Q.一般探索者が黄色い触手を見た場合の反応を述べよ 作:お前の母ちゃんシュブ=ニグラス~!
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──────ぽつりと。落下した汗が、荒んだ色の大地に消える。
扇の形に作られた闘技場と、それを囲む人の波。
揺らめく陽炎。固唾を飲んだ観衆、緊張の視線は、声の無いエール。
射る構えをとる守り手と、それを打ち払わんとする攻め手。
零コンマ数秒の沈黙────それを打ち破ったのは、金属質な快音だった。
飛行機雲のように伸びていく白球と、割れんばかりの歓声が響く。
…………それを、無機質な瞳で眺めた、十余名の視線。
椚ヶ丘学園クラス対抗球技大会、本戦。
トーナメント形式で行われた性能比較は、A組の勝利で幕を下ろした。
当然と言えば当然の結末。見るべきものは無かったと、視線を逸らす。
野球であれ、なんであれ。あの浅野学秀を擁する集団に、敗北は有り得ない。
…………その点で言って、彼が前面に出なかった事は、少しだけ珍しかったが。
だが、それだけ。既に興味を失ったと、その場を後にする。
あれから、実に一週間もの日数が経過していた。
弛まぬ修練の日々の終わり、球技大会は遂に当日へと辿り着いた。
本戦であるトーナメント大会が終了した、昼過ぎである現在。
青い空と、白い雲、貫かれた月の下。
爽やかな決着を終えたばかりのそこは、荒廃した処刑場へと姿を変えた。
…………エンドのE組を迎える球場を埋め尽くす、下卑た視線の雨が降る。
──────これより、エキシビジョンマッチを開催します。
割れた音質で響いた声は、真実歪んでいた。
滲む感情は、この先の未来で起きる惨劇への期待に他ならない。
ジリジリと空を灼く太陽光は、それこそ待ち焦がれるようでさえあり。
およそ十秒の後。…………砂塵で象られた地平に整列する、二列の人影が生まれていた。
際立って体格の良い少年が、自尊心に任せて口を開く。
「学力と体力を兼ね備えたエリートだけが、選ばれた者として人の上に立てる」
言い聞かせるような声は、かつての仲間にか、注目を止めない観客達へか。
"エンドのE組"は、そのどちらも持ち得なかった選ばれざる者だと嘲り。
純朴な野球少年とは道を違えるように、背を向けて歩き去っていった。
見送った杉野に、返す言葉は無かった。けれど、それは何も劣等感から来る物ではなく。
────不言実行を胸に。殺る気に満ち満ちた瞳が、決意を告げている。
疎らに散っていく荒野の残影。直に始まるのは、闘争か、蹂躙か。
どうあれ。白色の戦闘服へと袖を通した彼らに、驕りこそあれ、油断は無く。
こちらにまで届いた野太い掛け声は、高い士気を感じさせた。
ダグアウトまでの戻りしな、杉野へと問い掛けてみる事が一つ。
「…………なぁ。なんで連中、あんなに気合入ってるんだ?」
「あー、野球部的にも全校生徒に良い所見せるチャンスだしな」
まして、相手はE組。三回の内に十点差を着ける、コールド勝利が大前提。
最低でも圧勝が義務であり、精神にかかる圧力は並の試合以上。
そもそも、強者による弱者の一方的な殺戮。即ち力の誇示は、この学校の臨むところ。
────必然として、彼らは慢心こそすれど。情け容赦の類を一切捨て、闘争に走る。
「それに。夏前の調整も兼ねてるんだ、この試合」
「…………あぁ、そういう」
考えてもみなかったが、なるほど。先週観戦した陸上大会と似たような主旨だろう。
曲がりなりにも試合形式。E組に対する勝利は絶対であり、その重圧は練習の何倍か。
劣等生の晒し上げと、野球部員達の仕上げ。万全に行われる学校運営。
これらを同時に実行して見せる辺りに、あの理事長らしさが滲み出ている。
極まった合理性の発露、思い描いた理事長の表情に、深い溜息が出る。
オレの行動を、杉野はどう受け取ったのか。
気が付けば、今度はこちらが心配される側に立っていた。
「それよりも秋野。お前、身体の方は大丈夫なのかよ?」
「ん? まぁ、問題無いだろ。作戦が上手く行けば、打席数は二度で済むワケだし」
それは、強がりを含まない現実的な判断に基づいた言葉だった。
数ある球技の中にあっても、野球は比較的機械的な運動に近い、"静"のスポーツだ。
打者に限っては、決められた打順、決められた場所、決められた動きに全霊を尽くす。
それ故に、例え延長戦までもつれ込んだとしても。打席数は高が知れている。
明日は知らないが、今日身体を動かす分には無茶も通せる範疇だ。
「むしろ、大変なのはお前の方だろ…………っと。準備するわ」
いつの間にか、伸ばした足はダグアウトまで辿り着いていた。
杉野と別れ、打者としての準備に取り掛かる。
取り付けたバッターグローブ。鈍くなった指先に伝わった、硬質な感触。
死球から身を守るための鉄帽と、確かな重みを孕んだ金属バットを手に取った。
…………緊張なんて柄じゃないし、事実そんなモノは抱いていない。
「──────、」
祈るように胸へと抱いた事柄は、僅かな感傷。
…………けれど、思い返せば。自分に祈るような神様はいなかったか、と。
空笑いをして振り返る。気流に煽られ、刻々と姿を変え続ける入道雲が目に入った。
それを呆然と見つめた、意味の無い数秒間。遠く、聞こえて来たモノは──────
『殺す気で勝て』
聞き慣れないサイレンの音──────それは、球技大会の開始を告げる合図。
◇◇◇
E組対野球部、エキシビションマッチを騙る蹂躙劇。その、一回表。
これもハンデの一環か、或いは、"見せかけの平等"の一端か。
どうあれ、先んじて攻撃の機会を得たのはE組の方だった。
嘲る視線の中。生贄の如く差し出された首、先方打者の名前は────
『一番/
約一・七平方メートルの空間、白線によって象られたバッターボックス。
大気を震わせるような嘲りの視線が、方々から注がれる。
隠す努力さえ失われた、直接的な負の感情が僅かに血流を押し留める。
息を吐く事さえせず、握り込んだ金属塊の質量を確かめれば、既に構えは出来上がっている。
肩幅に開いた足、螺子を思わせるような、半ばまで回された身体の軸。
──────正面を向く目線。オレは、相対する個人の姿を認めた。
瞑目し、深い呼吸を繰り返す、中学生離れした体躯の少年。
椚ヶ丘学園中等部、三年B組…………進藤一考。
対峙してみて分かったが、なるほど。これは確かに"スーパースター"だろう。
一見して肥満的な身体の輪郭。けれどそれは違う、アレは恐らく、内筋が酷く発達している。
所謂インナーマッスルの肥大化。それは、野球選手に多く見られる体格に他ならない。
圧倒的と呼ぶに相応しい肉体の威容。内に秘めた体幹系の完成度は、異常でさえある。
目蓋を持ち上げ、こちらを射抜く視線。その口元は、浅く歪んでいる。
狩る側と、狩られる側。その境界は、明白に。
「────プレイボール!」
背後の球審が、試合開始を高らかに宣言した。
間髪入れずに投球の構えを取り始める進藤。その動作に、一切の淀みは見受けられない。
軽く引き上げられる右脚、腰から指先にかけての躍動は十全に魂を燃やす。
距離にして僅か、十八・四四メートルを駆け抜ける投球。
体重を乗せた右脚が落ちると同時────直線を辿った白球、零・四七秒間の飛翔。
「ストライク!」
乾き切ったミット音と、球審の宣言。完膚なき、直線的な剛速球。
撃ち放った表情に疲労の色は無く、それは、肉体が"完成"している事を意味した。
凄まじいのは、肩と上腕。投球に必要な関節を支えるように、筋線維が発達している。
本来、中学生離れした剛球は、選手生命を著しく損なう危険性を孕む物だ。
…………だが。その点で言って、彼はソレを克服している。
驚くべきことに。弱冠十四歳にして、投手としての在り方が、完成の域に達していた。
「────ストライク!!」
今一度響く快音。浅黄のランプに、二つ目の明かりが灯る。
真っ当な方法での攻略は不可能だろう、という実感が走った。
観衆の期待が煽られる。熱を上げるべく、実況席にも火が点き始めていた。
『おーっと! E組秋野、棒立ちだァ! バットも振れない程委縮したかァー!?』
「…………うっせ」
………………荒木め。私怨入ってるだろ、この実況。
だが生憎と、オレは投球を見送っていた訳じゃなく、見極めていただけだ。
目線の先を切り替える。投手ではなく、正面から逸れて、より奥に。
転がった白球の内。一つの色が、意図を以って変化するのを見た。
────"
「雑魚が…………!」
吠えた狩人と、その言葉に違わない超速の弾丸が走る。
再度、直線の軌跡をなぞる白球。凡そ捉える事の叶わない速度。
中学生が出しているとは思い難い剛速球。…………けれど、所詮は人間業だ。
少なくとも、野球の概念を破壊する程の威力は、持ち合わせていないらしい。
カコン、と。あまりにも軽い音がした。
『ドラッグバント…………!?』
掠るとさえ想像していなかったのだろう、守備の行動は、思考に一手遅れていた。
浮かび上がる困惑と逡巡、誰が捕球するのかと迷った一秒間の空白。
瞬きに消える僅かな時間…………されど、一瞬にして。跳ねる心臓と共に一塁へと走駆する。
致命的な意識の緩み。生じた時間は、九十フィートの距離を走り抜けるまでに、充分過ぎる時間だった。
『せ、セーフ…………E組、ノーアウト一塁、です』
拡声器の向こう側を覗くことは出来ない。思い浮かぶのは、記憶の中の面影のみ。
けれど、苦虫を嚙み潰したような声色は、その表情を想像させるのに容易かった。
オレが控えの生徒に鉄帽を渡せば、無意味に一塁へと送られた球が、投手の元へと帰還する。
次なる打者は、投手とは打って変わっての小柄な少年だった。
『二番/
或いは女子とも見紛うような、華奢な体躯。
オレと同様。時速百四十キロの投球に、真っ当な形では対処できない。
けれど、その瞳に諦念の色は無く。向かう先は、遠く転がった白球モドキに。
"
その合図は、誰にも知られる事無く。またも進藤は、球を射る。
──────コン、と。今度は一層軽い音が響いた。
『あーっと、プッシュバントだ! 前に出た三塁手が脇を抜かれた!』
内野守備の捕球は失敗し、投手がその穴埋めを行おうとする…………が、遅い。
打者は既に一塁へと辿り着き。当然に、オレも二塁へと進軍を済ませている。
ノーアウト、
投手の背中や、隣に立つ
必然と言えば、必然であるが。あの神格とした修練は、決して野球ではない。
常識的な話、野球選手は時速三百キロの球を投げないし、単独で守備を完結させない。
ならばアレは、野球のカタチをしただけの、より"高次のナニカ"に他ならない。
それ故に、暗殺教室である
これは────野球のルールに則っただけの"暗殺"なのだ。
『さ、三番磯貝も、セーフ。の、ノーアウト満塁…………!?』
響き渡る実況。進行した三塁から、進藤の横顔を盗み見る。
焦燥と当惑…………流石、野球と向き合ってきた年月の差だろうか。
コレが野球でない事。事態の異常性に、誰よりも早く気づきかけているらしい。
例年より幾何か早く訪れた炎天下。浅くなる呼吸は、何もそのせいだけではあるまい。
『四番/
「──────杉、野」
畏れと憤怒が綯交ぜになった声。動揺と激情が、彼の肩を震わせる。
試合再開。最早隠す気はないと、E組のエースはバントの構えを取った。
ソレは挑発だ。バントとはつまり、奇襲に他ならない。
既に三度、同じ手を通し続けている。守備陣も十分に警戒を強めている。
────それでも尚、このやり方を張り続けると言うのなら。
"
「………………、っ!」
焦りに任せた投球。既に、オレと対峙した際の余裕は見る影もなく。
内角高め、時速百二十キロのストレート。バントを見越したソレは、しかし悪手だ。
溜息すら出ないような失投が走る。瞬きの間に、スラッガーは形を変えた。
指先は滑るように、グリップへと。バスターバント。オレ達の狙いは、端からこの一点のみ。
瞬間。静まり返った場内に似つかわしい、爽快な音が鳴った。
守備が半ばバントシフトへと変更された瞬間の、深々とした長打。
当然に捕球出来る事は無く、オレは悠々とホームに帰還する。
二塁走者、三塁走者も続き。内野に送球される頃には、打者は三塁へ。
致命的なスリーベースヒット。電光掲示板に浮かぶ数字が、その証明だった。
「ふぃー…………ただいま、取り敢えず戻ってこれたな」
ダグアウトへと足を踏み入れる。白日の下から一転、暗順応していく瞳。
既にそれなりの疲労を湛えた身体を、色褪せたベンチに預ける。
深く息を吐き出すと共に、クラスメイト達とハイタッチなどをした。いぇい。
涼しい風が頬を攫って行く。日照りに熱を帯びた身体が、正常を取り戻し始める。
眺めた先に居たのは、狼狽した様子のエースピッチャー。
「一先ず作戦は成功、かな」
最低限行うべき一連の流れが完了した事に、僅かながら安堵する。
…………フェンスを直撃した、不意打ち気味の魔の一撃。
アレによって、今後野球部の守備は、常に一定の長打警戒を強いられる。
野球部からすれば、"杉野以外は打てる筈が無い"なんて甘えた思考は捨て去るべきで。
例えそれが真実であろうと、必然。バントへの警戒は薄くなり、得点は加速する。
一回表。野球試合の前提を崩し、体制が整う前に十点を奪い決着をつける。
それが、殺監督の考えた暗殺野球の作戦概要だった。
「…………しっかし、このまま上手く行くかねぇ?」
すぐ傍で、菅谷からの懸念の声が飛ぶ。…………実際、この作戦にも穴はある。
この作戦は、肉体ではなく精神を崩す"暗殺"である事が前提条件となっている。
必然に、心が平静を取り戻してしまえば、ソレは闘争に変わり、蹂躙に成る。
これは常に、相手の心の隙を突かなければならない綱渡りでもある。
…………尤も、殺監督が打球の指示を出す以上、選手の方は問題無い筈だ。
化け物である事の本能か、アレは人の弱みを抉るのが抜群に上手い。
問題となるのは、試合に接触可能な第三者────つまり敵方の監督だ。
が、こちらも大した障害には成り得ないと思われる。
なにせ、手塩に掛けた教え子がE組などに負ける様は、控えめに言って悪夢だろう。
とてもじゃないが、タイムなんて冷静な最善手を打てる状態じゃない。
仮にその手に思い至るとしても、事態の趨勢が決してからの筈だ。
『おっと? 野球部、ここでタイムを取るようです…………えーっと、何々』
そう。だから、警戒するべき第三者とは、つまり。
「────手が早いな、あの人も」
敵方のベンチにて。蒼白の表情を浮かべ、担架で運ばれていく野球部顧問。
深紅よりも深い朱色が、球場に足を踏み入れる。男の姿は、あまりに鮮烈過ぎた。
脳裏を巡ったのは、このエキシビションマッチの意義について。
秀でるべき精鋭が勝利し、下を向くべき者が敗北する為の舞台。
ならば、その逆転現象は決して許されない────少なくとも、彼の教育では。
「さて。教育を始めようか」
椚ヶ丘学園理事長、浅野學峯。
それが、この場所に介入できる
現在は未だ一回の表。想定していたよりも素早い介入に、小さく歯噛みをする。
彼がタイムを取ると同時、可笑しな放送が球場全体へと散布された。
『い、今入った情報によりますと────』
野球部顧問の寺井清は、試合前から重病、部員達はそれを心配。
力を十全に出せない彼らを見兼ね、理事長が監督代理に入った、という筋書き。
勿論、全ては真っ赤な嘘だ。或いは、寺井だけなら半ば本当なのだろうが。
どちらにせよ、観客にはそれを確かめる術がない故。…………虚構は真実に変わる。
会場を覆っていた異常な空気感が消えた。澄んだ思考が導く答えなら、決まっている。
『試合再開…………こ、これはなんだ!? 全員内野守備ッ!』
あの理事長は、生徒の事をよく見ている教育の名手だ。
誰に何が出来て、誰に何が出来ないのか。それを、或いは当人ら以上に把握している。
野球部が知る由もないE組の内情を用いた、ブラフと揺さぶりが作戦の肝なら。
…………あの理事長が出てきた時点で、全ては破綻する。
現時刻を以って、オレ達は唯一の攻撃手段を叩き折られていた。
「殺監督の指示は犠牲フライ。…………真っ当だが、これは」
最早、この試合におけるE組の勝ち筋は、一回表で稼いだ点数で逃げ切る事。
これ以上の出塁が見込めない以上、得点優位の維持が肝要となる。
ならば、杉野が三塁にいる現在。何に代えても、彼にはホームへ帰還して貰いたい。
だが、打者の集中を乱す守備位置と、復調した進藤の投球を捉えられる者は無く。
「…………スリーアウト! チェンジ!!」
乾いたミット音。犠牲フライさえ許されない、三者凡退。
不意打ちの小細工を見破られ。一回表は、僅か三点獲得で幕を閉じた。
延長戦は突入した時点で敗北と同義であるため、猶予得点は事実上二点のみ。
精鋭集団である野球部を相手にすることを考えれば、冗談にせよ笑えない。
『さぁ、一回裏。野球部の攻撃です!』
攻守交替、ピッチャーマウンドに上がる杉野を、ベンチから眺める。
実際、こと最初の防御に限って言えば、杉野による完封は可能だろう。
杉野友人と言う少年もまた、進藤にも負けず劣らずの超中学級投手だ。
あれだけの変化量を有する選手は、プロリーグにもそうは居るまい。
…………だが、当然に。打たれない投手など、存在しない。
白球がストライクゾーンを通過する以上、理論上はあらゆる球を打つことが出来る。
まして相手は、夏を控えた選抜選手。二回裏からは打たれることも増えるだろう。
──────なんであれ、第一の作戦は失敗に終わった。
◇◇◇
青空のような体操着が、汗ばんだ肌に吸い付く白昼の事。
カコン、と。プルタブが開かれる、涼やかな音が鼓膜を叩いた。
学園の敷地内を埋め尽くす熱を帯びた歓声の中で、弾けた炭酸。
目を醒ますような錯覚。胃に流れ落ちる冷気を感じながら、彼女は喉を鳴らす。
…………瑠璃色の瞳。速水凛香は、飛行機雲のように伸びた白球を目にした。
「──────」
かつての戦場に背を向ける。体育館の熱狂は、一応の終息を見せていた。
椚ヶ丘学園、クラス対抗球技大会。女子の部の競技は、バスケットボールだった。
それは、男子が行う野球とは打って変わっての、"動"のスポーツ。
敏捷性と心肺機能、何より身長がモノを言う残酷な世界。
三クォーター。休憩時間を除いた、計三十分間の闘争劇に思いを馳せる。
彼女達が対峙したのは女子バスケットボール部の、所謂ところの一軍選手。
文武両道を謳う学園の部活動。彼女らもまた、昨今稀に見る精鋭揃いであった。
昨年の夏。野球部と同様に、全国大会へと指を掛けていた猛者達。
青春時代の貴重な時間を修練に費やした少女達の力は、並大抵のものではない。
事実として、彼女らのバスケ選手としての完成度は非常に高かった。
パス連携の精度、対面時の視野の広さ、レイアップの成功率。
細やかな指先の技術や、身体捌き。どれを取ったとして、一切の不足は無く。
画一の行動を繰り返した果て。人間らしさを失った身体の躍動は、惚れ惚れする程に。
客観的な評価として、なるほど。歴代最高のチームと叫ばれるのにも、納得出来た。
『それでは、E組対女子バスケ部のエキシビションマッチを行いま~す!』
蹂躙に他ならない筈の試合は、しかし。誰も予想しない様相を呈した。
「…………ふふっ。あんな顔を見せてもらえるとは、ね」
空になったアルミ缶。外気に当てられ、人肌に変わったそれをゴミ箱へ。
眼前には、体感温度を三割増しにする応援を挙げた、観衆達。
飲み物を買いたいから、と級友に別れを告げて五分程が経過した現在。
いい頃合いだろう、と。眩暈さえするような人混みの中へと、彼女は歩を進めだす。
…………その中には、先程の試合で驚愕の表情を浮かべていた生徒もいた。
これは、至極当然の帰結であるが。
隔離校舎に籍を置くE組生徒が、本校舎の事情に対して疎くなっていくのと同様に。
本校舎の生徒達もまた、文明から断絶された山門異界の内情を知り得なかったのだ。
或いは、想像すらしなかったのだろう────彼女らが、普段成している事を。
バスケ部員には知る由も無い話だが、椚ヶ丘学園三年E組は暗殺教室。
超音速の怪物を殺す為の刃を研ぐ生活。前年に比べ、飛躍的に上昇した身体能力。
思い返せば、彼女らの瞳は侮りの色に満ちていた。取るに足らない弱者である、と。
対峙したのは、油断しきった熟達者と、一刺必殺を掲げた暗殺者。
風穴を開けたスリーポイントシュート。舞い上がった悲鳴は、誰のモノだったか。
『し、試合終了! 勝者は────』
…………これもまた、必然だが。彼女らの勝利は、万に一つも無かったのだ。
如何に暗殺生活で力を磨いたとして、如何に強者が油断していたとしても。
あの体育館で、あの競技に対して、消費してきた時間の桁が違う。
四十九対四十一、僅か八点差の決着。されど、それは何よりも深い断絶。
彼女らは負けるべくして負け、バスケ部は勝つべくして勝った。これは、それだけの話。
「まぁ、負けたとも思ってないけど」
けれど彼女は、この結果を大して悲観していなかった。
なにせ、強者には強者の"勝ち方"があり、弱者には弱者の"負け方"がある。
二年以上を燃やし続けた優等生達と、一週間を焚べただけの劣等生。
如何にハンデ制度があったとは言えど、その差は僅か八点のみ。
意気消沈した体育館の様子。その点で言って、彼女たちは決して"負けて"などいなかった。
「っと、危ない…………人が多すぎるわね、ここ…………」
視界の悪い中、正面に現れた人影との衝突を、半身を逸らして躱す。
炎天の下。青空が覗く場所は、見た事も無いような人口密度の野球場。
比喩表現を抜きに、学園の全生徒がこの場にいる事を彼女は直感する。
凄まじい人口密度。クラスメイト達を探す視線は、これと言った成果を挙げられないでいた。
着実に体力を奪っていく熱気の中で、彼女は尚も歩みを進める。
…………不意に脳裏を過ったのは、とある黒髪の少年について。
聞いた話では、彼もいつかに東京駅で人混みに呑まれたのだと言う。
顔色を悪くしながら人の波に流される姿が容易に想像できて、つい笑ってしまいそうになる。
辟易とした表情で事を語った彼。もう遠い昔のような、つい先月の修学旅行での話だ。
あの時は笑い話にしていたモノだが、自分事になってみると、中々笑えない。
喉を潤した冷気も、今はどこかへ。クラスメイト達の見当たらない白昼。
「今度は私が迷子になる番、なんて────きゃっ!?」
彼女の身体が大きく体勢を崩す。少女を巻き込んだのは、一際大きい波のうねり。
声も上げられないような息苦しさ。姿勢を整える暇も無く、人の流れに攫われる。
右往左往する感触は、方位感覚を狂わせる。ヒト、ひと、人。どこを見ても生徒ばかり。
嫌気がさして空を見上げれば、ぽっかりと浮かんだ白色の恒星だけがあった。
いつかに少年が見た地下の景色とは、まるで違うモノ。遠い空は、けれど何処か窮屈で。
彼女自身、何を思ったかさえ、知ることは無く────。
「…………っ。こ、ここは…………?」
直感的に、彼女は呼吸が出来ると予感した方向へと身体を捻っていた。
突如として眼前に現れたのは、緑青色の錆びたフェンスと、その向こうの見知った顔ぶれ。
いつの間にか、彼女は球場のすぐ傍まで足を踏み入れていたらしい。
恐らくはほんの偶然、人ひとり分の空白に、彼女は入り込んだのだろう。
欠乏気味の酸素を取り込む深呼吸。視界が明瞭になっていくのを、肌で感じる。
見れば、左舷前方。凡そ数十メートルの方向に、彼女の探し人達は居た。
普段なら気兼ねなく歩いて行ける距離だが、今日ばかりはそうもいかない。
この気温、この人口密度下での行軍距離は、遥かな宇宙の果てよりも長い。
数瞬前と変わる事無く、彼女は戦場の外で孤立していた。
…………だが、その代わりとばかりに、橙色の髪を持った少年が傍に居た。
見覚えのある顔立ちだった。彼女の記憶が確かなら、現生徒会長、だったか。
この学園におけるE組差別の筆頭のような人物だったが、彼女に気が付くことはなく。
少年────浅野学秀から注がれる視線の先は、淡いフェンスの向こう側へ。
彼の所作に、小さな違和感を覚えると同時。誘われるように、彼女も瑠璃色の瞳を向けた。
「………………」
E組対野球部、エキシビジョンマッチ。現在得点数は三対零で、二回表。
点数でこそE組はリードしているが、状況がそれ程芳しくないのは、すぐに分かった。
凡そ尋常な試合では有り得ない前衛守備。既にE組の攻撃手段は割れていた。
敵方のベンチを見やれば、壮年期にも見えるほど若々しい男性の姿。
一度、入学案内に目を通した際に見かけたことがある────アレは理事長だ。
なるほど。先日の中間考査の一件に続き、ここでもE組の動きを妨害したいらしい。
ともすれば、その手腕は見事なモノと称するより他に無いだろう。
E組唯一の攻撃手段であるバントが潰され、これ以上得点の目は無い。
事実上、彼らには逃げ切る以上の勝ち目は無く、だが、その猶予も僅か二点のみ。
半ば恐怖を覚えるような球威と、流れるような三者三振。切り替わる攻守状況。
客観的に、彼らが残り二回分の攻撃を凌げる見込みは、薄いと言わざる負えない。
…………けれど、不思議な事に。
浅野学秀の瞳には、これ以上ない焦燥と惜別の感情が浮かんでいた。
「…………秋野の奴。一体何をしてるんだ」
「秋野?」
それが、予想外と言えば予想外な言葉で、つい声を上げていた。
驚愕を孕んだ紫紺の視線が、彼女を射抜く。杉野の投球が高く飛ぶ、一秒間の沈黙。
その短い時間の内に、浅野学秀の頭脳は目の前の少女と、記憶の照合を終えた。
理事長の掲げる学園機構を想えば、彼女がこの場に単独で居るのは好ましくない。
何故E組の居る場所から孤立しているのか、何故彼の傍に立っていたのか。
疑問は尽きないが、彼は一旦それを呑み込んだ。…………なにせ、それ以上に問いたいことが一つ。
「────なんだ。僕は何か可笑しなことでも言ったか?」
「それは…………そうじゃないかしら。だって、今の貴方の口振りは────」
────まるで、E組の勝利を願っているようにも取れたから。
浅野からの言葉は無い。それは、実力主義を謳う学園にあって、異質な願望だった。
強者は在るべくして勝利し、弱者は在るべくして踏み躙られる。
それを是とするのがこの学園の基本理念であり、彼自身、その筆頭であるのに。
今しがた少年の発した言葉は、その思想に真っ向から逆行している。
「言っておくが。僕は別に、君たちの勝利なんか微塵も望んじゃいない」
「…………それなら、どうして? あんな事を言うだけの理由は何?」
「別に────僕はただ。秋野が無様な結果を残すのが、許せないだけだ」
「? どうしてそこで彼の名前が出てくるのか、分からないんだけど…………」
彼女の困惑は、更に深い所まで落ちていく。
執着の先はE組にではなく、秋野空という少年についてだと、彼は言った。
けれど彼女には、その理由というモノに対して一切の共感が及ばない。
彼の元居たクラスの繋がり、程度の理由ではない事は簡単に想像がついた。
僅かな会話だったが、この少年がそんな人間らしい物を尊ぶ存在には思えない。
「いや、だから。こと運動において、アイツほど"使える"人間はいないだろう」
「彼、体育は苦手だった筈だけど…………?」
考えれば、考えるほどに。或いは、理不尽とさえ思える言葉でもあった。
なにしろ秋野空を名乗るあの少年は、自他共に認める虚弱体質の身の上。
朝夕の登下校は言うに及ばず、普段の体育でさえ運動量は最低限に抑えている。
それでも休息が足りないのか。最近は居眠り姿を見る事も増してきていた。
残酷な話ではあるが。人間には、決定的に向き不向きが存在する。
────彼は間違いなく、ヒトとして、身体を動かす事に向いていない存在だ。
そんな、彼女の思考を見透かしたのか。浅野は小さく嗤いを噛み殺した。
「ははっ、なるほどな。そう言う事か…………
話の食い違いに合点がいったと言う風に。微かな優越感を滲ませて。
気が付けば、淡いフェンスの向こう側で、またも攻守交代が起きている。
三回表。点差を突き放す事は叶わず、最後の攻撃機会を喪失したE組。
点差は僅か一点のみ、同点が敗北と同義である以上、最早彼らに猶予はない。
決着は三回裏。異常を極めた球技大会は、遂に佳境へと足を踏み入れる。
「瞬間的な肉体の躍動において────アイツに敵う生物なんて存在しない」
響く、ピッチャーの名は。
◇◇◇
『一番/
遠く聞こえたその名前に、浅野學峯は静かに瞠目した。
日射の届かない球場右翼、ダグアウトの、色褪せたベンチの上。
野球部による一方的な制圧作業が開始されてより暫く、現在三回の裏。
E組は一点でも奪われれば敗北し、反対に、彼らは一点を得れば勝利する。
最終回の極限下。どうやら絶望的な賭けに出たらしい、と彼らの判断を把握する。
…………同時に、決断があと一歩遅かったと。嘲りを含んだ感情で哂う。
──────カコン、なんて。あまりに軽い音がした。
セーフティバント。碌に練習をしなかったのだろう、守備はソレを捉えられない。
本来、野球部が素人相手にバントなど、通常なら観客も納得しない。
…………だが、既に。E組は野球部に大義名分を与えている。"手本を見せてやる"と。
そして、この打法の最大の特徴は、如何な球種であったとして、必ず打てる所にある。
どのような策を弄していようと、バントを全て抜き去れる選手は歴史上存在しない。
勝負を決めたくば、二回裏にでもするべきだった。
『あっという間にノーアウト満塁! ここで迎えるバッターは────』
この状況は、既にE組の敗北を物語っている。バント一つで、趨勢は決する。
だが、それでは意味が無い。既にこの戦いは、"どのように勝利するか"の蹂躙に変貌している。
…………浅野學峯の見出した、最も効果的と見出した結論は、即ち一つ。
処刑劇の最後を飾るのは
「それじゃあ、行ってきなさい、進藤君」
中学生離れした体躯が、枯れた荒野に
約一・七平方メートルの空間、白線によって象られたバッターボックス。
対峙した黒髪の少年に、一回表の記憶が再生される。食い違うのは、互いの位置のみ。
敗北を目前にしている筈の彼に恐怖の色は無い…………或いは、状況を理解していないのか。
無感動な瞳で少年を射抜く。どうあれ、彼の目的はこんな素人などではない。
「何を企んだか知らないが、お前じゃ話にならん。杉野を出せ」
ベンチから観察していたが、眼前の少年の投球に、見るべき部分は無い。
遅い球。球威は無く、変化量も碌にない。内野の送球に似た、緩やかな放物線を描く白球。
ストライクゾーンへの狙いは悪くないが、所詮はその程度の投球でしかない。
実戦での運用に耐えられる強度はなく。バントの指示が無ければ、既に決着がついている。
進藤が目指すのは、完膚なきまでの勝利。その為に必要な道具は彼でなく、杉野だった。
…………だが。
「そう邪険にするなよ、スーパースター。前菜代わりに遊んでいけ」
対話の意思は無く、彼は構えを取る。それと同時、進藤は即座に精神を切り替えた。
変わる気が無いと言うのなら、それでも構わない。既に警告はした、と口角を上げる。
言葉が通じないのなら、力づくで。杉野友人を引き出すために、眼前の木っ端を狩り取ろう。
既に投球の精度は見切っている。理事長の教育により、集中力も類を見ない程飛躍した。
浮かぶ選択は、必然…………第一球をピッチャー返しすればいい。
幸いにして、これは軟式野球。余程当たり所が悪くなければ、死にはしない。
思考の海から浮上した瞬間、彼は─────作り変えられる肉体の、変形していく
◇◇◇
…………瞑目し、耳を澄ませば、今尚歪んだ歓声が再生される。
球場を確かに満たした声。込められた感情は、勝ち目を持たないE組への、負の期待。
事実、秋野と相対した進藤一考の表情は、脳漿を焦がす悦びに裂けていた。
夏の大会を前にした前哨戦。闘争の前に行われる、一方的な屠殺にも似た狩猟。
気炎を上げた狩人と、委縮して然るべき野生動物。
殺す者と、殺される者。二つの立場は、決定的だった筈なのに。
────キャッチャーミートを貫かんとする快音が響いた。
電光掲示板に黄色い明かりが灯った後、球場はそれきり静寂で満たされた。
固唾を飲む以上の行動が取れない。体の芯から痺れるような衝撃が走る。
再生される記憶は、黒髪を携えた少年の、地を這うようなアンダースロー。
音が世界から忘れ去られた球場で、忍び笑いを抱えたのは一人だけ。
「────ククッ。そうだ、それでいい、秋野…………!」
灼けるような髪が揺れる。支配者然とした瞳に、愉悦の色が乗るのが見えた。
反応する者はいない。観客は皆、全身が麻痺したように身動き一つとれない。
時間の概念が失われた世界。一連の出来事を呑み込めるのは、きっと彼女だけ。
淡いフェンスの向こう側、暑苦しいジャージ姿の少年を見やる。
…………思いを馳せたのは、数瞬前の不可思議な事。
「──────今のは、何」
知らず。誰に掛けるでもない言葉が、彼女の口元から零れた。
脳裏に焼き付いた数秒前の光景が、視界の端で転がっている。
声も上げることが出来ないような、脳の故障を疑ってしまう投球が描かれた瞬間の事。
あの細い腕から放たれた白球は、それまでの無様など無に帰すが如く。
外角を刺すような零・四三秒の空中旅行、浮き上がるような直線軌道。
見間違いでなければ、あの球は──────
けれど、それは有り得ないと、彼女の理性が否定する。
野球において門外漢である彼女だが、進藤一考が紛れも無い天才である事は理解できた。
常人が持たない素質と精神を兼ね備えた、傑物と呼ぶに相応しい才覚。
その彼が、十全な修練の下で出せる球速の限界が、時速百四十キロなのだ。
────それは事実上、十五歳の人類における限界到達点に他ならない。
或いはこの先の選手生命を犠牲にするのなら、それ以上の速度も出せるかもしれないが。
少なくとも、先程の球速は、それで説明のつくような次元には収まっていない。
…………なにせ、進藤一考と秋野空では、投法の前提条件が違う。
関節と筋肉、発射角まで。それら総てを十全に伝えるオーバースローの彼とは違う。
少年が使用したのは、アンダースロー投法。地這うような腕、大袈裟に行われる全身の運動。
低い角度から射出される白球は、必然に。角度や腕の振りの威力が制限されてしまう。
関節による加速の
──────それが、進藤一考以上の球速を刻んだとでも言うつもりか。
「…………ねぇ。貴方は、秋野がした事の理屈が分かるの?」
才能、なんて生温い言葉では通らない道理が、そこにはあった。
恐らく、この球場で彼の行動を十全に汲めているのは、隣に立った生徒会長のみ。
逆説的に言えば、彼の行動は人間の理解が及ぶ範疇のモノである筈。
種も仕掛けもある手品。恐らくは小細工の類、何らかの絡繰りが存在する。
…………彼女の思考を見透かしたように、彼は視線で言葉の続きを促す。
痺れの抜けない脳漿で、彼女は必死に理論を組み立てる。
断片的な真実を繋ぎ合わせ、足りない
どうして今まで隠していたのかは知らないが、秋野は野球経験者だった。
その上で、投手として一定の経験と実力があったのだろう。
理事長すら把握していなかった、少年の技術。即ち、情報戦での優位。
遅球の杉野と、先程までの気の抜けた投球。それらの落差が見せた、不意打ち気味の一撃。
「────つまり、騙し討ち。それがさっきの投球の正体…………違う?」
「へぇ、悪くない理論の組み立て方じゃないか。確かにそれでも筋は通る」
浅野は視線を元に戻す。フェンスの向こうの光景は、白球の焼き付いた荒野。
自我を取り戻したらしい正捕手の返球。受け取る仕草は、どうにも不慣れに見える。
…………まるで、野球など微塵もやった事が無いとでも言いたげな動作。
眩暈のするような違和感。一挙手一投足が矛盾を孕んでいるような錯覚が走る。
数秒前に組み立てた自身の推測が、音を立てて崩れていくような気さえして。
混乱の渦へと落下していく彼女を嘲るように、浅野学秀が口を開く。
「だが違う。そんな生温い理由じゃない──────ただ、アイツは」
彼が真実を語るのと、続く第二球が放たれたのは、同時の事だった。
◇◇◇
──────今のは、なんだ。
進藤一考という少年は、自身が天賦の才を持つ人間である事を自覚している。
恵まれた体躯も然り、投球に必要なだけの関節の可動域だってそう。
或いは、これらを形作った家庭環境さえ、先天的なモノと言う意味では才能だ。
野球と言うスポーツは、これで存外に金銭が嵩む在り方をしている。
バット、グローブ、ボール。全ては消耗品で、上達を望めば望む程に擦り減っていく。
それらを潤沢に使い潰せる世界で。弛むことなく己の才能を磨いて来た。
無論。才能とは何も、進藤一考にのみ与えられた特権ではない。
彼に勝るとも劣らない才人は、確かに存在した。それどころか、彼以上の人間も。
────だが、彼はそれら全ての戦いに対し、完膚なきまでに勝利して来た。
有象無象は才覚で薙ぎ払い、己以上の才覚は努力を以って捻じ伏せた。
常人を遥かに上回る英気と幸運を手にし、尚も怠ける事を知らない鉄人。
そんな彼にとって、人生とは理想の自分を現実に近付けていく作業に過ぎない。
だからこそ、彼は知っている。人間と言う生物が捨て去れる機能の限界を。
理想と現実のを隔てる境界。人類が人類である為の一線、越えられないデッドライン。
才能と努力では覆す事の出来ない、謂わば種としての壁を、彼は知っている。
…………それ故に、理解が及ばない。ソイツの口元だけが三日月に歪んでいた。
──────放物線を描く筈の、安い球を狩り取ろうとした時の事だった。
空間が裂けるような錯覚がした。
螺子が廻るような体軸の回転。大地を掠った右脚と、それすらも攫うような腕の躍動。
次々に加速していった五つの関節は、人間性を燃やし尽くした機械構造に変わり。
放たれた白球は、それこそ弾丸のように────即ち、模範的なアンダースロー投球。
…………否。それ自体に、可笑しな部分は無い。疑問こそ湧くが、大したものではない。
弾丸のような球速さえどうでもいい。注視すべきは"
あの動きは。あの、骨と筋肉の躍動は、凡そ人間に許される動きではない。
呼吸の乱れ、意識の淀み、指先の震えに至るまでの、本来あって然るべき人間らしさ。
それら一切を掃いて捨てた、現代スポーツの
あらゆるスポーツマンが目指す、人体操作の極致。越えられない種の壁の向こう。
──────目の前の男は、そんな芸当をして見せたとでも?
「有り得ない。そんな、馬鹿な話が…………!」
「現実逃避なんてみっともないぜ、スーパースター?」
炎天下。嗤いかける少年の様は、先程とはまるで別人に見えた。
いや、事実として変貌していた。腰から肩、右腕にかけての筋肉量が、数秒前の比ではない。
浮き上がった血管は、明らかに巡る血液の量を倍以上に押し上げている事を示している。
指先の関節は、それこそ何千/何万球も投げたように、厚く太く変形していた。
素人のソレだった肉体は既にどこにもなく。あるのは、全盛を迎えたプロ野球選手のような肢体のみ。
余りにも劇的な変化。例え薬物を使用したとしても、これほどの変化は有り得ない。
────どうなっている。どうなっている。どうなっている。
血管の中が感情で満たされる感触を、進藤一考は初めて知った。
目の前にいるヒトガタは、果たして本当に人間なのだろうか、なんて疑問さえ湧いて出る。
青ざめた空の下、寒さなんて微塵も感じない世界で、進藤は白く染まった息を吐く。
呼吸を浅くする不明な感情。陽炎に歪む黒髪が、投球姿勢へと移る。
…………引き絞られた弓のような姿。それは、貫かれた三日月にも似て。
怪物は、先刻と寸分違わない動作で、白球に炎を宿した。
──────ボール。
遠く。電光掲示板に、緑色の灯火が宿る。鞣された革製のミットが、痛烈な声を上げた。
ストライクゾーンを僅かに逸れた、残像以外残らない、五オンス九インチの凶器。
槍を穿つような直線軌道。推定される球速は、時速百五十キロメートル近い。
不動の四番たる進藤をして、反応すら許されない球威など、まるで悪夢。
けれど、二度目の剛速球を目の当たりにした彼は、これを紛れも無い現実と認めた。
…………同時に、果ての無い絶望が彼の魂を満たしていく。
理事長は言った。
────これは、一定以上の練度を持った打者に共通する認識であるが。
投手の腕から白球が離れた時点で、選球は完了していなければならないのだ。
十八・四四メートルを駆ける一秒未満。その猶予は、打球の誤差修正にのみ費やされる。
そうでなければ間に合わない。血液すら置き去りにする、全霊を燃やし尽くす円運動。
元来、打球において思考が介在する余地は殆ど無い。真っ当な投球ですらソレなのだ。
進藤一考以上の球速を維持し、上昇することでミートを外す魔球。
如何に超中学級と言えど、未だ発展途上の身。まして、彼の才能は投球に寄っている。
メジャーリーグの四番打者ならいざ知らず、反応速度すら不足する現状で。
…………時速百五十キロメートルを刻む、浮かび上がる球を捉えろ、なんて。
「──────は。冗談じゃ、ない」
咄嗟の出来事。認識する間もなく、突風が目の前を突き抜けた。
ツーボール。遠く、緑に染まったカウントが進行する。現実に遅れて、戦慄が走った。
…………今の投球は、彼を揺さぶる為のモノでも無ければ、嬲る為のモノでも無い。
狩り取る為の球。外角高め、抉るような一撃は、確かにストライクゾーンの際を貫いていた。
ならば何故、今も進藤の首が繋がっているのかと言えば、球審が
なにせそれは、微妙なラインでの出来事。ストライクゾーンの左上隅、を突いた白球。
それこそ進藤程の至近距離でなければ分からないような、針の穴を通すような所業。
人間離れした精度のソレにかこつけて、曖昧な判定を下しているだけ。
眩暈がするような感情に揺れる。球審の慈悲は、しかし無為な時間稼ぎに過ぎない。
────そして、それも終わりだと。眼前の少年が嗤う。
冷や汗が頬を伝う。落下していく雫、瞬きの間に、予備動作は終了している。
軽く持ち上げられた左脚は、体重を載せて緩やかに前へと踏み込んでいく。
グラブを付けた左腕は、照星が如く。狙いは直線、キャッチャーミットへと。
水平に沈み込む全身。大地と一体化した肉体が放つ、滑らかな爆発。
骨/関節/筋肉の躍動、余分を知らぬ人体合理────
──────ストライク。
球審にこの判定を間違える事は出来ない。遠目からでも分かる、完膚なきストライク。
掻き乱される脳漿。胃から何かがせり上がってくる感触を、必死で飲み下す。
背中に焼き付く赤い熱は、恒星によるものではなく、きっと焦燥から来るもの。
先程から一歩と動かいていない筈なのに、呼吸は千々に乱れて止まない。
「ツーストライク、だな」
三日月のように裂けた口元。…………現実逃避気味に、思い出したことがあった。
曰く。椚ヶ丘には、姿の見えない超人が在籍しているらしい、と、そんな噂の事。
────椚ヶ丘学園中等部では、二種類の特待生制度を採用している。
一つは学力によって定められるモノ。偏差値六十六を刻む学園の上澄み、その最上位。
通称五英傑。浅野学秀を初めとした、入試/考査成績によって定められる五名分の王座。
対となるもう一つは、スポーツ特待生。規定人数だけで言えば、こちらは更に厳しい。
各学年、その代で最も優秀な成績を修めたアスリートにのみ贈られる、唯一の王冠。
過去選ばれてきたのは、いずれも圧倒的なスポーツマン達。或いは、進藤以上の才さえ居た。
だが、彼らの世代。二〇〇九年度入学生の中で、スポーツ特待生の名前が聞こえる事は無かった。
存在しない、という事はないだろう。具体的な名前を避ける一方で、噂だけが流れていた。
絶え間なく流れていた噂話。それによれば、確か、そう。陸上部の人間だ。
短距離走を主とした、長距離走を除くほぼ総ての競技で、全国大会まで上り詰めたと言う。
有り得る筈の無い与太話。当然だ。こと陸上において言えば、必要となるのは各競技に特化した肉体。
専用のプログラムを組み、可能な限りの余分を切り捨て、人間の限界に挑戦する事が陸上競技なれば。
全ての競技に特化した肉体など、有る筈が無い。そんなモノは悪趣味な冗談で、最悪の矛盾だ。
…………だが、確かに。それを目撃した人間はいるらしく。
ソイツの身体は──────
「………………は、はは」
乾いた笑いが零れ落ちる。彼はようやく、目の前の怪物の正体に思い至る事が出来た。
だが、既に遅い。気付くべきだったと言うのなら、このマウンドに上がるよりも前の話。
最早彼の退路は断たれ、眼前にあるのは断頭台へと架かる十三段の猶予だけ。
そして、また一つ。死への階段がせり上がる。身体を絞る動作は、鋭さを増して。
スリーボール。
「これでフルカウント。…………後が無くなったな、スーパースター」
喉元を締め付ける絶対零度の殺気。白銀の鎌が、進藤の首元に掛かる。
…………遅すぎるほど、今更に。彼は漸く、これが命を奪う行為だと理解した。
眩暈で黒く染まる視界。血管を満たした不明な感情が、根源的な恐怖へと置換されていく。
数秒後にに飛来するであろう絶死の投球を拒絶するように、頭蓋が軋む。
打てる訳がない。撃てる訳がない。討てる訳がない。
フルカウント。狙いは分かる、先刻のストライクコースに決まっている。
だが。狙いが分かった程度でそれが打てる道理は無い。人間の身体は、そう単純な構造をしていないのだ。
スラッガーにとって、選球の読みを当てるのは前提に過ぎず。本番はその先。
尋常を超越した眼を以って、コンマの世界で、ミリ単位の調整を行う。即ち、これこそ打球。
球が読めた所で、身体が追い付かなければ無意味。そして、凡百の打者の悩みは、そこに尽きる。
死ぬ。殺される。二つの言葉。同じ感情が脳髄を張って視界を灼く。
理事長からの教育は。溢れていた筈の集中は、最早忘却の彼方へ。
傍目から見ても、明白に。────最早、進藤一考の精神は、死んでいる。
だから。
「ここでお望み通り、アイツを出そうか」
鼓膜を通り抜ける嘲りの言葉。遠く聞こえたタイムの声。一度の瞬きの後。
────目の前の怪物は、いつの間にか見知った顔に変わっていた。
「杉…………野………………」
絶望の声は、魂さえ朽ちさせる。或いは、先程までならば一矢報いる機会はあった。
コースが分かっている以上、万に一つ。幸運の女神の微笑み次第で、勝利の可能性があったのに。
フルカウントまで長引いた秋野空との一対一。慣れた筈の目は、とうに曇り切っている。
今の状態で。初見に回帰した、今の状態で。果たして、目の前の少年の球を捉えられるだろうか。
「は、は、は──────」
……或いは、彼があと一歩冷静だったなら。
ノーアウト満塁の現状を、正しく認識できていれば。結果は違ったのかもしれないが。
金属質な、鈍い音が青い空に光る。浅く飛んだ白球と、へたり込んだ少年。
────声も出ないような三重殺。球技大会は、E組の勝利で幕を下ろした。
◇◇◇
歓喜と、落胆と、友情の声がした。
寝心地の悪い、プラスチック製の寝具。熱を帯びた世界に隠れた陰。
摂氏四十度を記録する体温と、位置を変える内臓の感触に顔を顰める。
悍ましい音と、千切れた筋線維が主張する苦痛。元の在り方を取り戻していく関節部。
異常をきたした体内環境に抗う事を止め、無機質な天井を見つめる事に注力する。
神経質に瞬く蛍光灯が、青みがかった日差しに照らされている。
霞がかった視界が、脳へと送られる情報を制限する。普段通りの、現実逃避。
四月から続く、忙しない悪夢のような日々。来年の三月には塵に変わる世界の端で想う。
限られた時間を浪費する
「どうですか、秋野君。体の具合の方は」
…………不意に、声を掛けられた。首だけを傾ければ、見慣れた白球モドキ。
観衆や野球部も粗方去ったというのに、律儀なモノだと感心する。
殺監督、改め殺せんせー。又の名を、近い将来に起こる地球滅亡の元凶である。
こんな存在に心配などされる謂れは無いが、表面上はにこやかに対応して見せる。
「ご心配どうも。でも、あと小一時間もあれば動けるようになりますよ」
「…………そうですか。君も難儀な身体ですねぇ」
「いい加減に慣れましたよ、生まれつきなので」
昔から、身体を作り替えた後は大抵こうなっている。よくある代償だろう。
極度の疲労、身に余る行動の揺り戻し。程度に差はあれ、オレは置物に成り下がる。
生存/戦闘において、ソレは致命的な弱点に他ならず、故に誰にも見せたくなかったのだが。
…………現実として。オレはこうして、自分の切り札を、最悪の相手に明かしている。
「"もし一つ目の作戦が使い物にならなくなったら、オレを出せ"、なんて。
まさか君からそんな言葉が聞けるとは思いませんでしたよ」
「────別に、大した理由はありませんからね」
そう。これはほんの、偶然のような物だ。道端で小石に躓いた程度のきっかけ。
──────勝てる筈が無いと定めた相手に、勝ちたい、なんて言う物だから。
それは、オレが諦めてしまったモノ。
だからこれは、そんな下らない熱に当てられたというだけの話。
…………届かなかった未練を焚べるように、青空を見やる。
こんなモノ、何の慰めにもなるまいが。オレの後悔が届けばいいと、淡く願った。
本編の説明じゃ足りない気がしたので補足です。読まなくても支障はありません。
《肉体の変貌》
「無価値な存在。オレに許された、たった一つ」
クトゥルフ的に言えばハウスルール。暗殺教室的に表現するなら固有スキル。
使用者の意図に応じ、都度"最適なカタチ"を取ることが可能となる。秋野の才能。
秋野に技術の概念は無く、身体が望む形に動かす事が、彼にとっての運動。
陸上競技や投球などの、機械的な動作を得意としているのはこの為である。
虚弱体質に関しても、生まれつきのこの体質が七割原因。人間向いてない。
「カラの人生。全ては、あの瞬間の為にあったのに」
CoCにおける具体的なゲーム処理は以下の通り。
・使用者は1/1d6のSAN値を減少。(この現象で一時的狂気は発症しない)
・███/███/███/███を1d3で決定した値を一時的に喪失。
・その後《POW*5》に成功する事で、一部の技能に対して確定で█████の結果を得る。
・尚、喪失した███/███/███/███の値が反映されるのはシーン/戦闘終了後。
・███/███/███/███の内、いずれかの値が0を割った際、当該PCは即██する。
・若しくは《POW*5》に失敗した場合も、"使い物にならなく"なる。
「オレの才能じゃ、あの子を救う事は出来なかった──────死ぬべきだったのは、きっと」