「歌を歌うのが好きだった」
歩きながら、ふと思い出す。前世の記憶を全部思い出したせいだろうか。
なんとなく、昔のことを話したくて仕方がない。
「お姉さんはそういう人だった。家では息を殺してなくちゃいけなかったから、歌うなんてお姉さんと会ってから初めてだった」
「じゃ、じゃあ、歌を歌ってみたいって夢はお姉様がきっかけですか?」
「うん。歌ってみたってのをやってみたいって言ってた。好きを動機にできる人はすごいし、何かを好きになれる人は本当にすごいって、そのときは思った。当時の俺は空っぽの人間だったから、そのまま俺もやってみたいと思った」
歌は好きだ。とはいえ、お姉さんは俺の前では恥ずかしがってあんまり歌ってくれなかったけれど。
それでも、たまに聴こえる歌声が好きだった。
昔いた場所では聞いたことがないほど穏やかな声音で、幼心にこうなりたいなと思っていた。
お姉さんは変な人だった。
祖父母が亡くなって、管理する人がいないのは悲しいからって、山奥の家に住むような人だった。
生活するのには車が必須で、街に行くのにも一苦労で、更になぜだか親と縁を切られてしまったから、どうにかインターネット経由の仕事を探して、それと遺産を切り崩して生きている人だった。
人ひとりならば生きていけるくらいの生活は、俺が入ってからはもう維持するのが難しかったらしい。
自分のぶんの食事を減らして工面しようとしたけど、「食べないならおれも食べない!」っていう面倒な子供がいたせいでうまく行かなかった。
結局、前世の死は自業自得な部分も大きいか。
彼女のことは一生忘れられないだろう。
今の俺のほとんどをくれた人だった。
「残念ながら一年もないくらいの付き合いだったけれど、長く関係が続いたことが奇跡みたいな状態だったから、俺はあの出会いに救われたんだと思う」
「……優しい人だったんですね」
「得体のしれない子供の面倒を見れるような人だからね。──それを定義にするんだったら、カリンちゃんも優しい人だ。優しすぎる人だ」
「そ、そうでしょうか……。カリンはただ、当然だと思ったことをしているだけで……」
「残念ながらそれが難しいことなんだよね」
もし本当にそれができるのであれば、俺はもっと早い段階で救出されて、不幸はあれど程々に人生を全うできたはずだ。
あのレベルの虐待は、きっとすぐに気づけるはずのものだった。
だがそれも天命だ。あれがあったからこそ、俺はお姉さんと出会うことができたのだから。
あるいは、それこそ俺が運命を信じたきっかけだったのかも。
「誰かを慮ることができるのは、本当に難しいことなんだよ。自分に余裕がないのにそんなことができるなら、尚更。俺はそういう人になりたいと思って、結局それはできなかったなぁ」
「……そんなことないです」
カリンちゃんは、俺の言葉を否定した。
「だって、ヤソ様は……ずっとずっと、余裕がないのに、みんなのことを思っているじゃないですか」
「あは。余裕がない? 俺は人が一生に使い切れないくらいの金を持ってて、家でごろごろしてるだけでいいような人間だよ? 余裕しかない人生じゃん。それに他人のことを思ってなんかない」
「でも……心には、ずっと余裕がないままですから」
──そうかなぁ。
自分では実感がない。きっとそれは彼女の勘違いだ。
こんな生活をしている人は、もう人生イージーモードで、だからそんなふうに苦しんだりしちゃいけないのだ。
本当に悩んで、苦しんでいる人たちに怒られちゃうから。
歩いている途中で、朱鳶さんを見つけた。
あとで治安局に挨拶に行こうと思っていたから丁度いいや。お別れの挨拶をしておこう。
「こんにちは、朱鳶さん」
「──ええ、こんにちは」
「あは。ちょっとした事情で、いなくなるので、
「……どこか、別の地区に引っ越しでもするんですか?」
「まぁそんなとこ」
別に、わざわざ言わなくてもいいだろう。
人が死ぬことなんて、いちいち言われたくもないだろうし。
そうして、彼女とは別れた。
朱鳶さんは鋭いから、魅了にあてられて、頭が回らなくなっている間に、さっさと切り上げて動く。
歩く後ろを、カリンちゃんがついてきている。
表情はどんどんと暗くなっていた。
「幸せを感じられるかどうかっていうのは、これまで幸せだった時間があるかどうかで決まると思うんだよね」
例えば、
「俺が孤児院にいるときに幸せだと思ったのは、お姉さんといたとき以外の記憶をなくしてたときに、お父さんといっぱいの兄弟ができたからだ。そのときの俺は親への嫌悪なんかなかったし、みんなと一緒にいることができて嬉しかったからだ」
「……今でも、孤児院の人たちのことは好きでいらっしゃるんですよね?」
「うん。ちょっと歪な関係だけれど、家族だと思ってる。嫌なところがあっても、それ込みで好きでいられるなら、それが本当に好きってことだと思うから」
好きなところと嫌いなところ、どちらもちゃんと見たうえで好きが勝つのなら、それは本当に好きだってことに他ならないだろう。
嫌な人にも手を差し伸べることはできるけれど、だからといって好きといえるのかはちょっと違うと思う。
俺は別に、博愛主義者じゃない。
正しいことができる人間じゃないから。
誰かを助けようとするのは、せめてちょっとでも良くあれるように、足掻いた結果に過ぎないんだ。
「幸せを知ったあとに転落するのが一番の不幸だ。記憶をはじめて取り戻したときはそんな気分だった。あのときも死にたいって思ったけど──今はその比じゃないかなぁ」
「……そのときから、ずっと死にたいと思っていたんですか?」
「記憶を取り戻したときに、今みたいに呪いは強くなっちゃった。孤児院のみんなは、もう手遅れな状態で──あは、生きるのが苦しくなっちゃった」
振り返って笑っても、カリンちゃんは何も言わなかった。彼女は俺をただ見つめていた。
六分街へとたどり着いて、リンちゃんのお店へ顔を出す。
「──っ、いらっしゃいませ!」
お兄さんと、リンちゃんが揃っていた。
なんだろう、どこか表情が硬い気がする。
でもふたりは一回強く魅了に当てられてるから、そのことを思い出しているのかもしれない。
「こんにちは、ふたりとも。お兄さんは久しぶりだね」
「ええ、こちらこそ。今日はどんな用で店へ? また新しいビデオのレンタルですか?」
「ううん、もうここに来れなくなるだろうから、お別れの挨拶をしとこうかと思って」
「──。それは、何故?」
「引っ越しみたいな感じかなぁ」
「違うよね」
と、ここでリンちゃんが言った。刺すような、強い視線だった。
「カリンから事情は聞いてるよ。お姉さんが死ぬ気だって。いきなりすぎて詳しい事情はわかってないけど、少なくとも納得のいく理由じゃないことはわかる」
「ああ。カリンが僕達を頼るってことは、よっぽど切羽詰まった事態だ。彼女は責任感が強くて、自分の力で物事を解決しようとする子だからね」
「んー……あー、まぁ、そりゃそっか」
DMを使えば、移動しながらでも情報の共有はできる。
これはヴィクトリア家政にも情報が回っていると考えたほうが良さそうか。さすがにメンバー総出でこられたら、簡単にその場を切り抜けられなさそうだ。
「でもね、残念ながら──止まる気はないんだ」
これはもう、俺の使命のようなものだから。
「ていうか、そもそもどうして止めたいのかわかんないよ。……俺が死ぬだけで、全部丸く収まるんだったら、それで良くない?」
「──良く、ない! 死ねば何かが変わるって保証もないし、何をもってして丸く収まるって言ってるのかもわかんない! そもそも、そんな簡単に死ぬとか言わないでよ!」
「なんで止めたいのかが、本当にわからないのかい? カリンが僕達に助けを求めてまで、君を止めたいって気持ちは、君には全く伝わらないのかい?」
「……あは。そんな言い方はやめてよ、俺に人の心がわかんないみたいじゃん。違うよ、わかってるけど、それでもやらなきゃいけないことなんだよ。だって、誰かがやらなきゃ、この世界はずっと救われないままだもん」
幸せになってほしい、と思うのは間違っているのだろうか。
原罪を背負っているせいで、こんな優しいカリンちゃんたちが救われないなんて、悲しいから。だから死ぬ必要があるんだ。それで罪を濯ぐことができて、みんなは救われるんだ。
それでみんな幸せになるから。
「──ぜんっぜん、全く、わかってないじゃん!」
リンちゃんの声が、周囲を凍らせた。
半分くらいが怒声で、もう半分くらいは、泣き声だった。
彼女の目から涙が流れ出るのを感じて、なんだか心臓を掴まれたような気がして、背中がざわざわとする。息をするのにも意識が必要なくらいに、居心地が悪い。
そのまま泣きだしてしまって、言葉を続けられなくなってしまったリンちゃんの代わりに、お兄さんが話し始める。
「世界を正しくする──君が死ぬ必要があるという理由が、僕達のためだとするんなら、そんなのは最初からお門違いだ」
そうなのかな。
いや、そんなわけがない。
「君が僕達の幸福を願っているように、僕達も君の幸福を願っている。だから、違うんだよ。君が死んで、仮に世界が正しくなったとして。本当に必要なのはそんなものじゃない」
「黙って」
「黙らない」
魅了を強めて、その先の言葉を続けられないようにする。
店内の電気が脈動し、異音を立てる。電子制御のシステムに影響が出ているのだろう。
このレベルまで強めれば、どんなに精神が強いひとでも、たった一文程度さえ話せないくらいなはずだ。
それでも、
「辛いことがあったらそれを分かちあって、楽しいことがあったら一緒に楽しんで、幸せに生きていることを享受したら、それだけでいいんだ。よくわからない救いなんかよりも、こんな素朴なことのほうがよっぽど救いになる!」
言葉は止まってくれなかった。
「──たとえそれが間違っていたとしても、それでも傍にいてほしいんだよ、僕達は!」
そんなのが、救いなわけがない。
俺は間違ってない。
間違ってたとしたら、間違えてたら、そんなことがあってしまうのなら、
前世の俺の死には、なんの意味もなかったってことになってしまう。
「うるさい」
魅了を思いっきり強めて、黙らせた。
直後に、自分のミスに気づく。ただでさえ強まっている魅了の制御を手放してしまったら、それは致命的なものにならないか?
「──あっ、ぇ……ちがっ」
「……大丈夫です、ヤソ様。お二人とも、意識を失っているだけです。カリンが介抱しますね」
「ぅあ……あはは。うん、ごめん、お願い」
大丈夫、とは言うものの、カリンちゃんの顔は険しかった。俺を安心させるための言葉だったのだろう。
ほら、もう無理だ。
ちょっと気持ちを昂ぶらせるだけで、自分が嫌だと思ったことがあるだけで、そんな簡単なことで人を再起不能なくらい精神的に苦しめてしまうんだ。
なんだか足下が崩れたような感じがして、立っていられなくなった。ふらりと、カウンターに手をついて、そのまま座り込む。
頭が痛くもなってくる。額を壁に引っ付けると、なんだか冷たい感じがした。
「──だっ、大丈夫ですかっ!? ヤソ様!」
「俺は平気。ふたりはどう?」
「問題はないかとっ。アキラ様は既に意識を取り戻しています。少し休めば回復すると思われます」
「そっか……よかった」
「あ、あの……本当に、大丈夫ですか? 顔色があまりよろしくありません……」
「俺は平気だよ、少なくともふたりよりは。……時間なくなっちゃうし、次いこっか」
大丈夫、前世のほうがよっぽど苦しかったんだ。
今更こんな程度で、心が揺らいじゃいけないんだ。
立ち上がって、お店を出る。
通行人のほとんどが、倒れ付していた。
「……ぇ、ぁ、はぁ……?」
「──これは……」
中には意識を保っている人もいて、倒れた人を安全な場所に助け起こしたりなどしている。
どうやら事故なんかは起きていないようだが、死屍累々と言って差し支えないような、そんな景色が広がっていた。
「なに……なにが起こってるの……?」
「……………………」
「──主ら、支障はないか?」
疑問に周囲を見回していると、あちこちに走り回っていた治安官たちの内ひとりが、こちらに近づいてきた。
「これ、なにが……」
「うむ。今朝方から新エリー都中を覆っている正体不明の現象で、何やらすべての人間が妙な感じがするとのこと。それが先程急激に強まった結果がこの有様よ」
「──ぇ」
「幸い
最後のほうの言葉は、もはや聞こえていなかった。
気分が悪かった。
正体不明の現象、その正体に気づいてしまったから。
「……む? 大丈夫か? 顔色が──」
「す、すみません治安官様! ごっ御主人様っ、ど、どっ、どうやら具合がよろしくなさそうで、今家に戻るところだったんです……っ!」
「む、そうか。あいわかった。引き止めてしまって申し訳ない」
俺を担ぎ上げて、カリンちゃんが走り始める。
彼女の腕の中で、俺はただ揺られた。
なにか考えようとしても、頭が回ってくれなかった。
「お姉さんと会うまでは、雨が好きだったんだ。冷たくて、痛いのも気にならなくしてくれたから。お姉さんと会ってからは、外での作業ができなくて、大変なことばっかりで、雨が嫌いになっちゃった」
夕方、ルミナスクエアの水辺沿いで、訥々と少女は話し続ける。
「雪は寒くて嫌いだった。でも、お友達ができてからは雪で遊ぶってことを知って、一気に好きになったんだ。人の好意って、そんなものだよな」
笑みは美しかった。
それでも、その瞳は空虚で、何も映していないように見えだ。
「カリンちゃんはどうかな。そういうの、ある?」
「好きが、嫌いに……そういうのはあんまりないです」
「まぁ、そうだよね。嫌いになるのって疲れるし、良いことなんもないし。でもね、カリンちゃんと俺にはきっと、同じ嫌いなものがあるよ」
「……お、同じ……ですか?」
「自分が嫌い」
刃を突き立てるようなそんな言葉でも、彼女はずっと美しかった。
それが虚勢だと、カリンは当然知っていた。
「……確かに、カリンは、自分のことが嫌い
「でしょ。だから俺達は、互いを好きになったんだから」
彼女の言っていることは、間違いじゃない。
シンパシーがあったから、カリンは彼女を許容できた。
でも、今は違う。
「訂正します」
「……?」
「カリンは、今は、自分のことが好きです。全部、ご主人様のおかげです。あなたのおかげで、カリンは自分を好きになれました。──だから、ヤソ様も、自分を好きになれる日がきっと来ます!」
「──あは」
まただ。
またあの空虚な笑みが浮かぶ。
「怒ったら、街の人たちが昏倒して倒れるようなバケモノだよ? そんな俺が、本当に誰かを好きになれると思う?」
すべての気持ちを飲み込むような、冷たい笑みだ。
中身がなんにもないような笑みだ。
心を映さない、拒絶の笑みだ。
『──あの美しさはきっと、彼女の身を守るための盾ですわ。人はそれに目が眩んで、彼女の本当の姿が見えなくなるのでしょう。現に、私はカリンちゃんが告げた彼女の『本名』を認識できないままでいる』
今日一日、彼女を止めると決めてから。
心に付け入る隙をずっと探していた。
「あの、ご主人様」
カリンは、一息を入れてから、話し始めた。
話が下手な自分だけれど、ここだけは絶対に間違えられない。一世一代の機会だから、失敗できない。
でも、大丈夫だった。
失敗する気はしなかった。
あるがままの心を話せば、大丈夫だと、信じられたから。
そしてカリンは、この少女になら、何もかも打ち明けられると思っていたから。
「どうしてカリンには、あなた様の魅了が効いていないんですか?」
それは、素朴な疑問。
なぜカリンだけが、彼女の名前を認識できるのか。
なぜカリンだけが、彼女の魅了に耐性を持つのか。
それには絶対に理由があって。
カリンはその理由について、確信を持っている。
「……効かないってこと、ないでしょ。だってカリンちゃん、最初はあんな感じだったし」
「ええ、たしかに最初は魅了されていたと思います。ですが、今新エリー都全土にまで波及するくらい強くなったあなた様の魅了は、カリンに一切効果がありません」
「慣れたんだよ、きっと」
「それならば、店主様方に耐性がついていない理由がわかりません」
「わかんないよ、じゃあなんで?」
似ているから、ではない。
一番最初、なぜ彼女のことを、カリンが助けたいと思ったのか。
今日でやっと、一番の理由にたどり着いた。
幼いのだ、この少女は。
その美しさに目が眩んで、誰も気づくことができなかったけれど、見た目よりもずっとずっと幼い、まだ迷える子供なのだ。
「あなた様が、他人が怖くて、拒絶しているのではないですか?」
それこそ、彼女の呼ぶ「お姉さん」以外のすべてを。
そしてカリンは「お姉さん」みたいだと投影されて、そしていつしかカリン自身が「お姉さん」と同じくらいに、彼女にとって重要な位置に立っていたのだろう。
言葉を受けて、動揺に目が揺らいだのを、見逃さない。
彼女の運命が、死ぬために敷かれているのだというならば。
意思も運命も全部
「────」
言葉を受けた彼女は完全に固まって、何か言おうと口の形をふらつかせ。
言葉を待たず、周囲の空間が捲れるように、急速に歪み始める。
仮にカリンに誤算があったとすれば。
自分でも気づいていない真実を指摘したとき、彼女の心はどのように動くのか、推測し切れなかったところにある。
歪んだ空間は、遂には圧力に堪えきれなくなって、崩壊した。
足場を失った少女が空間に飲み込まれていく。
「え」
「──ヤソ、様っ!!」
突然の事態に、彼女は
即座に飛び出したカリンは、しっかりと彼女の手を、
掴んで、
ふたり、
闇に沈む。