ガレージにてカサブランカの調整を行う。アセンブルを繰り返して、最初のRaD製の探査機のパーツはほとんど変えてしまったが、それでもこの白と黒で塗られた機体が密航した当時から共に歩んできた愛機である確信はある。強化人間としての役割が終わってしまったら、カサブランカに乗る必要も無くなってしまうのだろうか。
「621、ブリーフィングを始めるぞ。ようやく、アーキバスから通達が来た」
ウォルターに呼ばれ、作業を中断して彼の元へと向かう。ヒビが入ったタブレット端末を操作して、ブリーフィング画面を開く。
「仕事を再開しよう。レーザー障壁を解除したことで、さらなる深度の探査が可能となった。アーキバスからは先行調査を継続しろとの依頼がひとつ。そしてもうひとつ、新たな依頼が来ている」
ウォルターがタブレットを操作し、この依頼と共に届いただろうファイルにアクセスする。そして、再生アイコンに触れる。
〈先行調査要員レイヴンに通達します〉
「スネイル……?」
『彼が自ら通達するとは、何事なのでしょうか』
このまま、流れてくる通達を三人で聞き届ける。
〈あなたの進行してきたルートを密かに追跡している機体があるとの情報を得ました。コーラル調査においては、企業の要請に基づかない独断での突入は許容されない。発見次第、速やかに抹殺するように〉
映し出された映像は、遠巻きであるせいで良くは見えない。だが、確かにACの姿が映し出されていた。ベイラムは撤退した。彼らではないのは確かだ。
『あなたを追跡している機体……、解放戦線か、独立傭兵あたりでしょうか……?』
「……死人が増えると言ったな。こういうことだ、621」
コーラルが目の前にある。そうなれば、自分が先にと欲望のままに先走るものが出て来てもおかしくない。コーラルが、それだけ魅力的なものであるというのは未だに理解が出来ないが……
「……ウォルター」
「どうした? 621」
「ウォルターは、コーラルを手にしたらどうするの?」
思わず、抱いていた疑問を漏らしてしまった。ウォルターの瞳が少しだけ見開くも、いつもと変わらずどこか優しさの混ざる目に戻る。
「……お前から、そのような疑問が飛んでくるとはな」
「……ごめんなさい。なんでも、ない」
「いいや。それは当然の疑問だ。俺は、お前に詳しい事情を話すことなく、お前を己の手足として戦場に送っている。疑問に思えるほど、お前も人間らしさというものが戻ってきたということだ」
「……」
何も考えるなと叱責されることなく、疑問に思うことを正しいという。人間らしさを取り戻すというのは、強化人間という兵器の価値を下げることではないか。人間らしくあれと言うが、それは、苦悩や胸の痛みに繋がる。この痛みは、耐え難いものだ。
「そうだな……。この調査で、俺も確信を持てるようになる。お前の疑問に答えを出すのは、もう少しだけ待って欲しい。すまない、621」
「……わかった」
もう少しだけ待って欲しいというならば待つだけだ。出撃するための準備を始めることにした。
*
〈メインシステム、戦闘モード起動〉
降下された先は深度三の巨大高炉。ここから、眼下に向けて降りて行くこととなる。
〈ミッション開始だ。封鎖されていた深度に降下していけ〉
「了解」
改めて眼下の光景を確認する。高炉の支柱以外はあまり人工物が見られない深い縦穴。でっぱりを伝って行けば無傷で降りていけるだろう。高炉の鉄橋から飛び降り、足場を伝って降りて行く。底が見えて来た辺りで、レーダーがエラーを吐き出した。
『レーダー障害が発生しています。活性コーラルによる干渉でしょう。あなたの目と耳が頼りです』
『近いんだ、本当に……』
底に降り立てば、着水したかのように水飛沫が舞った。地面と呼んで良いかは分からないもが……。周囲の地形の色と同化していてわかりにくいが、恐らくこの液体すらもコーラルが混ざっている。この先に、コーラルたちの集積地点があるのは間違いないのだろう。ブーストを噴かせて奥へと進んでいく。後方を意識しつつ細い道を進めば、崖となっていた。崖を降りていくと、うねうねと動く何かが見えた。ぞわりと、背筋に嫌な感覚がする。
〈それは……、ミールワームか? 異常成長している……〉
「あれ、が……?」
〈普通はあのような大きさにはならん。どうした? 621〉
「……」
うねうねと歩行するミールワーム。その動きには、言葉にできない感情に支配される。ACよりは明らかに小型であるというのに、足が竦む。アイスワームやシースパイダー、エンフォーサ―の方がより巨大で脅威であったにも関わらずだ。
〈……621、殺してしまっても構わん〉
「……え?」
〈? ルビコニアンの食糧であるからと躊躇っていたのだろう? 躊躇う必要は無い。今は進むことが重要だ〉
「……わ、わかった」
レーダーこそ使い物にならないが、ロックオンするには問題ない。アサルトライフルとリニアライフルを撃てば、真っ赤な飛沫を上げてミールワームが爆散する。その光景も形容しがたい感覚に襲われる。意を決して降りた瞬間、もぞもぞと地面から数匹のミールワームが這い出て来た。
「っ⁉」
『生体内部からコーラル反応……⁉ 危険です!』
緑色に光る発行体のような部位が赤く染まっている。みるみるうちにミールワームが膨れ上がるのと同時に赤い爆発が起きる。
「な、なにあれ……」
〈……こいつらもコーラルの味を覚えたようだな。自爆の手段を取るほどに野生化し、あれほどのコーラルを蓄積した個体は食用に向くことは無い。排除して進め〉
「……わかった」
うねうねと動く姿に尻込みしている場合ではない。ミールワームの生息区域を駆け足で通り過ぎて行く。壁に張り付いていた、ぼとりとカサブランカに落ちて来た個体に、思わず声が出た。
「ひゃっ……⁉」
〈……621、ミールワームが苦手だったか……〉
「……うねうねしてるの、ぞわぞわする……」
〈……そうか。配慮不足だった〉
それでも、進まないといけないことに変わりない。入り組んだ道、というよりは彼らが作った巣とでも言った方が正しいのかもしれない。上下左右に曲がりくねった坑道を進んでいく。すると、開けた空間が目の前に広がった。そこは人の手が入っており、何かしらのポッドが陳列していただろう施設の、崩壊した跡地だった。
〈ミールワームの養育ポッドか。以前は稼働していたのだろうが……〉
「……人が、暮らしていたの? こんなところで……?」
ミールワームは土地が厳しいルビコンにおいて、貴重な食糧だ。あのうねうねしたものを食べているのかと考えると、少々頭を抱えたくはなるが。背に腹は代えられないのは事実。彼らの存在が、この
『レイヴン、後方から機体反応。接近しつつあります』
『わかる?』
『すみません。同胞たちの声が大きくて、これ以上の詮索は難しいです。養育ポッドに広間があります。この速度だと、エンゲージする可能性が高いかと』
『……わかった』
意を決して開けた空間を飛ぶ。エアの言うことが本当ならば、この広間の更に奥。そこで、追跡者とエンゲージする可能性が高い。広間に着地し、その奥に道が続いている。崩落したミールワームの養育ポッドを踏んだその時だった。
ブースト音が近付いてくる。足を止めて警戒するが、こちらの背後を撃つようなことはない。逆噴射によるスピード制御の後、着地した音がした。
〈独断で突入した傭兵を始末しろ、という話だったが〉
あまりにも、耳に馴染んだ聞き覚えのある声。優しいものではない、どこまでも冷たい鋼のような声に、思わず、振り向いてしまう。信じたくないと、見たくないと、その動きは緩慢なものとなる。
〈なるほど……。突出した個人は、もはや不要ということか〉
一歩、二歩と足を動かして振り向く。そこには、見覚えのある錆が混じった紺色の機体。声音からして、こうなることをどこか予想していたのだろうか。それとも、動揺してしまうこちらが浅はかであったのか。
〈そして、あわよくば不穏分子も共倒れ……。上の連中が考えそうなことだ〉
淡々と、冷徹に吐き捨てていく。こんなにも、声音が冷たい彼の声は初めて聞いた。今までの、優しい笑みと声で接してくれた彼が嘘であったかのように。
〈この“ラスティ”には……。ルビコンで為すべきことがある〉
スティールヘイズの緑のライトカラーが光る。あの橙色の瞳が、研ぎ澄まされた刃のように、鋭く光っているのだと直感で感じ取る。
〈戦友。君はどうだ〉
「……、ワタシは……」
『ACスティールヘイズ、来ます!』
スティールヘイズが真っすぐにこちらに飛んでくる。エアから声を掛けてくれなければそのまま動けずにいた。飛んでくるバーストハンドガンをクイックブーストで避け、アサルトライフルとリニアライフルを向ける。
〈踊らされるつもりもないが、いずれ避けては通れない道だ。行くぞ、戦友〉
彼は、本気だ。相対することに一切の動揺を見せず、いずれはこうなることを常に意識していたのだ。失念していたのはこちらの方だ。企業を出し抜き、コーラルの集積地点にウォルターを導く。その障害には、ラスティが含まれていることを。アサルトライフルとリニアライフルで応戦しながら、レーザードローンを展開する。どれだけ心が動揺し、思考が定まらなくとも、迫る殺意に対して身体が生きるために対処を行っていく。やはり動揺のせいか、レーザードローンがスティールヘイズを捉えきれていない。
〈……互いが抹殺対象というわけか。621、まずは生き残れ。それがお前の……、今すべき仕事だ〉
「……了解」
ウォルターの声で、ようやく冷静さを取り戻せる。スティールヘイズのスピードは脅威だが、しっかりとロックは着いてきてくれる。軽量二脚であるスティールヘイズは速さの代償に耐久性に難がある。手を緩めれば、あの狼に喉元を食い破られる。そうなる前に、削り切る必要がある。迫るプラズマミサイルをクイックブーストで避け、素早く動く狼を捉え続ける。
〈変わらないな、君は〉
リペアキットの排出が見える。冷たい声は変わらず、こちらに語り掛けてくる。
〈死ぬことも……、殺すことも恐れていないようだ〉
「それは……」
そんなことはないと、言い切れなかった。ならば、なぜ未だに身体は戦い続ける。ウォルターの声かけ一つで冷静さを取り戻し、彼に銃を向け続けている。自分が強化人間という兵器であると何度も言い聞かせていたのは誰だ。そうであれと、自分を抑圧してきたのは誰だ。スティールヘイズのクイックブーストにこちらの弾丸が避けられる。六基のレーザードローンが追撃し、地を走り続けるスティールヘイズを追う。地上戦では速度に負ける。滞空しながら眼下に向けてアサルトライフルとリニアライフルを撃ち続ける。壁際に追い詰められたスティールヘイズの体勢が崩れたその瞬間を、リニアライフルからパルスブレードに切り替えて二撃を入れていた。
〈くっ……!〉
「あっ……、ラスティ……!」
〈……敵に回すと実感するよ。君の強さと、そして危うさを……!〉
二つ目のリペアキットの排出。すぐにスティールヘイズから距離を離していく。近い距離を許せば、左腕のレーザースライサーの餌食になる。回転するレーザー両刃剣を受ければ、たまったものではない。中距離を保った射撃戦が再開される。下手に距離を許せば、あの狼の牙が迫って来る。互いの弾丸をクイックブーストで回避していく。時には交錯し、互いの位置が入れ替わる。プラズマの軌跡とレーザーの軌跡が飛び交っていく。時には狼が跳躍し、眼下のカラスに向けて弾丸を撃ちこんでいく。
「……、強い……!」
あれだけの速さを保ちながら、それでいてこちらへの狙いに一切のブレがない。強い人であるとは分かっていたが、対峙して分かる。こちらの知らない何かが、彼を強くしている。何かが彼を駆り立てている。実力だけではない、心の強さ。覚悟とでも言うべきものだろうか。狼が走り、跳躍するための支えである足場というものがある。空を飛ぶカラスには、己の翼のみしかない。違う、こちらはリードに繋がれているだけの猟犬だ。飼い主の示した先へと進み、脅威を払ってきただけの、ただの――
〈やるな……。だが問題は、その強さじゃない〉
リペアキットの排出が見えた。これで、三つ目だ。これで、スティールヘイズの回復手段が無くなった。あとは、どちらが先に相手を削り切るか。耐久性での優位こそはあれども、ACS負荷を溜め、体勢を崩した瞬間に近接兵装で追い詰めていく。その戦い方は形勢を逆転させるものであることは、嫌でも知っている。
〈幾度か機体を並べたが。私には、いまだ見えずにいる。戦友、君に引き金を引かせるものは何だ?〉
「ワタシは……! ワタシを拾い上げてくれた、あの人のために!」
その理由は、変わらない。そのためだけに、ここまで来たのだ。吠えるような返答に、レーザードローンもスティールヘイズへと向かっていく。
〈――そうだったな。君は、恩人であるハンドラーのために戦い続けていたのだったな。だが〉
スティールヘイズに向かった六基のレーザードローン。バーストハンドガンとアサルトライフルによって、六基全てが撃ち落とされていく。
「撃ち落とした⁉」
〈ハンドラーが指し示した道を、ただ歩いているだけではないのか?〉
「……っ!」
踏み込まれなかった領域に、踏み込まれた感覚。独特な音に、急いで後ろへと後退した。アサルトライフルとリニアライフルの射撃を続けるも、回転する光刃が実弾を跳ね返していく。一気に踏み込み、伸びた両刃から辛うじて逃げ延びる。レーザースライサーを振り切ったのと同時に、こちらの弾丸が命中し、スティールヘイズが体勢を崩した。リニアライフルをパルスブレードに換装し、アサルトブーストを噴かせてパルスブレードの移動距離を稼いでいく。パルスブレードの切っ先が、狼に届く。二撃目も、地形の助けも相まって取り逃がすことは無かった。
〈AP、残り五〇%〉
〈どうした、そんなものではないだろう〉
ここで負ける気はない。リペアキットを使い、APを修復する。中距離を保った射撃戦を続けて行く。こちらのACS負荷が限界近くにまで溜まっている。クイックブーストを繰り出して、なんとか負荷限界による体勢を崩すことを回避させる。チャージしたレーザードローンを展開させる。プラズマミサイルの軌跡を回避し、スティールヘイズの移動先に向けて三対のレーザーがスティールヘイズを射貫いていった。
「……、ラスティ!」
射貫かれたスティールヘイズが水面を後退する。動力系統に火が点いたのか、バーストハンドガンを持つ右腕が爆発と共に吹き飛ばされていく。異音を発しながら、スティールヘイズが膝を付く。
〈流石だな……〉
まだ、生きている。今の状態ならば、スティールヘイズからの脱出も間に合うはずだ。
〈だが、終わるわけにはいかない。……戦友〉
それでも、スティールヘイズは立ち上がる。そして、背面の排熱版が展開されていく。
「ラスティ、何を――⁉」
〈理由なき強さほど、危ういものはないぞ……!〉
『レイヴン、離れてください!』
アサルトアーマーの予兆に跳躍して後退する。視界を覆う光、それが収まった頃にはスティールヘイズの姿が無かった。
『スティールヘイズ、機体反応消失……。撤退したようです』
撤退したというエアの言葉に、力んでいたものが一気に抜けて行く。呼吸が止まっていたのか、息苦しさもある。何とか息を吸い込んで、吐き出していく。
〈……よくやった、621。追う必要は無い。今は……、先に進むことだ〉
「……わかった」
荒い呼吸を整えて行く。仕事は、まだ続いている。こちらの息が整うまで、ウォルターは急かすことをせずに待ってくれる。呼吸も落ち着き、動揺も落ち着いた。ブーストを噴かせて奥へと進んでいく。養育ポッドのエリアを越えた先は、更に深い大穴があった。なんとか、足場を見つけて降りて行く。
『コーラル集積反応は……、この大穴の下から来ています。進みましょう、レイヴン』
『うん』
大穴を降り続けて行く。この深い穴の先は、あるのだろうか。このまま、無限に落ちて行きそうで。不思議の国の物語のようで、底の無い冥界を降り続けているような。計器がエラーを吐き出した。一体、どこまで降り立っていくのだろうか。
『反応が……、近い……』
ただ落ちて行く感覚しか分からないこちらより、同胞を探知出来るエアの感覚を信じるしかない。冥き底だと言うのに、地面が見え始めた。見えることがおかしい。どこかから、光源があるのだろうか。ブーストを噴かせてゆっくりと着地する。やはり、道が見える。どこかに光源がある。光が差し込むところへ向かって、進んでいく。光源はすぐ先にあった。冥き洞窟の先には、世界が広がっていた。
「……え?」
『これは……⁉ アイビスの火以前の……』
息を呑んだ。深い大穴の底。開けた場所は、街があった。街だけではない。霧がかっているものの、この世界には、空があった。そして、巨大な建造物も。
「これって、一体……」
〈ルビコン技研都市……〉
「技研、都市……?」
ウォルターの呟きに、思わず反芻する。名前からして、ルビコン調査技研に関わる場所なのだろうか。
〈……やはりか。探しても見つからないわけだ〉
「これが、確信……?」
〈ああ。企業が動き出す前に手を打つ必要がある。……戻って、休め〉
「……わかった」
これがウォルターの確信だと言うのであれば、旅の終着点はすぐそこまで来ている。ウォルターとエア、二人と共に歩く旅の終わり。
『ハンドラーが指し示した道を、ただ歩いているだけではないのか?』
ただウォルターに導かれるだけだった旅が、もうすぐ終わりを迎えようとしているのだった。
*
カサブランカを帰投させ、ゆっくりとコクピットから降りて行く。ガレージのベンチに座り込み、深く息を吐いていく。傍らにいるエアも、隣に寄り添うように座ってくれる。
『レイヴン。……、あれから、周辺をなんとか探りましたが、スティールヘイズの残骸はありません。今なお、どこかの逃亡している可能性があります』
『ごめん、ありがとう』
まだ、彼は生きている。それだけでも、この疲労感は和らぐ。だが、戦場に立つ理由が、自分の確固たる基盤だと思っていたそれは、ただ自分の足で立っていると勘違いしているものではないか。示された道を歩いていただけで、それが自分で選んだものではない。誰も踏み込んでこなかった、希薄な自我の部分に踏み込まれたことへの動揺も大きい。いつまでも、この動揺に引きずられる訳にはいかない。もう、あと一歩のところまで来てしまったのだから。
『……コーラルは、もう目の前にある』
『……はい。私には、はっきりと見えています。コーラルの……、同胞たちの声が』
どこか落ち着けないと、組み合わせた両手を胸元に当てるエア。彼女の目的も、もうすぐ達成する。後はもう、集積地点へと向かうだけなのだ。
『……アイビスの火に飲み込まれ消えた同胞たち。そのわずかな生き残りが長い時を経て、再び群れを形成した……』
『……怒らないの? どうして、燃やしたのって』
『……そう、感じ取れない。が近い返答でしょうか。波形である私には、アイビスの火という事実について、困惑、怒り、悲しみ――。該当するものが多くあります。ですが、同胞たちにはそれがない。ただ、突然減ってしまったという認識だけなのです。それでも、変わらず自己増殖を続け、より多くの群れと合流していく。それを、繰り返すだけです』
『……』
コーラルとエアは完全にイコールの存在ではないようだ。群れと合流しなくてはならない。エアを形付けるものがコーラルで、その本能のようなものがあるだけで、波形であるエアはまた別の生命であるということなのだろうか。だとしても、アイビスの火、このコーラルを巡る争奪戦。人間のエゴは、エアからすれば醜いものに変わりないだろう。
『……ウォルターがこちらに向かってきています』
「ん……」
それでも、エアはこちらを支えてくれる。彼女が示された方向を見れば、杖をつく、ゆったりとした男性の足音。片手には、こちらがいつも使うマグカップを手にしていた。
「ウォルター……」
「そのまま座っていろ、621」
「……わかった。ありがとう」
渡されたマグカップを受け取る。漂う香りと湯気からホットコーヒーだろうか。ウォルターも、ゆっくりとベンチに腰掛けた。
「……あの男のことは気にするな。薄々ではあったが、企業の思惑とは違うところにいるのではないかと懸念点はあった。だが、この先で再度戦うことは無いだろう」
「……あんなに、嫌っていたのに?」
「お前に不用意に近付くからな。お前に何かがあっては困る」
「何か、て?」
「何かは、何かだ」
ウォルターにしては珍しい曖昧な返答だった。それでも、心から嫌っているというよりは本当に警戒をしていただけだったようだ。生き残ることだけを考えろ、その指示が無ければ戦えていなかったかもしれない。息を吹きかけて、コーヒーを口にする。
「……仕事の前に、ひとつ昔話をしよう」
「……昔話?」
「ああ。……ある科学者がいた。家族を捨て、コーラルの研究に没頭した男だ。狂った成果が山ほど生み出された。強化人間もそのひとつだ」
それは、エアと共にエンゲブレト坑道を探索した際に拾ったログの内容と一致している。坑道で拾ったあのログは、ウォルターには共有していない。だが、ウォルターはそれを知っている。見上げた表情は、とても静かなものだが、怒りだ。科学者への怒りにも見えるが、どこか、自分に対しても怒りを抱いているように感じ取れた。
「善良な科学者もいた。男の罪を肩代わりし、全てに火を点け……。そして満足して死んだ」
「……」
強化人間を始めとした、狂った産物たち。その全ての責任を背負って、燃やそうとした。それが、アイビスの火の真実であるとばかりに。
「……この話には教訓がある。一度生まれたものは、そう簡単には死なない」
「……」
全てが燃えたはずだった。だと言うのに、こうして強化人間は傍らに存在する。コーラルたちも生き残って群れを形成した。ウォルターとコーラル、正確にはルビコン調査技研だろうか。見えないところで、彼の今の生き方に関わるような何かがあったことには違いないようだった。
「……621。昔話は終わりだ。休息を与えたいが仕事を始めるぞ。企業より先に、辿り着かなければならない」
「……わかった」
終着点は、目の前にある。これ以上の話を聞くためにも、まずはゴールをしなければならない。コーヒーを煽って、飲み終わったカップをウォルターへと渡した。