新エリー都全土を襲った例の重圧は、未だに原因が解明されていない。
ホロウ災害に類する何かか、はたまた大規模なテロ事件なのか。どちらかであると噂されてはいるが、はっきりとした原因は特定されていない。
少なくとも一般には。
だがミスター・ノーバディを認識している者たちは違う。彼らにとっては既知の現象であり、そしてミスター・ノーバディという人物の価値をより深く認識するに足る事件であった。
一人の人間が起こして良い現象ではない。
いや、そもそもアレは人間なのだろうか?
ホロウの中から現れた天使。
それ以前の行方を誰も追えず、彼女当人すら語ることはない。
──それが、本当に人間だと誰が言い切れるのだろう?
一時の気の高ぶりで都市全土を機能不全に陥れるほどの存在。その脅威が指向性を得たとき、どうなってしまうのだろうか。
だが一番の問題はそこではない。
そのような脅威を認識してなお、彼女を知った多くのものが、敵意を抱くことすらできないこと。
最悪のケースを想定できても、その美しさに心を溶かされてしまって、身動きができない。
それがミスター・ノーバディという存在の、一番の恐ろしさだった。
最初からそれがわかっていたからこそ、満場一致で彼女を『鳥籠』に封じることにしたのだから。
人が一人生きていくには充分以上に、すべてが与えられるはずの牢。
人智を超えた存在を管理するための檻。
そしてそれは、正しく機能していたのだ──ある日までは。
カリン・ウィクス。
ミスター・ノーバディが気まぐれで呼んだ、ヴィクトリア家政のメイド。
あの少女が、すべてを狂わせた。
天使を人へと貶めたのだ。
彼女との付き合いで、ミスター・ノーバディは人間性を獲得していった。
揺らがず、動じない。感情を閉ざしたその目が、少しずつ変わっていってしまった。
その結果が例の事件に繋がり、カリン・ウィクスの手により解決され──そして、ミスター・ノーバディはジューダス・ウィクスとしてヴィクトリア家政へと組み込まれる。
──あまりにも都合が良すぎるのではないだろうか?
この一件で、誰があの天使の飼い主になった?
誰があの美しい少女に、首輪をつけたのだろう?
「──なんて、思われているかもしれないね。半分は当たっているが」
そう言って、新エリー都市長は胸中で息を吐く。
ミスター・ノーバディは常に大多数の権力者の監視下にある。行動パターンを知っているのであれば、彼女が数ある家事代行サービスの中からヴィクトリア家政を選ぶように意識を誘導することも、当然可能だ。
そこまでは予想通りだった。
だが、ミスター・ノーバディとカリン・ウィクスの相性がこれほどまでに良いとは予想していなかった。
結果として新エリー都は二度機能不全に陥っている。
怪我の功名というべきか、おかげでミスター・ノーバディがヴィクトリア家政へと入ったとはいえ、こうなると采配ミスを実感する。
そもそもなんだ、幸福になれば記憶を取り戻すって。
その度にあの冗談のような魅了が強まっていくって。
知りようも対策のしようもない事実と、引き起こされた大惨事は、市長の人を見る目が確かであったが故のものだ。
こうなるのであれば、あのまま鳥籠の中の暮らしで放置しておくのが一番正しい選択であったかもしれないと思う。
数多あるミスター・ノーバディの特質。
一人を除いて名前を認識できなかったこと。
魂を従属させられているような、もはや魅了という次元ではない魅了など。
それらの中で一番理解できないのは、彼女の体質すべてが
人間に酷似したサクリファイスなのではないだろうかと疑い、健康診断と称してデータを採ったのだが、結果は輸血がほぼ不可能であるということが判明しただけである。どうやら血液型まで特別らしい。
ヘーリオス研究所出身の可能性はあるが、少なくとも市長は彼女を知らない。そしてミスター・ノーバディがホロウの中から発見されたのは六年前で、旧都陥落の時期からはまた外れている。
──正体不明。そう結論づけるしかない。
幸いにして、彼女の心根は善性だ。おそらく市長の意図を理解して尚、ヴィクトリア家政に留まっていてくれている。
その気持ちに甘えて、現状を維持すること。
それが新エリー都の市民を守るための、最適解なのだろう。
ヴィクトリア家政に迎え入れたときの、規格外の彼女との会話を思い出しつつ。
「そんなにカリン君が好きになったのか、君は」
市長の知るミスター・ノーバディ像とは最早別物な彼女の姿を思い返して、市長はぽつりと呟いたのだった。
ヴィクトリア家政の仕事で、俺に回ってくるのは基本的に捜索と戦闘だ。
手が空いている場合はだいたい誰かがついてくる。主にエレンちゃんだ。カリンちゃんは通常の家事も行えるため、手が空く機会が多いというわけではない。ライカンさんは言わずもがな、リナさんは料理以外なら問題なくこなせる。
必然的にエレンちゃんがついてくるのだが、エレンちゃんにも学業がある。
何度か「別についてこなくてもいいんだけど……」と言ったら、まるでメタモンのような目で「一人でできる……?」と返された。メタモンのような目ってなんだ。また変な電波受信したな。
ともあれ。
そういうわけで、依頼を受けてホロウにいる。
今回は一人だ。いざとなれば瞬間移動して逃げられるのだし、以前と比べても成長しているのだから、俺が心配される謂れはない。むしろみんなのほうが心配まであるのだが。
そう。
実のところ、俺の力は日々更に出力を増してしまっている。
歌を公開して以降、なんとなく扱える総量が増していることに気づいた。おそらくは他人の願いを少しずつ蓄えて、力に加工しているのだろう。詳しいことは俺にもわからないので、いつか制御できなくなるんじゃないかと恐々している。
だがまぁ。
そういうわけなので、今となってはホロウ内部も俺にとっては庭のようなものなのだ。このままうまくいけば、死ぬまでもなくホロウを根絶できるのではないだろうか。
それがいつになるのかはわからないけれど。
かなしいことが少しでもなくなればいいと、思う。
現実逃避、終了。
「だ、大丈夫ですか? 呼吸はできていますか?」
「あはは……。これどうしよ……どうしよ……」
今俺は朱鳶さんと、物理的にくっついている。
どうしよう……。
事の経緯としてはこうだ。
今回の依頼は市長から直々に下されたもので、ホロウ内部の犯罪者回収と彼の持つ機械の回収であった。
なるべく穏便に事を収めたいとのことである。となれば適任は俺だろう。何を穏便と定義するかによるが。
ということで早速ホロウへと突入……というか、目的の相手と朱鳶さんの間にワープした俺は、拘束するまでの一瞬の間にたまたま犯人が放ったよくわからない攻撃をされ、朱鳶さんに激突し──体が離れなくなった。
状態としては朱鳶さんの体の前面に俺がべちゃっとくっついている感じである。というか顔面が完全に塞がって呼吸ができない。これ俺じゃなかったら窒息して死んでるぞ。
どうせ効かないからと回避をしなかったのが原因だ。他のみんなであればなんとかできただろう。やはり俺に戦う才能はない……。
「うーん……剥がれませんね。触ってまだくっつくというわけではないので、そこは幸いですが」
「俺のほうは指一本も動かせないんだよね」
「どうやってその状態で喋ってるんですか?」
参った。どうやって抜け出そうか。普段通りに出力を上げればなんとかなるだろうし、自分の状態を弄れば抜け出すのは簡単なんだろうが。
「というか、あなたは何故ここに? その服は一体どうしたんですか? いえ、それよりも」
今はそれよりも大変な問題がある。
「……あのときの
──どうやって朱鳶さんから逃げようかなぁ?
「死ぬつもりでしたよね?」
「…………」
「自分がいなくなればいいと思ってましたよね?」
「…………」
「大方その力が手に負えなくなって、悩んだ末に自分がいなくなればいいやだなんて思ったのでしょうが」
「…………」
「それで悲しむ人がいるのはわかるはずです。家族や友人、それにあなたの優しさで更生できた人たちはどうするんですか?」
「……ぅゆぅゆ」
「……………………」
朱鳶さんが冷たい目で俺を見ている……。
気まずさで目が泳ぐ。よし、言い逃れはやめよう。
気合でぺむっ、と剥がれた俺は、もにょもにょと口を動かして。
「俺だって……わかってたもん」
「………………」
気まずい沈黙が流れる。朱鳶さんの俺を見る目が厳しい……。
「大丈夫、今は死ぬ気もないからさ。生きてていいって、ちゃんと教わったから」
「ええ、そうなのでしょう。──ジューダスさん。もしも困りごとがあるのなら、ちゃんと言ってください。自分だけで抱えていては解決しないこともありますから」
「……うん。わかった」
──もしも次、制御できなくなってしまったときは、言ったら助けてくれるのだろうか?
きっと、みんななんとかしようとしてくれるだろう。
そういう人たちだ。俺はそれを知っている。今ここに生きていることがその証明だから。
と、そこで。
ふと奇妙な点があったことに気づいた。
「……あれ、俺名乗ったっけ」
「リンちゃんに聞きました。ええ、あなたが私を避けていたこともしっかりと」
「……あはー」
──バレている……!
そう、朱鳶さんはリンちゃんやおにーさんと仲が良い。意外とあのお店を訪れたり、宣伝の手伝いをしたりなどしているらしく。
それはつまり、あのお店で働いているときに鉢合わせる可能性があるということ。
来ると聞くなりシフト変更を申し出ていれば、そりゃあ察されるというものだろう。
というかプロキシなのになんで治安官と仲良いの?
しかも朱鳶さんと。すっごくそういうところ厳しそうなのに。
「だってぇ……お別れを言ったのに結局残りましたっていうの、一番恥ずかしいじゃん……」
「……はぁぁぁ……」
朱鳶さんはため息をついた。抑えきれないといった様子だった。
その中に、どこか安堵が混じっているように見えた。
「そんな理由でしたか……嫌われたのかと思っていました……」
「俺が悪かったです。ごめんなさい」
こほん。気まずさを追いやるように俺は咳払いを一つ。
緩んだ気を締め直す。そろそろお仕事をしなければならない。俺は表情を切り替えた。
「ところで朱鳶さんはどうしてここに?」
「……一応、あなたも当事者なので話しても大丈夫でしょう。落ち着いて聞いてくださいね」
彼女ほどの人物が俺に念押しするのであれば、その内容がいかに重大な内容かが伺い知れる。
俺は重々しく頷いた。朱鳶さんが、先程拘束しておいた犯人を指して。
「彼は盗撮犯です。インターノットに個人情報を流布して、結果として企業サーバーのデータが破壊されました。捜査を行った治安官も皆すぐに捜査の手が止まりまして……結果、特務捜査班が対応することに」
「あっ……」
朱鳶さんもまた、重々しく頷いた。
「あなたの写真です」
──大事件、三度目……。
だがしかしそれはおかしい。
リンちゃんの件はアシスタントAIが高性能すぎた結果起きたことだ。実際にカリンちゃんが何度か家で写真を現像していたが、それで何か支障が起きたことはない。
「データの破壊はあなたの情報を知った内部の人間が行ったものでした。問題となるのはその内容です」
と思ったが、今回は人為的に起こされた問題だったようだ。はて。例の火鍋のときの写真よりマズい写真は思いつかないけれど。
そもそも写真となると、俺が気を許している人以外に良いものは撮れないはずだ。つまりカリンちゃんやリンちゃんしかそこまでの効力を持つ写真は撮れないはずなのだが。
実際、今ちらりと朱鳶さんが見せた写真は遠くからのもので、あまり質が良いとは言えない。多少の魅了程度の効力しかないのではないか?
「この写真が『ミスター・ノーバディの素顔』というタイトルと共にインターノットへと……ジューダスさん? ジューダスさん!? ちょっと、落ち着いてください! 汚れます! 汚れますから! 寝転んじゃダメですって!」
溶けて地面に張り付いた俺を、朱鳶さんが起こそうとしている。だがその声は何故だか遠くから聞こえているように感じた。
意識してみれば今この瞬間も、力の総量が増えていくのがわかる。ただでさえ莫大な力が、増量を実感できるくらいに増えている。きっと曖昧だった願いの方向性が明確になったから、これまでとは比べ物にならないくらいに力が流入しているのだ。
つまり、こういうことだ。
ミスター・ノーバディの正体がバレた。