Q.一般探索者が黄色い触手を見た場合の反応を述べよ 作:お前の母ちゃんシュブ=ニグラス~!
──────遠く。聞きなれた鐘の音が鼓膜を揺らした。
心だけが連れ攫われてしまいそうな、優しい風が肌を撫でる。
身体を弛緩させる、初夏の空気。木々に溢れた山道は、意外な程に涼しかった。
気の抜けるような感触と共に、ぼんやりと息を吸う。
熱を帯びた空気が肺を循環して、そしていつしか出ていった。
…………嘆息から来る物ではない、ただ、ゆったりとした呼吸だった。
「────、」
現在地は椚ヶ丘学園の有する裏山、その七合目に位置する大岩の上。
見慣れた通学路とも三ヶ月近い付き合いになるが、相変わらず一息の踏破は難しく。
疲労を口実に横になれば、いつの間にか、四限の終わりを告げる鐘が耳に届いていた。
自分を害する者のいない空間、身を守る必要のない時間。
揺り籠の中にも似た孤独が、少しだけ心を透明にしてくれる。
──────別段と、隠していたつもりも無いが。
告白するのなら。この手の無為で穏やかな時間というモノを、自分はそれなりに気に入っている。
蓋をした筈の瞼の裏に焼き付いた、淡く蒼い光の色。
交互に身体を包み込んだ、冷気と暖気。
蕩けて消えてしまいそうな、曖昧に変わる時間感覚。
たかが一過性の、簡単に褪せてしまう今日という記憶の錬成。
それらは紛れも無い人生の浪費で、唾棄すべき無駄に他ならない。
だがどうにも、オレはそれを嫌いにはなれなかった。
例えそれが、体力が尽きた故の気絶に近かろうとも。
寝心地なんて半ば最悪に近い、ごつごつとした大岩の上だったとしても。
…………ほんの一瞬でも、眩暈のするような現実を忘れられる気がしたから。
こうして、意味もなく流れる時間というモノを、オレは堪らなく愛していた。
「──────」
尤も。それは一過性の現実逃避にしか過ぎない、仮初の麻酔。
夢裏から目覚めるように、重さを伴った瞼を開く。
ぼやけた輪郭を擁する視界。その殆どは、幾分か前の景色と変わらない。
風に揺れる緑色の葉、冴え冴えとして止まない青空、存在感を増し始めた積乱雲。
変化があったとすれば、たった一つ。────視界の端に座る、貫かれた白月のみ。
…………なんというか。
現実とは容赦のないモノである、とは言うが。
とりわけ、逃避の後などはより一層酷く映るモノらしい、と心中でごちる。
大岩に全ての体重を預けてから、実に三十分もの時間を使い潰した現在。
螺旋を描くように脳内を廻る考え事は、たった一つ。
────未だ記憶に新しい、あの二つの異常存在について。
あの日。雨中の邂逅から、既に一週間が経過しようとしていた。
オレが目にしたモノは、言葉を交わしたヒトガタは、決して夢などではなく。
悍ましい触手を手にした少年と、白装束に身を包む巫山戯た男。
アレらは放置するには危険すぎる。それ故に、暇を見つけては情報を漁っているのだが。
…………これといった成果は、得られないでいるのが現状だった。
軽い聞き込みや、潜伏が可能な場所の調査にも赴いたが、不自然な程に情報が見当たらない。
恐らくは情報操作に長けた存在────ヴィクターの仕業だろう。
代わりに手に入った情報と言えば、"空飛ぶ黄色いタコ"だの、"コンビニスイーツを買い占める黒ずくめの男"だの。
凡そ国家機密の行動とは思えない、頭の痛くなるような話ばかり。
今もって疑問は尽きる事を知らないが、しかし。
オレに分かった事は一つだけ。…………奴らが今、椚ヶ丘には居ないという事実だけだった。
…………頭が痛くなってくる。
軋む頭蓋、目蓋の裏に映ったのは、喧々諤々としたクラスメイト達。
"霧"の展開が遅れ、あまつさえ維持にも失敗し、あんな無様を晒した。
彼らにすれば、暴走を始めたイトナにオレが対峙したと思えば、イトナが倒れていたのだ。
困惑は当然に。ともすれば、オレに事態の説明を求めるのは至極真っ当な事だ。
しかし、如何に道理が通っていようと語る事の出来ないモノはある。
彼らへの説明は、"イトナの様子がヤバそうだったから説得に入った"という事にした。
アイツが倒れたのは大暴れした反動、謂わば自滅だろう、とも。
皆、怪訝そうな顔をしていたが、それ以上の妥当な理由があるでも無し。
まさか人間の身で触手に敵う訳も無いと、最終的には納得して貰えた。
だが、必要な行動だったとはいえ、アレは流石に悪目立ちし過ぎた。
中間考査以降鳴りを潜めていたつもりだったが、完全に目を付けられたと見るべきだろう。
今後の身の振り方に、魘されるように頭を悩ませる。
…………不意に。人影のない空間で、鼓膜が揺れた。
「──────秋野さん。まだ、眠っていらっしゃいますか?」
風に溶けてしまいそうな、けれど凛とした声が彼の頬を掠めた。
暗い水底へと沈みかけていた意識が、水面へと浮上していくような感覚。
零れ落ちそうになる欠伸を噛み殺し、乾き切った喉を鳴らす。
声の主は誰か、など知れた事。態々名前を思い浮かべることも無く。
「…………いや。どうかしたか、律」
穏やかに応えた声色は、それこそ眠りに落ちる前のように。
けれど確かな言葉と共に、熱を帯びた声を零す。
周辺十メートル四方に、オレ以外の人間は存在しない。音を発したのは、掌サイズの精密機器。
現代科学の結晶、救世の唯一兵器。自律思考固定砲台────律の声だった。
「一つ。聞きたいことがあるのですが、いいでしょうか?」
彼女の声に対する回答は無言。されど、沈黙は肯定の意を示していた。
硬い響きを孕んだ言葉とは裏腹に、そこに深刻さは無かった。
特別な事の無い日常会話。ともすれば、その内容にも予想は立てられる。
恐らく、今日の場合は。
「────先ほど、競技場でお話しされていた男子生徒について」
想像通りの質問に、苦笑さえ漏れる事はなく。
知らず、脳漿は過去への回帰を試みていた。
頭上に浮かぶ恒星が、熱を弱めながら傾く錯覚。
心は既に、ここではない何処か────僅か数時間前、自分勝手に破り捨てた夢の跡へ。
「…………あぁ、アイツは………………」
支配者然とした少年の名を語れば、現実は容易く溶けて消えた。
◇◇◇
────星の終わりにも似た、熱世界だった。
有象無象の声が、灼熱の雨へと変貌して降り注ぐ。
橙色に染まる合成樹脂、そこに焦げ付く靴跡のみが存在証明。
きっとそこは、熱された鉄板の上に近い。
燃えるような歓声に、陽炎が揺蕩っている。
僅か、脳漿を溶かす夏の匂いが頬を撫でる。
未だ終わりを見せない水無月の日々。
けれど、在りもしない蝉達の喘鳴が、鼓膜を貫いて止まない。
遠い回帰は、それこそ眼前に広がった青空を仰ぐように。
降り注ぐ白い熱視線と、それを乱反射する積乱雲。
息苦しささえ覚えた、瞬きの間に消える楽園。
胸の奥で疼くのは恐怖と高揚、なんて。まるで矛盾。
視界を染める眩暈の奥で、少年は己の何たるかを思い出す。
窮屈に形を取り戻す身体。肉体の駆動音。己に
──────Set.
今は遥か、音も遠く。熱はそのままに、世界から彩が絶える。
逸るように巡った、一秒前までの遍く景色。
走馬灯にも似たソレさえも置き去りに、橙色の荒野に立つ。
目指すは一点。瞳に映ったのは仮想の斜陽、その水平。
精緻な機器と化した心臓が、正確な瞬間を刻む。
僅か五度。早鐘を打った血脈の音同時に、乾いた銃声が世界を揺らす。
────── 瞬時にして。少年の身体は風へと生まれ変わる。
◇◇◇
「……………………」
いつの間にか閉ざしていた瞼を持ち上げる。
忘却の彼方にあった記憶の再生を停止すると同時。
鼓膜を揺らしたのは、脳裏に焼き付いたソレよりも、幾分褪せた応援だった。
駆け抜けている筈の音は、鉄を撃つように重く。
陸上トラックが、焼き付くだけの熱を持たず、火種のまま燻っている。
夏も近いというのに、吐き出す息が白くなる錯覚。
…………それを、哀れと思うと同時。先頭を走駆した少年が勝利を告げた。
「一着は月光館か…………まぁ、妥当だな」
六月も後半、梅雨明け宣言がニュースに流れてより暫く。
現在、平日の午前十時を過ぎた頃。
上昇する気温に置いて行かれた場所で、独り言を呟いた。
──────椚ヶ丘総合運動競技場。
かつて資金が潤沢だった、遠い時代の名残。
発展に消極的な行政が行った、数少ない大規模開発の産物、その内の一つ。
随分前から手入れは放棄されているのだろう。
錆びの入った鉄柵の上に、腕ごと上半身の体重を預けた。
「…………………………」
視線の先には、栄光を掴んだランナーが一人。
七人の同類を蹴落とし、置き去りにした勝者の姿。
けれどそこに歓喜はなく、或いは敗者たちの中にも、悲嘆は生まれていなかった。
異常な光景、と呼んで差支え無いのだろう。
勝者には勝者の、敗者には敗者の所作がある。
歓びと嘆き。事態の趨勢を告げる、何よりの合図。
まばらな歓声ばかりのそれは、最早決着と呼ぶのさえ烏滸がましい。
無価値な勝利と、無意味な敗北。闘争ですらないそれは、きっと空っぽだった。
「まぁ、それが目的の大会なんだけどさ」
名称を、東京都春季陸上大会。
矢鱈と仰々しい文字の羅列だが、その本質はなんてことの無い、ただの"慣らし"だ。
一般に、陸上競技における本シーズンとは夏にある。
体温の維持、筋収縮の速度、空気抵抗。こと陸上競技において、これほど適した季節は他にない。
それ故に、日本ではその時節に大会が集中する事になる。
…………とは言え、肝心である選手の精神面は、そう単純に作用するモノではない。
練習と実戦。心身にかかる負担は増し、見える景色は変わる。
"学校では出来たのに、大会では使い物になりません"では笑い話にもならない。
だからこそ、この様な記録を至上としない────出る事に価値のある大会が生まれる。
「まぁ、そんなザマだから碌な集客も見込めないんだけど」
第二レースは、思考の合間に終わっていた。これから開始されるのは第三レース。
短距離走に限れば、これで佳境。
盛り上がりの一つでも見せて良い筈が、碌に声も上がらない。
周囲を見渡せば、赤とも青とも付かない、色褪せた座席に腰かける、まばらな影。
収容可能人数の一パーセントにも満たない閑散だった。
けれど、それも当然だ。
この大会はつまり、野球で言う所の練習試合のようなモノで。
選手達の内、誰一人として全力を見せることなくこの場を去る。
盛り上がりに欠けるソレを、好き好んで見物しに来る人間がいるとすれば。
各学園の引率の教師達か、未来の英雄を探すスカウトか、或いは────
「─────意外だな。君にも、古巣を想うだけの情緒があったとはね」
背後から響く声と同時、パン、と乾いた合図が空気を裂いた。
一分の遅れも無く駆けだして往く選手達。
数秒の後に加速しきっている筈の人体は、けれど七割の出力で停滞した。
間延びしたまま終わる十数秒。
退屈な結果に目を伏せ、背後の声へと思考を切り替える。
振り向いた先に居たのは、明るい色の髪を携えた少年。
父親譲りの鋭い視線は、それだけで人の本質を見抜くような。
眼下にいる無価値な勝者以上に、絶対者然とした立ち居振る舞い。
一国の王女様でさえ苦言を呈するような、その在り方を。
凡そ中学生離れしたその佇まいを、オレは知っている。
「…………どうしてお前がこんな場所に居るんだ、浅野」
オレの問い掛けに応える事をしない、断定的な歩調。
迷いの無い足運びは、プラスチック製の王座で停止する。
脚を組んだ少年は、歴代最優秀と名高い、至上の生徒会長。
支配者の血統、何者より秀でる事を望まれ、そしてそれに臨んだ男。
椚ヶ丘学園中等部、三年A組────浅野学秀。
それが、悠然とこちらに視線を向けた少年の名前だった。
「なに、生徒会長としての業務の一環さ。陸上顧問の松井先生が、体調を崩されたそうでね」
おかげで臨時の引率として、競技場まで付き合う事になった、と。
飽くまでも滔々とした口調で、面倒事だと語る浅野。
けれど、耳に届いたのは言い草と裏腹の、自信に満ちた声色だった。
…………だってそれは、尋常なら有り得ない筈の事だ。
仮に顧問が体調を崩したとして。急遽代役を立てるとするのなら、それは教師陣から選抜される。
並の生徒以上の権限を持つ生徒会長だとしても、抜擢はまず有り得ない。
ならば。この男は、それを可能とするだけの能力を持っていたという事か。
才能と努力に裏打ちされた、他者からの絶対的な信頼。
それは支配にも近く。以って、あの理事長の箱庭さえ、喰い荒らそうとしている。
「そもそも、"どうして"と言うのなら、それは僕の台詞だろう。
────陸上部でなく、僕の様に公欠にもならない君が、どうしてここに?」
「………………………………」
挑発的な視線がこちらを射抜く。
浅野の告げた言葉の通り、オレにはこの場に立つだけの正当性が無い。
平日の昼前、学校は直に三限を開始しようという時刻。本来、オレが居るべきはこんな場所ではない。
彼や、背後の陸上部生徒達とは違う。オレだけが、ここへ来ることを望まれなかった。
招待状も無しに、態々こんな場所へ足を運んだというのなら、それは。
「…………別に、大した理由じゃない。ただ、一度始めた事には責任が伴うからな」
そう。例え、ソレを身勝手に降りた自分が居たとしても。
結末に至るまで過程の程度は、目に焼き付けておくべきだと、そう考えただけだ。
…………眼下の様子へと関心を移す。
視線の先に居たのは、見知った顔ばかりだった。
「へぇ、それで? そんな君の目から見て、彼らはどうなんだい?」
「…………まぁ、悪くはないんじゃないか。今年は良い所まで行けるかもな」
三着、二着、二着。こんな大会とは言え、好成績を取った彼らの表情は明るい。
事実として。彼らの練度は去年の夏に比べ大幅に上がっている。
スタートの反応、加速時の癖の矯正、どれを取ったとして、比べるまでもなく。
アレならば、関東大会出場も夢物語にはならないだろう。
浅野の語ったような、未練や懐古の情なんてモノは、微塵も無い。
既に道は分かたれた。もう二度と、彼らと交わる事は無いだろう。
──────そしてそれは、目の前に座した少年にも言える事で。
「それで。もう一度聞くが、どうしてお前はここに?」
「…………話を聞いてなかったのか? 僕は…………」
「仮に引率だとして、だ。────お前、
そう。冷静に考えれば、この状況は可笑しい。
臨時顧問としてこの場へとやって来たのなら、浅野が居るべきは舞台袖だ。
今現在、帰り支度を整えている彼らの輪の中に居なくてはならない。
非難の意味を込め、再度目線を元に戻す。
浅野は尊大な態度のまま、降参の意を示すように両手を上げた。
「………… 一応言っておくが、僕が急遽引率に選ばれたのは本当だ。だが、頭数と遅刻欠席の把握を終わらせた時点で、僕の仕事は半分終了している」
開催地が市内だったことも幸いしてか、大きな事故等は無く。
学校に任された生徒会長としての役割は、もう十全に果たしたのだという。
後は怪我人が出ないか見守りつつ、閉会を待つのみ。
浅野自身、陸上は門外漢である以上、選手たちの傍にいる必要はなく。
むしろ、集中を乱さない為にも観客席にやって来た、というのは、妥当な判断に基づいてのモノに見える。
「だが、そうだな。目的と言うのなら─────君とこうして話す為だ、秋野」
薄ら寒い風が吹く。脳裏に浮かんだのは、蜘蛛の巣に掛かった哀れな羽虫の姿。
オレがこの場所へと訪れる事を予見した上で、ここへ来たのだと、少年は言った。
気色の悪い話だが、それが七面倒な雑用を引き受けた理由だったらしい。
だとするのならば。この男が確認したい事項はたった一つだろう。
「────A組に、戻ってくる気はないのか」
「………………あぁ、それか。安心しろよ、そんなつもりは毛頭ない」
端的に発された本題を、端的な言葉で返す。
小さく、息を呑む声が聞こえた気がした。
要するに、浅野が懸念した事態はただ一つ────オレが、本校舎へと舞い戻る事。
中間考査総合七位。悲運にもあんな点数を取ってしまったものだから、余計な心労を掛けさせたらしい。
だが、それは無用な心配だ。
「…………本気か? こんな機会、二度とあるかも分からないんだぞ?」
「──────ははっ。もしかして心配されてるのか、オレ。似合わない事をするなよ、浅野」
「僕は別に、笑われるような冗談を吐いたつもりはないが」
「正直言って、お前だって清々しただろ? …………足手纏いが消えた訳だからな」
曰く。"虚飾の優等生"、"無力な歪み"、"望まれない不協和音"。
白状すれば、元々からしてオレの成績はA組には相応しくない数値だったのだ。
浅野達にはクラス平均の為、何度も勉強に付き合ってもらっていた。
…………必然、と言うべきか。同級生から向けられる視線は、侮蔑の一言に尽きた。
そこでトドメとばかりに──────
「オレは賭けに負けたんだ。未来を投げ打った博打、オレはソレに負けたんだよ」
「巫山戯るな、君ならその程度挽回できる。少なくとも、本校舎に戻る程度なら…………」
「違うな。…………分かるだろ、E組に居ようが本校舎に居ようが、居心地の悪さは変わらない」
去年の末にオレが引き起こした、"とある事案"。
A組の一部と、陸上部。一定以上の権限を持つ学校運営者のみに周知を留められた、"ある一件"。
奇跡的にも学園内で秘匿処理できたモノだが、それが残した禍根は大きすぎた。
E組に在籍することによって受ける差別と、A組に戻る事で受けるであろう誹り。
それらは完全に等価であり、故に。本校舎に戻る必要なんて欠片も無いのだと、乾いた笑いを零す。
「そもそもさ。オレの復帰なんて、あの理事長が許さないだろ。それとも、お前がどうにかしてくれるのか?」
「──────、ッ」
「…………冗談だ、睨むなよ」
あの一件があった後では、最早真っ当な形での復帰は見込めないだろう。
なにせ、今のオレの行動の責任を受容できる教師など、最早学園には存在しない。
…………仮にそうでなかったとしても、あの神性を放って置く事などできないし。
どちらにせよ、オレは地球が滅ぶその日まで、あそこに通う事になる。
「これで話は終わりか? それなら────」
これきりだ、と。言い切るよりも早く歩み始める。
向かう先は競技場の外、ひいては、オレの居るべき山奥の旧校舎。
見るべきものは充分に見た。ならば、望まれなかった男は去るのみ。
暑さを増し、一層消耗しやすくなったであろう通学路に、辟易とした感情を抱いた所で。
「…………いいのか。このままだと、君は来年、椚ヶ丘を抜ける事になる」
無意味な警告が、虚しく響いた。
嘲笑を噛み殺す。だってそれは、既に正しく認識した現実だ。
とうの昔、あの日に掌から零れ落ちた全て。喪ってしまった大切なモノ。
或いは端から、この身は────空っぽだ。
「知った口を利くなよ、他人。…………とっくに終わった話だろ、これは」
踵を返す。そうして、今度こそオレは競技場を後にした。
◇◇◇
初めにあの少年と顔を合わせたのはいつの事だったか。
第一印象は、実力主義という概念に生命が宿ったのかと錯覚した所から。
標準的な背丈と、それに見合わない、攻撃的でさえある存在感。
齢十余歳の少年が持っていて然るべき幼さを、彼はどこかへ捨て去っていた。
まるで異質、常人には持ちえない英気と才覚を併せ持った、天性の少年。
────それが。
「浅野学秀。理事長の一人息子、現生徒会長…………ですか」
「付け加えるのなら、三年A組の指導者でもあるな」
競技場で秋野と言葉を交わした少年の素性らしかった。
秋野は充分に説明が伝わった事に満足したように頷き、口を噤んだ。
あれから十分ほど経過して。彼女は得られた情報を少しずつ噛み砕いていた。
聞かされたのは、橙色の髪を携えた少年について。
曰く、彼がE組に移籍させられるまでに親交のあった、数少ない生徒なのだと言う。
…………だが。彼女にはそれが、妙な話に聞こえた。
「では、浅野さんにあのような態度を取ったのは、何故なのですか?」
交流のあった間柄と言う割に、彼の言動の端々には棘があった。
それは、感情の機微に貪欲になった彼女にすれば、見過ごすことのできない未知。
彼女の知り得なかった感情の色は、気に留めるには十分な理由で。
事実。"協調"とも"利用"とも違う、翳りを含んだ対人関係が、両者の間には存在した。
「大した理由じゃない。…………そもそも、そんな態度取ってたか、オレ?」
白々しい夏風が吹く。きっと、先程よりも幾分の温度を増して。
大岩の上から遠く、目の眩むような積乱雲に白い光が乱反射した。
目を細め、沈黙を保つ少年。瞳に浮かんだ感情を読み解くだけの情緒は、未だ無く。
彼女は演算の通りに、もう一度言葉を紡ぐ────今度は一層、核心に迫る言葉を。
「…………秋野さんは、彼が嫌いなのですか?」
言ってから、彼女にはその言葉が正しいモノなのか、分からなくなっていた。
確かに、競技場での彼の態度には、浅野学秀に対する悪感情が垣間見えた。
けれど。先ほど彼女に浅野について語った際の言葉選びは、まるで真逆。
友好か、信頼か。他者を語る事をしない少年が、手放しに近い賞賛を贈っている。
矛盾に近い在り方は、有りもしない眩暈を覚えるほど倒錯的でさえあって。
単純な嫌悪とは違う、どこか複雑な感情に、少女は初めて触れたのだ。
対する少年に応じる声は無く、無言のままに大岩を飛び降りた。
衝撃を忘れていた骨子が、痛覚を伴って軋みを上げる。
少女の端末を携えた左腕から覗くのは、感情を排した表情のみ。
冷たくなった血液の巡りと、倒れ伏したくなる衝動を意識的に無視すれば、浮かぶ言葉は一つだけ。
自覚はあれど、口に出すのは躊躇う一言。
認めたくない現実ごと噛み砕くように、少年は言葉を吐き捨てた。
「──────別に。単純に、オレと浅野は相容れないってだけだ」
熱を増していく白昼。急かされる様に、少年は通学路を再び辿る。
踏み均された土を踏む脚は、それこそ鉛のように重みを増して。
頭上に浮かんだ恒星は、そんな物を気にも留めずに気温を上昇させていく。
真夏にはまだ早い、水無月の今日。浮かび上がる、青ざめた空の下。
熱異常を起こす電子回路。よせばいいのに、彼女は問い続ける。
「しかし、お二人は元々同じクラスだった筈。…………お友達、だったのでは?」
縋るような言葉。演算よりも先に、声を上げていた。
その理由は目下不明、けれど、そう的外れな質問でもないと、彼女は直感した。
だって、そうだ。二年間もの間、同じ教室で、同じ体験を共有し続けた二人。
それは友情を象るには充分な下地であって、事実、彼らの間には、妙な気安さがあった。
────けれど、少年は彼女の言葉を切って捨てるように。
「それは違う。…………律、友情の成立条件を知っているか?」
「友情の成立条件、ですか?」
「これは飽くまでも持論だがな────」
共に過ごした時間の長短などは関係がない、と彼は言う。
人種や性別、社会的身分の違いなんてモノさえ、些末な問題だとも。
それらは飽くまでも環境要素であり、主体的な要因にはなり得ない。
友人を得る際に重要な事は一つだけ──────ただ、対等である事のみ。
勉学の実力、社会的地位、身体的能力。それらがどれ程劣っていたとして、精神的には対等である事。
見下ろすことも無く、見上げることも無い感情を、人は唯一友情と呼ぶ。
「…………その点で言って、オレとアイツは最悪だ」
万能の天才とさえ称された彼は、常人とは異なった精神構造を基に、一つの哲学を得た。
曰く────人間は支配するモノであり、支配されるモノである、と。
絶対的な支配者たれと育てられた少年が唯一信じた矜持。
それが、浅野学秀という人格に運命づけられた人間関係の本質。
対等なんて夢物語は望むべくもない、天涯の孤独。
そこに間違いはないが故。彼の世界に、"対等"の概念は存在しない。
──────そして、なによりも。オレの精神が、友情を否定している。
とある時代、とある場所に、ある二人の少年が居合わせた。
…………一人は天賦の才を以って、遍くすべてを掴み取った。
…………独りは己の弱さが為に、自身の愛した総てを喪った。
泥に塗れた身体を顧みて、少年は有り得ない未来へ、思いを馳せる。
もしも自分に、彼のような才覚が、強さがあったなら。取り零した全てを、救えたのではないかと。
持ち得ぬモノに対する、嫉妬を伴った羨望。網膜を焼いた感情は、対等などとは程遠く。
並び立つ者を求めない少年と、それに叶わない願いを垣間見た泥人形。
醜悪な劣等感は、必然に────友情の芽生えを、許しはしなかった。
「終局的に、オレ達は相容れない。…………価値観の相違だな」
為すべき会話は終わったとばかりに、彼はそれきり声を発することを止めた。
足早に土を踏み鳴らす音と、浅い呼吸を繰り返す少年の息遣いのみが残る。
変わり映えを見せない山中の風景は、或いは永劫続くかのように。
会話の途絶えた空間。次第に音が意義を失っていく空間で、一人。
────声なき自問自答を繰り返す少女がいた。
議題は、目下。彼の紡いだ言葉の真偽について。
浅野学秀は対等な他者を必要としない孤高である、と少年は言った。
彼の声色に嘘は無かった。だが、それが現実に即しているとは限らない。
無機質な生命である彼女にも、彼らの描く人間模様が単純でない事ぐらいは理解できる。
複雑怪奇なヒトの在り様。それを、片方の言葉だけで知った気になる程、彼女は愚かではない。
何よりも、あの時。競技場にて、"A組に戻る気が無い"と告げられた浅野学秀の表情は。
星が墜ちた瞬間にも似て。凡そ見下ろす側のソレではない、むしろ逆さの────。
しかしどうあれ、対話の時間はとうに終わりを告げていた。
電子の溜息を吐けば、変な所が少年に似たかと、意味の無い苦笑を零す。
ともあれ。重たい沈黙を孕んだ道のりは終わりを告げる。
音が自身の意義を取り戻した場所、椚ヶ丘学園旧校舎。
「ふぅ……ようやく着いた、けど、誰もいない…………?」
「そのようですね。殺せんせーや烏間先生も見当たりません」
擦りガラスの向こう、旧校舎内に人影が見受けられない。
しかし絶え間なく声が届くことから、恐らくは校庭の方に集まっているのだろう。
現在時刻は昼休みも半ば。そう珍しい事でもないか、と自身を納得させ、移動する。
俄かに好奇心を浮かべる秋野を横目に、律は校内の本体との
「………………あぁ、なるほど」
一足早い納得が、声になって零れ落ちる。
呆れにも近い感情を乗せた彼女の声に対して、秋野が反応を示すより早いか。
旧校舎を横切り、少年の視界が一気に開けた瞬間。目に飛び込んできた景色は────
「皆さん!! もっとォ!! 熱くなりましょうよォォ!!!」
なんか、楽しそうにちゃぶ台返しをしてる神話生物がいた。
◇◇◇
椚ヶ丘学園クラス対抗球技大会。
男子は野球、女子はバスケットボールと、競技を分けて行われるトーナメント戦。
全三試合、健全な心身を養う為に用意された、小規模なイベント。
クラスの結束を固め、より高みへ上り詰める事を期待される場所。
…………尤も、エンドのE組にその席は用意されず。
代わりに設けられたのは、"エキシビション"を名取った処刑場だった。
当然ではあるが、球技大会に参加する生徒の大部分が素人である。
ならば、各部活の経験者達の参加は、その人数比によって試合を決める事態になりかねない。
それを望ましいと思う人間は居らず。彼らの不参加は必然であった。
だが、折角の舞台。そのまま放置すれば、部内の士気を低下させかねない。
故に用意された、エキシビションマッチ。
E組を利用した、彼らの欲求不満を解消させるための絞首台。
────それが一週間前に迫っている、現在。
「なるほど、だから皆で野球の練習をしてた、と」
『ええ。先生、スポコン物の熱血コーチにちょっと憧れてまして』
倫理的/契約的にも、生徒への危害は加えられない為、ちゃぶ台返しで代用した、と。
先程目にした奇妙な光景の正体は、つまりそういうことだったらしい。
校庭から少し外れた場所、一本杉の影の下。
与えられた情報を噛み砕き、殺せんせーの分身と共に、練習に励む彼らを眺める。
爽やかに汗を流す少年達。平凡な青春の一幕にも思えるが、しかし。
『
周囲に響き渡る、痛烈なミット音。
鞣された革が悲鳴を上げる様は、豪速球の威力が如何ほどかを物語っている。
一般に、投球に用いる関節は五つ。腰、肩、肘、手首、そして指先。
それらを順に加速させていく事で、白球は炎を纏うに至る。
…………ならば、それらを増加すれば、どうなるか。
一つ増えれば、現代野球のルールが変わる。二つ増やせば、野球の概念そのものが崩れる。
そしていつしか、それが無限に等しい数になったなら、その姿はきっと、軟体生物に近い。
可笑しな話ではあるが。関節を持たない生物は、無限の関節を持っているに等しいのだ。
まして、神格ならば。分身しながらと言えど、この程度は造作も無いのだろう。
なるほど、確かに。アレを相手に慣れる事が出来たならば────。
「…………野球部相手にも、善戦は出来るかもしれませんね」
それは、残酷かつ現実的な戦況分析だった。
時速三百キロの速球は、確かに驚異的と言って良い。だが、なにも殺せんせーが出場する訳でも無し。
あの球に眼を慣れさせられたならば、中学生のソレなど止まって見えるに違いないが、それだけ。
たかがその程度で勝負に勝てるのならば、苦労はしない。
見切ることが出来たとして、肉体がそれに追いつかなければ意味が無く。
如何に暗殺の訓練をした人間であっても、人間の身体はそれほど単純ではない。
呼吸の乱れ、意識の淀み、指先の震えに至るまで。
それら一切を掃いて捨てる事が、現代スポーツにおける始発点。
即ち人体の機械化────それには、莫大な時間を注ぎ込む必要がある。
まして相手は、全国大会にあと一歩まで迫ったという精鋭集団。
野球に費やした時間は、比べるまでも無く。付け焼刃で敵う相手ではない。
だからこれは、そんな彼らに対しても、負け方は選べるようにする為の──────
『いいえ。誰一人、負けるつもりで取り組んでる人はいませんよ』
「………………は」
零れ落ちた困惑の声と共に、もう一度彼らに目を向ける。
────そして、有り得ないモノを見た。
彼らが挑む相手は、才能が違う、地力が違う、次元が違う。
けれど、彼の者が語った言葉の真偽を、確かめるまでも無く。
真実、彼らの瞳に一点の翳りも無く、勝利への渇望に、ありありと満ちて。
勝てる筈の無い戦い。それでも彼らは、決して覆らない天秤を覆すための刃を研いでいた。
『勝ちたい、殺りたい。その心が、彼らを突き動かしているんです』
そして、鍛錬の風景が先程と微塵も変わっていない事に気が付いた。
…………事ここに至って、漸く理解できたことだが。彼らの練習は、防御を捨てている。
守備としての練習をしているのは、少し離れた位置の投手と捕手のみ。
一見にして勝負を捨てた行動。けれど、それは違う。
『
勝ちたいというのなら、守備を捨てるのは英断でさえある。
多くのスポーツにおいて、最も練習量の差が表れるのは防御に他ならない。
最低でも二年間、野球に触れてきた人間に勝ち目はない。
そも、野球は如何に相手よりも点を奪うかのゲーム。
────勝利を目指すのならば。可処分時間の全てを攻撃に振るのが、最も勝算が高い。
なにも、すべての要素で勝つ必要はないのだと、彼の者は言う。
強い他者と、弱い自分。力量の差を見切り、尚も前を向いて。
弱いままに強さを得て、油断した強者の喉元に一刺しを。
たった一度きりの勝利を手繰り寄せるのが、暗殺者なのだと。
…………その言葉に、自分がどんな感情を抱いたか、分からないまま。
『さて。次の打者は君です、頑張ってくださいね』
「………………はい」
制服から着替える事無く、陽の当たるダイヤモンドへと足を延ばす。
差し出された金属バットの重みに、指先から眩暈が走る。
────記憶の中にあった構えを取れば、眼前の神格も同様に。
僅かの後に放たれるであろう速球。幻視したのは、赤く吹き飛ぶ己の脳漿。
遅ればせながら、こんな場に立ってしまったことを後悔した。
けれど、恐ろしい筈の現実にさえ、霞がかかるように。
脳内を廻ったのは、忍びない雑念────オレを現実へと引き戻した、引き金は。
『
「は…………?」
瞬間的な忘我。現実に戻るまでの、僅かなホワイトアウト。
目に映ったのは残像のみ。秒速八十五メートルの白球の軌跡だけ。
…………冷や汗が一滴、身震いと共に零れ落ちる。
自身の立っている場所が何処かを思い出す。今はただ、集中し直さなければ────
『秋野君。この前の金曜日…………小学生を相手に、赤い薔薇…………!』
「──────死ねェ!!!」
『ちょッ…………!?』
赤面と同時。全力でバットを振った、殺せんせーの頭めがけて。
響く快音と、宙空を舞った金属バット。
脳内を満たした言葉は、些細な一言。
────勝ちたい、か。
衝撃に痺れた両腕よりも、その光景が、どうしてか目に焼き付いていた。
◇◇◇
陽もとっぷりと落ちた、放課後の事。
闇に溶けそうな影が二つ。それは、怪物と非人間の会話。
知る者は、どこにもいない。