もし良ければ今回は読み終わったあとにサブタイの曲を聴いてみてほしいなだとか
八歳、六歳、九歳、九歳、七歳、九歳、八歳、九歳、九歳、八歳、四歳、五歳、四歳、八歳、八歳、八歳、九歳、九歳、八歳。
何度繰り返したところで、十歳にすらたどり着くことはできなかった。
真っ当な手段では、いつも目の前からいなくなってしまう。
だから、最初から目に入れないことにした。
それだけ。
たったそれだけのことで──あの子は十三歳まで生き延びたというのだから、まったく救いようのない話だ。
美しさは毒だ。
それは宿主すら腐らせる毒だ。
ならそれを弱らせてしまえば良い。
だから、その花は煤けてしまって見る影もない。
本当は、もっとちゃんとした手段があるのかもしれない。
そう思っても、もう実行はできなかった。
残酷な終わりを、もう見たくはなかったから。
だから私は、あの子にあげるはずだったものを、もうずっと渡しそびれている。
天気が良い。
窓の外を見上げて、カリンは思う──ハレの日にはもってこいの空模様だ、と。
「ンナンナ〜」
お腹と膝の間にボンプを挟み込み、右手で弄びながら左の手でインターノットを眺める少女のほうを見た。
あのとき明確に救世主になったというのに、その姿はまるで普段と違いないように見える。
それは今が別に非常時ではないからか。
それとも見えていないだけで、その内側は変わりきってしまっているのか。
「御主人様」
そのどちらであっても、構わない。
もう賽は投げられたのだし、それに彼女自身が望んだ選択だ──それなら、カリンにできることはいい方向に転ぶことを祈るだけである。
「ンナ〜?」
「ンナナぁ……」
「ふぁ、えと、申し訳ございません、カリンはボンプ語がわからなくて……」
「ふふ、俺もわかんないよー」
そう言って、くすくすと笑う姿はどこかあどけなく見えた。
少し、幼くなったような。そんな印象を受ける。
手招きに惹かれてソファへと腰掛ける。
そうすると、彼女はそのままカリンの肩へと体を預けた。もたれかかるかのように。
カリンよりも高い体温が、彼女が今ここにいることを伝えてくる。
その事実に、なんだか安心した。
思っていたよりも、カリンは思い詰めていたのだろう。
救世主の完成──その事実に対して。
意識して考えないようにしたところで、結局それは頭の中に懸念がずっと湧いてくるものだから。
そうやってずっと張り詰めたままでいたことを、カリンはようやく自覚した。
「虚狩りになるんだって。でも俺、雅ちゃんみたいにできるとは思えないんだよ」
「そうでしょうか? この間の一件は凄まじい功績でしたけど……」
「俺にできることをやっただけだからさー」
ぺしょり、と。
顔がカリンの肩へと埋められる。
まるで甘えるかのような素振りだった。
「御主人様は、そのままで大丈夫ですよ。そのままの飾らない貴方様を、皆様は待ち望んでいるのですから」
「んーまぁ功績が大きすぎるせいで勲章授与の辞退できなかったし、今更唸ってても意味ないんだけどさ」
それは、そうだ。
彼女が先日成し遂げたのは前代未聞と呼ぶべきに等しい、そんな奇跡なのだから。
いくら断ったからといって、何もなしで終わりでは大層角が立ってしまう。
カリンは、彼女の髪へと指を通した。
するりと指をよく通す、細やかな髪だ。引っかかりがなさすぎてなんだか癖になってしまう肌触りのそれを、カリンは少しの間堪能する。
『準備をしなくていいの? 諸々の打ち合わせとかあるっていう話じゃなかったかしら?』
「ん、そっか。ずっとだらだらはしてられないねぇ」
そう言って、彼女はずっと抱えていた大福をようやく下ろし、よいしょと立ち上がった。
「それじゃ、着替えか──どういう服がいいのかな、というか家から着替えていくべきなのかな?」
『こういうのって着付けまで準備してもらえるものだと思うけれど』
「あ、カリンがやります。手を止めずに作業できる方はあまりいらっしゃいませんし……そのためにちゃんとお勉強もしましたから!」
『そういえばそうだったわね』
近頃はすっかり耐性がついてしまったし、ある程度制御もできるようになってはいるが。
彼女の美しさはその道のプロだとしても心を奪われてしまうほどのものだ。
慣れていない人物を下手に向き合わせてしまうと、最悪の場合だって想定されうるほどの劇薬。
身の回りの世話を行う人物が殆ど限られているのもこれが理由なわけで。
今日のようにきちんと着飾るというのであれば、なおさらである。
──そういう話をするのであれば。
シロと呼ばれる彼女は相当に精神力が強い。
過ごしていく中での慣れはあっただろう。
だが、それを差し引いてもなお、彼女はあの美しい少女に対してあまり気負った様子がない。
例えばカリンの上司たちのような、精神力が強い人物と同じ感覚だ。
「…………」
彼女は記憶を無くしている。
だが、それ以前がどのような人物であったのか──それを、カリンは
もともとヴィクトリア家政の一員だ。所縁ある人物に関しては、当然認知している。
その上で、ジューダス・ウィクスはカリンに対して彼女の正体を告げているのだから。
「……このような感じで、いかがでしょうか?」
「おおー、すごい」
『さすがね、カリンちゃん』
考えを巡らせながらも、同時に手は動かす。
並列思考もずいぶんと身についてきたものだ。とはいえ、この美しい少女に瑕疵があっては困るので、意識の配分は9対1──いや、もっと極端なものなのだが。
服装はまっすぐと下ろした髪の毛に、ややゆったりとしたシルエットの白いドレスだ。
あまり主張しすぎないように、装飾の少ないものを選んだ。
彼女が着るとまるで天使の衣のような、どこか神聖な雰囲気をまとって見える。
少女は鏡の向こうの自分の姿を眺めて、にへらと笑う。
「いつもありがとね、カリンちゃん」
「ふふ。貴方様が望むのであれば、いつだって」
彼女は自分自身に関心がない。
だから、先程の笑みだって、きっと自分の格好が気に入ったからではなくて。
ただ自分にできないことを代わりにやってもらったから、程度のものなのだろう。
それでも、彼女がそうやって笑ったから。
そのためにカリンはこの仕事の研鑽を積んできたのだと、胸を張って言えるような気がした。
「結局、どこまでが想定通りだったのですかな?」
星見宗一郎は、そう問いかけた。
紳士協定を破り、あの美しい少女を手勢に加え──今、彼女に対し「虚狩り」という最大の称号を与えようとしている、現新エリー都市長に対して。
その問いかけの答えは、きっと誰の目から見ても明白だった。
響きとしては意味ありげな言葉も、ただのからかいの一句としか捉えられない。
「想定通りに行ったことなど、何一つも。このような結果にたどり着く可能性などは、僅かにも考えつきはしなかった」
本当は、あの変数を取り込むことなどするべきではなかった。
僅かにこちら側が有利になるように、心象を引き寄せようと企んだ程度。
それが巡り巡ってこんなところまで来てしまったのだから、未来のことはわからないものだ。
いや、それはあの少女の方か。
正直に話してしまおう。
市長は、この結果を好ましく思っていない。
想定外の積み重なりによって、あの少女の力は強くなりすぎてしまった──最早誰にも止められないほどに。
その結果、それは「始まりの主」の最大限の警戒を買い、牽制の域を越えてこちらを踏み潰しにきている。
それを、更に上からあの少女が叩き潰し──ならば、それは一体いつになれば終わるというのか。
既にまともな人間が太刀打ちできるような領域の戦いではなくなっている、
行き着く果てはどこだ。
あの少女以外、何もできない──そんな戦いになることは、想像に難くなかった。
その半ばで、もはや形もなくなってしまっている新エリー都の姿も。
何もおかしな話じゃない。現実の懸念として、それは目の前をずっと漂っている。
「だが、そもそも何においても想定通りに行くことなどありはしないのだから──今の結果から、最大限できることを積み重ねる以外にはないでしょう」
「それもそうですな。ところで──」
宗一郎の、声のトーンが下がった。
「
それは、不思議な問いだった。
それに対して、市長は──
「──あっ、雅さん!」
叙勲式が始まるまで、あと暫く。
リンが兄と別れて、会場内を散策しているときのこと。
「リンか、奇遇だな。お前ならば今日来るだろうと思っていたが」
「そりゃあ、せっかくのジューダスの晴れ舞台だからね。雅さんは?」
「警護だ」
事もなげに、星見雅はそう言った。
「私だけではない。雲嶽山のお二方も警護についている」
「師匠と瞬光も……随分厳重だね」
「私の方から提案させてもらった。ジューダスには会ったか?」
「ううん、この間お店にきたのが最後かな。特に変わったところがあるようには見えなかったけど……」
「そうか。私もそうだ。何もおかしいようには見えなかった」
そう言って、雅は舞台の方を見る。
「……案外、私たちが警戒していたようなことはないのかもしれない。ジューダスの変化は他人に依るものではなくて、自分自身の内心の変化の形だったり、するのかもしれないな」
「そういう演技かもしれないよ。散々釘を差されてるんだから、それを隠そうとしててもおかしくないし」
「どちらもありうる。他人の心など、その全てを知ることはできないのだから、どこに真実があるのかはわからないものだ」
案外これまでみんなが言ってきたことが的外れで、何も起こってはいなかったりして。
ジューダスが変化を肯定していても、彼女は自分自身を嘘で覆い隠してしまえるのだから、真実にはならない可能性だってある。
カリンに対して嘘をつくとは思えないという心象を無視すれば、それは意外と信憑性のある言説のようにも思えた。
「……済まない、そろそろ時間だ。私はもう行く。ジューダスを見つけたらよろしく言っておいてくれ」
「うん、わかった。それじゃあね、雅さん」
手を振って、その場を去っていく雅を見送る。
そうして、リンは先ほどの会話を振り返った。
「──雅さんが警護、か……」
「仕掛けてくるには絶好のチャンスだからね」
ふとこぼした独り言に、想定もしていない返事があった。
慌てて振り向けば、日陰に隠れるようにして立っているピンク色の髪の女性──レミエールの姿が、そこにある。
「やっはろー」
「何その挨拶……!」
「ちょっと、そんな怒らないでよ。さっきこれを使って挨拶してる子たちがいてね。ちょっと使いたくなったんだ、マナー違反だったかな?」
「いや、それは、別に……それよりも、仕掛けてくるって?」
「可能性の話だよ。だってほら、確実に出張ってくる場所がわかっていて、民衆が周りにいるのなら──あの救世主の性質を知っていれば、これ以上ない絶好のチャンスでしょ。あの子に対して攻撃を通せるのかはさておいて、だけど」
そう言って、レミエールは肩をすくめた。
「そもそもなんであんたここにいるの?」
「あの子に謝らなきゃなって思って」
「謝る?」
「……ヒミツ。ていうかこの間言いそびれたけどキミたち、あんまり乙女のお茶会を覗くべきじゃないよ? まったくやらしーんだから」
「ちょっと?」
そのからかいは、これ以上教えてやらないという意思表示に見えた。
「ほらほら、そろそろ行かないといい場所取られちゃうよ? あの子の叙勲式ってことで人もいっぱいだし」
「……それもそっか。いいよ、今はあんたに流されてあげる」
「うーん、警戒されちゃってるなぁ」
私、あの子の味方なんだけど。
そう空々しく付け加えるレミエールと別れて、リンは観客の列の一部に混ざっていく。
「本当に味方なんだけどなぁ」
その言葉を聞いた人物は、誰もいない。
舞台へと足をかける。
少し高い視点から正面を見れば、随分と沢山の人が集まっているように見える。カメラのシャッターを切る音が、微かに鳴った。
だがそれも静かになる。
微かなざわめきも掻き消え、直ぐに静寂が訪れた。
軽く手を振ってみる。
そうすると、大きく歓声が上がった。
想定外だ、そう思って市長の方に視線を向けると、彼はどこか困ったような顔をしていた。
喋り出さないということは、一旦静かになるのを待つつもりだろうか。
そう思ったが、彼はマイクをこちらに向けて。
「済まない。まずは君の言葉を、彼らに届けてあげてほしい」
そう言った。
前置きすら放棄するなど、中々珍しいように思うが。だがこの歓声はそうそう休まらないと判断したのだろう。
言うべき言葉は既にもらっているし。
しかし何を言おう。
何を言えばいいのだろう。
少し頭を悩ませて、俺は口を開いた。
『──みんなとは、はじめましてじゃないのかな』
これでも調子に乗って全人類の視界ジャックなんかをしたことがあるのだ。
だから、はじめましてという言葉が適切だとは思わない。
『演説なんか得意じゃないから、何を言っていいのか……でも、そうだね。うん』
少し言葉を選んで。
『俺は神様じゃない。都合良く全てを解決できるような人じゃない。これでも悩むし、間違ったなぁと思ったらベッドの上で眠れないことだってある』
それでも。
『それでも、今ここに立ってることは間違ってないと、そう思っているよ』
それだけを言って、俺は一礼した。
直後、歓声が爆発した。
一瞬静まり返ったものが、最早先ほどの比にならないほどに大きく、膨れ上がっていった。
みんなの熱量が強く、更にそれがまた周囲の熱量を高めて──どんどんと膨れ上がっていく。
隣で何か呟く市長の声すら、容易くかき消されてしまうほどに、それは大きな歓声だった。
──待て。
市長は今、何と言った。
自分の知覚時間を速める。
先ほどの言葉を、想起する。
何だ?
何と言った?
『天気が、悪くなりそうだ』
おそらく、こうだ。
──あれだけ、晴れていたというのに?
思考は一瞬だった。
俺は市長を、舞台の上から転移で押し出した。
同時に力の半分ほどを注ぎ込んで、舞台に結界を作り出す。
そして、空を見た。
闇が、空を支配していた。
そうとしか思えないほどに、僅か一瞬で、世界を暗闇が覆っていた。
結界の形を改善。空から観客が狙われてもいいように、そのまま上側を観客側へと広げていく。
俺の結界に、雅ちゃんの刀が叩きつけられた。
同時に儀玄さんの術法が叩き込まれる。
ほんの僅か遅れて、瞬光ちゃんの剣撃が降り注いだ。
僅かな傷が入るが、それもすぐに修復される。
「──ジューダス、これを解け!」
どうして市長は真っ先に気づけたのか。
舞台上に立っていたから、みんなと視界が違ったからだ。
これで観客は守れる。
あとは相手の動きに対処するだけ。
──そして、
そうとしか表現はできなかった。
言葉そのままの様相で、闇が一直線に降り注ぐ。
それは最初泥のようだったが、落下する過程で槍へと姿を変えていった。
そして、瞬く間に俺へと迫ってきて。
「
雅ちゃんの言葉は、もう手遅れだった。
いや、そもそも平常時ですら、その言葉の意味は理解できなかったかもしれない。
勢いを相殺するために、力の残り半分全てを使って、防御を作る。
そして槍が、俺に触れた瞬間──
「──あ」
ふと、思い返す。
あのオークションの主催者は、魂の形を削られていた。
それに前回は、俺の使った力の残滓を利用して自分の力にしていたではないか。
それはつまり、向こうは魂に干渉する方法を持っている、ということで。
こんなにもヒントがあったというのに、俺は何一つ気づけなかった。
警鐘が、強く響く。
必要なのは防御じゃなくて回避だったというのに。
今更になって、みんなの心配が正しかったことに気づく。
そうだ、俺は危険に対して、随分と鈍くなってしまっていた。
だからこれは、当然の結果。
(──いたい)
そんな感覚だけが、ただ、ずっとあった。
一瞬の出来事であった。
あまりの展開の早さに、認識が追いつかない。
凄まじい轟音が響いた。その衝撃は、こちら側に一切伝わってはこなかった。
彼女の作り出した防御が、全てを覆っていたから。
だから、その瞬間を、みんなが見ていた。
空から墜ちてきた槍が──そのままの勢いで、美しい少女の心臓を、貫き穿つところを。
縫い留められるようにして貫かれた体には、まるで力など入っていないようだった。
だらりと垂れ下がった腕と、まるで折れてしまいそうなほど後ろへと反れた背中。
せっかく今日のためにカリンが用意したのであろう白いワンピースは、胸のあたりから赤色が疎らに滲んでいて。
首からは力が抜けていて、その表情を窺うことはできない。
──それでも。
あの少女の持つ、特有の圧力のようなものが、さっぱりと消えてしまっている。
その事実が何よりも、最悪な想像を掻き立てた。
「そんな」
声が、聴こえた。
それはもしかすると、自分の喉から出た言葉だったのかもしれない。
それとも隣に立っている、兄だっただろうか。
リンにはわからない。
ただ、目の前の現実が信じられなくて。
だから、気づけば走り出していた。
人を掻き分けて、まっすぐに、舞台へと駆け出して──そのまま、拒絶されるように、何かに激突する。
目の前の空間に、何かがある。
それが、あの美しい少女自身の作り出したものだと気づいた。
彼女が皆を守るために作り出した、透明な壁。
その壁が、今は何よりも煩わしい。
「──このっ、こんなっ、こんなのっ! こんな、こんなのがっ──」
「やめろ、リン。お前の手のほうが壊れるぞ」
「雅さん……でも──」
「『でも』じゃない。落ち着け、リン」
「……師匠……」
「ごめん、リン……ワタシ、何もできなかった……」
「瞬光──そっか……そうだよね」
その言葉に冷静になって振り返る。
あの事態に真っ先に飛び出していったのは、三人だ。
それでいて、あの瞬間目の前で起こったことを阻止できなかったのだから、リンよりもずっと強く自分を責めていることは、想像に難くない。
「まだだ。ジューダス殿には特殊な力がある。この結界さえなんとかすれば、まだ間に合うかもしれない。そのためには全員でこれを──」
儀玄の気休めは、途中で止まった。
背後の──結界の内部で、音がしたからだ。
視線を向けると、槍が独りでに抜けて、持ち上がっていった。
一瞬、あの美しい少女が何かしたのだと、そう思って──すぐに違うことに気づく。
その槍は、ジューダス・ウィクスの体を起こすと、空中でその動きを止めた。
まるでその姿を知らしめるかのように。
空中で磔にするかのように、その体を見せつけている。
「……悪趣味な」
その意図は明白だ。
あの少女を辱めようという、ただそれだけの露悪的な意図。
もうそこに意思などないというのに、それでも彼女は美しかった。
何も映さない虚ろな目ですら、どこか物憂げに見えてしまう。
その胸に刺さった槍が。
白い服を紅く染めていく血がなければ、ただぼーっとしているだけのようにしか見えない、そんな姿が。
リンの頭の中を、真っ白く染めていく。
そうして、リンはやっと、彼女が死んでしまうのだという現実を、認識した。
『──人類滅亡までどれくらいかかると思う?』
痛い。
まるで全身が軋んでいるかのように、痛い。
特に胸のあたりが、なんだか、やけに、痛い。
『お前の肉体とその力を奪ったあと、いったいどれだけの時間で世界は終わると思う?』
この痛みを、俺は知っている。
シロさんのときと同じ。魂が悲鳴を上げている。
『一時間──いや、一分──それほどまでもいらぬか。なぁ?』
そもそも、さっきから聞こえてくるこれは誰の声だろう。
痛くて、何もわからない。
目の前の景色を眺めることも、ままならない。
『──別の世界からの来訪者よ』
けれど、こんなことを言ってくる相手なのだから、俺は誰なのかを知らなきゃいけない。
目の前に無理矢理焦点を合わせて、俺は誰が喋っているのかを見据えた。
『神にでもなったつもりだったか?』
なんだか見覚えのある顔のような。
それだけ見えた直後、もっと強い痛みが襲ってきて、俺は目を閉じた。
痛い。思わず声が、喉から溢れる。
ダメだ。こういうときは静かにしてないと。
『それとも何も考えていなかったか?』
ほら、こんな風に。
不埒に声を引きずり出そうとしてくるから。
「ぅぎ……ぃ、あ」
『自分なら大丈夫だと思っていたのか?』
痛い。
ずっと聞こえる声は、なんだか俺に何かを問いかけているような気がする。
何を言っているのか、よくわからない。
けど、俺がこれまで力を使ってきた理由を聞いているのだとしたら、それなら簡単だ。
「俺は、ただ、守りたかった、だけだ」
『──なるほど。何も考えていなかったか』
ぶちぶちぶち、と音がする。
同時に、これまでとは比にならない痛みが全身を貫いた。
「ぅぎ、ぁ、ぅぁ」
痛みにのたうちまわって、それでも手がなにかに触れることはなかった。
指の感覚が、ない。
手がなんだか、すごく軽く感じられる。
「ぇ、?」
疑問に思って見てみれば、手があるはずの場所には何もない。
ほんの僅かだけ残して、消えてしまっている。
腕を引きちぎられたのだと理解したのは、強い力で足を引っ張られたからだ。
「ぇあ、うそ、まって──」
『力を振り翳す以上、この程度は想定の内だろう?』
そのまま、捻じり切られる。
「ぁぁ」
無理に声を押し殺そうとして喉を締めたせいで、喉が擦れて痛い。
『お前が散々力で捻じ伏せてきたのと同じことだ』
「ぃっ、ゔ、ぁぁ、ぁぁ、あ──!」
もう片方の足が、捻じれ、引きちぎられていく。
魂の欠損が、もう取り返しのつかないところまで来ている。
それに気づいたのは、助けたかった誰かを思い出そうとして──全く思い出せなかったから。
カリンちゃん。
お姉さん。
……他には。
他には誰がいたのだろう。
何か、大切なものが、なくなっている気がする。
両腕も、両足も千切れてしまったけれど。
それよりもつらくて痛いのは、忘れてしまった何かのことだ。
『つくづく、凡人──偶然力を手に入れただけの人間に過ぎないようだな。そんなものに邪魔をされてきたのか……』
痛い。
『救世主の体質? 他人の願望に捻じ曲げられる? 笑わせるな。ただお前の意思が弱かっただけだろう』
痛い。
『元より望み一つない人間が、自分自身の意思など持ち得ぬ流されるままの操り人形が、よくも自分などと大層に語るものだ』
痛い。
『一度自殺を試みたときから、お前の心根は何一つ変わっていない──そんな中身のない、薄っぺらい程度の人間が吐き捨てる理想に尽く邪魔されるのは、心底不愉快だった』
痛い。
『そうして這いつくばっている姿は随分と
顔に、重さを感じる。
何かが乗せられたようだった。
触れる感触からするに、足のようだ。
「ぁゔ」
口の中に何かが入ってくる。
開く大きさよりもずっと大きいものを、無理矢理に詰め込もうとするから、顎が外れて、口端が裂けていった。
「ぉぁ、ぅえっ」
そのまま、口腔が蹂躙され──最後に、何かが俺の舌を摘むように掴んで、引きちぎられた。
その衝撃で、喉が塞がって、息ができなくなる。
「ぅあ、ゔーっ、ぅ……」
『随分と良い姿になったじゃないか。お前もそう思うだろう?』
まるで、問いかけるような声だった。
息が詰まった俺には、答えようのない言葉。
この同意を求めるような声音は、俺に対して向けられてはいないような気がする。
『──なぁ、
そんな言葉に対して、返す声があった。
『えぇ、そうね』
欠けた記憶が、引きずり出される。
知っている声だ。
馴染みのある声だ。
思わず視線を向けてしまう。
そこに、シロさんが立っていた。
まるで、睨むような、蔑むような険しい視線だった。
彼女はそうして俺を見下ろしている。
四肢のない俺を、這いつくばる俺を、見る影もない俺を見下ろしている。
どうだろう。
失望されたのかな。
それとも、最初から見放されていたんだろうか。
痛い。
痛い。
痛い。
そうだよ。
認めよう。
俺は空っぽだ。
カリンちゃんと、おねーさんを理由にして生きてるけど。
逆に言えばそれしかないんだ。
俺が一人で生きていく理由なんて、本当はどこにもなくて。
やりたいことらしいものだって、たぶん、本当はない。
みんなを助けたいのは本当だ。
でもそれはたぶん、力が今俺にあるからで。
力がなければ俺はきっと、そんなこと思いもしないんじゃないか。
そんな俺への報いが、俺が気まぐれに同情して救おうとした彼女の裏切りだというのなら。
それはなんだか、適当に生きている俺への罰としてはちょうどいいように思える。
落ち着いてきて、視界が少し晴れる。
シロさんと、その横に──シロさんの体を使っているのだろう、「始まりの主」の姿が見える。
『本当に見ものだわ』
そう言って、シロさんは。
『勝ち誇っているあなたの姿は、ね』
「始まりの主」の背に手を突っ込んで、
『私の体、返してもらうわよ』
『──っ!? なんだ、この干渉力は──ほんの僅かな残滓に過ぎないお前が、何故これだけの力をッ!?』
『あら、わからないの? 今、私を構成しているほとんどはジューダスちゃんよ──魂の格が違うでしょ? 綱引きで負けるわけないじゃない』
──確かに。
俺はかつて、自分の魂を切り分けて、シロさんの欠けた部分を補った。
それが今、この結果を生んだというのか。
そのまま、シロさんは完全に自分の肉体と、「始まりの主」を分離させる。
扱える体を喪った始まりの主は、不形態のモヤのような姿で、ふらふらと漂っていた。
「──遅くなってごめんなさい、ジューダスちゃん」
良いんだよ。
そう言おうとしたけれど、声は出なかった。聞き苦しい、唸り声みたいな声だけが、ただ溢れた。
「……本当に、ごめんね」
そう言って、シロさんは座りこんで、倒れている俺の頭を膝へと乗せる。
そうして、踏みつけられてぐしゃぐしゃになった髪の毛を、ゆっくりと手で整えていく。
「あなたがこんな目に遭うことを知った上で、私はあの舞台へと引き上げた。止めることを、しなかった。全部手遅れで、謝ったって仕方ないことだけど」
彼女は悲しげに、笑っていた。
「決めてたの。あなたが救世主になるのなら、私があなたの
頬に、手が、触れる。
それはそのまま喉へするりと降りていって。
「……その役割を担うのが私なことには、申し訳なく思うけどね」
「──そんなこと──」
咄嗟に、声が出て、その事実に言葉が止まる。
喉が、治っている。どうしてか、と思考を巡らせ──数秒、それでようやく、ただ一つの答えに辿り着いた。
「ダメだ」
「あら、バレちゃった?」
「ダメだよ、それは」
「思いついたときは、こんなに都合の良いことがあるのかって思ったけれど」
「ねぇ、ダメなんだ」
「きっと成功するって気づいたら、自分の運の良さをちょっとだけ褒めてあげたくなったわ」
「ねぇ、聞いてよ、
「思い返せば、私の計画っていつもちょっと杜撰よね」
「──ねぇ!」
声を荒げて、ようやく彼女は俺と目線を合わせた。
「シロさん、ダメだって、それは──」
「私のことを『サラ』じゃなくて『シロ』って呼んでくれる、それだけで私にはもう、充分なのよ?」
「──そんなの、これから、何度だって!」
ああ、どうして。
どうして今、必要なときに、俺の手はないんだ。
「私はこれまで、ずっと悪い人だった。みんな私のことを知らないふりするからって、不貞腐れちゃったのね。……ふふ、それでも、あなたは、あなたたちは私のことを、まっさらなままの『シロ』だって呼んでくれた。それが、全部を思い出したときにどれだけ嬉しかったか」
俺じゃこの人は止められない。
「ありがとね、ジューダスちゃん。あなたのおかげで、私はこれまで幸せ
俺に、彼女を止める言葉は、ない。
彼女を止めるための手は、足は、今の俺には──ない。
「今の私の魂は、ほとんどすべてがジューダスちゃんのもので補われているわ。なら元々あった分をそれで塗りつぶして、あなたに対して注げば──あなたはそのまま復活できる」
「そんなので、俺が喜ぶとでも!?」
「思ってないわ。それでも……そうね、私は元々いないはずの人間で、あなたがいなければとっくに死んでいたはずの人間よ?」
彼女は、そのまま、笑って言った。
「死人をコストにして、あなたを救えるのなら──それが一番、正しいことでしょう?」
その言葉は、俺がいつかカリンちゃんに言ったことと、ほとんど同じで。
だから俺に、彼女を止めることはできないと、悟った。