当初の予定と比べて圧縮したので結構ぎゅっとしてる
「キミの人生を買い戻したくはないか?」
心を怪我した彼女にとって、その言葉はまるで麻薬のように浸透した。
彼女は口車に流されるかのように、そのまま人生をやり直した。
最愛の人とはそのままに。
授かった天使は、今度こそ幸せにと。
そう思って、彼女は自分の過ちを拭うかのように、自分の人生を振り返った。
幸せな生活だった。
美しい子どもは、またたく間に成長していった。
本来あったはずの光景は、一度それを壊してしまった彼女には眩しすぎて。
だからこそ今度こそ壊しはしないと、心に誓った。
そして迎えた八歳の誕生日。
家へと帰ってきた我が子は、指だけだった。
指、腕、足、心臓、胴、首、頭。
最愛の天使は、ばらばらに解体されて、少しずつ家へと帰ってきた。
その美しさに呑まれた変質者に、惨たらしくも殺された。
ゆっくりと目を覚ます。
頭がどこかぼんやりとしている。
それでも二度寝するとシロさんに起こされて、より眠くなってしまうから、俺は無理矢理に目を覚ました。
外はまだ闇を保っている。
時計を見ると、夜中の三時を指していた。起きるには随分と早い時間だった。
普段はこんな時間に目が覚めないのに。
これもきっと、俺の頭の中で未だに鳴り続けている警鐘のせいなのだろう。まったくうるさくて寝付けやしない。
「はぁ……」
この家にいても落ち着かない。
散歩に出たほうが、まだ気分が楽になりそうだ。
そう思って、俺は着替えすらせずに、そのままルミナスクエアの川辺へと転移する。
そのまま少しだけ、水の流れを眺めていた。
そういえばいつだったか、カリンちゃんとここで話したような気がする。
「……おや」
そんな声が、聞こえた。
聞き覚えのある声だ。
振り返ると、ライカンさんが立っていた。
「そんな格好で、どうかしましたか? ……ジューダス。着替えて、靴もちゃんと履くように」
「着替えるのも靴を履くのも億劫なくらい、寝付きが悪かったんだよ。そういうライカンさんはどうしてここに?」
「……はぁ。私は、面倒な男と話をして、少しばかり気分転換をしようかと」
ライカンさんは、そう言ってはぐらかした。
はて。ライカンさんが面倒だなんていうのは珍しい。
少なくとも俺の中のイメージにはそぐわない言動だった。
ぱちぱちと俺が目を瞬かせれば、彼はそれ以上触れて欲しくなさそうにどこか弱々しい唸りを零す。
「ところで、カリンは一緒ではないのですね」
そのまま話題を変えてきたので、俺も折角だと乗ることにする。
「うん。……ねぇ、ライカンさん」
まるで喉に刺さった小骨のような違和感が、ずっと拭えない。
だから俺は、ライカンさんへと直接聞くことにした。
「カリンちゃんが俺を裏切るようなことがあるとしたら、どういうケースだと思う?」
「……何かあったのですか?」
「んー……わかんない。ただ、ずっと頭の中で天啓がしてて」
「……ふむ」
そう言うと、ライカンさんは僅かに考え込んだ。
「表面上の動きが裏切りに見えたとしても、実際はそうではないことだってあります」
それは、そうだ。
「天啓がどういったものに反応するのかはわかりませんが……たとえば、ジューダスが記憶を全て取り戻したとき。二人は対立する立場にあったはずです」
「…………」
「あの子なりに、運命に逆らおうとしているのでしょう。心配することはありません」
「そっか」
たしかに、あれも裏切りといえば裏切りか。
とりあえず今は、その言葉に騙されておいてやろう。
そのまま軽く言葉を交わして、ライカンさんは去っていった。
残された俺は一人で、ただじっと流れを眺めていた。
静かな湖面が、夜の帳が、普段の喧騒を呑み込んでいくかのような心地がした。
警報が鳴る。
『零号ホロウ内のエーテル活性が飛躍的に上昇中──』
近頃起こっているホロウの異変だ、と、観測員は即座に気づいた。
迅速に対応を──と、考えた瞬間。
『クリティホロウ』
『ラマニアンホロウ』
『パパゴホロウ』
『プルセナスホロウ』
『ハワーラホロウ』
『ソロブホロウ』
『エーテル活性が飛躍的に上昇中』
同時に全ての原生ホロウが。
ありえないレベルの活性を遂げている事実を、認識してしまった。
「は?」
思わず、間抜けな声が溢れる。
何かの冗談かと疑うが、目の前の世界に変化はない。
現実は刻一刻と進んでいく。呆けている暇などない。その間にも、目に見えて活性は進んでいるのだから。
それでも、目の前に映る光景が信じられない。手を動かしながらも、どこか冷え切った心が遠くから俯瞰していた。
警報はけたたましく鳴り続けている。
事態は加速的に悪化していく。
各所に連絡を回す時間すら足りない。
慌ただしく組織が、事態を解決するために動き出す。
だが観測員の頭は冷徹に、諦観だけを導き出していた。
人手が足りない。
戦力が足りない。
こんなもの、神様だって解決不可能な難題だ。
どうしようもない物量で、轢き潰されるだけだ。
世界の終わりとは、きっとこのようなものなのだろう。
そう思っても尚、彼は動きを止めない。
否、それは彼一人だけではない──周囲の同僚だって同じ。
ほんの一瞬。
たった数瞬。
僅かな時間に過ぎないとしても、世界の終わりを食い止めるために、彼らは動き始める。
そこに意味はないとわかっていても。
ほんの僅かな延命のために。
微かな可能性を引き寄せるために。
世界が形を変えていく。
滅亡の際へと迫る。
終焉が、今にも世界を呑みこもうとしていた。
世界の様相が一変した。
それを、ベッドの上へと座って
零号ホロウ及び、六大ホロウの異常活性。
間違いなく「始まりの主」の侵攻が始まっている。
しかし妙だ。
どこにこんな規模の干渉が行えるほどのリソースがあったのか。
「……俺のせい、かな」
それ以外には考えられなかった。
バレエツインズのとき。
俺が不用意に全力を使ったことで、莫大なエネルギーがあのホロウの中を満たした。
それを上手いこと利用したのだろう。
これまでゆっくりと侵食するようにしか活性化させられなかったのだ。
それが、急にこうなるのであれば──そこには必ず、理由が存在して。
それでも何故か、俺は動けなかった。
体に気力が、なかった。
覚えのある無気力感が、今俺の全身を満たしている。
「……ねぇ」
かちゃり、と扉が空いた。
そこに立っている人の顔なんて、見なくてもわかる。
「一体俺に何をしたの──カリンちゃん」
だから、目線を向けることすらしなかった。
それさえも面倒だったから。
彼女は、それでも真っ直ぐに俺のことを見ているのだろう。
ころり、と。
か細い、けれど芯の感じられる声が細く聴こえてきた。
「昔のあなた様を、少しだけみんなに教えただけです」
ああ、そういえば。
最近のカリンちゃんは発声が変わったな。
緊張のせいか僅かに引きつったような、か細く上向きに絞ったような声から、多少自信がついたのか、僅かに腹の据わったような、明瞭な声になっている。
「周囲の認識に合わせて、自分自身が変わっていくのなら──カリンの知っているあなた様を少しでも多くの人に教えてあげれば、救世主になるのを止めることができますから」
「……すごいね。でも、そんなことどうやってしたのさ。俺の知ってるカリンちゃんは、そういうの苦手だったと思うけど」
それに、そう簡単に人の認識は変わらない。
この事態の中だ。どうせすぐに、俺の中に祈りは積み重なっていく。
彼女の頑張りを無駄だなんて言いたくはないけれど。
それでもやっぱり、意味があるとは思えない。
「……あなた様はやっぱり、自分への感心を甘く見ています。自分自身に関心がないのは変わりませんね」
『ミスター・ノーバディの内実なんて、みんな知りたくて仕方がないものでしょ? だから噂がいっぱい出てくる』
ああ、と呟いた。
「そこに本当の情報を混ぜ込んだんだ。シロさんでしょ、これ考えたの」
『ええ。でもここまで効果があったのは、カリンちゃんとあなたが積み上げてきた時間があって、あとはちょっと拡散が上手な協力者がいたから──かしら?』
パエトーンか。
たしかに、あの二人はそういう情報戦が得意そうだ。
「……それで……こうやって、俺からやる気をなくして、なにがしたいのさ」
天啓が、ずっと警戒を呼びかけてくるのはこれのせいだったのだろうか。
二人はそれで、俺に対して何がしたいのだろう。
カリンちゃんは、少し歩いて、俺の隣へと腰掛けた。
「カリンはただ、聞きたかったんです」
彼女は、優しく微笑んでいた。
いつものように。
俺を安心させるように。
「他人の認識によって自分の意思が変わっていくこと。そうやって少しずつ、捨てたはずの救世主に近づいていくこと」
それがまるで恐ろしく感じる。
脳内の警鐘が、目の前の彼女を見る目をぐちゃぐちゃにしていく。
まるでツギハギの怪物のように、目に映る彼女の姿が捻じ曲げられていく。
頬に、手が触れた。
「──っ!」
勝手に、体が引き下がる。
「
天啓が、鳴り響く。
ダメだ、喋らせるなと、強く鳴り響いて──どうして?
彼女は、ただ、質問しようとしてるだけなのに?
「──自分が変わっていくのは、怖いですか?」
その言葉が。
ぐちゃぐちゃになっていた世界に混乱した俺の頭を、更に強くぐちゃぐちゃにしていった。
「──怖いに決まってるでしょ」
そうやって引き摺り出されたのは。
きっと、ずっと隠してきた本音だった。
「どうして俺ばっかりこんな目に遭わなきゃいけないの」
「怖いと思う気持ちもなくなっていく怖さを、どうして俺だけが味わう必要があるのさ」
「力があるから戦わなきゃいけないなんて、そんなのただの押し付けだよ」
「痛いのも怖いのも苦しいのも大嫌いなのに」
「救世主なんて、嘘ばっかりだ」
「ただ都合の良い生贄への罪悪感を、都合の良い言葉で飾ってるだけじゃん」
「レミエールさんは酷いひとだよ、死ぬなんて言われたら怖いに決まってるじゃん」
「でも俺は、そんなことで怖がったりしたらいけないんだ」
「みんながそうやって求めるから!」
「本当は嫌だって、家から出たくもないんだよ」
「ずっと寝てたいよ」
「みんなと一緒にのんびりしたいよ」
「人並みの生活で良かったんだ」
「おねーさんといたときみたいな、小さなログハウスで細々と暮らすような、そんな生活で充分だったんだよ」
「……でも」
「……それは、俺のせいなのかなぁ」
「この世界が地獄みたいだって、思わないようにしてるんだ」
「だって、それなら、俺の大好きなみんなが悪いことをした人みたくなっちゃうから」
「それでも、やっぱり、この世界は地獄みたいだなんて、時々思うんだ」
「だって、どうして、こんな」
「俺ばっかりって、言いたいよ」
「でも恵まれた俺がそんなこと言っちゃいけないって、思うんだよ」
「……それで何も言えないけど、そんなだからずっと苦しいんだ」
「なんか、胸の奥がもやもやして、ずっとあつくて、それでも吐き出せないんだ」
「嫌なんだよ、ずっとずっと」
「こんな才能なんていらなかった」
「こんなのなくても、きみがそこにいてくれれば、俺はきっと何にでもなれた」
「……………………」
「──でも、本当は、きっと、そうやって生きていくこともできた」
「俺は、ずっと中途半端なんだ」
「こんなことを思ってるのに、手を伸ばすことをやめられない」
「本当に嫌なら、すっぱりやめることだってできたはずで」
「今救世主になりかけてるのは、全部俺が中途半端なせいなんだ」
「ごめんカリンちゃん、俺、いま、きみを言い訳にしようとした」
「やだな、なんでかな」
「おれ、きみに失望されるのが、いちばんこわい」
「きみにいいところを見せようとして、そうやってしっぱいしつづけてる」
「だから、これは、俺が、ただそういう、下心で動いてたことの報いがきただけで」
「でも、それって悪いことかな」
「好きな人に嫌われたくないって、そんなにダメなことなのかなぁ」
「だって、嫌われたら生きていけないのに」
「ごめん、ごめんね」
「変なことばっかりいってごめん」
「それでもさ」
「もし良かったら、一言だけ」
「一言だけでいいから、俺に言ってよ」
「おれは、まちがってないって」
カリンちゃんの顔が、まともに見れない。
視界がぐちゃぐちゃで、目の前すら覚束ない。
それでも、彼女はそこにいる。
俺のことを、いつものようにまっすぐ見据えている。
ちゃんと、見えてないけど。
たぶん、いつものように、微笑んでいる。
「……まちがってたんですよ」
だから、最初は聞き間違いかと思った。
「そんな溜め込んで、ぐちゃぐちゃになるまで本音を抑圧して、それで……それでカリンが、今のあなた様を肯定したら、じゃあ、どうなっちゃうんですか……ぐちゃぐちゃなんかじゃ済まなくなっちゃうんじゃないんですか」
声には、少しずつ湿っぽさが混じっていった。
カリンちゃんが──泣いていた。
「……こんな……こんなに、ボロボロで、泣いてるのに、それの何が正しいんですか……」
言われて気づく。
俺の目からも、ずっと涙が溢れている。
ああ、だから視界が変なのか。
気づかなかった。そんなこと、意識してる暇もなかったから。
「なにが正解だとか、そんなのはカリンにはよくわかりません。でも、怖いのを無理矢理に押し殺して、そうやって、背中を押してもらいたいだなんて、そんなの」
カリンちゃんが、俺の頬に触れた。
指が目元に触れて、少しだけ視界がクリアになった。
「……あなた様自身が、間違ってたって、思ってしまってるじゃないですか……!」
「──」
そんなわけない、と否定しようとして。
俺は、何も言えなかった。
それを否定できるだけの気力を、俺は持っていなかったから。
「そっか」
そうなんだ。
「おれ、ずっと、間違ってたのか……」
そうして。
知人を想った。
友人を想った。
家族を想った。
「────」
本当に?
俺の心の中は、本当に間違いだけだったのか。
嫌なことを呑み込んで、無理をして頑張っているだけだったのか。
仮にそうじゃなかったとして──俺の意思が、捻じ曲げられていないことを、証明できるのか。
馬鹿は死んでも治らなかった。
結局どうあっても、俺は自分のために生きようとはできなかった。
それが救世主としての特性なのだとして。
本当に、そこに俺の意思は介在しなかったのか?
少しずつ。
ページをめくるように、振り返る。
お姉さん。
カリンちゃん。
エレンちゃん。
お兄さん。
リンちゃん。
一枚ずつ、ページを捲っていくように、これまで会った人たちを振り返っていく。
孤児院のみんな。
ヴィクトリア家政のみんな。
模範囚のみんな。
知人を想った。
『少しでも正しく生きる道を探しています。……本当に、ありがとうございます。やったことには、償い切れないけど』
友人を想った。
『楽しいことをしよう! そしたら考えなくて良くなるはずだよ!』
『──たとえそれが間違っていたとしても、それでも傍にいてほしいんだよ、僕達は!』
家族を想った。
『大好きです。あなた様と一緒に、カリンは生きていきたいんです』
『……続くんだよ、いなくても。だから君は、自分が笑って生きられる生き方をしてよ』
彼らと一緒に生きてきた中で。
みんなを助けたいっていう思いは、本当にぜんぶ捻じ曲げられたものなのか?
「──違う」
そんなわけがない。
歪められたものではない。
みんなを守りたいというこの気持ちは、俺自身のものだ。
「痛いのも怖いのも苦しいのも嫌だし、ずっと寝てたいし、ずっと一緒にいたい。カリンちゃんに失望されたくないのは本当だし、
それでも。
「それでも、俺はみんなを守りたい」
優しくても。
優しくなくても。
強くても。
強くなくても。
お金持ちでも。
お金がなくても。
人を信じていても。
人を信じられなくても。
誰かのことが好きでも。
誰かのことが嫌いでも。
どんな人でも、それでもこの終末の前で、みんな誰かのことを想っている。
その事実を、誰にも否定させたくはない!
「死んでいい人なんか、誰一人、この世界にはいない──!」
そうして、俺は、
──
『──そっか。あの子はそういう道を選ぶのね』
部屋の中で、一人。カリンはベッドに座り込んでいた。
去った光の残滓を眺めながら呟いているシロに、視線を向ける気力も、彼女にはなかった。
『……SNSトレンドに、救世主が入っているな……。お前らに頼まれた通り拡散してやったっていうのに、結局徒労だったのか? まったく……』
『うるさいわねこのキモオタAI』
『うるさいなこのクソキモ狂信者幽霊』
『ふぅん?』
『どうした? やるのか? 人間のなりそこない風情が……』
「……少し静かにしてくださいませんか?」
途端、押し黙る二つの声。
それを意に介さず、カリンはじっと
それも、自分の意思で。……それが捻じ曲げられていないとは断言できないが。
カリンたちの行った情報作戦は成功していた。
一度は確かに、彼女の奥底の本音を引っ張り出すことに成功したのだ。
「…………」
それでも、あの少女は、救世主として生きることを選んだ。
カリンは、静かに目を瞑る。
そういう運命だったのだ、と。
言いそうになってしまう心から、視線を逸らす。
運命なんて存在しない。
そんなもの、カリンは信じない。
ただただ、あの少女の無事な帰還を信じている。
「ただいま」
そう言って、部屋の中に光が溢れた。
そこに、美しい少女が立っている。
「おかえりなさいませ」
その体に傷一つないのを見届けて、カリンは笑って言った。
零号ホロウ及び六大原生ホロウ異常活性。
ジューダス・ウィクス現着後、僅か二分で鎮圧完了。
死傷者、ゼロ名。
上記の功績により、彼女に「虚狩り」の称号が進呈される。
『──漸く、漸くこの時が来た!』
『忌々しき救世主を弑するこの瞬間が!』
サブタイトルの「maybe life」は2章タイトルのアルバム「メイビーライフ」に収録されています(宣伝)
今話のイメージは他にもアイリスアウト(inわたヘリ)だしヘブンズバグ(inわたヘリ)だしLAST-1などがあります