。
確証はないが、オールドラントは俺を導くだろう。素直に話し合いをするかは不明、俺を殺そうとするかも不明。
だが、何らかの反応は絶対にある。だから俺は、静かにそれを待っていればいいのだ。
ひたすら暗闇に落ちていく感覚が続く中、ふとリグレットの顔が頭に浮かんだ。
リグレットの奴、下手な嘘をついてまた危ないことしようとしてやがるっぽい。心配は心配だが、それでも前のように人質を取られるわけでもないから大丈夫だろう。唯一の心配は、あの人間を辞めちまったような化物の全力に、応急処置をしただけの譜銃がついてこれない可能性だけだ。
しかし今回は俺もかなり無茶……つーか苦し紛れに馬鹿げたことやろうとしてるし、リグレットに対して強く無茶をすんなとは言えねえ。
それに独力だけで全部を片付けようとせず、協力してやろうみたいな約束をしたのだ。その約束をした翌日に破ることはないだろうから、俺に協力を求めなかったってことは自信があるんだろう。
ぼんやりとそんなことを頭の片隅で考えていると、何か不思議な衝撃と共に、落下が急停止した。
急激に真っ暗だった視界に、光が満ちる。俺がいつの間にか立っていた場所は、白亜の街だった。
敷き詰められた白い石畳の通りに、立ち並ぶ白を基調とした家々。円柱型の石柱が支える見栄えのする数々の屋敷の周りを、青々とした木々が囲っている。
俺は、この風景を知っている。世界中を探しても何処にもないこの場所を、俺はすでに終わりを迎えた過去として、空白の一年間――夢現の十年間に視て、体験していた。
ここは今から十七年前、ヴァン・グランツが忌むべき研究レプリカ技術、その延長上に位置する擬似超振動で落とした己が故郷――
「――ホドか。ハッ、ヴァンの心象から作ったのかよ。いい度胸してやがるぜ」
おそらくここは、オールドラントが作り出した擬似的な世界。現実には存在しない、オールドラントという意識集合体の中、言っちまえば敵の腹の中ってことだ。
ぶっちゃけ俺はオールドラントのことを全く知らない。何がしたくてこんなふざけた場所にふざけた世界を作りやがったのか、まるで理解できねえ。
さっさと用件をすませちまおうと口を開きかけた時、周りの景色が歪み、そして景色が差し替えられた。
遠くに見える海に、軍艦が現れる。そして家々の扉が開け放たれ、そこから飛び出して来たのであろう人々が、焦りと怯えの表情を顔面に貼り付けて停止している。
まだかなりの距離がある海上の軍艦は、キムラスカの国旗を揺らしていた。
これは……もしかするとホド戦争の再現なのかも知れない。
ホド戦争。ヴァンがホドを落とし、そして世界を壊そうなどという思想を持つようになった元凶。そして多くの人間から多くのものを奪った、最悪の戦争だ。
俺は目を細め、目の前の空間を見据える。そして腰の木刀を引き抜き、左腕をだらりと下げた自然体で構える。
わざわざホド戦争を俺に見せる理由――オールドラントに、そんなものがあるわけがない。
「てめぇ、ヴァンか?」
果たして、誰もいない空間に投げかけられた俺の問い掛けに――
――ホドを、救ってみせろ――
――返答はあった。余りにも短い答だが、俺が間違える筈がない。ヴァンの声、ヴァンの言葉、ヴァンの意志だ。
長らく感じていなかったヴァンの存在に、求めてやまなかったヴァンの存在に、気づけば俺は怒鳴り返していた。
「ふ、ざ、け、て、ん、じゃ――――ねえよ! このボケが!! てめぇ何眠てぇこと言ってんだ!! ああん? ホドを救ってみせろだぁ!? 寝言は永眠してから言えや老け顔!! こっちはただでさえてめぇをぶっ殺したくて堪んねえってのに、また我慢すんのが大変になっちまっただろうが!! 責任取って腹くらい切りやがれ!!」
何でわざわざ俺がヴァンの言葉に従わなければならないんだ。しかも俺に何一つメリットがない。
ヴァンがホドを落としたことを、落とさせられたことを嘆いていることは知っている。その過去を変えたいという願望を持ってたことも想像できる。
自分にもっと力と頭があれば――と、俺と同じように後悔をしたに違いない。
でも、だから何だ。
「何で俺がホドを救う必要があるんだ老衰野郎! てめぇの腹ん中だからって、このルークを思い通りにできるなんて思ってんじゃねえよ!! 忘れてんのなら思い出させてやる!!」
精一杯息を吸い込み、心の赴くままに俺は宣言した。
「俺は俺で俺以外の誰でもなく、俺は俺として俺らしく――完膚なきまでにどこまでも徹底的に、ヴァン・グランツに敵対してやる!」
オールドラントとヴァン・グランツが支配する世界に、俺は干渉する。統治された音素を乱し、この歪な世界を更に歪にする。完成された世界を削り、修正して行く。
「ルールを決めるのはお前らじゃなくて、俺だ。俺は今からホドを落とす。俺を止めることが出来たらお前らの勝ち、俺が虐殺に虐殺を重ねてホドも人間もキムラスカ軍も全部虐殺して、このぶっ飛んだふざけた世界を壊したら俺の勝ち。異論なら全部終わった後に聞いてやるよ」
そして完成された世界は、その在り方を変える。
ホドにいる全ての人間が俺の敵、ホドを占領しに来たキムラスカ軍も全て俺の敵――たった今からここは、俺だけの天国だ。
「おう、その腐った脳髄で理解できたんなら、大人しく抵抗なんざしねえでさっさとかかってこいや。そしたら俺が全身全霊をかけて――全部まとめて殺してやるからよ」
*
ローレライ教団の一室、慰霊碑が置いてある部屋の前で何故か意味不明なことにリグレットと鉢合わせた。大きな慰霊碑の周りには花壇があり、死者へと贈る質素な色の花々が咲いている。そこに花束を抱えたリグレットが入ってきたのだ。
「おう、何でこんなとこにいるだよ? つーかある意味すげぇな。世界って意外と狭いらしいわ」
「私は墓参りだ。お前は?」
「俺は殺してきた奴の弔いと、調べものだよ。ちょっとホド壊滅させた上に、髭がない若い時のヴァンをぶん殴って、オールドラントに果たし状叩きつけてきたんだ。で、墓参りって誰か殺してきたのか?」
隠しても仕方ないので全部言って、作ってもらってきた小さな慰霊碑を置いて黙祷する。純然たる悪意と殺意を持って、全身全霊をかけて殺した者達への、俺なりの敬意の証だ。
そんな俺の隣に屈み込み、リグレットは花束を置いて目を瞑る。
「いや、殺してはない。脅迫状と弾丸を叩きつけて来ただけだ。それより……ヴァンに会ったのか?」
「ああ、オールドラントが作った仮想の世界でな。最終決戦の日取り、二カ月後に決まった。場所はホド崩落跡……そこにいるオールドラントの中だ」
――全てを破壊し、乗り込んだ研究所。そこにいた若い時のヴァンを殴り倒し、ふざけた戦争は終了した。それが俺の勝利で終わったことの顛末。二カ月という期間は、勝者の当然の権利として俺が無理矢理引き伸ばした、人類滅亡へのカウントダウンだ。
「信じ難い話だが、信じるしかないのだろうな。よくもまあ、あの理不尽に理不尽を通せたものだ」
「まあ、オールドラントも攻め倦ねてたんだろうよ。二カ月後の勝負で賭けんのは俺の命だしな、むこうこっちも渡りに船ってことだ」
そっと溜め息を吐いて苦笑するリグレットに答えて、俺の行動が筒抜けだったらしいことに頭を振る。普通なら驚きそうな話の内容だが、リグレットはやはりかと呆れるばかりなのだ。
「お前さ、情報収集が目的って言ってたけど、そっちはどうだったんだ?」
「潰して説き伏せて来た組織の潜伏場所が、収集した情報の内容だ」
「あー、そういうことか。つーか一人で危ないことすんなよ、俺が言えることじゃねえけど」
「まったくだな」
二人で苦笑して、何とはなしに慰霊碑を眺める。二人しかいない空間は、不自然なほど静かだった。
しばらく無言が続く。居心地が悪いわけではなく、むしろ心地良い静寂の中、リグレットがぽつぽつと語り始める。
「私が潰してきた組織に属していた者達は、皆輝いていた。野心や夢に瞳を輝かせ、命を燃やしていた」
「俺が殺してきたホドやキムラスカの連中も、必死だったわ。モース達もユリアシティで襲って来た連中も、必死で俺を殺しに来てくれた」
俺もリグレットも、どうやら世界を回って持つに至った考えは、同じものだったようだ。
「なんだ、お前に相談してみようと思っていたのだがな」
「まあいいじゃねえか。墓参りツアーも捨てたもんじゃねえ、次にやることが決まったんだ」
笑えない事実に小さく笑い合い、俺はリグレットが持ってきた花束に視線をやる。そんな俺の様子に気づいたリグレットが、慰霊碑の一部を指差した。
リグレットの指差す先、そこには当然黒色の石に刻まれた名前がある。
「マルセル・オスロー……?」
「私の弟の名だ」
「そっか、まだツアーは終了じゃなかったわけだな――って、オスロー?」
よくよく考えてみれば、俺はリグレットのフルネームを知らねえのである。いや……そう言えば六神将は、人間社会においての過去が存在しないシンクとアリエッタ以外のメンバーは、コードネームを使ってるとか何とかって話を聞いた気がする。
アッシュ――ルーク・フォン・ファブレ。
ラルゴ――バダック・オークランド。
ディスト――サフィール・ワイヨン・ネイス。
だったら、リグレットは?
「お前、本名なんていうんだ? リグレット・オスローってことはないだろ?」
何か無性に知りたい。今更だが俺って、リグレットのことあんまり知ってねえのだ。
かなり興味があるとリグレットの瞳を覗き込めば、苦笑されて首を横に振られた。
「本名は閣下に付いて行くと決めた時に、完全に捨てた――」
「……ふーん」
「――はずだったのだがな。思うところがあって、リグレットと名乗り続けることに若干の抵抗を覚えてしまった。だからと言っては何だが、本名が聞きたいのなら教えてやる。そう不機嫌な顔をするな」
「不機嫌になんてなってねえよ」
よく分からんことをほざいてくれやがるリグレットに舌打ちをすれば、またしても苦笑された。
「ジゼルだ。ジゼル・オスロー、それが捨てきることが出来ていなかった私の本名、今は亡き家族との縁だ」
自らの名前を呟くと共に、刻まれた弟の名前をじっと見つめる彼女。
ふむ……何だかな……。俺ってもしかして、何かダメなこと聞いちまったのだろうか。
どうしたものかと首を傾げていると、リグレットも俺に視線を向けて小さく首を傾げて来た。青い切れ長の瞳が、不思議そうにパチパチと瞬いている。
「うん、何か可愛い」
「か、かわ……っ!?」
「いや、おう……可愛い名前だってな。お前が可愛いわけでは断じてない。で、思うところって何だ?」
あ、危ねえ……! 俺の頭はマジで大丈夫かよ!?
たらりと冷や汗が背筋を伝う。痛すぎる失言に痛すぎる誤魔化し……冗談抜きにそろそろ末期だ。いっそのこと頭打って気絶すればいい。
怒りで顔を真っ赤にしたリグレットさんは、名前が可愛いとか意味不明なことを言い出した俺に極寒の瞳を向けながらも、ギリギリ許容範囲だったのか鉄拳制裁はなしで、失言については流してくれた。
うん、死ななくて良かったぜ……マジで。
「なあ、思うところって何なんだよ? 今後の身の振り方でも決めたのか?」
「お前にそれを教えてやる義理なんてない」
誤魔化すためにリグレットに理由を問い詰めてみれば、ふてくされたようにそっぽをを向かれた。やっぱり怒ってらっしゃる。
ふぅ……何かもう疲れたぜ。
俺は盛大に溜め息をついて立ち上がり、首を鳴らしながら強引に話題を逸らす。
「まあ、真面目な話、今後の身の振り方ってのはちゃんと考えといた方がいいぜ。フリーな俺はいいけどよ、実際問題行動に移しちまえば、最悪お前は今の生活捨てることになるし」
「言われずとも覚悟はしている。どのような結果になろうと、二カ月後には私は総長の椅子を降りるつもりだ」
何でもないように、あくまでも淡々と決定事項だと告げるリグレット。騎士団のトップなんて、なろうと思ってなれるもんじゃないが、それでも全然まったくこれっぽっちも未練がないらしい。リグレットらしいと言えばリグレットらしいが、俺としては本気で呆れるしかない。
「まあ、総長から総長夫人になるだけかも知れねえしな。失敗したとしても――それはそれで将来を心配する必要がなくなるわけだ、案外身の振り方なんてどうでもいいかもな」
「…………そう、だな」
からかい混じの俺の言葉に、やけに歯切れ悪く頷くリグレット。どうしたんだと視線で問えば、彼女はゆるりと首を横に振った。
「将来を心配する必要がなくなると言ったが……どういう意味だ?」
「そのまんまの意味だ。成功しなきゃ、人類はオールドラントによって滅ぼされる。一戦やらかして来て理解したんだが、あれはそういう性質のもんだ」
「…………」
ほとんど謎掛けに近い俺の言葉に沈黙していたリグレットだが、しばらくして小さく頷きながら立ち上がった。そして怜悧な瞳でじっと俺を見つめ、誤魔化すなよと言外に告げてくる。
「何となく理解した。オールドラントとは結局のところ、どこまで行っても世界そのものだということだな」
「おう、多分だけどな。つーか悪かったな、弟さんの墓の前で血生臭い話しちまって」
「そう思うなら弟の冥福を祈れ。お前の物騒な話を聞いたら、眠るに眠れないだろう」
「あー……、違いない」
リグレットの冷たい視線に促されるまま、俺は見たこともない奴の冥福を祈る。
まあ、リグレットの弟さんなんだから、せめて安らかに眠って欲しい。
「よっしゃ、そろそろ行くか。アルビオール使っても準備に一週間はかかりそうだしな……世界規模ってのは大変そうだぜ」
「かなり無理がある気がするがな……ラルゴと鬼畜……カーティス大佐も巻き込むか?」
鬼畜って言い切ったリグレットさんだが、真面目な話だったのでスルーだ。俺もよく間違えるし、こればかりは仕方がない。
「いや、俺らだけでやろうぜ。そっちの方が――」
「――楽しい、か。本当にいい顔をするな、戦闘狂い」
「お前ほどじゃねえよ、トリガーハッピー」
「ふふふ……」
「くはははははは――」
ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
にやりと笑い合って、俺とリグレットは喉を震わせて哄笑する。
その邪悪でしかない笑い声は、静謐な室内で幾重にも反響し、それはそれは不気味に部屋の外へと漏れ出していたらしい。
故にこの日は、後に教団内でまことしやかにこう呼ばれるようになる。
――魔王降臨の日、と。
まったくもって、ふざけたセンスだ。洒落にも冗談にもならねえ。
* * *