月と星の光が際立つ深い夜。
人が眠りにつき、町の灯りも消えた。
昼は騒がしい通りも静まり返り、聴こえるのは町の外の魔物の遠吠えだけ。
そんな夜の帳がおりきったダアトの外れに、窓から灯りが漏れる一軒の木製の家があった。
「悪いな、付き合わせちまって……」
その家の一室で、机に向き合い忙しくペンを動かす長い赤髪の青年――ルークがばつが悪そうに苦笑した。
「かまわない。私も丁度読みかけの本があったところだ」
ルークの後ろで、読んでいる本から目を離さずに答えるリグレット。普段は結ってある金髪は、風呂上がりのため下ろしてある。
「そっか、ならいいや」
「よくない。そろそろ期限までに書類を提出できるようになれ」
のほほんと言うルークに、リグレットは冷たく返した。
深夜にルークが机に向かっているのは仕事が終わっていないため。まだ若いながらも新生ローレライ教団の上層部の一員であるルークには、かなりの量の仕事がある。ただでさえ書類の処理に慣れていないルークは、度々家に仕事を持ち帰ることがあった。
「俺だって努力してるって。だいたい一番悪いのは俺にこんな仕事任せやがったやつだろ」
適材適所って言葉を知らないのか。冗談めかして言うルークだが、ペンは止めずに真面目に仕事をこなして行く。
「集中してやれ。二度手間になって困るのは自分だけではないぞ」
リグレットはルークの直属の上司ということになっているが、実際は教育係に近い。最近になってルークはだいたいの仕事は問題なくこなせるようになったが、それでも念のためリグレットが見てやっているのだ。
リグレットがルークの教育係に任命されているのは、導師イオンのいらない気づかいの賜だったりする。
「何とか今日中に仕上げねえとな。じゃないと明日からの休暇が消えちまう」
明日からは五連休。それもルーク、リグレット、シンク、アリエッタ、四人揃っての休暇だ。
四人が四人とも教団の上層部の人間のため、偶然に休暇が被ることはない。
無理に無理を通して、何とか四人のスケジュールを調整して得た休暇だった。
「休暇が消えればアリエッタは大泣き、シンクは大暴れだろうな。そして私は……ふぅ……一体何をしてしまうだろうか」
「頼むから脅してくれるな。本気で怖い」
真顔で淡々と言うリグレットに、ルークは大きく嘆息した。
休暇はバチカルで過ごす予定だ。最近忙しくてダアトから出てなかったため、全員が心待ちにしている。
「眠気覚ましにコーヒーを入れてこよう。ブラックでいいな?」
「ん、何か妙に優しいな。あと、俺が砂糖なしじゃあ飲めないって知ってるだろ?」
「明日への投資だ」
「砂糖たっぷりでよろしく」
「…………」
「え? なんで無視?」
ぱたんと本を閉じて立ち上がり、ルークの質問には答えずに部屋から出て行ったリグレット。
「あいつ、本気でブラックのまま持ってくる気か……?」
呟くルークは真顔だった。ルークは冗談抜きでブラックを飲めない。甘くないコーヒーなんてコーヒーじゃない、ルークは本気でそう思っている。
「砂糖……砂糖………………ああ、これは使える」
深刻な面持ちで呟いていたルークだが、しばらくして凄く幸せかつとても楽しそうな笑みを浮かべた。もしもリグレットがそれを見ていたのならば、迷わず戦略的撤退を選択しただろう。確実に。絶対。
ルークは笑顔のままペンを走らせ続け、リグレットを待った。作業能率は確実に上がっている。
餌を目の前に吊らされた時のルークの集中力は凄まじい。それはもう、凄まじいとしか言いようがない。
「…………何があった。なぜ数分かそこらで終わりかけているんだ」
マグカップを両手に戻って来たリグレットは、思わず目を疑った。部屋を出る前には、少なくともあと一時間はかかる量の書類が机に積まれていた。しかし、今はもう大半が片づけられている。信じられない。
しかも手抜きは感じられない。さらに信じられない。
「頑張ったからな」
それよりコーヒーくれ、とルークはリグレットに手招きする。
リグレットは首を傾げながらも、机にマグカップを置いてやった。
「うわ、ほんとにブラックじゃねえか」
「眠気覚ましだからな。もっとも必要なかったかもしれないが」
この調子なら普通のスピードでやっても、もう数分あれば終わる。
せっかくの人の気づかいを無駄にするな、とリグレットは胸中で思ってしまい、それを慌てて否定した。
「違う、これは明日への投資だ、休暇のためだ。私がルークのためだけに動くなど、そんなことがあり得たら殺すしかなくなる……」
「…………俺が殺される理由が欠片もわからないんですけど……」
急に物騒なことを言い始めたリグレットに、ルークは疲れたように嘆く。
何が疲れるかと言えば、本気で実行しようとリグレットにだ。
先制しないと殺られる。ルークは生存本能に従い動いた。
「まあ何にせよ、コーヒーありがとな」
ルークは満面の笑みで、悩むリグレットの手を取る。
「この手は何のつもりだ」
「でもさ、さっきリグレットが言った通り、眠気覚ましはもう必要ないんだよな」
「ッ!?」
繋がれた手を訝しげな眼差しで見つめていたリグレットは、極めて自然に無視したルークに跳ねるように視線を上げた。
ルークの怪しげな笑みを確認した瞬間、全力で手を振りほどこうとするが、ルークが動く方が早かった。
「今は頭が疲れてるから、大量の糖分が必要なわけだよ」
腕を引っ張り、リグレットの体制を崩す。そして空いている反対の腕を使い抱え上げて、ルークはリグレットを自身の膝に横向きに座らせた。
シンク直伝の体術は、度々こうして無駄使いされる。平和の証だと思えば救われる気がしないでもない。
「俺も成長したよなあ。昔は接近戦でも勝てなかったもんな」
「ぐ……っ!」
感慨深く頷くルークから離れようと抵抗するリグレットだが、両手を背中側で上手い具合いに押さえられ、もうどうしようもなかった。しかもルークの片手は空いているのだから、さらに状況は絶望的。
混乱する頭を必死に回転させ、打開策を講じるが、まともなものは出てこない。
それでもやらないよりかはマシだと口を開く。
「さ、砂糖ならいくらでも持って来てやる! だから先ずは降ろせ!」
「いらない」
速答するルークにリグレットは焦る。
「なっ!? うー……な、ならアリエッタのプリンを持ってこよう。アリエッタが今日の朝食にと楽しみにしているプリンをだ。 ど、どうだ……?」
「いらない」
リグレットはさらに焦る。
「な……っ!! え、えっと……なら……なら……えっと……そうだ、ケーキがある! シンクが二時間並んでようやく手に入れたケーキだ! 確か戸棚に隠してあった。……それでどうだ……?」
「いらない」
「ッ!?」
リグレットは、もうなんか泣きかけていた。
こうしたルークの態度に、リグレットはすこぶる弱い。弱い上に、今のルークは尋常ではない雰囲気を醸し出している。
疲れと眠気で頭がイッてしまったのかもしれない。
「糖分ならここにあるんだ」
机の引き出しを開けて、中をあさるルーク。出て来た手に収まっていたのは数個の飴玉。
「…………私はなぜ拘束されているのだ」
ルークの意図が読めず、恐る恐るといった様子で尋ねるリグレット。その裏では、多少冷静になった頭で講じた策を実行中。
身体を小さく動かし、膝でルークの顔面を蹴れるように角度を整える。後は敵の隙をつくだけ。すでにこれは死合だ。
「ルーク、飴があるなら勝手に食べていろ。何をするつもりか知らないが、私を巻き込まずに一人でやれ」
「冷たいこと言うなよ、俺はもっとこう……愛を育みたいんだ」
「どうすれば真顔でそのような恥ずかしいことが言えるんだ」
はぁ、と大げさに溜め息をつき、見つめて来るルークからふいと顔を反らす。
「うー……リグレットは俺のこと嫌いなのか?」
捨てられた子犬のような表情で不安そうに目を伏せるルーク。情に訴えるルークの作戦だった。リグレットがこの手に弱いのを知った上での。
――しかし、この流れこそがリグレットの待ち望んでいたものだった。
芝居だとしても、ルークがリグレットから視線を外したのは事実。
かかったな、色欲魔!!
心の叫び声と共に、リグレットは完璧な体制、完璧な角度、完璧なタイミングで膝をはね上げた。
「はっ。甘いぜリグレット」
不敵に笑って、ルークはリグレットの膝が動いた瞬間にそれを押さえつける。初動を殺された時点で、リグレットの完敗だった。
ルークの余りに鮮やかな防御に、リグレットは信じられず目を見開いた。何かを言おうとするが、口が無意味に動くだけで声は出ない。
「お、その反応いいな。可愛いぞ、リグレット」
ルークは楽しそうに包みをはがした飴玉を手の中で転がす。
「リグレットが何をしようとするか、俺にわからないわけないだろ? 俺はリグレットのことなら何でも知ってるんだから」
「ストーカーが威張るな!」
「一緒に住んでんだからストーカーも何もないだろ」
「なおのこと恐い!」
「はいリグレット、あーん」
「人の話をむぐっ……?」
声を荒げるリグレットの口に、ルークは飴玉を入れた。困惑するリグレットをよそに、ルークはテーブルからマグカップを取りコーヒーを口に含む。
「お、おいルーク……まさかお前……」
ここに来て漸く、リグレットはルークの思惑が読めた。だが読めてしまった自分に絶望した。
「む、むいむんいぐんっんむんんっむいんんむ」
「うるさい! 私もわかりたくなかった!」
「むむんむお、いぐんっん」
「照れてない!」
何故か成り立つ会話に、リグレットはさらに絶望した。それでもルークの思い通りの展開になるのは癪なので、口の中の飴玉を吐き出そうとする。
が。
「んー」
「――――~~っ!?」
またしてもルークの方が早かった。
重なるルークとリグレットの唇。リグレットの半開きの口内には、ルークからコーヒーが流し込まれる。
「んー」
「んーん! むぐっ……」
ルークの舌が隈無く動き回り、飴玉を口内で転がす。始めは抵抗しようとしていたリグレットだが、だんだんとその気も失せてくる。
口の中でコーヒーが跳ねる。その音を遠くに、リグレットは抵抗をやめた。
「んー、んぐ」
「ん……んっ……」
舌を絡ませ存分にリグレットを堪能したルークは、一旦唇を離して息を整える。
「リグレット、どうかしたか?」
途中から抵抗を止めて静かになったリグレットを、ルークは心配そうに覗き込んだ。
心配なら止めろと言いそうになるのを、リグレットはぐっと耐える。
ここまでやられたら、もう恥ずかしがる理由はない。そろそろ年上としての矜持を保たせてもらおう、とリグレットは内心で不適に笑う。
「ルーク……好き……」
わざわざ恥ずかしげに顔を伏せ、上目使いで言ってやる。顔がまだ赤いことも計算済みだ。
「なっ……お、おう……俺も……」
効果はてき面で、ルークは大いに動揺した。リグレットはルークの緩んだ手を払いのけ、マグカップを奪い取る。
そしてコーヒーを口に含み、顔を真っ赤にしているルークの口を塞いだ。
「んむ……っ!?」
慌てるルークの首に手を回し、頭を抱き寄せる。そのまま先ほどされたことをやり返し、ルークにコーヒーを飲ませた。
「甘すぎたな、これは」
存分に甘くなったコーヒーを飲み干し、せき払いをするルーク。
リグレットはしてやったりと微笑んで返した。
「疲れた頭には糖分は必要だ。あと数時間もすれば出勤だ、早く糖分を取り少しでも寝るぞ」
ルークの手から飴玉を取り、自分の口に入れるリグレット。ルークはそんなリグレットを幸せそうに抱きしめた。
「うーん、俺ってこんな幸せでいいのかね?」
「いいさ、私が許可してやる。存分に幸せになれ」
本気で頭を捻るルークの頭を、リグレットは撫でてやる。まだまだ憎たらしい人間には成りきっていないな、とリグレットは一安心した。
「まあ、リグレットがそう言うんなら――泣いて謝るまで可愛がってやるよ」
「!? ちょ、何でそうなる! や、やめ、だめぇ……」
邪悪な笑みを浮かべるルーク。リグレットにしてやられたのが悔しかったらしい。
リグレットは半分泣きながらルークに対する認識を改めた。
――こいつはもう十分に憎たらしすぎる。
~おしまい~