Q.一般探索者が黄色い触手を見た場合の反応を述べよ   作:お前の母ちゃんシュブ=ニグラス~!

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作者の趣味度高めです、ご注意下さい。投稿遅れてすみませんでした。



未練の時間

 ──────遠く。聞きなれた鐘の音が鼓膜を揺らした。

 

 心だけが連れ攫われてしまいそうな、優しい風が肌を撫でる。

 身体を弛緩させる、初夏の空気。木々に溢れた山道は、意外な程に涼しかった。

 気の抜けるような感触と共に、ぼんやりと息を吸う。

 熱を帯びた空気が肺を循環して、そしていつしか出ていった。

 …………嘆息から来る物ではない、ただ、ゆったりとした呼吸だった。

 

「────、」

 

 現在地は椚ヶ丘学園の有する裏山、その七合目に位置する大岩の上。

 見慣れた通学路とも三ヶ月近い付き合いになるが、相変わらず一息の踏破は難しく。

 疲労を口実に横になれば、いつの間にか、四限の終わりを告げる鐘が耳に届いていた。

 

 自分を害する者のいない空間、身を守る必要のない時間。

 揺り籠の中にも似た孤独が、少しだけ心を透明にしてくれる。

 ──────別段と、隠していたつもりも無いが。

 告白するのなら。この手の無為で穏やかな時間というモノを、自分はそれなりに気に入っている。

 

 蓋をした筈の瞼の裏に焼き付いた、淡く蒼い光の色。

 交互に身体を包み込んだ、冷気と暖気。

 蕩けて消えてしまいそうな、曖昧に変わる時間感覚。

 たかが一過性の、簡単に褪せてしまう今日という記憶の錬成。

 それらは紛れも無い人生の浪費で、唾棄すべき無駄に他ならない。

 

 だがどうにも、オレはそれを嫌いにはなれなかった。

 例えそれが、体力が尽きた故の気絶に近かろうとも。

 寝心地なんて半ば最悪に近い、ごつごつとした大岩の上だったとしても。

 …………ほんの一瞬でも、眩暈のするような現実を忘れられる気がしたから。

 こうして、意味もなく流れる時間というモノを、オレは堪らなく愛していた。

 

「──────」

 

 尤も。それは一過性の現実逃避にしか過ぎない、仮初の麻酔。

 夢裏から目覚めるように、重さを伴った瞼を開く。

 ぼやけた輪郭を擁する視界。その殆どは、幾分か前の景色と変わらない。

 風に揺れる緑色の葉、冴え冴えとして止まない青空、存在感を増し始めた積乱雲。

 変化があったとすれば、たった一つ。────視界の端に座る、貫かれた白月のみ。

 

 …………なんというか。

 

 現実とは容赦のないモノである、とは言うが。

 とりわけ、逃避の後などはより一層酷く映るモノらしい、と心中でごちる。

 大岩に全ての体重を預けてから、実に三十分もの時間を使い潰した現在。

 螺旋を描くように脳内を廻る考え事は、たった一つ。

 

 ────未だ記憶に新しい、あの二つの異常存在について。

 

 あの日。雨中の邂逅から、既に一週間が経過しようとしていた。

 オレが目にしたモノは、言葉を交わしたヒトガタは、決して夢などではなく。

 悍ましい触手を手にした少年と、白装束に身を包む巫山戯た男。

 アレらは放置するには危険すぎる。それ故に、暇を見つけては情報を漁っているのだが。

 …………これといった成果は、得られないでいるのが現状だった。

 

 軽い聞き込みや、潜伏が可能な場所の調査にも赴いたが、不自然な程に情報が見当たらない。

 恐らくは情報操作に長けた存在────ヴィクターの仕業だろう。

 代わりに手に入った情報と言えば、"空飛ぶ黄色いタコ"だの、"コンビニスイーツを買い占める黒ずくめの男"だの。

 凡そ国家機密の行動とは思えない、頭の痛くなるような話ばかり。

 今もって疑問は尽きる事を知らないが、しかし。

 オレに分かった事は一つだけ。…………奴らが今、椚ヶ丘には居ないという事実だけだった。

 

 …………頭が痛くなってくる。

 

 軋む頭蓋、目蓋の裏に映ったのは、喧々諤々としたクラスメイト達。

 "霧"の展開が遅れ、あまつさえ維持にも失敗し、あんな無様を晒した。

 彼らにすれば、暴走を始めたイトナにオレが対峙したと思えば、イトナが倒れていたのだ。

 困惑は当然に。ともすれば、オレに事態の説明を求めるのは至極真っ当な事だ。

 

 しかし、如何に道理が通っていようと語る事の出来ないモノはある。

 彼らへの説明は、"イトナの様子がヤバそうだったから説得に入った"という事にした。

 アイツが倒れたのは大暴れした反動、謂わば自滅だろう、とも。

 皆、怪訝そうな顔をしていたが、それ以上の妥当な理由があるでも無し。

 まさか人間の身で触手に敵う訳も無いと、最終的には納得して貰えた。

 

 だが、必要な行動だったとはいえ、アレは流石に悪目立ちし過ぎた。

 中間考査以降鳴りを潜めていたつもりだったが、完全に目を付けられたと見るべきだろう。

 今後の身の振り方に、魘されるように頭を悩ませる。

 …………不意に。人影のない空間で、鼓膜が揺れた。

 

「──────秋野さん。まだ、眠っていらっしゃいますか?」

 

 風に溶けてしまいそうな、けれど凛とした声が彼の頬を掠めた。

 暗い水底へと沈みかけていた意識が、水面へと浮上していくような感覚。

 零れ落ちそうになる欠伸を噛み殺し、乾き切った喉を鳴らす。

 声の主は誰か、など知れた事。態々名前を思い浮かべることも無く。

 

「…………いや。どうかしたか、律」

 

 穏やかに応えた声色は、それこそ眠りに落ちる前のように。

 けれど確かな言葉と共に、熱を帯びた声を零す。

 周辺十メートル四方に、オレ以外の人間は存在しない。音を発したのは、掌サイズの精密機器。

 現代科学の結晶、救世の唯一兵器。自律思考固定砲台────律の声だった。

 

「一つ。聞きたいことがあるのですが、いいでしょうか?」

 

 彼女の声に対する回答は無言。されど、沈黙は肯定の意を示していた。

 硬い響きを孕んだ言葉とは裏腹に、そこに深刻さは無かった。

 特別な事の無い日常会話。ともすれば、その内容にも予想は立てられる。

 恐らく、今日の場合は。

 

「────先ほど、競技場でお話しされていた男子生徒について」

 

 想像通りの質問に、苦笑さえ漏れる事はなく。

 知らず、脳漿は過去への回帰を試みていた。

 頭上に浮かぶ恒星が、熱を弱めながら傾く錯覚。

 心は既に、ここではない何処か────僅か数時間前、自分勝手に破り捨てた夢の跡へ。

 

「…………あぁ、アイツは………………」

 

 支配者然とした少年の名を語れば、現実は容易く溶けて消えた。

 

 ◇◇◇

 

 ────星の終わりにも似た、熱世界だった。

 

 有象無象の声が、灼熱の雨へと変貌して降り注ぐ。

 橙色に染まる合成樹脂、そこに焦げ付く靴跡のみが存在証明。

 きっとそこは、熱された鉄板の上に近い。

 燃えるような歓声に、陽炎が揺蕩っている。

 

 僅か、脳漿を溶かす夏の匂いが頬を撫でる。

 未だ終わりを見せない水無月の日々。

 けれど、在りもしない蝉達の喘鳴が、鼓膜を貫いて止まない。

 遠い回帰は、それこそ眼前に広がった青空を仰ぐように。

 降り注ぐ白い熱視線と、それを乱反射する積乱雲。

 

 息苦しささえ覚えた、瞬きの間に消える楽園。

 胸の奥で疼くのは恐怖と高揚、なんて。まるで矛盾。

 視界を染める眩暈の奥で、少年は己の何たるかを思い出す。

 窮屈に形を取り戻す身体。肉体の駆動音。己に許された(望まれた)唯一無二。

 

 ──────Set.

 

 今は遥か、音も遠く。熱はそのままに、世界から彩が絶える。

 逸るように巡った、一秒前までの遍く景色。

 走馬灯にも似たソレさえも置き去りに、橙色の荒野に立つ。

 目指すは一点。瞳に映ったのは仮想の斜陽、その水平。

 精緻な機器と化した心臓が、正確な瞬間を刻む。

 

 僅か五度。早鐘を打った血脈の音同時に、乾いた銃声が世界を揺らす。

 ────── 瞬時にして。少年の身体は風へと生まれ変わる。

 

 ◇◇◇

 

「……………………」

 

 いつの間にか閉ざしていた瞼を持ち上げる。

 忘却の彼方にあった記憶の再生を停止すると同時。

 鼓膜を揺らしたのは、脳裏に焼き付いたソレよりも、幾分褪せた応援だった。

 駆け抜けている筈の音は、鉄を撃つように重く。

 陸上トラックが、焼き付くだけの熱を持たず、火種のまま燻っている。

 夏も近いというのに、吐き出す息が白くなる錯覚。

 …………それを、哀れと思うと同時。先頭を走駆した少年が勝利を告げた。

 

「一着は月光館か…………まぁ、妥当だな」

 

 六月も後半、梅雨明け宣言がニュースに流れてより暫く。

 現在、平日の午前十時を過ぎた頃。

 上昇する気温に置いて行かれた場所で、独り言を呟いた。

 

 ──────椚ヶ丘総合運動競技場。

 かつて資金が潤沢だった、遠い時代の名残。

 発展に消極的な行政が行った、数少ない大規模開発の産物、その内の一つ。

 随分前から手入れは放棄されているのだろう。

 錆びの入った鉄柵の上に、腕ごと上半身の体重を預けた。

 

「…………………………」

 

 視線の先には、栄光を掴んだランナーが一人。

 七人の同類を蹴落とし、置き去りにした勝者の姿。

 けれどそこに歓喜はなく、或いは敗者たちの中にも、悲嘆は生まれていなかった。

 異常な光景、と呼んで差支え無いのだろう。

 

 勝者には勝者の、敗者には敗者の所作がある。

 歓びと嘆き。事態の趨勢を告げる、何よりの合図。

 まばらな歓声ばかりのそれは、最早決着と呼ぶのさえ烏滸がましい。

 無価値な勝利と、無意味な敗北。闘争ですらないそれは、きっと空っぽだった。

 

「まぁ、それが目的の大会なんだけどさ」

 

 名称を、東京都春季陸上大会。

 矢鱈と仰々しい文字の羅列だが、その本質はなんてことの無い、ただの"慣らし"だ。

 一般に、陸上競技における本シーズンとは夏にある。

 体温の維持、筋収縮の速度、空気抵抗。こと陸上競技において、これほど適した季節は他にない。

 それ故に、日本ではその時節に大会が集中する事になる。

 

 …………とは言え、肝心である選手の精神面は、そう単純に作用するモノではない。

 練習と実戦。心身にかかる負担は増し、見える景色は変わる。

 "学校では出来たのに、大会では使い物になりません"では笑い話にもならない。

 だからこそ、この様な記録を至上としない────出る事に価値のある大会が生まれる。

 

「まぁ、そんなザマだから碌な集客も見込めないんだけど」

 

 第二レースは、思考の合間に終わっていた。これから開始されるのは第三レース。

 短距離走に限れば、これで佳境。

 盛り上がりの一つでも見せて良い筈が、碌に声も上がらない。

 周囲を見渡せば、赤とも青とも付かない、色褪せた座席に腰かける、まばらな影。

 収容可能人数の一パーセントにも満たない閑散だった。

 

 けれど、それも当然だ。

 この大会はつまり、野球で言う所の練習試合のようなモノで。

 選手達の内、誰一人として全力を見せることなくこの場を去る。

 盛り上がりに欠けるソレを、好き好んで見物しに来る人間がいるとすれば。

 各学園の引率の教師達か、未来の英雄を探すスカウトか、或いは────

 

「─────意外だな。君にも、古巣を想うだけの情緒があったとはね」

 

 背後から響く声と同時、パン、と乾いた合図が空気を裂いた。

 一分の遅れも無く駆けだして往く選手達。

 数秒の後に加速しきっている筈の人体は、けれど七割の出力で停滞した。

 間延びしたまま終わる十数秒。

 退屈な結果に目を伏せ、背後の声へと思考を切り替える。

 

 振り向いた先に居たのは、明るい色の髪を携えた少年。

 父親譲りの鋭い視線は、それだけで人の本質を見抜くような。

 眼下にいる無価値な勝者以上に、絶対者然とした立ち居振る舞い。

 一国の王女様でさえ苦言を呈するような、その在り方を。

 凡そ中学生離れしたその佇まいを、オレは知っている。

 

「…………どうしてお前がこんな場所に居るんだ、浅野」

 

 オレの問い掛けに応える事をしない、断定的な歩調。

 迷いの無い足運びは、プラスチック製の王座で停止する。

 脚を組んだ少年は、歴代最優秀と名高い、至上の生徒会長。

 支配者の血統、何者より秀でる事を望まれ、そしてそれに臨んだ男。

 椚ヶ丘学園中等部、三年A組────浅野学秀。

 それが、悠然とこちらに視線を向けた少年の名前だった。

 

「なに、生徒会長としての業務の一環さ。陸上顧問の松井先生が、体調を崩されたそうでね」

 

 おかげで臨時の引率として、競技場まで付き合う事になった、と。

 飽くまでも滔々とした口調で、面倒事だと語る浅野。

 けれど、耳に届いたのは言い草と裏腹の、自信に満ちた声色だった。

 …………だってそれは、尋常なら有り得ない筈の事だ。

 

 仮に顧問が体調を崩したとして。急遽代役を立てるとするのなら、それは教師陣から選抜される。

 並の生徒以上の権限を持つ生徒会長だとしても、抜擢はまず有り得ない。

 ならば。この男は、それを可能とするだけの能力を持っていたという事か。

 才能と努力に裏打ちされた、他者からの絶対的な信頼。

 それは支配にも近く。以って、あの理事長の箱庭さえ、喰い荒らそうとしている。

 

「そもそも、"どうして"と言うのなら、それは僕の台詞だろう。

 ────陸上部でなく、僕の様に公欠にもならない君が、どうしてここに?」

「………………………………」

 

 挑発的な視線がこちらを射抜く。

 浅野の告げた言葉の通り、オレにはこの場に立つだけの正当性が無い。

 平日の昼前、学校は直に三限を開始しようという時刻。本来、オレが居るべきはこんな場所ではない。

 彼や、背後の陸上部生徒達とは違う。オレだけが、ここへ来ることを望まれなかった。

 招待状も無しに、態々こんな場所へ足を運んだというのなら、それは。

 

「…………別に、大した理由じゃない。ただ、一度始めた事には責任が伴うからな」

 

 そう。例え、ソレを身勝手に降りた自分が居たとしても。

 結末に至るまで過程の程度は、目に焼き付けておくべきだと、そう考えただけだ。

 …………眼下の様子へと関心を移す。

 視線の先に居たのは、見知った顔ばかりだった。

 

「へぇ、それで? そんな君の目から見て、彼らはどうなんだい?」

「…………まぁ、悪くはないんじゃないか。今年は良い所まで行けるかもな」

 

 三着、二着、二着。こんな大会とは言え、好成績を取った彼らの表情は明るい。

 事実として。彼らの練度は去年の夏に比べ大幅に上がっている。

 スタートの反応、加速時の癖の矯正、どれを取ったとして、比べるまでもなく。

 アレならば、関東大会出場も夢物語にはならないだろう。

 

 浅野の語ったような、未練や懐古の情なんてモノは、微塵も無い。

 既に道は分かたれた。もう二度と、彼らと交わる事は無いだろう。

 ──────そしてそれは、目の前に座した少年にも言える事で。

 

「それで。もう一度聞くが、どうしてお前はここに?」

「…………話を聞いてなかったのか? 僕は…………」

「仮に引率だとして、だ。────お前、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう。冷静に考えれば、この状況は可笑しい。

 臨時顧問としてこの場へとやって来たのなら、浅野が居るべきは舞台袖だ。

 今現在、帰り支度を整えている彼らの輪の中に居なくてはならない。

 非難の意味を込め、再度目線を元に戻す。

 浅野は尊大な態度のまま、降参の意を示すように両手を上げた。

 

「………… 一応言っておくが、僕が急遽引率に選ばれたのは本当だ。だが、頭数と遅刻欠席の把握を終わらせた時点で、僕の仕事は半分終了している」

 

 開催地が市内だったことも幸いしてか、大きな事故等は無く。

 学校に任された生徒会長としての役割は、もう十全に果たしたのだという。

 後は怪我人が出ないか見守りつつ、閉会を待つのみ。

 浅野自身、陸上は門外漢である以上、選手たちの傍にいる必要はなく。

 むしろ、集中を乱さない為にも観客席にやって来た、というのは、妥当な判断に基づいてのモノに見える。

 

「だが、そうだな。目的と言うのなら─────君とこうして話す為だ、秋野」

 

 薄ら寒い風が吹く。脳裏に浮かんだのは、蜘蛛の巣に掛かった哀れな羽虫の姿。

 オレがこの場所へと訪れる事を予見した上で、ここへ来たのだと、少年は言った。

 気色の悪い話だが、それが七面倒な雑用を引き受けた理由だったらしい。

 だとするのならば。この男が確認したい事項はたった一つだろう。

 

「────A組に、戻ってくる気はないのか」

「………………あぁ、それか。安心しろよ、そんなつもりは毛頭ない」

 

 端的に発された本題を、端的な言葉で返す。

 小さく、息を呑む声が聞こえた気がした。

 要するに、浅野が懸念した事態はただ一つ────オレが、本校舎へと舞い戻る事。

 中間考査総合七位。悲運にもあんな点数を取ってしまったものだから、余計な心労を掛けさせたらしい。

 だが、それは無用な心配だ。

 

「…………本気か? こんな機会、二度とあるかも分からないんだぞ?」

「──────ははっ。もしかして心配されてるのか、オレ。似合わない事をするなよ、浅野」

「僕は別に、笑われるような冗談を吐いたつもりはないが」

「正直言って、お前だって清々しただろ? …………足手纏いが消えた訳だからな」

 

 曰く。"虚飾の優等生"、"無力な歪み"、"望まれない不協和音"。

 白状すれば、元々からしてオレの成績はA組には相応しくない数値だったのだ。

 浅野達にはクラス平均の為、何度も勉強に付き合ってもらっていた。

 …………必然、と言うべきか。同級生から向けられる視線は、侮蔑の一言に尽きた。

 そこでトドメとばかりに──────()()()()()を起こした。

 

「オレは賭けに負けたんだ。未来を投げ打った博打、オレはソレに負けたんだよ」

「巫山戯るな、君ならその程度挽回できる。少なくとも、本校舎に戻る程度なら…………」

「違うな。…………分かるだろ、E組に居ようが本校舎に居ようが、居心地の悪さは変わらない」

 

 去年の末にオレが引き起こした、"とある事案"。

 A組の一部と、陸上部。一定以上の権限を持つ学校運営者のみに周知を留められた、"ある一件"。

 奇跡的にも学園内で秘匿処理できたモノだが、それが残した禍根は大きすぎた。

 E組に在籍することによって受ける差別と、A組に戻る事で受けるであろう誹り。

 それらは完全に等価であり、故に。本校舎に戻る必要なんて欠片も無いのだと、乾いた笑いを零す。

 

「そもそもさ。オレの復帰なんて、あの理事長が許さないだろ。それとも、お前がどうにかしてくれるのか?」

「──────、ッ」

「…………冗談だ、睨むなよ」

 

 あの一件があった後では、最早真っ当な形での復帰は見込めないだろう。

 なにせ、今のオレの行動の責任を受容できる教師など、最早学園には存在しない。

 …………仮にそうでなかったとしても、あの神性を放って置く事などできないし。

 どちらにせよ、オレは地球が滅ぶその日まで、あそこに通う事になる。

 

「これで話は終わりか? それなら────」

 

 これきりだ、と。言い切るよりも早く歩み始める。

 向かう先は競技場の外、ひいては、オレの居るべき山奥の旧校舎。

 見るべきものは充分に見た。ならば、望まれなかった男は去るのみ。

 暑さを増し、一層消耗しやすくなったであろう通学路に、辟易とした感情を抱いた所で。

 

「…………いいのか。このままだと、君は来年、椚ヶ丘を抜ける事になる」

 

 無意味な警告が、虚しく響いた。

 嘲笑を噛み殺す。だってそれは、既に正しく認識した現実だ。

 とうの昔、あの日に掌から零れ落ちた全て。喪ってしまった大切なモノ。

 或いは端から、この身は────空っぽだ。

 

「知った口を利くなよ、他人。…………とっくに終わった話だろ、これは」

 

 踵を返す。そうして、今度こそオレは競技場を後にした。

 

 ◇◇◇

 

 初めにあの少年と顔を合わせたのはいつの事だったか。

 第一印象は、実力主義という概念に生命が宿ったのかと錯覚した所から。

 標準的な背丈と、それに見合わない、攻撃的でさえある存在感。

 齢十余歳の少年が持っていて然るべき幼さを、彼はどこかへ捨て去っていた。

 まるで異質、常人には持ちえない英気と才覚を併せ持った、天性の少年。

 ────それが。

 

「浅野学秀。理事長の一人息子、現生徒会長…………ですか」

「付け加えるのなら、三年A組の指導者でもあるな」

 

 競技場で秋野と言葉を交わした少年の素性らしかった。

 秋野は充分に説明が伝わった事に満足したように頷き、口を噤んだ。

 あれから十分ほど経過して。彼女は得られた情報を少しずつ噛み砕いていた。

 聞かされたのは、橙色の髪を携えた少年について。

 曰く、彼がE組に移籍させられるまでに親交のあった、数少ない生徒なのだと言う。

 …………だが。彼女にはそれが、妙な話に聞こえた。

 

「では、浅野さんにあのような態度を取ったのは、何故なのですか?」

 

 交流のあった間柄と言う割に、彼の言動の端々には棘があった。

 それは、感情の機微に貪欲になった彼女にすれば、見過ごすことのできない未知。

 彼女の知り得なかった感情の色は、気に留めるには十分な理由で。

 事実。"協調"とも"利用"とも違う、翳りを含んだ対人関係が、両者の間には存在した。

 

「大した理由じゃない。…………そもそも、そんな態度取ってたか、オレ?」

 

 白々しい夏風が吹く。きっと、先程よりも幾分の温度を増して。

 大岩の上から遠く、目の眩むような積乱雲に白い光が乱反射した。

 目を細め、沈黙を保つ少年。瞳に浮かんだ感情を読み解くだけの情緒は、未だ無く。 

 彼女は演算の通りに、もう一度言葉を紡ぐ────今度は一層、核心に迫る言葉を。

  

「…………秋野さんは、彼が嫌いなのですか?」

 

 言ってから、彼女にはその言葉が正しいモノなのか、分からなくなっていた。

 確かに、競技場での彼の態度には、浅野学秀に対する悪感情が垣間見えた。

 けれど。先ほど彼女に浅野について語った際の言葉選びは、まるで真逆。

 友好か、信頼か。他者を語る事をしない少年が、手放しに近い賞賛を贈っている。

 矛盾に近い在り方は、有りもしない眩暈を覚えるほど倒錯的でさえあって。

 

 単純な嫌悪とは違う、どこか複雑な感情に、少女は初めて触れたのだ。

 

 対する少年に応じる声は無く、無言のままに大岩を飛び降りた。

 衝撃を忘れていた骨子が、痛覚を伴って軋みを上げる。

 少女の端末を携えた左腕から覗くのは、感情を排した表情のみ。

 冷たくなった血液の巡りと、倒れ伏したくなる衝動を意識的に無視すれば、浮かぶ言葉は一つだけ。

 自覚はあれど、口に出すのは躊躇う一言。

 認めたくない現実ごと噛み砕くように、少年は言葉を吐き捨てた。

 

「──────別に。単純に、オレと浅野は相容れないってだけだ」

 

 熱を増していく白昼。急かされる様に、少年は通学路を再び辿る。

 踏み均された土を踏む脚は、それこそ鉛のように重みを増して。

 頭上に浮かんだ恒星は、そんな物を気にも留めずに気温を上昇させていく。

 真夏にはまだ早い、水無月の今日。浮かび上がる、青ざめた空の下。

 熱異常を起こす電子回路。よせばいいのに、彼女は問い続ける。

 

「しかし、お二人は元々同じクラスだった筈。…………お友達、だったのでは?」

 

 縋るような言葉。演算よりも先に、声を上げていた。

 その理由は目下不明、けれど、そう的外れな質問でもないと、彼女は直感した。

 だって、そうだ。二年間もの間、同じ教室で、同じ体験を共有し続けた二人。

 それは友情を象るには充分な下地であって、事実、彼らの間には、妙な気安さがあった。

 ────けれど、少年は彼女の言葉を切って捨てるように。

 

「それは違う。…………律、友情の成立条件を知っているか?」

「友情の成立条件、ですか?」

「これは飽くまでも持論だがな────」

 

 共に過ごした時間の長短などは関係がない、と彼は言う。

 人種や性別、社会的身分の違いなんてモノさえ、些末な問題だとも。

 それらは飽くまでも環境要素であり、主体的な要因にはなり得ない。

 友人を得る際に重要な事は一つだけ──────ただ、対等である事のみ。

 勉学の実力、社会的地位、身体的能力。それらがどれ程劣っていたとして、精神的には対等である事。

 見下ろすことも無く、見上げることも無い感情を、人は唯一友情と呼ぶ。

 

「…………その点で言って、オレとアイツは最悪だ」

 

 万能の天才とさえ称された彼は、常人とは異なった精神構造を基に、一つの哲学を得た。

 曰く────人間は支配するモノであり、支配されるモノである、と。

 絶対的な支配者たれと育てられた少年が唯一信じた矜持。

 それが、浅野学秀という人格に運命づけられた人間関係の本質。

 対等なんて夢物語は望むべくもない、天涯の孤独。

 そこに間違いはないが故。彼の世界に、"対等"の概念は存在しない。

 

 ──────そして、なによりも。オレの精神が、友情を否定している。

 

 とある時代、とある場所に、ある二人の少年が居合わせた。

 …………一人は天賦の才を以って、遍くすべてを掴み取った。

 …………独りは己の弱さが為に、自身の愛した総てを喪った。

 泥に塗れた身体を顧みて、少年は有り得ない未来へ、思いを馳せる。

 もしも自分に、彼のような才覚が、強さがあったなら。取り零した全てを、救えたのではないかと。

 持ち得ぬモノに対する、嫉妬を伴った羨望。網膜を焼いた感情は、対等などとは程遠く。

 

 並び立つ者を求めない少年と、それに叶わない願いを垣間見た泥人形。

 醜悪な劣等感は、必然に────友情の芽生えを、許しはしなかった。

 

「終局的に、オレ達は相容れない。…………価値観の相違だな」

 

 為すべき会話は終わったとばかりに、彼はそれきり声を発することを止めた。

 足早に土を踏み鳴らす音と、浅い呼吸を繰り返す少年の息遣いのみが残る。

 変わり映えを見せない山中の風景は、或いは永劫続くかのように。

 会話の途絶えた空間。次第に音が意義を失っていく空間で、一人。

 ────声なき自問自答を繰り返す少女がいた。

 

 議題は、目下。彼の紡いだ言葉の真偽について。

 

 浅野学秀は対等な他者を必要としない孤高である、と少年は言った。

 彼の声色に嘘は無かった。だが、それが現実に即しているとは限らない。

 無機質な生命である彼女にも、彼らの描く人間模様が単純でない事ぐらいは理解できる。

 複雑怪奇なヒトの在り様。それを、片方の言葉だけで知った気になる程、彼女は愚かではない。

 何よりも、あの時。競技場にて、"A組に戻る気が無い"と告げられた浅野学秀の表情は。

 星が墜ちた瞬間にも似て。凡そ見下ろす側のソレではない、むしろ逆さの────。

 

 しかしどうあれ、対話の時間はとうに終わりを告げていた。

 電子の溜息を吐けば、変な所が少年に似たかと、意味の無い苦笑を零す。

 ともあれ。重たい沈黙を孕んだ道のりは終わりを告げる。

 音が自身の意義を取り戻した場所、椚ヶ丘学園旧校舎。

 

「ふぅ……ようやく着いた、けど、誰もいない…………?」

「そのようですね。殺せんせーや烏間先生も見当たりません」

 

 擦りガラスの向こう、旧校舎内に人影が見受けられない。

 しかし絶え間なく声が届くことから、恐らくは校庭の方に集まっているのだろう。

 現在時刻は昼休みも半ば。そう珍しい事でもないか、と自身を納得させ、移動する。

 俄かに好奇心を浮かべる秋野を横目に、律は校内の本体とのバックアップ(情報交換)を行うことにした。

 

「………………あぁ、なるほど」

 

 一足早い納得が、声になって零れ落ちる。 

 呆れにも近い感情を乗せた彼女の声に対して、秋野が反応を示すより早いか。

 旧校舎を横切り、少年の視界が一気に開けた瞬間。目に飛び込んできた景色は────

 

「皆さん!! もっとォ!! 熱くなりましょうよォォ!!!」

 

 なんか、楽しそうにちゃぶ台返しをしてる神話生物がいた。

 

 ◇◇◇

 

 椚ヶ丘学園クラス対抗球技大会。

 男子は野球、女子はバスケットボールと、競技を分けて行われるトーナメント戦。

 全三試合、健全な心身を養う為に用意された、小規模なイベント。

 クラスの結束を固め、より高みへ上り詰める事を期待される場所。

 …………尤も、エンドのE組にその席は用意されず。

 代わりに設けられたのは、"エキシビション"を名取った処刑場だった。

 

 当然ではあるが、球技大会に参加する生徒の大部分が素人である。

 ならば、各部活の経験者達の参加は、その人数比によって試合を決める事態になりかねない。

 それを望ましいと思う人間は居らず。彼らの不参加は必然であった。

 だが、折角の舞台。そのまま放置すれば、部内の士気を低下させかねない。

 故に用意された、エキシビションマッチ。

 E組を利用した、彼らの欲求不満を解消させるための絞首台。 

 ────それが一週間前に迫っている、現在。

 

「なるほど、だから皆で野球の練習をしてた、と」

『ええ。先生、スポコン物の熱血コーチにちょっと憧れてまして』

 

 倫理的/契約的にも、生徒への危害は加えられない為、ちゃぶ台返しで代用した、と。

 先程目にした奇妙な光景の正体は、つまりそういうことだったらしい。

 校庭から少し外れた場所、一本杉の影の下。

 与えられた情報を噛み砕き、殺せんせーの分身と共に、練習に励む彼らを眺める。

 爽やかに汗を流す少年達。平凡な青春の一幕にも思えるが、しかし。

 

殺先発投手(ころピッチャー)は時速三百キロの球を投げる────!』

 

 周囲に響き渡る、痛烈なミット音。

 鞣された革が悲鳴を上げる様は、豪速球の威力が如何ほどかを物語っている。

 一般に、投球に用いる関節は五つ。腰、肩、肘、手首、そして指先。

 それらを順に加速させていく事で、白球は炎を纏うに至る。

 

 …………ならば、それらを増加すれば、どうなるか。

 一つ増えれば、現代野球のルールが変わる。二つ増やせば、野球の概念そのものが崩れる。

 そしていつしか、それが無限に等しい数になったなら、その姿はきっと、軟体生物に近い。

 可笑しな話ではあるが。関節を持たない生物は、無限の関節を持っているに等しいのだ。

 まして、神格ならば。分身しながらと言えど、この程度は造作も無いのだろう。

 

 なるほど、確かに。アレを相手に慣れる事が出来たならば────。

 

「…………野球部相手にも、善戦は出来るかもしれませんね」

 

 それは、残酷かつ現実的な戦況分析だった。

 時速三百キロの速球は、確かに驚異的と言って良い。だが、なにも殺せんせーが出場する訳でも無し。

 あの球に眼を慣れさせられたならば、中学生のソレなど止まって見えるに違いないが、それだけ。

 たかがその程度で勝負に勝てるのならば、苦労はしない。

 

 見切ることが出来たとして、肉体がそれに追いつかなければ意味が無く。

 如何に暗殺の訓練をした人間であっても、人間の身体はそれほど単純ではない。

 呼吸の乱れ、意識の淀み、指先の震えに至るまで。

 それら一切を掃いて捨てる事が、現代スポーツにおける始発点。

 即ち人体の機械化────それには、莫大な時間を注ぎ込む必要がある。

 

 まして相手は、全国大会にあと一歩まで迫ったという精鋭集団。

 野球に費やした時間は、比べるまでも無く。付け焼刃で敵う相手ではない。

 だからこれは、そんな彼らに対しても、負け方は選べるようにする為の──────

 

『いいえ。誰一人、負けるつもりで取り組んでる人はいませんよ』

「………………は」

 

 零れ落ちた困惑の声と共に、もう一度彼らに目を向ける。

 ────そして、有り得ないモノを見た。

 彼らが挑む相手は、才能が違う、地力が違う、次元が違う。

 けれど、彼の者が語った言葉の真偽を、確かめるまでも無く。

 真実、彼らの瞳に一点の翳りも無く、勝利への渇望に、ありありと満ちて。

 勝てる筈の無い戦い。それでも彼らは、決して覆らない天秤を覆すための刃を研いでいた。

 

『勝ちたい、殺りたい。その心が、彼らを突き動かしているんです』

 

 そして、鍛錬の風景が先程と微塵も変わっていない事に気が付いた。

 …………事ここに至って、漸く理解できたことだが。彼らの練習は、防御を捨てている。

 守備としての練習をしているのは、少し離れた位置の投手と捕手のみ。

 一見にして勝負を捨てた行動。けれど、それは違う。

 

(ころ)内野手は鉄壁の布陣を敷く!!』

 

 勝ちたいというのなら、守備を捨てるのは英断でさえある。

 多くのスポーツにおいて、最も練習量の差が表れるのは防御に他ならない。

 最低でも二年間、野球に触れてきた人間に勝ち目はない。

 そも、野球は如何に相手よりも点を奪うかのゲーム。

 ────勝利を目指すのならば。可処分時間の全てを攻撃に振るのが、最も勝算が高い。

 

 なにも、すべての要素で勝つ必要はないのだと、彼の者は言う。

 強い他者と、弱い自分。力量の差を見切り、尚も前を向いて。

 弱いままに強さを得て、油断した強者の喉元に一刺しを。

 たった一度きりの勝利を手繰り寄せるのが、暗殺者なのだと。

 …………その言葉に、自分がどんな感情を抱いたか、分からないまま。

 

『さて。次の打者は君です、頑張ってくださいね』

「………………はい」

 

 制服から着替える事無く、陽の当たるダイヤモンドへと足を延ばす。

 差し出された金属バットの重みに、指先から眩暈が走る。

 ────記憶の中にあった構えを取れば、眼前の神格も同様に。

 僅かの後に放たれるであろう速球。幻視したのは、赤く吹き飛ぶ己の脳漿。

 遅ればせながら、こんな場に立ってしまったことを後悔した。

 けれど、恐ろしい筈の現実にさえ、霞がかかるように。

 脳内を廻ったのは、忍びない雑念────オレを現実へと引き戻した、引き金は。

 

殺正捕手(ころキャッチャー)は囁き戦術で集中を乱す!!』

「は…………?」

 

 瞬間的な忘我。現実に戻るまでの、僅かなホワイトアウト。

 目に映ったのは残像のみ。秒速八十五メートルの白球の軌跡だけ。

 …………冷や汗が一滴、身震いと共に零れ落ちる。

 自身の立っている場所が何処かを思い出す。今はただ、集中し直さなければ────

 

『秋野君。この前の金曜日…………小学生を相手に、赤い薔薇…………!』

「──────死ねェ!!!」

『ちょッ…………!?』

 

 赤面と同時。全力でバットを振った、殺せんせーの頭めがけて。

 響く快音と、宙空を舞った金属バット。

 脳内を満たした言葉は、些細な一言。

 ────勝ちたい、か。

 衝撃に痺れた両腕よりも、その光景が、どうしてか目に焼き付いていた。

 

 ◇◇◇

 

 陽もとっぷりと落ちた、放課後の事。

 闇に溶けそうな影が二つ。それは、怪物と非人間の会話。

 知る者は、どこにもいない。

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