Q.一般探索者が黄色い触手を見た場合の反応を述べよ 作:お前の母ちゃんシュブ=ニグラス~!
平穏の終わりを告げる鐘より、久しく。
午後三時を優に超えた現在。
内からなる物音は絶え、一層増していく雨音のみが響いている。
窓から覗くことの叶わない西日が、誰に知られる事も無く水平に堕ちる。
昏い木々が、沈み込む様に世界に満ちていく。
仄暗い世界を満たす、冷たい雨の匂い。
寿命を迎えんとする蛍光灯が、神経質な唸りを上げる。
何人も立ち寄る事をしない山門異界、その中心にそびえる旧校舎。
季節外れの冷気さえ纏うその場所は。きっともう、人間の居所ではなくなっていた。
相対する、無音の陰影。挑む者と、挑まれるモノ。
放たれる気配は、心の細い人間なら倒れてしまいそうな程に剣呑としている。
双方、どう繕ったとしても尋常ではなく。
故にこそ。組み木で編まれたこの場所は、彼らを祀る祭壇だった。
邪神を殺さんとする少年の衣が宙を舞う。
現れたのは、よく鍛えられた精緻な肉体。
観衆である一人の生徒から、小さく息を呑んだ声がした。
何しろそれは、より効率的に、より早く他者を壊すことを目的とする身体。
不純物を持たない、純然たる闘争心の発露。
強さへの執着を語る少年には、悲しいほどに似合っていた。
「ただの暗殺は飽きてるでしょう、殺せんせー。ここは一つ、ルールを決めないかい?」
虫の聲さえ届かない場所で、平然と言葉を紡ぐ白装束の男。
滔々とした声色は平坦で、感情らしい感情は感じられない。
まるで空っぽ、人形の方が幾分マシと言った風体。
彼の者の肌を撫ぜる殺意だけが、その人間性の証明だった。
「リングの外に足が着いたらその場で死刑! …………どうかな?」
まるで小学生の取り決めのような、純粋かつ物騒な提言を口にするシロ。
大の大人が本気で言っているのなら、きっと妄言に違いない。
真っ当な状況なら、耳に留めるまでも無い世迷言。
──────だが。この暗殺教室は、根本からして狂っている。
「いいでしょう。そのルール、受けますよ」
張り詰めた声と共に、契約は締結される。
彼の者のおいて、この教室に由来する幾つもの弱点がある。
その最たるものが、"教師たるの条件"だ。
生徒達の面前で取り交わした約束/契約を破れば、"先生"としての姿にヒビが入る。
"先生"としての在り方に対する、強い執着を逆手に取った言葉。
それが、彼の者にとっては容易く嚙み千切られる程度の、仮初の契約であったとしても。
例えこれを破ったからと言って、この世界の何者も彼を
彼の者は常に、己が理想と、自身の現状との乖離を恐れ続けている。
故にこそ、この約定を受けざる負えない。
「ただしイトナ君、観客に危害を加えた場合も負けですよ…………君も、君以外も」
問いに対する答えは無言。されど、短い首肯は、肯定の意を示していた。
教室の外に潜んでいた何者かの気配が途絶える。
小さく舌打ちをしそうになる感情を、彼の者は鉄の理性で飲み下した。
この状況下において、彼の者が恐れる事態は一つのみ。
生徒達の内、誰か一人でも傷つくこと。
何しろ、第三者からすれば天秤にかかる命の重みが違う。
二十余名の少年少女と、世界人口七十一億人。…………比べるべくもなく。
世界は残酷な裁定を下しかねない危うさを孕んでいる。
現実になりかけた"もしも"に、無意識に神経が荒波を打つ。
知らず、安定を失っていく精神環境。
どうあれ。両者共に、これをアイスブレイクの終わりと捉えたらしく。
言葉は絶え──────空間の歪む錯覚が走る。
「では、合図で始めようか」
遠くなる雷鳴の声、膨らんでいく心臓の音、持ち上げられる白色の右腕。
好奇と期待の目線が、教室の中央へと集約する。
その渦中にあって、尚。彼の者は、状況を至極冷徹に解析した。
元来。居所を悟られながら行われる暗殺とは、三流の所業に当たる。
一流の暗殺とは、対象に命が絶たれた事実さえ気づかせない絶技。
顔を見合わせたそれは、最早闘争に成り果てる。
遍く暗殺者達が、避けるべくして避ける状況。
しかし、この教室はむしろ、"そう"なるように象られていた。
机によって象られた七×七メートルの空間。
逃げ場はなく、遮蔽も無い。互いの間合いは、きっかり八尺。
正面に立つ少年の体躯から、端から端まで、走駆って〇・五秒と掛かるまい。
恐らく。勝負を決めるのは接近戦、決着は一瞬の内に決定する───────。
「暗殺──────開始」
真実。それは瞬きの内に起きた事だった。
空間を裂いた音と同時に宙空を舞う、黄色いナニカ。
自我を見失った一瞬。思い描いたのは、墜落する星の姿。
声の無い驚愕が、視線となって一点に束ねられる。
一瞬にして凍り付いた世界は、きっと音を忘れ去っていた。
「………………………………どこだ」
自身の体表が、燃えるように黒く染まるのを自覚する。
沸騰しそうになる感情の奥、冷静な人格が、午前の妄言に理解を示した。
両親が違う、育ちも違う、血のつながりにも似た絆など、望むべくもなく。
だが。現実として、悍ましい事に。目の前の少年は"兄弟"だった。
その証明は、いとも容易く。
「──────どこでソレを手に入れたッ!! その"触手"を!!」
恐らく。氷柱に生命が宿ったとするのなら、こんな形になるのだろう。
意志を持つように蠢いた、不定形の白銀。
僅かに窓から漏れた明かりを食らうように、空気を裂き続ける。
人の手に余る異常。長く、冷たく、強靭な物質。
──────揺蕩う銀糸の触手が、その全てを告げていた。
彼の者の脳裏に浮かび上がる、かつての瞬間。
崩れ落ちた人型と、ソレを抱いたナニモノカ。
後悔の昨日。繰り返すまいと決めた、月下の離別。
全身を貫いた苦い記憶は、致命的な隙となって顕現する。
「答える義理は無いよ──────君はここで死ぬからね」
彼の者が触手を再生させるよりも迅く。己が肉体を灰燼に帰そうとする触手に襲われる。
殺意の籠った触手は、白銀の刃にも似て。
絶対の速度を持った彼の者でさえ、命の輪郭を自覚せざるを得ない程。
抉られるように消えていく細胞の一つ一つが、悲鳴を上げた。
「ぐっ………………!」
自身の持つソレと同質の超速が振るわれる。
対処は混迷を極め、擦り傷が増えていくのと同時に、精神は安定を失っていく。
………………そして。その動揺は悪手を誘った。
立て直しを図るべく、背後へ跳躍した彼の者。それを止めたのは、他でもない。
「──────っ、壁際!?」
気が付けば、立っていたのは領域の隅。
前後左右、あらゆる方向にも逃げ場は無し────そこは死の孤島だった。
回避行動に制限の掛かった刹那、白銀に染まった五つの触手が舞う。
判断は束の間の内に。彼の者は亜音速の飛行へと賭ける。
されど。中空への飛翔は完全には成らず、足に相当する触手が切り落とされた。
見上げる少年と、見下ろした超生物。
落下していく人ならざる組織と、憎悪と殺意に彩られた笑み
────それはきっと、神話の一幕。
事態の趨勢は、火を見るよりも明らかに。
攻撃の手は、尚も緩むことなく。彼の者は傷を増やしていくばかりだった。
「わかるかい、殺せんせー。君は今、この場所へ踏み入った時点で敗北していたんだ」
頬を掠める白銀と共に届く、不明瞭な声。
事ここに至ってようやく、彼の者は己の失態を認めた。
一見にして愚直な試合形式の暗殺。
退路の絶たれた処刑場、逃れられない致命の刃。
この舞台を整えられた時点で、彼の者は既に失策を喫していたのだ。
旧校舎の教室、それをさらに縮小させたリングの上。
如何に彼の者とは言え、初速からマッハ二十を叩き出す事は不可能。
生き物であれば、必然に。"加速"には"空間"を焚べる必要がある。
飛行能力を有している以上、空中においても加速は可能だが、屋根がある以上それも難しい。
加え、こうして現れた堀部イトナ自身が、彼の者の精神に一層の負担を掛けた。
生徒達の中にも、理解していた者もいるだろうが、触手の扱いには精神状態に左右される。
恐らくは、日中より蓄積していた精神的な負荷。
逃げ場を失った極限の状況下において現れた、有り得てはいけない同類の姿。
如何な存在であれ、致命的な動揺は避けられない。
故に。こうして、一方的な殺戮劇の様相を呈しているのだ。
「ガっ………………!」
狭い空間内を疾駆する超生物と、ソレを刈り取るように舞う、計五本の触手。
足が切り落とされた。再生した。腕が切り落とされた。再生した。
幾重にも増していく全身の傷。それを回生すると同時に、何者にも勝る速度が死んでいく。
凋落していく自身の性能と、気炎を上げる少年の刃。
明確に失われていく体力と気力──────このままでは、いずれ。
早急に対処する必要がある………………だが。
「あぁ。もしかしたら、イトナを斃す前提なら話は違うかもね、先生?」
「っ………………」
板材を叩き割る、五つの銀糸。
そうだ。イトナは触手の持つ力の総てを攻撃に注いでいる。
その肉体は今も尚無防備なまま。とても亜音速の世界に耐えうる器ではなく。
一般的な中学生の範囲を超えない肢体は、彼の者にとって木の枝よりも脆い。
殺意を乗せた攻撃を食らえば、目の前の少年は死ぬ。
けれどその報酬として、自身の命は保全される。
──────考えるべくもない二者択一、答えは端から決まっている。
「………………しまっ!?」
「集中が途切れたな、兄さん………………!」
僅かながらに、回避の速度が
恐らくは生と死の境界に立ち続けたが故の、意識の弛緩。
命を脅かされた生命は、必ず"死に絶えたもしも"を想起する。
常在戦場、地球の敵である彼の者においても、その限りではなく。
封じ込めていた"もしも"を、視界の端で、垣間見たのだろう。
その隙を見逃す少年ではない。
即座。逃げ道を塞ぐように振り抜かれた二対四本の触手。
最早意識を取り戻したとして、遅く。
残る一本は、心臓を穿つ必殺。狙いは寸分も狂うことなく、吸い込まれるように。
──────確かな手ごたえと共に。黄色いナニカが、地表へと撃墜された。
「………………違う、上だイトナ!」
共犯者の言葉に、我へと回帰する一秒未満。
人智の届かない速度が、弾丸の如く少年へと迫る。
その姿だけで、彼は事態の全容を掴んで見せた。
アレは"脱皮"だ。
脱皮が行われた直後の抜け殻は、人間の死後硬直にも似て、酷く硬くなる。
それを利用し、暗殺成功を誤認させるブラフとして用いたのだ。
早すぎても、遅すぎても命が脅かされる極限の一手。
アウトレンジへ集中させていた火力運営、その一瞬の間隙を縫った、決死の進行。
敵ながらに、感嘆に値すると、彼の者を睨む。
少年の身を守る白銀は、最早一本もなく。
無防備に変わった肉体に、網にも似た形態の触手がイトナを襲った。
超速に攫われる身体は、しかし。
「っ……………これ、はっ…………!」
鮮血の華が咲き誇る事はなく。
在ったのは、蝙蝠の様に重力に逆らって天井に立った、超生物の身体。
そこから伸びる無数の触手は、イトナの腕を、脚を、触手さえ根元から拘束していた。
粘性を帯びた触手。半ば宙吊り状態で晒される少年には、抵抗の術がない。
人間としての手足は言うに及ばず、攻撃手段である触手も、初速を封じられてしまっている。
こうなってしまえば、彼の者より逃れる事は出来ない。
「──────言っておきますがね。私に、生徒を殺す選択肢など無い」
彼の者の採った行動は、殺害ではなく無力化。
けれど、ソレは彼の者にとって当然の選択だった。
既に堀部イトナはE組の生徒であり。
恐れるべき暗殺者であると同時に、守るべき生徒だった。
──────生徒達を喪う事は、きっと死ぬ事よりも恐ろしいから。
「…………っ、はぁ、はぁ…………あとはこのまま、彼をリングの外へ…………」
僅かの間に行われた、華麗なる逆転劇。
天秤の傾きは暗殺対象へと、跪くように。
観客の誰もが、勝利の女神が微笑んだ相手が何者なのか、疑う事はなく。
数秒の後に訪れる、彼の者の勝利を確信した。
それ故に、気が付かなかったのだ。…………少年の口元が、三日月の如く裂けたと同時。
「間抜け──────」
超音速の世界に介入する影。彼を拘束していた全ての触手が、千々に刻まれる。
解放される手足と、長刀にも似た、蠢く触手。
けれど、そのシルエットは数瞬前のモノとは異なり。
「悪いんだけどね、殺せんせー。私には読めてるんだよ、その程度」
「─────────六本目の、触手…………!」
示される、第二の刃。………即ち、暗殺者たる資格。
生徒を傷つけまいと、慎重に動きを止めたのが仇になった。
僅かな隙。世界の誰と言えど突ける筈の無い、勝者の油断。
─────だが。秘匿された第六の白刃は、その隙を刈り取った。
自由落下する一対の影が、一秒を永遠のモノとする。
片や、その身の総てが無欠にして盤石。
殺意に滾る螺旋の琥珀は、確定された未来を見ている。
或いは、遍く触手を失った風の邪神。
比類なき疾風迅雷は見る影もなく、その身に待つのは"死"のみ。
「──────ダメ押しだよ、先生」
赤紫を孕んだ怪光線が、彼の者を貫いた。
痛みはない。苦しみも無い。けれど、身体はそれだけで動きを止めた。
動揺から来る、生命体らしいものではなく。
鉱物の反応にも近い、無機質な停止だった。
触手研究の副産物、彼の者の細胞にダイラタント挙動を引き起こす圧力光線。
なぜあの白装束がそんな物を手にしているのか、等はもはや些事。
問題は、この局面においてこのような隙を晒したことにある。
目の前で宙を舞う少年──────否。怪物は、既に構えを終えている。
防御不能、回避不可能。最早、勝ち得ぬ戦いだった。
視界を掠める"死"の一文字に、数々の失態へ思いを馳せる。
第一の失態は、この舞台を整えさせてしまった事。
第二の失敗は、彼らの術中に嵌り、冷静を欠いた事。
第三の失態は、己を知る相手の存在を予期していなかった事。
思えば。彼の者が"彼"であった頃より、同格の存在などはいなかった。
有り得ない仮定だが。これが十年先の話であれば訳も違っただろう。
あの"青年"はいずれ"彼"と並び、そして"彼"を超えたのだろう。
けれど現実は伴わず、今彼の者はここに立っている。
──────今。こうして、年端も行かない怪物に、命を奪われかけている。
数多の失態が呼んだ──────致命的失敗だった。
「殺れ、イトナ」
決着を確信したのは、一体誰だったのか。
束ねられた六本の刃は、抗いようの無い絶死の触手。
"彼"の欲したモノとは違う、けれど本質を同じにする破壊兵器。
彼の者に勝利の女神が微笑むことはなく。数秒後に待つ死を眺めるばかり。
最早覆らない必然。そうと定められた世界の理。
その場の誰もが、訪れる決着を思い描いた。
ならば────────それを超克してこそ、天上の超生物。
響く轟音。哭くように舞うガラス片。
性能の全てを注ぎ込んだ一撃は、旧校舎の外壁を穿って余りある破壊力を示した。
今度こそ、確かな手応え。脱皮はもう使用できず、これ以上の切り札は存在しない。
貫かれた外壁から、怪物は己が勝利の証を見る。
降りしきる大粒の雨が、異質な物体に鞭を打つ。
無残に散った触手の亡骸。形を失った暴虐の跡。
けれど。それが擁する色彩は、彼の者を象徴する浅黄ではなく。
…………………雪のように溶けた、白銀だった。
「は──────」
「おやおや。君も運が無いようですねぇ」
背後から発せられた声に、声すら上げられず。
回る視界と共に訪れた、感じたことの無い浮遊感。
気が付けばそこは教室の外。雨に打たれる、寒々しい世界だった。
軋みを上げるブリキの様に、隣に転がった物体を見る。
「先生の抜け殻で包みました。ダメージは無い筈です………いやしかし、不運でしたねぇ」
──────まさか、偶々生徒達が持っていたナイフが射線上にあったなんて。
豪雨の中で、その色だけが異質だった。
瓦礫に変わった木片とは違う、無造作に転がった玩具のような刃。
超国家間で開発された、世界を救う最後の望み。
"対先生物質"とは、即ち俗称に過ぎない。
厳密にその効果を捉えるとするのならば。
正式名称を────────対触手細胞物質。
怪物の武器が破壊されたのは、当然の帰結だった。
「気づいていますか? 君の足は、リングの外についている。
先生の勝ちですねぇ──────ルールに照らせば君は死刑、もう二度と先生を殺れません」
これは、至極当然の帰結だった。
例え彼が世界で最も強い存在だったとして、勝ち目など、初めから無かったのだ。
如何に有利な状況を作り出したとしても。
たかが怪物へと成り果てた程度、たかが一度の致命的な失敗で埋まるほど、神性との溝は浅くない。
もし仮に、彼の者へ百度挑んだとして。
──────文字通り、万に一つの可能性も無く。怪物に成功は有り得なかった。
「生き返りたいのなら、このクラスで皆と一緒に学びなさい」
見下ろす超常と、見上げる人型。
打ち付ける雷雨は、敗北者の輪郭を克明に描き。
零れ落ちる淡い光は、勝利者を祝福せんとする。
完膚なき現実が怪物を打ちのめす。
滔々と語る彼の者の声が遠い。耳に届くのはたった一つ。
──────自身を象った人格が、足元から崩れていく音のみ。
「この教室で先生の経験を盗まなければ…………にゅや?」
「…………ぃ…………勝てない…………俺が、弱い…………?」
黒々とした殺意に染まっていく、触手と瞳。
………これもまた、至極当然の帰結ではあるが。
勉強嫌いの子供に説教などすれば、当然ながらに反発する。
その正しさを問わず、内に秘めた嫌悪と獣性の枷を解き放つのだ。
なら。もしそれが、怪物にも似た存在であったならば。
引き起こされる惨劇の名は、虐殺だ。
「俺は強い! 強くなった!! この触手で、誰よりも!!!」
故に敗北など認められないと叫ぶ、歪んだ怪物。
世界を裂かんばかりの触手は、雨粒を切り刻み、"霧"へと変えた。
僅か数秒の後、惨憺たる現実が舞い降りる。
暴力の限りが振るわれる、その三秒前に。
──────音も無く怪物の前に立った、一人の少年の背を見た。
◇◇◇
教室は様子はまさしく、絶句という言葉の似合う壮絶だった。
吹き荒れる暴風と、霧に変わった雨。
そこに、一切の迷いを持たずに歩んでいった一人の少年。
全てが霧に消えた、僅か一分足らずの後。
──────現れたのは、地に倒れ伏した白銀と、それを見下ろす黒髪。
平常を告げる雨天が、どうしてか白々しい。
何が起きたのか、その過程を、E組の誰もが把握できない。
「驚いたねぇ。まさか君がいるとは」
ははは、と愉快そうに笑う声が、雨音と共に現れる。
気が付けば少年のすぐ傍に、白装束が立っていた。
いつの間に、と考えるより先に、重力が増した錯覚が走る。
見れば、少年の表情は極度の疲労を湛えていた。
されど。滾る殺気は翳る事無く、目の前に立った男に向けられていた。
「…………黙れ。次はお前だ、
棒になったように震える足で、前へ。
吐く息は今も尚白く、夏も目前の現在にあって、彼の身体は震えていた。
気力だけの殺意は、しかし。それだけで人を殺せそうなほどに恐ろしい。
──────だが。それが行動となって届くことはなく。
「無理だよ、時間切れだ」
………………パン、と。
空中を叩く乾いた音。それと同時に、倒れ伏した人影。
それに何一つの感慨を持つ事なく。敗北した怪物へと足を延ばす。
この空間において、その行動に着いて行けるモノは、ただひとつ。
「待ちなさい。今、彼に何をした」
「おー、怖い顔をするねぇ。けど安心していいよ、ただの猫だましさ」
クラップスタナー、などという上等な技ではない。謂わば、ただの拍手と変わらない。
けれど、今の彼であれば、それだけで事足りた。
極端な疲労を抱えた人間は、意識を保つのでさえ綱渡り。
積み木遊びにも似た、薄氷の釣り合い。
それ故に、意識の外からの刺激一つで、簡単に瓦解する。
心理学ですらなく、手品にも満たないお遊びだった。
「……………よっと。どうもこの子は、まだ登校できる状態じゃなかったようだ。
転校初日でなんですが、暫く休学させてもらいますよ」
いつの間にか、イトナを担ぎ上げていた白装束。
そのまま旧校舎へ振り向くことなく、足早に去ろうとする。
それを引き留めた声は、やはりと言うべきか。
「待ちなさい。担任として、その生徒は放っておけません。私が卒業まで面倒を見ます
──────何より。貴方には聞きたいことが山ほどある」
「嫌だね、帰るよ。力づくで止めるかい? ………………今は豪雨だが、本当に?」
「………………………………」
「………………………………」
水面下で行われた、暗号のような言葉の応酬。それきり、会話は途絶えた。
彼の者の態度に満足したのか、旧校舎を後にするシロ。
去る者を追う何者かは居らず。彼は豪雨の中へと姿を消した。
…………それから、十分の時間が経過した頃。
彼自身、意図しないままに零れ落ちた独り言があった。
「しかしあのクラス…………面白いね」
ビックリ箱か、そうでなければ玩具箱の類か。
愉快、愉悦に喉を鳴らす。世の中は狭いと言うが、度が過ぎる。
何時ぞやの少女と、狂気の彼女。触手の彼と、そして、なにより。
あの──────
「──────はは。あの少年まで居るとは、数奇だね」
不意に。地面がぬかるんでいる事に気が付いた。
対象を逃がさないために打った策だったが、おかげで地盤が緩んだか。
転んで泥だらけになるのも気が引ける。
加えて、今頃教室で起きている事を考えれば、ここまで追われることも無い。
…………万事は問題ない、と。血管を紫電で満たす。
「Ia Ia ████████ fhtagn ………なんてね」
唄うように唱えられた賛辞の呪文。それは空気へ溶けるように消え。
──────僅かの後。雲の隙間から晴れ間が覗いた。
◇◇◇
硬質な感触と、身体を包む暖気。
浮上していく意識と共に、どこか遠くから聞こえた喧騒。
悲鳴にも、喜色にも取れる声達は、どこか和気藹々として楽しそう。
けれど、どこか真剣さも孕んでいる。何かに熱中する人間の声は、"こう"なのか、と。
柄にもない感嘆を抱いた所で、重たい瞼を持ち上げた。
「……………………」
窓を貫いて差し込む、眩いほどの入道雲。
時折肌を撫ぜる初夏の風に、薄桃色のカーテンが揺れる。
いまだ安定しない視界に映るのは、古ぼけた輪郭の天井。
天蓋にも似た寝台の上、なんとも見覚えのある景色。
一度来た記憶は、未だ新しく。──────どうやらここは、保健室らしかった。
「……………………」
気怠い感覚が、全身へと伸びていく。
指一本、呼吸器一つ動かすのさえ億劫になる倦怠感。
幸運と呼ぶべきか。痛みを訴える身体の部品は、瞼のみ。
今尚自身の睡眠が足りていない事を、ありありと示している。
…………が、それを一先ず無視し、上体を起こす。
碌な遮光の能力を持たないカーテンを捲れば、校庭に集うE組生徒達の姿があった。
放課後、暗殺に積極的な生徒は残って特訓をする、と聞いたことがある。
見た所…………垂直ロープ昇降の訓練だろうか。
烏間先生も、生徒達も。皆、生き生きとした面持ちをしている。
──────とはいえ。
「…………なんか、人数多くない………?」
一、二、三…………どんなに少なく見積もっても、二十人は参加している。
やる気に満ちた生徒のみが行うと聞いていたが、これは。
オレの困惑を余所に、ゆっくりとした開扉の音が響く。
その相手が何者かなど、考えるまでもなく。
「──────どうやら皆さん、相当殺る気を出して下さったようで」
嬉しい限りですね、なんて宣う黄衣の王が、そこにいた。
聞けば、外部のイトナに搔っ攫われそうになったのが、不満だったようで
"自分たちの先生は、自分たちで殺したい"と。そう言う事らしかった。
…………全く以て歪んでいる。狂気の沙汰に違いない。
けれど──────あれ程に明るい表情をされては、何も言えない。
全身を満たす疲労感に任せて、思考を彼方へ追いやった。
「因みに、このジャージは先生が?」
「ええ。濡れた状態で放置する訳にもいきませんでしたから」
先程から、自分の背格好が記憶と違う事は認識していた。
元々着ていた制服は、畳まれてビニール袋の中へ仕舞い込まれて、机の上に。
…………どこをどう見ても泥塗れ。
クリーニング費用に思いを馳せれば、軽い眩暈がした。
この際だから、他のモノも纏めて出してしまおうか、等と考えてみれば。
──────何やら真剣な面持ちの神話生物が、目に入った。
「………………………………」
「………………………………」
会話の無い初夏の保健室。
窓の奥で、クラス名と共に蝶が舞う。
冴え冴えとした青空に良く映える、夜のような藍色。
徐々に増してきた気温に釣られて羽化したのか、アレはきっとカラスアゲハだろう。
夏本番には、まだ気が早いというのに。これ以上なく優美に飛翔していた。
…………それを。目障りだと思ったのか。
「──────君は一体、何者なんですか、秋野君」
返す言葉は無い。彼の存在に対して明かす身の上など、一つとして有りはしない。
だってそもそも、意味が無い。
そんなモノを知ったところで、来年の三月にこの惑星は滅びる。
ならばどうして、見たくも無い過去を語らなくてはならないのか。
それに加えて。何者なのか、と言えば。
「その言葉、自分に返ってくるとは思わなかったんですか?」
「…………………………」
沈黙が現実を包む。秘密主義と言うのなら、お互い様だ。
あれだけのことがあったのだ、生徒達から問われた言葉は、想像に難くなく。
もしそこで真実を語っていたのならば、彼らは正気ではいられない。
ああして訓練に励んでいる事は矛盾に他ならない。
「…………実は先生、人工的に生み出された生物なんです」
「衝撃的ですが、嘘ですね」
「な、何を根拠に──────」
「だって先生のソレは、真実を語ってはいないじゃないですか」
即座に切って捨てた彼の者の言葉。それは、間違っていないだけのモノだ。
意識、呼吸、視線。どれをとっても、何かを隠している風情。
それ以上の真実を語らないのならば。その情報は毒に変わる。
前触れもなく、現実の一端のみを語るのなら、それは嘘に違いなかった。
「…………………………」
反論はない。なにせ、殺せんせーの求めるオレの真実は、そういったモノだから。
一端ではなく、全体。全ての情報が開示された上で見えてくるモノをこそ、望んでいる。
けれど、自身の事を隠しながら他者を知ろう、なんて。
矛盾か。そうでなければ理不尽だ。
その自覚があるからこそ、殺せんせーからの声は潰える。
「お互い無用な詮索はなし──────仲良く殺っていきましょうよ。
"暗殺対象"と"暗殺者"、それがオレ達を結ぶ絆なんでしょう?」
その言葉を吐いたきり、寝台を降りる。
全身を襲う虚脱感。軋みを上げる骨子は、冷えた硝子のように。
けれど、その全てを意識的に受け流す。
不確かな足取りで、保健室の扉まで手を掛ける。
引き留める存在はいない─────ただ。
「それでも私は、君の先生なんです。君を知り、そして導いていく。
──────私はその為に、この教室に来たのだから」
廊下へと足を延ばし、戸を閉じる。
知らず、首に下げたお守りを握り込む。
どうでもいい筈の戯言が、いやに脳裏に残っていた。
◇◇◇
秒速四十メートルを記録する暴風。
螺旋を描くように舞う豪雨は、刻み尽くされ"霧"となった。
不可視の刃に削られ、捲れ上がった大地は、剣の如く鋭さを帯びている。
人間が立ち入ってはならない、そこはきっと、悪夢の荒野だった。
──────その中心で荒れ狂う黒色は、怪物の心の内を示している。
「ああ、あああ、ああああ──────!」
慟哭にも似た感情の発露。理性を失った怪物が、そこにいた。
強くなりたいと願った。誰よりも、何者よりも。
しかし。現実は残酷にも、彼以上に異常な存在を擁していた。
認めがたい敗北が、耐え難い痛みを伴って、怪物の脳漿を破壊する。
少年が望んだのは、何人も寄せ付けない、孤独にも似た絶対的な力だった。
…………ならば、今。目の前に立つこの男子生徒は、如何な存在か。
「無様だな、イトナ」
開口一番。紫煙と共に告げられる、侮辱の言葉。
この極限の世界で、さしたる声量でもない癖に、よく響いた言葉だった。
声の方向へと。僅かながらに意識を取り戻せば、黒髪の少年がそこにいた。
霧の最中、長い煙草を咥えた、泰然とした立ち姿。
憮然とした表情は、ありありと失意に満ちて。
怪物を真っすぐに見つめる瞳は、寒気のする程に冷たかった。
「──────、は。オマエ、遺言はそれで決まりか?」
一層強まった重圧と共に、声を上げる怪物。
…………それは、恐ろしく危険な確認だった。
この先に応える一答。それが真性の謝罪でなければ、彼の命はここで尽きる。
これより振るわれる暴力に、微塵の分別も無く。
いとも容易く訪れた、運命の岐路。
けれど少年は、何一つ気負う事はなく、ただ、平然と。
「お前さ。"弱さ"が恐いんだろ?」
煙草の火種を揉み消し、声を上げた。
心底から嘲るような声色は、真実、彼を嗤っている。
怪物の持つ強さへの執着。その本質に触れる言葉。
気が付けば、ピタリと。暴風が絶え、雨は元の形を取り戻した。
未だ霧は立ち込めたまま。天涯孤独の、陸の孤島。
「弱いって辛いよな。弱者は何一つ守れない、掌の上の大切を、全て取りこぼす」
弱きは尽くを失い、強きは遍くを手に入れる。
弱肉強食こそが世に蔓延った絶対の摂理。故にこそ、かつての少年は強さを願った。
もう二度と、何一つ奪われないために。こんな怪物に、身を窶してまで。
現実として彼は強くなった。世界の全てを手にする力。
失った総てを取り戻せるだけの力を、確かに彼は手に入れた。
………………それを。
「だからこそ無様だ─────
一蹴するような嘲笑を、凝視した。
怪物の姿勢は既に、前傾二十度を記録している。
凡そ人間ではありえない体勢。ならばそれは、怪物に特有の、殺意の前触れ。
前方、僅か十メートルの距離。
接近し、その全身を灰燼へ帰するまで、一秒未満。
「──────ここで、死ね」
残忍なる死刑宣告。
理性の蒸発した怪物は、己が本能に任せた殺戮を行う。
束ねられた六つの白銀の刃。大地に振り下ろされる死。
音を超えた殺意は、一秒先の未来を想起するに十分であり。
─────────ならば。ソレを凌駕したのは、加速を置き去りにした、人体の極限。
怪物の駆け出したと同時。作り変えられる肉体の、変形していく
誘われるように踏み込んだ、一本の脚。半身を逸らした立ち姿は。回避の構えに似る。
だが、ソレは違う。そんな生温い結果を、少年の魂は許さない。
これは布石。望む結果を手繰り寄せる為に必要な、最後の欠片。
既に。決定的な成功はその手中にあった。
世界を破壊せんとする、暴虐の刃。
まさしく神速に相応しい、人類には到達不可能な御業。
現実に引き起こされた死の象徴。掠るだけで命を奪うそれは、しかし。
僅か一歩の踏み込みによって躱されていた。
「──────」
────────音の絶えた一閃。
それだけで、いとも容易く、雪の花が咲いた。
血飛沫にも似た白色が散る。拡張された器官が告げる、痛みを伴わない喪失。
条件反射染みた、殺戮機構の在り方、その具現。
尋常を超えた怪物の動体視力さえ、その行いを見抜けなかった。
怪物を見下ろした瞳と、視線が交差する。
神話の時代より、定められた不文律が存在する。
怪物は常に。己より弱い人間によってのみ打倒されてきた。
そんな現実に思い至ってしまえば、怪物はその異常性さえ失っていた。
無防備となった身体に、刻み込まれる烙印。
怪物の見た、敗北の景色は、瞳にも似た、赤い───────
「─────────」
喘ぐような声と共に、怪物は墜落する。
霧が晴れ、世界はあるがままの形を取り戻した。
───────以って。万事は終了した。
超常同士の、力で力を捻じ伏せる闘争とは違う。
手繰り寄せられた
白く染まった息を吐く、深淵の瞳を持った少年だった。