Q.一般探索者が黄色い触手を見た場合の反応を述べよ 作:お前の母ちゃんシュブ=ニグラス~!
ちょっとした好感度イベントその二、みたいな。
窓の奥から淡く差し込んだ、薄い藍色。影になった小鳥たちが羽ばたく音がした。
人影の減った街。僅かながらに清廉な空気が漂う明朝。
無人の街が欠伸する午前五時。普段よりずっと早い今朝、オレは目を醒ました。
時計を眺め、普段であればまず遅刻はしないであろう時間帯だと確認をし。
一瞬だけ自分に感心しかけて、そういえば今日は休校だったか、と思い直す。
七月某日。十年ほど前のこの日に、私立椚ヶ丘学園は成立したらしい。
…………まぁ、学生の身分として言えば、重要なのはそこではない。
何しろ貴重な三連休の最終日。どうせなら惰眠を貪っていたかったものだが。
意味もなく身体の具合は好調で、生憎な事に目だってとうに冴えていた。
取り敢えずオレは、水を汲むためリビングへと足を向け────
「おはようございます、秋野さん。私を忘れた夜は、穏やかに眠れましたか?」
「──────待ってくれ、律。早朝からあまりにも人聞きが悪い」
────リビングへ足を踏み入れた瞬間、苛立ちを含んだ声に貫かれた。
声の主は語るまでもない。律が級友達の元へ送り込んだ端末、モバイル律のモノだ。
棘のついた視線から身を隠すために、早足に食器棚の方へと退避した現在。
手近なマグカップを取り、水を汲む。水面には、気まずそうに歪むオレの顔。
喉へ流し込まれる無味の液体は、いっそ痛みさえ伴って渇きを奪っていった。
…………尤も、そんな感覚さえ現実逃避だ。重要なのは不服そうな顔をする律一人。
彼女が憤る理由は明白。昨晩、彼女の入ったスマホを、ここに忘れてしまったせい。
いや。それだけならば、彼女もこれ程冷たい言葉を投げかける事はしないだろう。
問題なのは、これが昨日今日の話などでは無く────
「これで
────この通り。オレが、言い訳の出来ないような常習犯であるという事だ。
降参の意を示すように両手を上げ、大人しく彼女の傍まで歩みを進める。
ここで初めて、彼女と目線が交わされる。突き刺さる視線の温度は、氷点下のソレ。
腕を組み、全身で不満を表わしているのが見て取れる。そして、一抹の不安も。
………………オレは半ば諦めの境地を辿りながら、一応の自己弁解に口を開く。
「行動に関しては申し開きもございません。すみませんでした…………。
…………ただ。別にオレは、律が嫌いだからこんな事をしてるって訳じゃなくてな?」
これは嘘偽りない真実だ。オレが律に悪感情を抱く事など、決して有り得ない。
責があるとすればオレの方。これは、極めて個人的な理由に基づいた行動であって。
彼女のした事には問題点など何一つと無いのだから、徹頭徹尾悪いのはオレだ。
そんなオレの誠意が伝わったのか、律はどこか潤んだ瞳をこちらに向ける。
「本当、ですか? 私の事が嫌いになったから、とかではなく?」
「そんな訳が無いだろ。オレが律を嫌いになんてなるもんか」
「…………毎朝の目覚ましが鬱陶しくなったから、とかでもないですか?」
「…………………………それは、その」
彼女の声に言葉が詰まる。ほんの少しだけ、心当たりがあったからだ。
現実として、彼女のアラームが無くなってからは比較的寝起きが良くなっている。
欠席/遅刻率も増加…………もとい、彼女がいなかった頃の比率に戻りつつある現状。
客観的に見て、彼女を面倒に感じたから持ち運ぶのを止めた、と判断されても仕方がない。
────その上で。目線を逸らしたオレの態度を、彼女はどう受け取ったのか。
「ほらやっぱり! 秋野さんって私の事を邪魔者だと思ってますよね!?」
「ちょっ、違うんだ律!! 待ってくれ律!! 冷静になってくれ律!?」
涙目になる少女。自身が悪手を打ったと判断するより先に、平謝りの態勢に入った。
現実として、要因はソレではない。持ち合わせた理由は、口を噤みたくなる間抜けなモノ。
重ね重ね彼女に非はないのだから、やっぱり悪いのはオレの方なのだ。
とは言え。なんの説明もなく、彼女がオレの考えを理解するのは不可能であり。
「それじゃあ、何ですか。それ以外に、こんな扱いを受ける謂れはありませんけど」
拗ねたような声色と、じっとりした視線がオレの精神に突き刺さる。
それに一瞬だけ息が詰まる感覚が走り。それから、観念するように言葉を吐いた。
「…………その。冷静に考えて、同級生を寝室に連れ込むのはどうかと思って…………」
「──────なる、ほど?」
沈黙する十秒弱。痛烈に発言を後悔するオレと、納得半分、困惑半分の律。
秋野空は男性であり。律は厳密に言えば無性だが、UIから女性と扱うのが妥当な現状。
客観的に事実だけを羅列すれば、年頃の男女が一つ屋根の下、という事になる。
我ながら思春期全開の発想で嫌になるが、状況は不健全の烙印を押されても文句を言えない。
「しかし、私は肉体を持たない人工知能ですし、何の問題も起きないのでは?」
「それはそうだが、その前に律はクラスメイトだろ。それ相応の扱いってモノがある」
…………だから、重要なのはそこなのだ。倫理や道徳、即ちモラルの問題。
当然ながら。律自身はどうあっても機械で、人工知能であるという事は理解できる。
それ故に、人間同士の同居、諸生活に代表される問題の発生は、まず無い事も。
が、徹頭徹尾彼女をOSとして扱うのなら兎も角、オレは"律"を個人として尊重したい。
同じく知性を持つ他者として、適切な敬意と距離感を持って相対するべきだ、とも。
そして、これもまた当然だが。含意はどうあれ、そんな相手を毎夜寝室に連れ込む行為は、真っ当とは言い難いだろう。
「ですが、他の皆さんで言えば、スマホごと寝室に持っていく方が殆どですよ?」
「そこはほら、それぞれの価値観に合わせてって感じで。他所は他所ってな」
「秋野さん、変な所でドライですよね。…………けど、そういうことなら…………うーん」
まさか自身の人権問題に直面するとは思わなかったのか、困惑と共に悩む律。
嫌悪ではなく、寧ろ慮られたが故に避けられる。それは機械にない、人間の機微。
前までの彼女なら、にべもなく切って捨てた論だったろうに、人らしくなったと思う。
…………まぁ。語った事に嘘は無いが、かと言ってそれが全てでも無いのだが。
──────最近気が付いたが、オレは眠っている間によく魘される手合いらしい。
つい先日の話。何でもない朝に、律からひどく心配そうに指摘されたのを、覚えている。
その日からオレは、何かと言い訳を付けて寝室にスマホを持ち込むことを止めた。
何もそれは、律に心配をかけたくなかったから、なんて殊勝な理由では無く。
彼女にあんな顔をされるのは、悪夢を見るより耐え難かった、というだけの話だ。
「…………事情は理解しました。そういう事であれば、私は構いません」
「寛大な処分に感謝します、裁判長! やっぱりプライバシーは大事だよな!」
「で、す、が、次からは充電くらいはしてくださいね? 困るのは秋野さんの方なんですから」
呆れたような視線で釘を刺す律。見れば、バッテリーは二割を優に切っている。
日付は月曜日。現代っ子としては中々の危機だが、今日に限っては問題ないだろう。
なんとも早起きの甲斐が無い話だが、椚ヶ丘学園は、本日創立記念日につき休校だ。
おかげでこうして、普段なら忙しい朝から雑談などに興じていられる、という話で。
さて、空っぽな予定をどう埋めようか、と。そんな折、思い出した事が二つほど。
「そうだ、律。ちょっと頼みがあるんだが、いいか?」
「はい、なんでしょう。充電さえして頂ければ、大抵の事は聞いてあげます」
「悪かったってば…………午前中、よければオレの勉強を見てくれないか、って」
察するに、律は自身が頼られる事に強く意義を見出している節がある。
先程置き去りにされた事へ憤りを示したのも、不要と扱われた気がしたからだろう。
誤解は解けたとはいえ、ここで一つ、彼女の機嫌を取っておくのは悪くなく。
また、直に期末考査が始まる点もある。前回から一気に点を落とす訳にもいかない。
ある程度勉強の時間を確保しておくことは、損にならない筈だ。
「…………勉強、ですか? 勿論喜んでお手伝いしますが、午後はどうするのですか?」
「あぁ。午後はまた別用があってな────」
◇◇◇
──────無機質な鐘の音が鳴る。それきり、憂鬱な拘束は解けて消えた。
それと同時に、幾人かの男子生徒が教室を飛び出していくのが見えた。
帰りの礼は既に済ませてある。その証拠に、担任は小言を吐く事なく退出している。
耳に届く悲喜こもごも。まばらな声が伝播し、いつしかそれは喧騒に変わり。
十四時を半ば過ぎた頃。五年三組の教室は、現刻を以って放課後へと突入していた。
聞こえてくる会話の内容は様々。大きく、一時的な勉学からの解放を喜ぶ声が七割ほど。
放課の約束を取り付ける声が二割、学習塾への愚痴を垂れる声が一割程度、といった所か。
周囲の出来事を横目に、少女は手早く身支度を済ませようとして────
「ねぇ蛍ちゃん! 今日は遊べる!?」
ふと、隣から声を掛けられた。その方向を見やれば、見慣れたクラスメイト。
比較的仲のいい女子生徒で、明るい性格からクラスでも人気の女の子だった。
奔放で、誰とでも仲よくなりたがる彼女は、普段から頻繁に少女を遊びに誘っていた。
…………けれど大抵、少女の返答は決まって一つで。
「あー…………ごめんね、今日も家のお手伝いしなきゃでさ」
「…………そっかぁ、蛍ちゃんのお家、忙しいもんね。残念、今日も駄目かぁ」
この通り、彼女が落ち込んでしまうのだっていつも通りの事だ。
いつも笑顔の絶えない彼女の見せた表情は、萎れた向日葵にも似ていて。
こんな事が恒常化しているこの現状に、少女とて何も思わない筈は無く。
今回ぐらいならいいか、と。ほんの少しだけ悪戯っぽく微笑みかけてから。
「────あ、でも今週末は遊べるかも。ねね、それならどう?」
「えっ、本当!? 本当に!? やった、約束だよ!!」
矢継ぎ早に喜んだ後、嵐のような彼女はまた別の友人の所へと駆けて行った。
その足取りは軽やかで、表情には満面の笑みが咲いていたのが見える。
やはり彼女には笑顔が似合う、と。少女は脳裏のメモ帳に、週末の予定を追加した。
少しだけ土曜日は忙しくなりそうだが、あの笑顔の対価と思えば、寧ろ安いだろう。
少女は小さく満足して、今度こそ身支度を終え、騒々しさを増す教室を後にした。
────冬宮 蛍*1。それが、青空の様な髪を携えた、ごく普通の少女の名だった。
蛍は自身が特別でない事を知っている。魔法を使ったり、変身したりなど出来ないから。
けれど同時に、自身が少しだけ特殊な環境に身を置いている事もまた、分かっていた。
何が特殊なのか、と言えば────数年前に、蛍が血を分けた実父と死別している事。
交通事故だった、と蛍は聞いている。伝聞形なのは、亡骸を見ていない身だから。
今よりも幼かった彼女には、酷く迂遠かつ
当時は相応に悲しんだ筈だが、多分、大変だったのはその後だった。
少女の母親である梓*2が目を悪くした。恐らくは心因性の視覚障害、いわゆる全盲だ。
そんな母一人で店を回す事は不可能であり。必然、彼女が駆り出される事になった。
先ほど、友人である彼女の誘いを断ったのも、それが原因だ。
「…………まぁ、そこはいいんだけど」
そう、そこはいい。そんなちょっとした苦労を、蛍は問題視していなかった。
他人がどう思うかは知らないが、蛍は自身の境遇をそれ程不幸とは思っていない。
常連客の心を巧みに癒す母の姿は彼女にとって憧れであったし。
時期が早まったというだけで、蛍はそもそも家業を手伝う事に異議も無かった。
…………だから。現状に不満な点があるとすれば、それは、ある少年についての事。
特に他意もなく蛍へ真っ赤な薔薇を贈るような、考えなしのあほあほ朴念仁。
最近は忙しいだとかで、店に顔を出す頻度がすっかり減ってしまったバイト(仮)。
これと言って目を引く特徴の無い筈の、黒髪黒目をした────
「うおおー! すっげぇ! どうやってんのソレ!?」
「めっちゃ器用…………いやそれ器用とかいうレベルじゃ無くね!?」
「…………?」
昇降口を出て暫く。勢いを増した日差しの下、校門前が妙に騒がしい。
小さな人だかりが出来ている。高学年から低学年まで、一纏めに群がっている。
その中心に立っていたのは、周囲の子供より頭二つ分ほど高い身長の少年だった。
気温は三十度にもなろうかというのに、暑苦しいサマーコートで肌を隠してた彼。
…………世の中、偶然というモノは確かにあるらしく。
蛍が思い浮かべていた少年が、寸分違わない姿でそこに立っていた。
そして彼もまた蛍の姿に気が付いたようで、待ちくたびれたとでも言いたげに。
「あっ、やっと来たな蛍ちゃん。久々、元気してたか?」
久しぶりに顔を合わせたのに、昨日にでも会ったような気軽さで声を掛ける少年。
居酒屋あずさが雇用した唯一のバイト(仮)にして、某名門私立校に通う中学生。
────秋野空。それが、蛍に笑い掛けた少年の名前だった。
好奇の目線が一気に蛍へと集約する感覚。見える感情はからかいの色。
蛍は混乱と羞恥で構成された視線を送ると共に、知らず、抗議の声を上げていた。
「なんっ、────なんで秋野さんがこんな所にいるの!?」
「何でって、蛍ちゃんのお迎え。都合がついたんで店に行ったら、梓さんに頼まれてさ」
最近何かと物騒だから迎えに行ってあげて欲しい、と。彼女の母は彼に頼んだそう。
実際、梓の心配も尤もではあった。最近の椚ヶ丘は、妙に不審者の目撃情報が多い。
"Gカップ女子の背後で笑う謎の影"とか、"全身白づくめの明らかに怪しい男"とか。
蛍自身、帰りの会でそんな情報が載った紙を担任から渡されていた事も確かだった。
………………が、そうであるなら人選ミスだろう。なにせ────
「くぉらァ! そこの不審者! うちの学校の前で何をしてる!!」
声に振り返れば、職員室から飛び出した百八十センチほどの影があった。
草臥れた赤いジャージと、その上からでも分かる鍛えられた身体が疾駆する。
右手には竹刀を掲げ、義憤と威圧に満ちた瞳は真っすぐに、彼女らの元へ。
「あ、やばっ、生活指導の石田先生だ!? ────逃げるよ秋野さん!」
「へ────?」
事情を説明する面倒と、誤解を解く必要性。それらを天秤に掛けて、僅か一秒。
蛍は即座に逃亡を選んだ。ぼんやりとした少年の手を引き、学校の敷地を後にする。
背後から聞こえる、小学生達の嫌味の無い別れの挨拶に見送られ、二人は駆けていった。
◇◇◇
…………追い立てられるように、校門を離れてより暫く。
学校からほど近い、比較的小さな自然公園で二人は逃亡の足を止めていた。
風の音と、僅かな足音のみが満たす静寂。周囲に、彼女らへ追い縋る人影はない。
いる者と言えば、優雅に犬の散歩をする婦人と、息を切らした少女。それから────
「…………びっくりしたぁ。急に走り出すとか、なんかあったのか?」
なんて、腑抜けた表情で暢気な言葉を語る、秋野空という少年だけだった。
蛍の額に青筋が浮かぶ。どうやらこの少年は、自分のせいだとは思っていないらしい。
まぁ、小学生に特有の身内を級友の前に晒す気恥ずかしさを分かれ、というのも酷ではあるし。
そもそもこの少年は、石田教諭が何故怒鳴っていたのかも理解していないのだろう。
けれど、蛍がじっとりとした視線を彼に送れば、自分が責められている程度の事は分かるのか。
「え、もしかしてオレのせい…………?」
「自覚なかったんだ…………。だって秋野さんの恰好、怪しすぎるもん」
秋野空という少年は、どういう訳か人前に肌を晒す事を酷く嫌っているらしかった。
基礎体温が低いからと言って、真夏であったとしてもサマーコートに袖を通し続ける。
"居酒屋あずさ"でのバイト中ですら肌を魅せないのだから、その徹底ぶりは筋金入りだろう。
つまり平時でも怪しいのに、不審者情報で学校周りは神経質になっているこの時期だ。
正直言って、蛍が校舎を出るまでに警察のお世話になっていないのは半ば奇跡だった。
「蛍ちゃん、私服のオレに対する評価辛辣過ぎないか??」
「事実だもん。この時期にコート着込んで、日中に小学校の前に立ってるとか、紛う事なき不審者だし」
これを機に自分の服装というモノに頓着してほしい、と蛍が考えたと同時。
そういえば今日は月曜日で、本当なら彼は都内の名門中学に通っている筈だと気が付いた。
「というか秋野さん学校は? せめて制服で来れば誤解も起きなかったのに」
「今日は創立記念日につきお休み。だからお店にも行ったわけだしな」
「あぁ、そういう…………」
詰まる所、不審者に不審者対策をお願いした梓の迷采配の結果という事だった。
…………こういった噛み合わせの悪さは、"大人のあるある"という奴だろう。
一先ず息も整ってきた。周囲には見えないが、石田教諭が追ってきていないとも限らない。
彼の目的がお迎えなら、叱責は一度置いておいて、早いところ帰路に着くべきだろう。
「はぁ…………とりあえず帰ろっか、ママも心配しちゃうだろうし」
「えっと、その、なんだ。ランドセルとか重いだろうし、オレが持つよ」
秋野自身、多少なり蛍に要らぬ心労をかけた自覚があるのだろう。
先程までの態度は鳴りを潜め、少しバツが悪そうに、彼自ら彼女の荷物を預かった。
それなりに重たい物だし、多少の罪悪感が蛍を刺したが、この位は特権と思い直す。
軽くなった両肩を小さく回し、蛍は家である"居酒屋あずさ"へと足を向けた。
道すがら、二人で取り留めのないような、他愛のない話をした。
互いの近況や、いつぞやに彼へ襲い掛かっていた椚ヶ丘の生徒達についてなど。
蛍にすれば、秋野にあんな友達が出来たらしい事も衝撃的だったが────
「────えっ!? あのお姉さん帰っちゃったの!?」
「あぁ。急な話でさ、去年の冬頃にはもう、な」
…………衝撃的だったのは、ホームステイのお姉さんがもう帰国してしまった事か。
宝石のような朱い瞳と、銀糸にも似た細い髪。それに見合った美貌の、綺麗な人だった。
確か、亡くなった秋野の両親の知り合いだとかで、諸事情あって彼の家に下宿していた筈だ。
半年も無い程度の親交だったが、浅からぬ縁。挨拶くらいはしたかった、と遠い空を見る。
「ふぅん…………それじゃ、秋野さんはまたあの家で一人ぼっち? 寂しくない?」
「────────まぁ、少しは。特に倒れた時とか、ちょっと危ないし」
「そっかそっか。それじゃあ、秋野さんが風邪引いたら、私が看病してあげる!」
「はははっ。ありがと、期待してるぜ蛍ちゃん」
そんな言葉を交わし合っていれば、周囲に人影と明るい声が増えて来た。
軒を連ねる店々が、競い合うかのように色鮮やかな暖簾や看板を揺らしている。
都市開発に消極的な椚ヶ丘では珍しい、それなりに近代化された歩行者天国。
現時刻を以って、二人の足は"居酒屋あずさ"を擁する、神野商店街へ踏み入った。
昼下がりだと言うのに旺盛な声を上げる店舗と、フラフラと釣られていく人だかり。
…………ふと、蒸し返すべきでもないのだろうが、気になった事が一つ出来た。
「あ、そうだ。お迎えに来てくれたのは分かったけど、あの人だかりは何だったの?」
最近の学校教育は、なんだかんだと優秀だ。
見覚えのある顔はいなかったが、体格で言えば上級生も混じっていた筈だ。
不審者の目撃情報が発生している現在、不用意に怪しい人物を囲むとは思えない。
「あぁ、アレ。蛍ちゃん待ってる間暇だったからさ、手品してた」
「手品」
「そ、簡単なコインマジックとか、他には…………こんなのとかだな」
見れば、秋野の顔色が赤くなったり青くなったりと、忙しなく移ろっている。
今の英語の先生が教えてくれたんだ、と得意げな表情で顔色を変え続ける秋野。
"イリーナ・イェラビッチの超絶秘術シリーズ講座"で修得した、任意による顔色の変化法。
秋野の"体質"であればこの手の事も可能だが、リスクなく可能なのは大変有用だと言える。
…………尤も、蛍からの視線は、白々しいモノではあったが。
「すごいけど、次からは自重してね」
「はい。反省してます、勿論」
ふと、鼻腔をくすぐった、ひどく美味しそうな匂いに気が付いた。
漂ってきたのは、甘くとろけるような脂の匂いと、油の熱気をたっぷり含んだ香り。
知らず、その方向を振り返ってみれば、近くの精肉店で新しく揚げ物が揚がったらしい。
そんな蛍の行動をどう思ったのか、秋野はフラフラと歩みを寄せ、メンチカツを一つ購入。
…………はて、あの少年は固形物は食べられなかった筈、と彼女がそこまで考えた折。
秋野は蛍の目線にまで屈んでから、さっきのちょっとしたお詫び、と言って。
「お店が始まる前に英気を養うって事で。梓さんには内緒だぜ?」
なんて。
「………………ろりこん」
「どこで覚えたのその言葉??????」
◇◇◇
"居酒屋あずさ"は、都内でも比較的こじんまりとした、家族経営の店舗だ。
僅か十二席程度のカウンター席のみで構成された、喧騒から切り離された空間。
調理場がカウンターの背後にあり、湯気や香りがすぐに客席に届くような設計だ。
木の香りが仄かに漂うここは、所謂普通の個人店と言って差し支えないだろう。
…………そんな場所で、オレはキッチンバイト(仮)として働いていた。
「ありがとうございましたー!」
蛍ちゃんの元気な声が響く午後九時過ぎ。店は一旦の落ち着きを見せていた。
下げられた皿を手早く洗い、元の位置へと。客がいない事を確認し、大きく息を吐く。
いつかに用意して貰った小さな三脚椅子へと腰を下ろせば、梓さんから声を掛けられた。
「お疲れ様、秋野君。私も蛍も、楽が出来て助かってるわ」
「いえいえ。梓さん達の為なら、オレはこの程度どうって事ないですよ」
三人の役割分担としては、厨房がオレ、ホールが蛍ちゃん、看板女将が梓さんの布陣。
因みにだが、オレが厨房担当なのは、料理の腕云々というより、消去法だったりする。
梓さんは盲目で、蛍ちゃんも火や刃物を扱うには幼過ぎるため、致し方なく、という奴だ。
無論オレも固形物が食べられない欠点があるが、味見などは蛍ちゃんに頼んで回している。
幸いな事に、オレがキッチンに入ってから味が変わった、という話は聞こえて来ていない。
「ふふっ、しんどくなったら何時でも言ってちょうだい、私が代わるから」
「…………気休めじゃなくて実際に出来るんですから、凄い話ですよね、ソレ」
年季の為せる業だろうか、全盲にも関わらず、この店内に限り梓さんは料理が可能だ。
食材や食器が所定の位置に置かれている事が前提だが、それにしたって凄まじい。
この店の事情は諸々万全とは言い難いが、日々は何だかんだと緩やかに回っている。
彼女らにはこのまま、悍ましい事象とは関わらず、どうか安穏に生きて欲しいと思う。
なんて、取り留めも無い事を考えていれば、ガラリと扉が開く音。
思考を切り替え、終業までもうひと頑張りするか、と音の方へ顔を向ければ────
「ヌルフフフ、こんばんは。こちら、まだやっていますか?」
なんか来た。
考えるよりも早く厨房の下へと身を隠す。包丁の鏡面反射で、今一度対象を確認する。
浮き気味の七三分けのカツラと、長く着られた様子の無い、折り目正しい新品同然のスーツ。
両手に嵌められた手袋には、人差し指と中指にしか芯が通っておらず、そこだけが伸びている。
何よりもあの真球状の頭部は、人間には決して持ちえない身体的特徴であり、人外の証。
────ソレは、紛う事無く。椚ヶ丘学園三年E組担任を務める、神話生物の姿だった。
首筋に嫌な汗が伝うのと同時に、蛍ちゃんから困惑したように小声で声を掛けられる。
「えっと、秋野さん? 大丈夫? 体調悪かったりする?」
「…………あ、あぁ、問題ない。取り敢えず、注文取りに行っておいで」
今のところは大人しく席に案内されている殺せんせーを、一切の油断なく観察し続ける。
状況は極めて悪い。何せ、オレは今こんな状況への備えなど一つも出来ていないのだから。
対戦性物質のナイフやBB弾は家や学校に置き去りで、煙草だって一本も持ち出せていない。
即ち、対応を間違えて彼の者が暴れ始めてしまえば、オレ達全員が為す術なく殺される。
故に。今オレが知るべきは、奴がこの場所へ来た動機。それだけが生存の鍵になる。
考えられる可能性は二つ。一つは、オレがこの場所にいると分かって来た可能性。
椚ヶ丘学園は原則としてバイト禁止だ。まして深夜帯、労働基準法に照らしてもアウト。
尤も、この点で言って問題はない、何しろコレは"手伝い"であって労働契約は非締結だ。
それに加え、先程から観察している限り、オレの姿を探している様な気配は一切ない。
つまり、奴がここに来た理由は、もう一つの可能性に絞られる。
突発的な、深い意味を持たない行動。この店に入ったのは、ただの偶然という可能性。
烏間先生曰く、この神話生物は学外ではある程度一般人と同様に過ごしていると言う。
例えばコンビニで菓子類を買い漁ったり、駅前でスイーツを買っていたのが好例だ。
ここで重要なのは前者。少なくともこの街で、地図上から姿を消したコンビニはない。
それは、店が店として常識的な対応を続ければ、暴れ回られる危険性は少ないという事を指す。
「こんばんは! 初めてのお客さんだよね、注文は何にする?」
「おやおや、これは可愛いウェイターさんですね。注文は…………カシオレにしておきます」
深呼吸を一つ。意を決し、音を立てない様にカウンターよりも上へ身体を戻す。
…………想像通り。殺せんせーは僅かにこちらを一瞥したが、それだけで目線を切った。
彼の者がオレを
反対に、もし仮にオレがここで働いているとバレれれば、奴は足繁くここに通うだろう。
だが、その点でオレは幸運だ。オレはそういった状況で羽虫の様に地に伏せ、やり過ごす経験を数多く
「いやぁ、しかし良い雰囲気づくりをしているお店ですねぇ。
照明の輝度から、小さな調度品に至るまで。良く練られた配置は、温もりさえ感じさせる」
「あらまぁ。偶に同じこと仰るお客さんがいますよ。もしかして、ご職業は探偵さん?」
「まさか、私はしがない教師ですよ。生徒からのあだ名はこ…………タコ先生です」
「ふふっ。それならわたし、タコさんって呼ぶね! わたしの事は蛍って呼んで!」
表面上温和な会話を横目に、注文にあったカシスオレンジの作成に取り掛かる。
カクテルと言っても、作り方は単純だ。大雑把に言って、三つの工程だけで完成する。
まずはタンブラーに氷を適量入れる。サイズは比較的大きめの物が好ましい。
次に、シガーカップ*3で、カシスリキュールとジュースが一対三になるよう計り入れて。
最後はマドラー*4を使って二つを軽く混ぜ合わせれば、それだけで作成終了だ。
………………非常に躊躇われるが、蛍ちゃんにカシオレを持って行かせる事にした。
「はい、タコさん。カシオレおまたせ」
「ありがとうございます、蛍ちゃん。あぁ、おつまみに鶏の唐揚げを一つ頂けますか?」
「うん、分かった。少し時間かかっちゃうけど、大丈夫?」
「構いません。私は漢字の漢と書いて漢の中の漢ですから、待ち時間も楽しみますよ」
注文を聞いて、オレは手早く下味のついた鶏肉を取り出した。
年中長袖でいる都合上、揚げ物の注文は基本的に嫌いなのだが、今夜ばかりは別だ。
料理を見ている間はオレに話しかけてくるような事も無いだろうし、大変都合がいい。
鶏をフライヤーに落として聞き耳を立てれば、どうやら蛍ちゃんが彼の者の生徒とよく似ている、という話をしているらしかった。
「へぇ~…………偶然ってあるものなんだね、やっぱり」
「ええ。これもまた生徒達と紡いだ縁というモノです────ウィっク!」
「それじゃあ、今日は学校終わりにいらっしゃったんですか?」
「いいえ、きょおは休校れすので、ちょっと遠出など……もう飲めな~い……」
………………一瞬目を離した隙に、凄まじく酔っていた。顔が真っ赤、へべれけだ。
というか、頭部が半ば液状化している。特殊メイクって言い訳で通じるのか、アレ?
因みに提供したカシオレの嵩は碌に減っていない。一舐めでああなったのだろうか。
念の為、頭の片隅でアルコールに弱い事を記憶しておく。黄金の蜂蜜酒とは何だったんだ。
「まぁ、遠出。どちらまで行かれたんですか?」
「埼玉県の入間市まで。そこで謎の超能力者と会いましてねぇ」
「あら、超能力者?」
「我々はいるまんじゅうを巡り激しい戦いを繰り広げまして。具体的には瞬間移動やアポートや爪やすりを駆使してですねぇ────」
オイなんか超能力者だとか言い出したぞ、この国家機密。
いや、確かに存在はするが。というか、広義の意味で言えば一応オレも超能力者だし。
かと言って、一般人に漏らして良い情報では無いだろう。酒に酔って口が軽くなったか。
しかも、聞いた限り凄まじく強力だ。実在するのなら、何度世界が滅ぶか分からない程の。
だが幸運にも、二人に信じている様子はない。酔っ払いの戯言程度に考えているのだろう。
「そうそう。帰りがけに、目つきのヤバい自称探偵助手にも会いましたねぇ」
「自称探偵助手」
「えぇ、あれは只管女の子を拷問してる顔でした、間違いありません。あと、こち亀読んだ事もないらしいので人間でもありませんね」
余りにも偏見が酷いし、余りにも人外判定が雑過ぎる。適当に喋ってないか??
一周回って愉快な話だからか、蛍ちゃん達はそれなりに楽しんでいる様子だ。
酔った姿など見た事が無かったが、この神話生物、かなり悪酔いするタチらしい。
旧校舎ではまず有り得ないだろうが、アルコール類は可能な限り遠ざける事にしよう。
「それと…………ここに来る途中で、鼻毛神拳継承者を名乗る不審者と遭遇しました」
いい加減に与太話も聞き飽きた、と、聴覚からの情報をシャットアウト。
目の前で百八十度の熱に染まっていく肉の塊を、感情の無い瞳で見つめ続ける。
現在二度上げの真っ最中。引き上げるタイミングは、油の爆ぜる音から水が消えた頃。
事前に用意していたレタスの上へ盛り付け、カットしたレモンを添えれば、工程完了だ。
視線で蛍ちゃんを呼び、完成した皿を"タコさん"に運んで貰うようお願いする。
…………ふと。視線を戻す一瞬、彼の者との目線が交差した気がした。
「最近はこの辺りも物騒ですから、やはり用心に越したことはないでしょう。
──────見た所、このお店の方は
当然の反応。オレがオレと分からないのも、そんな勘違いをしてしまうのも仕方がない。
吸い込まれた視線の先には、奥行きを出すために設けられた、横長の壁面鏡。
映り込んでいたのは、襟付きの白ブラウスと、膝丈ほどのエプロンスカート、黒タイツ。
肩ほどまで伸びた黒髪を、大きなリボンの付いたヘアネットで一つ纏めに揺らして。
喉仏を隠すためのチョーカーと、細めに引かれたアイラインは中性的な印象を強くする。
濁り気味の黒目と、平均よりやや高い身長を擁する
………………恥を忍んで言い訳をするのならば、これは決して、オレの趣味ではない。
が、かと言ってオレの意思が一切介在していないかと問われれば、それも否だ。
何しろ"居酒屋あずさ"は女の園だ。…………例えそれが未亡人と小学生だったとしても。
厨房係であれ、そこに男性が入り込むのは客商売としてよろしくないと過去のオレ。
オレは黒子の恰好でもしようと思っていたのに、二人からの提案/決定は女装だった。
つまり二人の趣味である。とても楽しそうに着せ替え人形にされたのをまだ覚えている。
だが、今日に限って言えば好都合だ。声さえ発さなければ、オレの素性は絶対にバレない。
オレが内心でニヤけるのと同時に、殺せんせーが提供された唐揚げを口に運ぶのが見えた。
「──────おぉ、これは。軽い衣と、鶏肉の旨味が見事に調和していますね」
「あ、タコさん分かる? えへへ、ウチの秋野さんは腕がいいんだよね」
蛍ちゃん???
「これは珍しい、彼女も秋野性なのですか。私の生徒にも同じ姓の生徒がいますよ」
「ふふっ、偶然は重なるものですよ。もしかしたら顔立ちまで似てるかもしれませんね?」
梓さん????
「うーむ…………確かに面影があるような気もしますねぇ…………」
「────、──────」
感情の読めない瞳でこちらを覗き込む神話生物に、心中の動揺を悟られないよう努める。
巫山戯ているのか、それとも悪夢か。唐揚げ一つで、状況は一気に悪化していた。
このままでは、彼の者はアルコールに鈍った思考回路でオレと秋野空を繋ぎかねない。
仮に繋がらずとも、"秋野空かもしれない"という疑惑を抱かれるという事は避けられない。
それは非常に芳しくない。それは、彼の者が此処へ恒常的に通う動機になる可能性がある。
ともすればオレは、何とかして弁明をしなければならないが、ここで声を上げるのは悪手だ。
如何に彼の者が酔っていようが、日常的に言葉を交わす相手の声が分からない筈もない。
まして、芋づる式にオレが女装している事も発覚するのだ。自己弁護はほぼ自白に近い。
かと言って、このまま黙り続けるのも論外だ。前述した通り、碌な結末にはならない筈。
つまりオレが為すべき事は、声を出さずに殺せんせーへ弁明する事だが…………不可能だ。
オレは今、どうにもならない事をどうにかしようと────いや、可能かもしれない。
発想の逆転だ。要するに
本来は不可能、だが出来る筈だ。両親から授かった才能、オレが持つ唯一の才能ならば。
僅か一瞬、オレは──────作り変えられる肉体の変形していく
そして。オレは小さな深呼吸をして、羞恥に染まる内心を覆い隠すように微笑んでから、
『そんなこと言って、口説いてるんですか? 駄目ですよ、先生ともあろうものが』
可憐な少女の声で、そんな言葉を口にした。
…………時が停まる体感一秒。オレを含め、あらゆる存在の活動が停止していた。
「………………ハッ! いやぁまさか私にそんなつもりなど毛頭ありませんよ、何しろ聖職者ですからね、しかも秋野さんは私の生徒と然程年齢が離れているようにも見えませんから、そんな相手を口説くだなんて先生的にまさかまさか────」
それから時が動き出して、自我を取り戻した殺せんせーは、慌てた様子で前言を撤回した。
殺せんせーは教師としての体裁を酷く気にする。この点、後半の言葉が余程効いたらしい。
取り敢えず、差し迫った危機は回避できた。なんとか耐えたと言って差し支えないだろう。
…………ふと、未だオレに刺さる二つの視線に気が付いた。
振り向けば──────冬宮親子が、揃って凄い表情でこっちを見ていた。
◇◇◇
「酷い目に遭った…………勤労少年に対する仕打ちか、これが」
蒸し暑くなった夜半。妙に勢いを増した風が首筋を掠めていく。
深夜零時を回ろうかという時間帯、閑静な住宅街で千鳥足を踏む人影が一つ。
言わずもがな、帰路へ着く最中のオレだった。零れた愚痴は、まぁ、大目に見て欲しい。
思い出したのは、つい先ほどまでの"居酒屋あずさ"での出来事だった。
オレが声を上げてより後は、意外なほど穏当に時間が過ぎていった。
一度変形した肉体は、オレが戻そうと思わなければ基本的にそのまま保存される。
作り変えの揺り戻しは、飽くまでも身体が元に戻る際にのみ起こるモノなのだ。
なので、変形部位の維持さえ続けていればその時点ではフィードバックは無い。
…………実際は、それほど単純な話でも無いのだが。今回は例外という奴だ。
変形させたのが喉だけだったのが幸いしたのだろう、比較的早い内に熱も引いたし。
どちらかと言えば、厳しかったのは身内の目線だろうか。
二人からの信じられないようなモノを見る──全盲であれ──目は非常に冷たかった。
正直、顔色変化法が無ければ蒼い顔をして震えていたのは間違いない。その甲斐あってか、
『ごちそうさまでした。お陰様で、とても楽しい時間を過ごせました』
彼の者はある程度呑んでから、店を破壊する事もせず、満足げに帰っていった。
余りにも大きな犠牲を払いながら、何とか事なきを得るのに成功した、という訳だ。
「………………いや、ホント。犠牲が大きすぎる、しんどい」
…………冷静になってよく考えてみれば、今日の運勢はボロボロだ。
朝は律を悲しませてしまい、昼は不審者扱いで追い回され、夜は神話生物のせいで体調悪化。
しかもゴシップ好き相手に潜在的に女装がバレ、親愛なる冬宮親子からはドン引きの視線。
自業自得の内容も含むとは言え、たまの三連休の最終日としては、あまりにも酷だと思う。
「それに、殺せんせーの件はやり過ごせたとも言い切れない部分もあるし」
去り際の機嫌の良さからして、"居酒屋あずさ"を気に入った節がある。
オレの杞憂ならそれで終わりだが、またの来訪があるとすれば非常に面倒だ。
今日ほどの苦労は無いだろうが、あの場所に殺せんせーが入り浸る事態は芳しくない。
…………いっその事、事情を話してあそこに近寄らないよう説得するか?
「いや、ないな。それだけはない」
それは、二人がオレの関係者としてアレに補足されるという事。過去、アレは言った。
"先生は決して君達には危害を加えないが、君達以外には何をするか分かりませんよ"。
…………家族や友人、教室の人間以外を地球ごと爆破することも出来る、とも。
彼の者に存在を知覚されるという事とはそういう意味で、それは決して許容出来ない。
なによりも、それでは彼に願われた/約束した事柄に反してしまう。
──────二年近く昔の話、オレは偶然から、冬宮と名乗る男と出会った。
なんということの無い、普通の男だった。剛毅で、よく笑う、ただの父親だった。
そんな男と悪辣な事件に巻き込まれ、二日か三日の時間を共に、そして彼は死んだ。
上半身のみの骸。オレが最期に託されたものは冬宮曰く、世界一の幸せ、らしい。
オレなりに、上手い事やってきたつもりだったが、結局…………
『父親を押し付ける鷹岡先生よりも、僕は────』
「────ははっ。そうだよなぁ、誰も父親の代わりになんて成れないよなぁ」
いずれ、二人には本当の事を話す日が来るのだろう。地球が終わるその日までに。
たとえその果てに、オレが殺される事になったとしても構いはしない。
ただ、それまでは。その日が訪れるまでは、せめてもの罪滅ぼしを、していたい。
「…………、………………」
悩みの種は潰えることなく、止め処無いまま増えていくばかり。
寄る辺もなく、宙に浮かんだ月を見た。蒼白な光が滲む、星の無い暗夜の下。
地上は妙に息苦しいのに、黒く染まった朧雲が、強い風に乗って流れていく。
────きっと、もう直に嵐がやってくると、帰路に着く足を僅かに早めた。
殺せんせー……お酒には弱いが、大変満足した。また行く。
冬宮蛍…………憧れっぽい年上のお兄さんが女声出し始めた。
冬宮梓…………大事な娘を預けて良いのか不安になって来た。
秋野空…………女装野郎。鷹岡戦で精神的な流れ弾を食らってた。
皆様のお陰で、本作は初投稿から一年を迎えることが出来ました。
相変わらず面白さは一切保証できませんが、皆様に愛想を尽かされるまでは投稿を続けていきますので、どうぞお付き合いください。
……こんな報告の後にアレですが、次回更新はかなり空きます。