透き通るような青い空を、綺麗な白をした雲達がふわふわと漂っていた。
海も穏やかで、水面にはゆらゆらと太陽が映って見える。
この分だと心配はないだろう。空を駆るアルビオールの硝子の向こうの景色をぼんやりと見ながら、シンクは今日からの休暇で少なくとも天候に煩わされることはないだろうと、ほっと息をついた。
――……まあ、雨は雨で好きなんだけど。
雨がしとしとと降るなか、傘や地面を叩く雨音に耳を傾けながら何時もとは違って見える街を歩く。人によっては随分と奇妙な趣味と称されるが、それはそれで、晴れていては気付かない小さな発見があったりと色々面白いのだ。
「……………………」
「んー……気持ちいい……」
「ルーク……動いたらだめ、です。アリエッタくすぐったい」
だけどそれは一人で身軽な時だけの話。硝子に映る三人の姿――金色と朱色と桃色の大きな荷物が嫌でも目に入り、シンクの肺からは自然と青息吐息が漏れる。
膝に乗ったルークの長い朱色の髪をおずおずと撫でるアリエッタは、誉められたことが余程嬉しかったらしく口元が綻んでいた。
そんなルークとアリエッタを完全に視界から外して、持って来ていた本を黙々と読んでいるリグレット。さっきから頁が殆ど変わっていないのは……きっと気のせいだとシンクは無理矢理思い込む。
無邪気に修羅場を作り出す頭の中がお花畑なアリエッタを、シンクは馬鹿だとは思うが同時に恐怖もしている。
今日の明け方にようやく仕事を終えたルークは、アルビオールに乗ってからずっと眠り続けている。最初は馬鹿みたいにリグレットに膝枕をせがんでいたが、機嫌の悪いリグレットに一向に取り合って貰えず、やってみたいと言い始めたアリエッタの膝を借りて今に至る。
たまに気持ちいいだの癒されるだの、そんな寝言をルークが漏らす度にリグレットから発せられるプレッシャーが重くなる。シンクの心も重くなる。
「ねえリグレット……いい加減やめない?」
「何を?」
「いや、痩せ我慢を」
「何に?」
「…………」
短く返される言葉があまりにも冷ややかで、シンクは閉口してしまう。
荷物から小さな瓶を取り出し、中身の胃薬を片手一杯分頬張る。
最近慣れ親しんだ――慣れると意外と美味しく感じる――薬の苦味。バリバリと錠剤を噛み砕き、一気に飲み込んだ。
これで胃は一安心だと思いながら瓶を荷物になおそうとして、ふと奇妙な視線を感じた。
見てみれば、リグレットが呆然としながら眉をひそめている。シンクが手に持った瓶のラベルと顔を交互に確かめ、しまいにはゴシゴシと両目を擦り始めた。
「どうしたのさ?」
不審な行動を取るリグレットに、シンクは適当に聞いておく。昨日ルークに付き合っていたリグレットも寝不足なのだろうと当然予想はついているが、わざわざ言うのも無視するのも微妙だ。
「い、いや……それ……」
「胃薬? 結構効くよ。苦味がいけてるし。あんたも食べる?」
「た、食べ……?」
眉間に寄せられた皺が一層深くなった。胃薬を知らない人間なんてめったにいないはずだが、リグレットの反応は何故かそれに近い。
もしかしたら寝ぼけてるのかも知れない。そう当たりをつけて、シンクは未だ交互に瓶のラベルと自分の顔を凝視しているリグレットの手から、ひょいと本を取り上げた。
「リグレットも寝れば? あそこの脳天気馬鹿とおんなじで、殆ど寝てないんでしょ。バチカルに着いて眠たいとか言われると迷惑極まりないし」
て言うかうざいから寝て欲しい。
とてもそうは見えなくなってしまったが、もういい年齢してるのに一回り年下に嫉妬する上司はうざいことこの上ないのだ。
対面で幸せそうにアリエッタの膝で寝ているルークが知れば狂喜しそうなリグレットの態度だが、シンクからすれば胃痛の要因でしかない。
「そう……だな……。実際昨日は寝かせて貰えなかったし…………幻覚だわ、きっと」
何やら呟いていたリグレットは、最終的に一人で納得して頷いていた。そして後頭部で金髪をまとめていた髪飾りを外し、赤いストールを膝に乗せてシンクに向き直る。
「シンク、枕代わりになれ。このシートでは無理だ、私は熟睡したい」
「は……? 何で僕がそんなことを。寝言は寝て言いなよ」
「なら寝る」
「あ……」
失敗したと思った時には、既にリグレットの頭が膝の上に乗っていた。本の角で頭をかち割ってやろうと腕を振り下ろしかけたが、精神的な重圧と物質的な重圧の差を計算してギリギリで踏み止まる。
……明らかに頭の重さの方が、さっきの空気よりマシか。
対面ではアリエッタもいつの間にか眠っている。アルビオール操縦者のギンジを除けば、もう皆眠りに落ちている。シンクは胃が楽になるのを感じた。
どうやらさっきの胃薬が効き始めたようだ。
シンクは膝に乗るプレッシャー発生源を刺激しないように、暇つぶしに取り上げた本を開く。
「何これ……」
小説か論文だと思っていたそれは、ざっと見ただけで何やら明らかに違う雰囲気を醸し出している。
変な挿絵や図が沢山あるのだ。
手っ取り早く何の本か確認する為に、ブックカバーを外してタイトルを見る。
「…………上手な男の扱い方……?」
ついで、リグレットが読んでいたページの章題を確認。
「…………ヨルノセイカツデ……タヅナヲニギロウ……?」
シンクは本を放り投げた。むしろ投げ捨てた。
「意味分かんないから……」
男が読む物ではないということだけは理解できていたた。
シンクは何かイケナイことをしてしまった思いで一杯になりながら、早々に夢の世界への逃亡を決定する。
目を閉じる前に、リグレットのふわりと落ちた後ろ髪に隠れていた首筋が見えた。
「んー……虫刺され? 蚊でもいるのかな……」
寝てる間に血を吸われるのは嫌だなー、とリグレットの首にある幾つかの小さな赤い斑点を最後に、シンクは瞼を下ろした。
*
「それではご注文を繰り返します。メニューの上から下まで、デザートはもう一巡。紅茶が売りの当店において、メニューの上から下まで、デザートはもう一巡――つまりコンプリート、お客様は神様なのですね。かしこまりました、直ぐにはお持ちできませんのでお待ち頂く間、不肖私が誠意を持って当店ご利用の謝辞をお送りさせて頂きます」
二度手を叩き、店長を呼び出しメニューを伝えるウエイトレスさん。責任者を顎で使う平社員さんは澄ました顔で、親の敵を討つような勢いで羽振りの良さを見せ付ける客に一礼。
そして長々と語り始めた。
「当店においてお客様は神様です。本日は当店をご利用頂き――」
「いや、そういうの要らないから」
しかし神様に速攻で止められた。
「かしこまりました。それでは月が登るまでごゆっくりどうぞ」
ちなみに現在の時刻、九時。朝。
相変わらず次世代的な接客を見せ付けてくれたウエイトレスのお姉さんを見送り、シンクは例の薬瓶に手を伸ばした。
別にウエイトレスさんがストレスの原因だったわけではなく、むしろ彼女は軽減してくれたありがたい人。
冷や汗が噴き出る程のプレッシャーの発生源は、対面と隣だった。
あの戦いの最中に一度訪れたカフェ。前から何時かリベンジしようと決めていたカフェに、バチカルに到着して直ぐに入った。
そこで何時も通りの並び――横にルーク、対面にアリエッタ、その横にリグレット――で席についてからずっと、シンクはプレッシャーで床に埋まりそうだった。
「…………」
「…………」
横にはテーブルに片肘を乗せ、頬杖をつくルーク。朱色の長い前髪から覗く半眼の目は、明らかに不機嫌な色で染まっていた。というかたまにシンクにやられる視線は、明確な殺意を含んでいる。
対面では不気味なぬいぐるみを抱き締めたアリエッタが、それで口元を隠しながら終始泣きそうな顔でシンクを凝視している。
――……何この状況? 旅行って楽しむ為のものじゃなかったわけ? ていうか物凄く帰りたい…………。
シンクは初日にして長期旅行末期の症状が出ていた。
「ルーク、私に何か言いたいことがあるなら言え」
「…………べつにー」
「べつにー……って、子供かお前は」
「子供なんじゃねえの、頼りになって甘えれるシンク君と違って」
…………。
シンクは何かめっちゃ嫉妬されていた。正直うざいことこの上ない。
呆れ顔でルークの不機嫌の原因解明に乗り出したリグレットも、ふいと横に反らされたふてくされ顔に、ひくりとこめかみを引き攣らせていた。
シンクの第六感(面倒事レーダー)が過度な反応を示す。
そして、間もなく面倒事が始まった!
「そうだな、実際シンクは頼りになるが」
「……へえ、そう。まあお前、気持ち良さそうに寝てたもんな。シンクの膝で」
「私の快眠が気に入らないのか? 寝不足だったから眠っただけなのに」
「…………ふーん。快眠、ね。べつに、気に入らないなんてことはねえよ」
段々とリグレットとルークの目つきが鋭く、声色が冷たく。それに伴いシンクの気持ちも重たく。
――……ていうか人を巻き込まないでよ。
シンクは瓶の蓋を開けて錠剤をもぐもぐばりぼりやった。やっぱり胃薬って美味しい。
「失礼します、こちらパスタ六種とエンゲーブ産の紅茶でございます。お飲み物ですが、随時好きな物をお言いつけ下さい」
重すぎる空気も何のその、例のウエイトレスさんは澄まし顔でトレイとポットを置く。そして店長らしき男が持って来たティーカップに紅茶を注ぎ、綺麗に一礼。
そして去り際にルークに向かって一言。
「乗り換えは時には必要だと思います。ちなみに私、ただ今彼氏募集中」
爆弾投下も忘れなかった。
コツコツと靴音が遠ざかる中、リグレットの瞳が冷ややかに細まる。
「相変わらず凄まじい店員だな」
しかし流石、ルークと違いあからさまに態度には出さない。むしろそれが普通の対応だとシンクは思う。
確かにルークがリグレットに執着するのは分かる。同情に値する――シンクの同情に値する人生を、これからもルークは歩まなければならない。その道を共に歩めるのは、リグレットだけなのだから頭が痛い。
だがしかしそれを考慮しても、余りにもルークの器はちっちゃかった。ちっちゃ過ぎた。うざい程ちっちゃかった。
――……普通僕に嫉妬するかな……。
パスタ六皿を次々と胃袋に納めながら、シンクは器用にため息をついた。
無言で紅茶を飲むリグレットに、ルークは据わった目を向ける。
「えらく薄い反応だな。俺が誘われたってのに。つーかシンクとか腹壊せばいい」
「薄くもなるわ、例えば誰かれ構わずに膝を貸してくれなんて言う人を見た後とかには」
「…………お前が取り合ってくれなかったからじゃねえか。しかも前に俺が言った時にはこの歳になってやることじゃないって断ったくせに、起きてみりゃあシンクの膝で寝てるし。つーかシンクとか寝込めばいい」
ぐちり始めたルークを見ながらシンクは思う。
――……せっかくのパスタが不味くなる。
ここまで来たら二人はそろそろ別れ時かなー、と頭にそんな思考が浮かんだりもしたが、そこはもうどうでもいい。
だから言ってやった。
「店員さーん、パスタ全種類追加ねー」
「…………」
ぼちぼち他の客の目が痛くなって来た。ついでに何か対面のアリエッタの目が据わっている。
「何か用? 食事の邪魔なんだけど」
「…………べつにー、です」
ルークに負けず劣らずの面倒くさそうな雰囲気だった。
「いいもん……ずるいなんて思ってないもん。アリエッタ今度ルークに膝枕してもらうもん。だめ?」
「ん? いくらでもしてやるぜ。つーかシンクとか死ねばいい」
ついにシンクは死ねとか言われた。目がマジのルークは、もう人間的にやばい。
目をうるませてお願いするアリエッタの頼みを、やたらアリエッタを可愛いがっているルークは絶対に断らない。別に羨ましいとは全く思っていないが、この扱いの差は何なんだろう。
アリエッタの得意そうな笑顔も妙に気に障る。
そろそろ怒ってもいいんじゃないかなあ、と面倒だと思いながらも肺に息を溜めかけたシンクは、脛に走った激痛に机に突っ伏した。痛すぎて自然と涙が出て、逆に麻痺して痛みが感じられなくなって来た。
悶絶しながら対面のアリエッタを睨む。脛を蹴られたのだと察しをつけて罵倒してやろうとしたが、アリエッタは心底不思議そうに首を傾げている。
――なら誰が。
「随分と仲がいいことだな」
普段から靴に鉄を仕込んでいる、やたらと威力の高い蹴りを放つリグレットさんは、淡々とした口調とは裏腹に何だか少し悲しそうな顔で、それでも毅然とルーク睨んでいた。その視線には戸惑いが含まれている。
……まさかこの女。
「え? ちょ、何で僕……ていうかこれ滅茶苦茶痛いぎゃあああああ!!」
再び走った激痛に、今度こそシンクは絶叫する。
シンクは悶絶しながら確信した。
この馬鹿……ルークの足と間違えて蹴りがった!
どうやったら対面に座るルークと斜向かいに座るシンクを間違えれるのか知らないが、リグレットは明らかに戸惑いを露にルークとシンクを見比べて顔を青ざめさせている。
「ま、間違えた……シンク、大丈夫か? シンク、シンク?」
「シ、シンクが! どうしよう、リグレットどうしよう……」
「ちょ、おいシンク! お前大丈夫か!?」
何やら遠くで叫び声のような音が聞こえるが、段々と狭くなる視界と再び痛み出した胃の方が気になる。
胃薬を飲もうと瓶を取り出して、そしてシンクの意識はブツリと切れた。
*
「ルークがまったく痛くなさそうだったから……つい本気で蹴ったら……その……」
「…………シンクの足、折れてたんだけど」
「…………ごめんなさい」
軟らかなベッドの上で目を覚ませば、ルークとリグレットが二人して正座させられているのが目に入った。しかも毛足の長い上等な絨毯が捲られ、冷たい床にという徹底ぶり。
「まあ! 悪いのはルークではありませんか。貴方がわざわざシンクの足を盾にしたのでしょう? お義母様からはそう伺いましてよ」
蹴られて絶叫して気絶してしまったらしいから良くわからないが、どうやらファブレ公爵邸に運び込まれたらしい。骨折は何故か隣で寝ているアリエッタが治してくれたらしいが、骨折していたという事実にびっくりだった。
何故かいるお妃様――ナタリアは、憤慨しきった様子でルークを怒鳴り付ける。
「だいたい貴方は恥ずかしくありません? 誰にも気づかれずにシンクの椅子をずらして、その上リグレットの蹴りを横に反らして……どうしてそのような無駄に高度な技術を無駄以外の何でもない無駄極まりないことに、これ以上ない程無駄に使うのです。少しはリグレットを見習って下さいまし。彼女も貴方の悪さの被害者であるというのに、こうして正座までしているのですよ。それなのに貴方ときたら……何ですのそのふてぶてしい顔は!」
「えー、だってシンクが気絶したのって胃が原因じゃん。そりゃまあ、多少は俺も悪かったなーとは思うけどよ、もう骨折れたのは自業自得っつーか、そんなんじゃねえか。つーかナタリアが言ったこと、殆どシュザンヌ様から聞いた。やっぱ似てくるもんなんだなあ、嫁と姑って」
へらへらと笑うルークは、まるで聞いちゃあいなかった。
しかしシンクは、それよりも重大なことを聞いた気がした。
――胃が原因……? 誰が……?
「自業自得とは何ですの? 私はこの場をお義母様から任されたのです。私には全てを聞いて、報告をする義務がありますわ」
義理の娘ではあるが、正真正銘一国の妃であるナタリアにそんな雑用を任せる公爵夫人は、やはりただ者ではないらしい。
ふわふわとした短い金色の髪をいじりながら、青色のドレスに身を包んだ高貴な人であるはずのナタリアは、張り切って雑用をこなすためにルークに詰め寄っていた。
「ん、聞いてくれんのか? 実はさ、ほんと酷え話なんだよ」
ルークはうつ向いて、口元をその巻いている大きな黒色のマフラーで隠しながら話し出す。シンクにはその隠れた口元が、邪悪に吊り上がっているように思えてならない。
「シンクの奴さ、あろうことかリグレットに膝枕しやがったんだ。俺だってまだやったことないんだぜ……リグレットも酷いよな、マジで」
「…………」
「どうかしたか?」
「…………まさかとは思いますが、それで終わりですの?」
「いや、終わりだけど」
「…………」
平然と答えるルークに、ナタリアは暫し呆然としていた。
しかし直ぐに我に返り、腕を組んで尊大に言い放つ。
「今度ばかりは本当に呆れましたわ。そのようなことで大切な友人を傷つけるなど、貴方は何時からそのような悪逆無道な人間になってしまわれたのです!」
「あー……三年前くらいからだろ」
「ルーク!」
指を折りながら数えて、ふざけているのか真面目なのか分からないことを宣うルークに、夫に似て気が短くなってきているナタリアはがなった。
シンクはそろそろ面倒になって来たので身を起こそうとしたが、何故かへばりついているアリエッタが邪魔で動けない。現実逃避気味にカフェに残してきた料理のことを考えると、これまた何故か胃に痛みが走った。
――……ストレスが原因かな……。
原因は食べ過ぎだ。
「つーかナタリア、お前そんなことでとか言うな。ちょっと考えてみろ、アッシュがお前以外の奴……ティアでいいや、ティアに膝枕してもらってたらさ、お前どう思う?」
「何故そこでティアが出るのです……」
「だってほら、俺と状況近づけねえと。俺とシンク、ナタリアとティアってな感じで」
正座したままルークは何やら意味不明なことを言い出した。ていうか膝枕を何時まで引っ張るんだろう。
シンクはうんざりだった。
「アッシュがティアに……アッシュがティアに膝枕を……膝枕を……」
本気で考え始めたアリエッタ並の天然お妃様にもうんざりだった。
いっぱい食べて栄養を取って、早く体調不良を治そう。
――……そうしたらこんな所、さっさとおさらばだ。
明らか間違った答えに辿り着いたシンクは、何故かはっと顔を上げたナタリアに敵意を多分に含んだ視線をぶつけられた。
「シンク、貴方が悪いのではないですか! ルークがどれほど傷付いたかわかっておりますの?」
「え? いやごめん、何だって?」
「シンクもティアも、幾ら友人の間柄とは言え、やって良いことと悪いことがありますわ。だいたいアッシュもリグレットも、少しは私達の気持ちを考えて下さっても良いとは思いませんか? そうですわよね、ルーク」
「そうだそうだー、だからリグレットは後で俺の膝で寝ること。これ決定な。よっしゃ、これで万事解決だぜ」
そうだそうだー、と棒読みで言ってのけたルークに殺意が湧いた。
「まったく……アッシュにも困ったものです、私という者がおりながら。ティアにも今度注意しておかなければなりませんわ」
憤慨して機嫌悪く呟かれたナタリアの言葉を聞きながら、ルークは満足そうに頷いている。
少なくともアッシュとティアに落ち度はない。これっぽっちも。絶対に。全てナタリアの空想の話だ。
アリエッタ以上に天然かもしれないと、シンクは認識を改め戦慄した。
「……そういえばさ、さっきからあんたは何してんの? それってもしかして、頭下げてるつもり?」
ルークの頭が悪いとしか思えない言葉を聞きながらも、何故か反応しないリグレット。何時もなら真面目に謝れと一喝していてもおかしくないのに、今回は顔を伏せたまま照れ隠しに殴りもしない。
リグレットはシンクに頭頂部を向けたまま、ふるふると首を振る。
「ナ、何でもない」
声が裏返っていた。良く見れば耳が真っ赤に染まっている。
「どうされましたの? 顔が赤くなっておりますが、まさか風邪でしょうか」
リグレットの様子に気づいたナタリアが、床に膝をつき顔を下から覗き込む。リグレットは逃げるように後ろを向いて、あたふたと裏返った声で言い始めた。
「だ、大丈夫。少し部屋が熱いと思うだけで、全く問題ないわ。シンクも起きたのだし、そろそろ私は屋敷の方々に挨拶に行かないと」
全然大丈夫とは思えない動揺っぷりで、喋り方まで素に戻ったまま一気にまくしたて、リグレットは立ち上がり部屋を出て行った。
首を傾げていると、横がもぞもぞと動き出した。
「うぅー……おはよう、です。リグレット、嬉しそうだったね」
起き上がり眠たそうに目を擦りながら、とろんとした瞳をリグレットが出て行った扉に向けるアリエッタ。起きていたのならベッドから下りて欲しい。
「あれ、嬉しそうだったんだ」
「うん……あと、恥ずかしそうだった」
「ああ、それなら分かったよ。あれでしょ? ルークを叩きもしなかったから、6くらいだよね」
「ううん……7、です」
アリエッタは、眠たいからか何時にも増して幼い舌ったらずな口調で、十段階の内の七だと首を振った。
「よし、じゃあ俺も行ってくるか。公爵とシュザンヌ様は出てるから……報告はラムダスにだな。――それとシンク。さっさと良くなれよ。明日からは闘技場行ったり城に挨拶に行ったりナイフのオッサンの店行ったり、滅茶苦茶予定入ってんだからな」
ごく自然な流れで、正座から逃げて部屋を出て行ったルーク。ナタリアはさっきからひたすら首を傾げていて、退出を気にもかけていなかった。
そっとため息を吐いて、シンクはアリエッタに聞く。
「ねえ、アリエッタ。リグレットが何で喜んでたのかわかる? カフェじゃあキレてたでしょ」
唐突な質問に少し慌てて、アリエッタはシンクの足をぺたぺたと触りながら答えた。
「えっと……多分、ルークが嫉妬してたから……だと思う。アリエッタもよく分からないけど……」
「ふーん。良く分かんないや」
リグレットが前に酔った勢いで「普段は堂々としているルークが甘えてくるのが好きだ」と、どんな話の流れでかは覚えていないが、正気を疑うことを言っていた。それに近いのかも知れない。
カフェではルークの態度に苛立っていたが、落ち着いて冷静に考えたら嬉し恥ずかしくなったのだろう。
極めて迷惑な話だと、シンクは唾棄した。
「あの、宜しいですか?
先程おっしゃっていた、七とは何ですの?」
「リグレットの恥ずかしさレベル。レベル1からレベル10まであるんだ」
「7はね、とっても珍しいの。アリエッタ、まだ二回しか見たことないもん」
置き去りにされていたナタリアに答えてやれば、ナタリアは手で口を覆い目を見開いた。
「まあ! リグレットにはレベルがあるのですか! もしや彼女は進化もできますの?」
「しんか……? えっとね、しんかかどうかは分からないけど、レベル5がおりかえしちてん、なんだって」
「やはり進化するのですね! 彼女はレベル10になると、一体どうなってしまいますの?」
「え? あの、えっと、確か……猫になるって、ルークが言ってました」
「猫!? 彼女の最終形態は猫なのですか! 感動です……私は今とても感動しておりますわ」
至って真面目に会話をしている二人を見ながら、シンクは気づいてしまった事実の深刻さに息を飲んだ。
――どうしよう……この二人、ツッコミがいないと永遠にボケ続ける……。
しかしそうと分かってはいても、わざわざ間違いを指摘する気分にはなれない。シンクは現実逃避気味に遠い目をしながら、大変な設定を押し付けられたリグレットを一人静かに哀れんだ。
実際のところは単に、照れれば照れるだけ照れ隠しが死人が出そうな程に激しくなるリグレットだが、ある一線を越えれば頭がパンクして大人しくなるだけなのだ。
その一線がレベル5で、折り返し地点。ルークによれば最終的には物凄く従順になるらしい。仔猫並に。
それもルークが酔っていた時に聞いた話なので、シンクとしては嘘だと思っていたい。
「失礼します。紅茶をお持ちしました」
横で繰り広げられている不思議な会話を聞き流していると、盆を持ったメイドさんが一礼して部屋に入ってきた。テーブルに盆を置きながら、メイドさんはフレンドリーに質問をしてくる。
「何かあったのでしょうか? 先程廊下で、リグレット様は顔を真っ赤にして落ち込み、ルーク様は心配になるほど狂喜していましたが」
「ああ、ちょっとね。聞かない方がいいと思うよ、気持ち悪くなるだけだから。ついでにこの二人の会話も聞かない方がいいよ、頭が悪くなるだけだから」
二人の会話は、ルークは狼に変身できるという意味不明なものになっていたから、シンクは純粋な善意でメイドさんに忠告しておいた。
曖昧な笑みを浮かべてカップを渡してくれたメイドさんは、しかし急に表情に真剣な色を乗せてシンクの耳元に口を寄せる。
「ところで、一つ教えて欲しいんですけど……リグレット様って今お幾つですか?」
「…………は? ……えっと、二十九だったと思うけど」
「きゃ、きゃぁあーっ!」
唐突な質問に戸惑いながらも答えると、メイドさんは小さく口の中で悲鳴を上げた。
「お、おかしいですよあり得ないですよ! だってだって、肌が……肌がピチピチ! 十代って言われても信じられますよ、絶対! 私もピチピチになりたいっ!」
自分の腕を見ながら小さく小さく囁くように絶叫するメイドさんに、シンクは少し感心してしまう。流石公爵家のエリートメイド、煩くない。そして鋭い。
「ね、ね、シンク様。何か秘訣があるのでしょうか? 聞いたら教えて下さると思います?」
希望に満ち溢れたメイドさんの瞳から、シンクは気まずく視線を反らした。誤魔化すにしても、「愛されてるからじゃない?」などと腐ったことは言いたくない。
シンクは渡された紅茶を飲みながら、どう誤魔化そうかと考えて、結局はお茶を濁すことにした。
「まあ、そこはほら――魔女だからでしょ」
しかし翌日、ルークに膝枕をされて幸せそうに眠るリグレットが発見され、結局は若さの秘訣は腐ったような適当な言葉で屋敷中のメイド達に広まった。
つまり――『愛』だと。
シンクは迷わずに唾を吐き棄てたのだった。
Fin.