Q.一般探索者が黄色い触手を見た場合の反応を述べよ   作:お前の母ちゃんシュブ=ニグラス~!

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テストの時間

 

 ──────椚ヶ丘は便利だけど、オレみたいな人間には少し厳しい。

 

『ありやとござっしたー…………』

 諸事情で立ち寄ったコンビニエンスストア。

 眩いばかりのネオンライトから離れて、かれこれ十分程度。

 月明りにも似た蛍光灯の下で、ふと、そんなことを考えた。

 

 浅野理事長との邂逅から、一日。

 命の気配を感じない、物音の絶たれた午後九時過ぎ。

 夜も深まった三日月の住宅街で、鉛の様に重たい足がコンクリートを踏みつける。

 現れては消えを繰り返す、固い鈍色の足音の連鎖。

 かつ、かつ、かつ。

 誰を停めるでもない信号機が、愚直に己の役割を遂行する。

 きっと、聴衆と言えばその位。

 胸に去来した孤独にとどめを刺すように、季節外れの寒風が吹き荒れる。

 それに対して、身震いをするように頭を振った。

 

 すると、ブレた視界の端に、薄暗い公園がある事が認められた。

 体力との相談は、三秒以内に決着。

 …………少しだけ、休憩していくことにした。

 

 均されていない土の感触にふらつきながら、座れそうな場所に目星を付ける。

 くるくると周囲を見渡せば、一点。

 敷地内唯一の光源の下に、寂れた長椅子を一つ見つけた。

 転倒しないよう慎重に足を延ばし、朽ちかけのベンチに腰を下ろす。

 右腕に抱えていたものを膝の上へ。白く染まった息を、宵空に向かって深く吐いた。

 ぼんやりと暗い天蓋を眺めれば、脳内を廻る悪態に気が付いた。

 

「────坂道が多すぎるんだよ、この街は」

 

 東京都椚ヶ丘市。

 日本の中心と呼ぶべき都市にあって、この街の開発は少々遅れている。

 いや、都市機能としては、小規模ながらに十全な運営ができていると言えるだろう。

 …………問題はこの、関東平野にあるまじき地形の凹凸にあった。

 隔離校舎を擁する学園の裏山からもわかるように、土地柄として、椚ヶ丘は全体的に高低差が大きいのだ。

 

 花も嘲る貧弱少年にすれば、こんなものは早急にどうにかしてほしいのだが、しかし。

 記録によれば、バブル中期。都市開発の一環として中規模の山岳を一つ消す計画があったそう。

 だが、その三割の土砂を削った時点で、当初の予算を優にオーバー。

 敢え無く撃沈、無謀な試みは失敗に終わったのだという。

 

 そんな歴史を抱えているものだから、この現代にあっても、椚ヶ丘は終始都市開発に消極的だ。

 一時はこのまま緩やかに破綻していくとまで叫ばれた街だが、幸運なことに、"緑豊かな街"というのはこの時代、一定の需要はあるようで。

 いまや椚ヶ丘は、閑静な学生街としての地位を確立し始めていた。

 この分だと、オレが生きている間に坂道が緩和されることはなさそうだ、と絶望したのは未だ記憶に新しい。

 仕方のない事だとは理解しているが、やはり、どうも。

 

「世知辛くて嫌になるぜ、本当…………」

「──────ええ。私もお気に入りのお菓子が小さくなった時は、思わず世間を呪ってしまいます」

 

 突如として隣から響いた声。

 その意味を理解するよりも早く、そして速く、胸元からナイフを振るう。

 飛翔するように大地を蹴り、致命的な傷を与えんと肉薄する。

 宙空を描かれる三本の鋭い軌跡。

 条件反射染みた、殺戮機構の在り方、その具現。

 或いは、思考よりも素早かった三連撃は─────しかし、いとも容易く躱された。

 

 対象の姿は掻き消え、オレの前方五メートル先に佇んでいる。

 心臓が高鳴る。呼吸が止まる。必殺を誓う。

 構えとも呼べない構えをとり。

 作り変えられる肉体の、変形していく悲鳴(おと)を聞き。

 あらゆる血管を紫電で満たして…………そしてふと、冷静になった。

 

「──────って、あれ。殺せんせー…………?」

 

 オレの目線の先にいたのは、大変見慣れた風の邪神だった。

 真っ黄色の皮膚と、球体の顔面。

 数多の触手をアカデミックドレスで包んだ、神話生物。

 普段から笑みを絶やさないその表情は……………何、なにその、笑顔でも真顔でもない、やたら中途半端な顔つき。

 後、絶妙にうねる触手も何なんだ。何故三本だけ色を変えているんだ。

 ………………………………。

 少し怪しいが─────多分そいつは、我らがE組の担任であった。

 

「…………殺せんせー、もう少し普通に登場してくださいよ…………オレが心臓弱いタイプなら、今日が命日に成りかねなかったんですけど…………」

 

 言いながら、膝から滑り落ちた封筒を拾い、土を払う。

 早鐘を打つ心臓を、ゆっくりと鎮めていく。

 指先が小さく震えるのは、恐らくアドレナリンの過剰分泌によるものだろう。

 体内に籠った熱を排するように、大きく息を一つ溢した。

 

「すみません、まさかここまで驚かれるとは、夢にも…………」

「音もなく真横に現れて独り言に参戦するとか、驚かないわけなくないです??」

「──────」

「そんな風に触手をうねらせても、起きた事実は変わりませんよ」

「………………いやぁ、それにしても秋野君が元気そうで何よりですね!」

「露骨に話題そらしましたね、先生」

 

 悪い大人の顔で、下手な口笛を吹く殺せんせー。

 アレで取り繕えていると思っているのだろうか。思っていそうだな。

 取り敢えず、遅ればせながら互いに挨拶を送りあう。

 殺せんせーがここに来た理由は、まぁ、ある程度見当がつく。

 それについて口を開こうか迷っているうちに、掛けられる声があった。

 

「────少し、歩きましょうか。そのまま家まで送りますから」

 

 なんとなく、強い意志が籠ったように感じる言葉。

 断るだけの理由も見当たらず、その背中に追従する。

 公園を出て、人気のない道で、沈み込むような足音だけが響く。

 …………初めの会話は、何気のないものだった。

 

「………………そういえば秋野君、今日は病欠と聞いていましたが、体調の方は?」

「ええ、はい。見ての通り、元気になりましたよ」

「それは結構です。テスト前ですから、先生、少しハラハラしてしまいました」

「ははは、すみません。虚弱なのはいつもの事ですが、タイミングってものがありますからね」

 

 我が事ながら、ほとほと自己管理が甘いと反省する。

 実のところ、テスト前後に欠席してしまうのは、これが初めてではないのだ。

 今までの自分の立場なら大した問題にもならなかったが、今の自分はE組で、何の後ろ盾も有りはしない。

 今回は当日と被らなかった為問題なかったが、次もそうとは限らない。

 少しだけ、身が引き締まる思いがした。

 

「ところで秋野君、先程から気になっていたのですが、それは一体?」

 

 指と思しき触手が、右腕の中の物品に向けられる。

 先ほどの事もあって少しだけ汚れてしまった茶封筒だった。

 封自体はかなり強くしてあるため、中への被害はないはずだ。

 そしてその肝心の中身というのは。

 

「──────ただの病院の書類ですよ。コピー取りにコンビニまで行ってたんです」

 

 努めて何でもないように、そう言い放つ。

 

「学校に提出するためのソレですか…………よろしければ今、私が預かりますが」

「んー…………いや、大丈夫です。どうせ明日、本校舎に行きますし。その時にでも、事務方の先生に渡しますよ」

「そうですか?それならそれで構いませんが…………」

「というか、聞いて下さいよ先生!」

 

 これ自体、何から何まで自業自得なのだが。

 先方さんにいくつかコピーを作ってもらえばよかった、と考えたのは、これを受け取って随分経った頃。

 それを本気で後悔したのは、いざコンビニ、と向かった駐輪場の自転車がパンクしていた時だった。

 おかげでこうして、この坂だらけの街を徒歩移動する羽目に……。

 病み上がりの虚弱少年に、どうにも厳しい世界である。

 

「ヌルフフフ、それは災難でしたね」

「笑い事じゃないですよ、殺せんせー…………」

「おっと、これは失礼…………しかし、そうですか。結局入れ違いだったようですね」

「入れ違い?」

 

 まさか、家まで来ていたのだろうか、この神話生物。

 オレの記憶が確かなら、その手のアポはなかった筈。

 スマホを取り出して確認するが、やはり何の連絡もない。

 

 それを少しだけ、珍しいと思った。

 殺せんせーは、謂わば生きる国家機密だ。

 仮に大衆に存在が露見した場合、オレ達の担任を続ける事は難しくなる。

 よって、実際に隠しきれているかはどうあれ、殺せんせーなりに隠遁生活を送っていると思っていたのだが。

 

「待った、警備員に止められませんでしたか?」

「ええ。『お前みたいに関節が曖昧な不審者入れるわけないだろ』、と…………」

「……………………」

「なんですかその納得の眼差しは!?」

 

 私のどこが不審者なんですか、よよよ、と嘆く間違いなく不審な生命体。

 構成する全ての要素が怪しいだろ、という言葉を、喉元でギリギリ押し込める。

 どうやらウチのマンションの警備員は真面目に勤務に当たっている様子。

 支払っている金銭相応の仕事は果たしているようでなによりである。

 

 それからも暫くの間、他愛もない話をした。

 勉強の話、日常の話、クラスメイトの話。

 そのどれもがどうでもいい物で、瞬き一つで忘れてしまうような物だったけど。

 それが不思議と、妙に心地よかった事を覚えている。

 

 けれど、やっぱり。

 ただ一つ、殺せんせーは、昨日の一件についてだけは触れなかった。

 世界を救う/滅ぼすことは勿論、浅野理事長そのものについてすら、ソレは言及しなかった。

 

 ────そしていつしか、深い沈黙が訪れた。

 足音も遠く、光さえ失われるような錯覚が、周囲を満たす。

 それはきっと、アイスブレイクの終わりを告げる、凪いだ合図。

 先に口火を切ったのは。

 

「時に秋野君は、勉強と暗殺──────どちらが大切だと思いますか?」

 

 沈み込むような言葉。

 暗闇に溶けてしまいそうな声は、しかし熱を帯びて周囲に滞留する。

 これが殺せんせーの、本題か。

 

「…………なんですか、それ。新手の心理クイズか何かで?」

「似たようなものです。…………よく考えてから、答えてみてください」

 

 酷い質問だ。何が悲しくて、こんなことを聞かれなくてはいけないのか。

 よく考えろと言われたけれど、オレの持つ結論は初めから決まっている。

 正直自分でもどうかと思うが、これが答えなのだから仕方がない。

 少しだけ躊躇って、けれどやっぱり、それを口に出した。

 

「──────()()()()()()()()()()()()。…………なんで今更、そんなこと聞くのさ」

 

「…………そうですか。君は──────」

 

 そんな言葉を零した殺せんせーの表情は、オレからじゃよく見えない。

 けれど、ゆっくりと空を見上げて、告げる。

 

「秋野君。明日の中間テスト、五十位以内を目指して下さい」

「…………どうしてですか?」

「そうすることで見えてくるものが、君にはある筈ですから」

 

 きっと殺せんせーの言うところは、精神的なモノなのだろう。

 ただ五十位以内をとってもいけない。

 努力の果てに得る結果に、何かを見出している。

 

 それを眩しいと思うと同時に、罪悪感が胸を刺した。

 

「………………」

 

 瞬間、隣にいた筈の殺せんせーが、宙を舞った。

 三日月に腰かける様に空を飛び、こちらを覗く神話生物。

 それは酷く幻想的で、まるで童話の一ページのような。

 

「大丈夫。きっと君たちなら、暗殺に続く第二の刃を手に出来ると信じていますから」

 

 ◇◇◇

 

 秋野空にすれば、これは後に知ったことだが。

 E組の生徒全員がトップ五十を取る、と。これは、そういう話だったらしい。

 或いはそれが、事前に分かっていれば打てる手もあったかもしれないが。

 

 しかしこれが、その結末だった。

 

「………………」

 

 生徒達の目が深く暗く染まっている。

 濁り切った視線の先には、各自数枚配られた、薄っぺらい紙の束。

 刻まれた点数と、焼き付けられた順位。

 感情渦巻いて、けれど忘我に消えて、結局声の一つも上げられない。

 誰かの瞳に、遠く窓の外の空が映る。

 晴れ間の失せた、今にも泣きだしそうな空模様が、今のE組の全てだった。

 

 こんな状況に至った理由は、明白にして単純。

 

「そもそも、どう考えても普通じゃない────テスト二日前に、出題範囲を全教科で変えるなんて」

 

 怒気を滲ませた烏間惟臣の声。

 その言葉に、一体どれだけの生徒が心中で同意したか。

 彼の耳にあてがわれたスマートフォンが、悲鳴染みた軋みを上げる。

 電話口の先の人間は、それに気づいているのか、いないのか。

 貴方は分かっていない、と逆撫でするような言葉と共に、余裕気な声で応答を続けた。

 

「うちは進学校ですよ、直前の詰込みにもついていけるか試すのも方針の一つ」

 

 嘲るようにナメ切った声色で、いけしゃあしゃあと語る男性教師。

 詭弁だ、と生徒の内で、誰かが叫びそうになった。

 なにしろ、そんなフザけた真似は彼らが入学して二年、ただの一度も行われなかったからだ。

 故にこれは、明らかな悪意による工作。

 しかしその主犯たる人間は、探るよりも早く語られた。

 

「本校舎のクラスでは、なんと理事長自らが教壇に立たれ、見事な授業で変更部分を教え上げてしまいました」

「………………!!」

 

 言葉にせずとも、誰もが理解する。

 この事件の首謀者が何者なのか、どうしてこのような凶行に至ったのか、その全てを。

 烏間の表情が、果てしない苛立ちに染まる。

 彼が生徒達に背を向けていたのは、きっと幸運だった。

 …………それは絶対に、人に向けて良い目ではなかっただろうから。

 

 凛とした立ち姿に殺意の塊を押し込め、あくまでも彼は理性的に通話を遮断した。

 

 ────余計なことをやってくれた。

 舌打ちしそうになる本能を、鉄の理性で捻じ伏せる。

 こうでもしなければ、身を焼く焦燥にどうにかなってしまいそうだ、と強く拳を握りしめる。

 この異常事態は、彼にとって…………否、防衛相、ひいては世界にとっての危機だった。

 碌な強制力を持たない書面上の契約と、この生き物が生徒とした口約束。

 それらは完全に等価であり、或いはここでこの場所を去られれば、最早人類に打つ手はない。

 

 溜息すら出せず、横目で暗殺対象を確認する。

 

 しかしその約束の当事者ですら、酷い状態だった。

 

「…………先生の責任です。この学校の仕組みを、甘く見過ぎていたようです」

 

 第二の刃を示すように告げながら、理事長の策を読み切る事が出来なかった。

 先日も、今回も。自分はあの理事長に一杯食わされた。

 己の不甲斐なさに腹が立つ。そして、なにより──────

 

「…………君たちに顔向けできません」

「………………」

 

 薄暗い沈黙が教室を包む。

 耳鳴りさえ遠くなるような、眩暈のする空間。

 永遠に繰り返される、同じ一秒間。

 

 ────それを切り裂いたのは、音の無い刃だった。

 

「にゅやッ!?」

 

 見えてすらいなかったであろう一撃を回避する超生物。

 その表情は、珍しく本心からの驚愕に染まっている。

 …………そして、たった一つの足音と共に、響く声があった。

 

「いいの~? 顔向けできなかったら、俺が殺しに来んのも見えないよ」

「カ、カルマ君!! 今先生は落ち込んで────っ!?」

 

 言い切るより早く、投げ渡される五枚のプリント。

 音速の触手でそれを受け取れば、それがテスト用紙だとわかる。

 いや、驚いたのはそこではない。

 本来悲惨な数字が刻まれているべきそのプリントに、描かれた数字にこそ、驚愕したのだ。

 

 英語、国語、九十八点。理科、社会、九十九点。…………数学、百点。

 

「俺問題変わっても関係ないし」

「数学百点かよ…………!?」

 

 周囲に集まったクラスメイト達から飛ぶ、驚きの声。

 赤羽業という少年は優秀だった。

 だからこそ、人一倍のスピードでテスト範囲の履修を終わらせることが出来たし、さらに余分な範囲まで十分に網羅することが出来た。

 そして、その結果。彼に与えられた称号は、学年四位。

 まず間違いなく本校舎へと復帰できるだけの数字。

 しかしそれを以て、彼はE組を出ていくつもりはないと断言した。

 

「…………で、どーすんの、そっちは。全員五十位以内に入らなかったって言い訳つけて、ここからシッポ巻いて逃げちゃうの?」

 

 自身で示した第二の刃を思わせる様に。

 殺せんせーの顔を覗き込むように、緑色のナイフを突きつけて。

 

「それって結局さぁ────殺されんのが怖いだけなんじゃないの?」

 

 超生物の頭に青筋が浮かぶ。

 その様子を見て、意図に気が付いた何人かが口を開いた。

 

「なーんだ、殺せんせー怖かったのかぁ!」

「それなら正直に言えばよかったのに」

「ねー、『怖いから逃げたい』って!」

 

 連鎖するように広がっていく声。

 皆が思い思いに、心の丈を叫んでいく。それは、ワザとらしくも友愛に満ちた罵詈雑言。

 殺せんせーの反応は、それこそ連鎖するように。

 皆が口を開けば開くだけ青筋が浮かび上がり…………顔を真っ赤にして、爆発した。

 

「にゅやーッ!! 逃げるわけありません!! 期末テストであいつらに倍返しでリベンジです!!」

 

 和やか笑いが、周囲を照らす。

 E組は今回のテストで第二の刃を示すことが出来なかった。

 けれど、次。それでも、と前を向いて、未来へ進むことを決めたのだ。

 全員が胸を張って、E組として、壁を破る覚悟を、確かに手に入れた。

 

 

 

 だから、それを持たない人間が一人いなくなったところで、誰一人気づくことはない。

 ──────分厚い雲に覆われた空はもうすぐ、雨が降ることを告げていた。

 

 ◇◇◇

 

 遠く聞こえる喧騒に、彼は束の間のタイムスリップから帰還する。

 

 ぼやけた視界に飛び込んできたのは、彩度の失せた一室と、他人事のような暗い一色。

 窓越しに、重い鈍色のカーテンが空に架かるのを見た。

 それに対してつい、今朝の記憶を想起する。

 彼の優秀な脳回路は、すぐさま必要な情報を揃え、演算し、結論に至る。

 

「…………ふむ。私が車に乗り込むまでは持つ、といった所か」

 

 椚ヶ丘学園、本校舎。

 開校十年で名門とまで叫ばれるようになった学校、その本拠地。

 劣等生達が永劫足を踏み入れる事のない、競合社会の楽園。

 その頂点たるを象徴するような、冷たく無機質な部屋。

 支配者の席に腰かける彼は、真実この場所における王だった。

 

 ──────浅野學峯。それがその、恐るべき人間の名前だった。

 

 するりと彼は立ち上がって、ドアノブに手を掛ける。

 歩き出した廊下に、誰かの気配はない。

 ナニカが欠けた瞳で周囲を一瞥、瞬きするように瞑目し、そして変わらず歩み続ける。

 ゆったりと刻まれる足音は、さながらその男の余裕を表しているかの様。

 

 ふと。廊下に響く機械的なチャイムの音に、耳を澄ます。

 それが過ぎ去って、一秒、二秒。

 壁伝いに伝播していく、喧騒。

 きっとそれは、中間考査が本当の意味で終わりを告げた合図だった。

 故に、彼の耳に届く反応は様々といった具合で。

 この先の休日にどこへ出かけるかの話し合いをする者。

 望んだ結果を得られなかった事による悲嘆に暮れる者。

 有り得ない物でも見たような声で狂乱に落ちる者。

 本校舎に満ちていく、喜びや悲しみや、そして焦りといった感情渦巻く、悲喜交々。

 

 ────彼はそれを、一切無感動に斬って捨て、屋外へと足を踏み出した。

 

 鼻を突く、この先の豪雨を予感させる匂い。

 それに一欠片の不安も感じる事はなく、調和のとれた足取りが続く。

 見る者が見れば、機械構造を疑うような心の在り方。

 けれど真実、彼の心臓は、きっと鋼……或いは氷で出来ていた。

 だが、そうでなければ、彼は彼でいられない。

 あの後悔は、あの絶望は彼にただ強くあれと叫んでいた。

 だからこそ彼は──────

 

 いつの間にか、目的地はすぐそこまで迫っていた。

 待機していた初老の運転手が、恭しく礼をする。

 丁寧に開かれたドアまで、残り数メートル。

 彼はほんの一瞬、冷たい瞳で空を見上げて、予定調和を嚙み締めた。

 話はそこで終わり。

 彼はこのまま帰途に就いて、現れる豪雨に触れることなく、その日を終える。…………筈だった。

 

「──────こんにちは、理事長先生」

 

 広く残響を伴った声に、學峯の手が止まる。

 それは、彼の意図しないモノ。純然たる驚愕から来る、意識のたわみだった。

 

 知らず、振り返っていた。

 雨の匂いが濃くなるのと同時に、その姿を視界に収める。

 朱い傘を差した少年。

 その奥にある瞳は、彼と同じ、喪った者の────

 

「──────こんにちは、秋野君」

 

 喜色ばんだ声と共に、ぽつり、降り出した水滴が、アスファルトに反射した。

 

 ◇◇◇

 

 一秒を経るごとに、勢いを増していく悪天候。

 鼓膜に叩きつけられる風雨の声。

 周囲に迸った緊張感は、それこそ雷鳴のようでもあり。

 重く、薄く引き伸ばされ続ける空気が、首を絞めていく。

 可視化された狂気を思わせる、声のない夕立の中に、二つの人影がいた。

 

 片や、感情の消え失せた表情で佇む支配者。

 片や、深淵のような微笑みを携えた劣等生。

 

 威圧の籠った紅い目線と、それを呑み込むような朱い傘。

 

 ……きっとその空間は、例え渦中の者でなかったとしても、壮絶を感じさせるモノで。

 初めに心を折られたのが、この場に居合わせた第三者であったのは、ある意味必然だった。

 

「────、────、ぁ」

 

 憐憫の感情さえ覚えるほどに、青白く染まった顔面。

 呼吸は先程から千々に乱れ、足腰は小鹿のように震えている。

 きっと心臓は、濁流が如き荒々しさで。

 タガの外れかけた理性は、ただ、叫び出すのを堪えるので精一杯、という風体。

 或いはその瞳は、この場から一刻も早く離れたいという意思表示だった。

 

「…………すみません、気が変わりました。今日は歩いて帰ろうと思います。 そちらの傘、お借りしても?」

 

 男にすれば、これ以上ない助け舟。

 この異質な空間から逃げ出すための大義名分が、何をせずともやってきたのだから。

 男の行動は早かった。

 いそいそと理事長へ傘を手渡し、申し訳程度の礼をした後、エンジンを吹かす。

 そのまま五秒とせず、雨の中に姿を消した。

 

 恐らくは、名も知らぬ彼にとって、浅野學峯は救世主になった筈だ。

 自分の身を案じ、守ってくれた優しい人間。

 けれど違う。それは決して、善意なんて生温い物ではない。

 あの男は、ただ邪魔だから、"そう"しただけだ。

 これから始まる事。そこに部外者は不要と、第三者であった彼を排除しただけ。

 

 そしてバサリと、目の前の男は、漆黒の傘を差した。

 

「…………別にオレは構いませんが、無駄じゃないですか、それ」

 

 何でもないような事を、何でもないようなトーンで。

 指をさして、理事長の姿に指摘を入れる。

 短い間だったとはいえ、この大雨だ。

 これ以上の被害を抑制した、と言えば聞こえはいいが、既に全身が濡れ鼠状態。

 傘を使おうが使うまいが、結果は何一つと変わらないだろうに、と。

 けれど理事長は、オレの言葉に気を害したようでもなく。

 

「世の中に、"無駄"なんてないんだよ、秋野君」

 

 なんて、至極教師らしい言葉を口にした。

 何やら実感の籠った、自戒に近しい言葉だった。

 彼の人生で得た教訓…………或いは教育論なのだろう、と推察する。

 そしてそれが、やはりどうでもいい、とも。

 

「ところで君は、どうしてこんな所に? 浅野君辺りに何か用事かな、だったら、彼はまだ校舎にいるよ」

「…………つまらないセンスですね。どうやら理事長先生には、冗談の才能はなかったようで」

 

 理事長の言う浅野君、というのは、当然彼自身の事ではない。

 浅野学秀。彼の遺伝子を継ぐ、次代の支配者。

 …………どうやら未だに、彼の事を下の名前では呼んでいないらしい。

 聞けば、自分でつけた名前だというのに、だ。

 公平さの象徴、という訳でもないだろう。この男の態度は、その先を行っている。

 

「おや、残念だ。父親として、息子の交友を気に掛けてみたのだが」

「ははは、それこそ冗談でしょう。友人関係は、互いが対等であって初めて成立するんですから」

「──────なら、間違っていないだろう。互いに自分が劣ると思うのなら、それは対等だよ」

「………………」

 

 雨音も仄かに遠く、沈黙が訪れる。

 腹の底を見透かされるような感覚に、怖気と反感が走る。

 それを内心で握りつぶし、視線によって、それ以上の言葉を牽制する。

 この行動の意図を、理解したのか、していないのか。

 

「おっと。こういうのも、君に言わせれば、つまらない冗談になるのかな」

「ええ。実に下らない話です、これきり、やめにしましょう」

 

 どうあれ理事長は、あっさりと言及を取りやめた。

 当然と言えば当然。こんなものは、前哨戦未満の軽いお遊び。

 彼にすれば………いや、オレにしたってそう。

 なにせ、オレがここに現れて、彼がこの場に残ったのは、こんな話のためじゃない。

 

 本題は、この次。

 にこやかでつまらない話は、もう十分。

 元よりアイスブレイクが必要な間柄でもなし。

 雨が強くなる刹那、口を開いたのはどちらだったか。

 

「────単刀直入に言いますが。アレ、理事長の指示じゃないでしょう」

 

 一際強い重力が、周辺を支配する。

 気持ち、降りしきる雨の声が増し始める。

 空間が歪んでしまいそうな錯覚。

 目の前にいる理事長の目が細まったのを見て、オレは自身の推理を確信した。

 

「…………ふむ。一体、何の話かな。秋野君」

「白々しい言葉はやめて下さい。それとも自罰ですか、それは」

 

 どちらにせよ不愉快極まる、と嘲り捨てる。

 理事長はそれを流してか、彫像のように佇むだけ。

 そして同時に、視線でオレへ続きを促していた。

 

「オレが思うに、テスト二日前の範囲変更は予定調和だったはずです」

「…………何故、君はそんな事を?」

「テストに改竄の痕跡がありませんでした。変更された範囲は勿論、変更前の範囲まで。余す事無くテストに載っていましたね。

 仮に急遽の変更だった場合、変更前における後半の問題は押し潰されていて然るべき、なのにそれが無かった」

「………………」

「ついでに言うなら、教師陣に疲労の色がなかったことも一因ですね。 突然の仕様変更なんて、負担は大きいはずなのに」

 

 それらが一切見当たらなかった。

 と、なれば。始めから、範囲の変更自体は決まっていたと見るのが妥当だろう。

 生憎とここは進学校。綿密な計画の上でなら、この程度の事は十分あり得る。

 そして、なによりも。

 

「E組校舎に来たタイミングが不自然だったんですよ、理事長」

 

 殺せんせーに挨拶をしておきたかったのは本当、D組からの苦情も本当。

 ただ、それが何故あの日でなくてはならなかったのか。

 忙しさを言い訳にするなら、テストを控えたあのタイミングこそ、あんな場所に足を踏み入れる事は無いだろう。

 むしろ逆に、その以前か、以後に訪ねるのが道理というもの。

 つまり、あのタイミングでなければならない理由があった。

 あの日にこそ、殺せんせーに釘を刺す理由…………結果から、紐解こうとするなら。

 

「────E組に対する妨害も、私の掌の上、という事になるんじゃないかい?」

 

 当然の疑問として、理事長の言葉が飛ぶ。

 聞く人が聞けば、開き直りにも似た逃避の声だが、それは違う。

 この男にはそんな、人間らしい機能は搭載されていない。

 そしてなにより、オレはこの男の言葉を否定できる。

 

「違いますね────よく似ていますが、理事長のやり方じゃない」

 

 鋭い瞳が、オレを射抜く。

 その所作こそが、この推察が正しい事の証明だった。

 

 なにしろこの学校における理不尽は、ただの理不尽であってはいけないのが大前提として存在する。

 ルール上、或いは見かけ上。全生徒が平等であることを好むのが、この場所だ。

 どんな劣等生にも一定の救済措置を与え、学ぶ機会を用意し、戦いの場を整え、その上で蹂躙する。

 強者が強者として君臨し、弱者のあてらう小細工を、正面から叩き潰すこと。

 それが、浅野學峯の望む強者の在り方であり、彼の育て上げる生徒のあるべき姿だ。

 

 ──────だからこそ、これは違う。

 これは彼の教育理念に反するものだ。

 恣意的にテスト範囲変更の連絡を遮断、なんて。

 そんなものは言い換えれば、こうでもしないと私達はE組に勝てません、と宣言するようなものだ。

 その方向が正しいかはどうあれ、芯の通った教育者であるこの理事長が、こんな事はする筈が無い。

 

 そしてなによりも、あの日殺せんせーと交わした会話。

 アレは、あの釘の刺し方は、連絡が行き届いていると考えている人間の言葉だった。

 情報の統制をおこなった人物の行動には、不自然過ぎる。

 

「そうですね…………平職員、は考えにくい。となれば、先生に次ぐ権力を持った男…………校長辺りの暴走って所ですか」

 

 尤も、それに抱き込まれた職員連中も大概だが。

 どうにもこの学校は、理事長の意思を読み取る力が欠けているらしい。

 生徒たちの前に、部下の躾を徹底した方がいい、と助言を一つ。

 雨露に濡れた瞳が、より一層の鋭さを伴って、こちらを刺した。

 

「──────それで?」

 

 重く閉じられていた口が開いた。

 発される言葉の圧は、一段階増している。心の弱い者であれば、膝を屈してしまうような感情の発露。

 それが怒りか、あるいはもっと別のナニカなのか、オレには分からない。

 だが、少なくともそれは、先の推理を否定するものではなかった。

 

「事はすべて、恙なく終了している。仮に君の言葉が真実だとして、それがどうした。

 ────まさかこの私に、この程度の推理ショーで、成績の嘆願をしようとでも?」

 

 笑わせるなよ、という言葉が続きそうな声。確かに見るべきところはあったが、それだけだと。

 彼は一言で切って捨てて、背を向けて歩き出す。

 しかしそれを、的外れと嗤った者がいる。

 

「話は最後まで聞くものですよ、浅野理事長────!」

 

 瞬間、胸ポケットから取り出したソレを、眼前の男に投擲する。

 ブレる右手に、自身の狙いが正確だったことを実感する。

 雨粒さえ切り裂くような、時速五十キロメートル弱。

 強い回転の加わった、凶器染みたソレを、浅野理事長は容易く受け止めた。

 

「…………こういった事も身に付くモノのようだね、今のE組の授業は」

 

 余裕綽綽、といった風体の理事長。

 その左手に掲げられたものは、A4サイズを少し上回る封筒だった。

 ソレを開けるよう視線で促せば、彼は怪訝な顔で器用に片手で封を切り、そして。

 ────小さな驚愕と共に、目を見開いた。

 

「………………驚いたよ、まさか、君が」

 

 ここまでやるとはね、と言った彼の手元には、五枚のプリント。

 それは、今日返されたばかりの解答用紙。

 英語、国語、数学、理科、社会。

 主要教科五科目のテスト、そこに割り振られた点数は…………その全てが九十五点。 

 

 総合四百七十五点。学年七位の成績が刻まれたそのテストの持ち主の名前は。

 

 ────秋野空。まごうことなく、オレの名前だった。

 

 ここに来て初めて、浅野理事長の声が弾んだ。

 それは多分、埒外の結果が目の前に現れたという事実から。

 過去一番に感情の読める瞳で、語る。

 

「一体、どうやってこんな成績を?」

「…………それを教えてもいいですが、その前に」

 

 クイクイ、と手をこまねいて。

 

「ジャケットに隠してるicレコーダー。渡してください?」

「ふむ。やはり気づかれていたか」

「当然です。ちゃんと二つとも、お願いしますね」

 

 愉快そうに口角を上げる理事長と、宙を舞うレコーダー。

 恐らくは他にも仕込んでいるだろうが、十分だ。

 この距離、この大雨の最中なら、余程仕込んだ場所がよくない限り、碌な音声は聞き取れやしない。

 そして今、その可能性があった機器はオレの手元にある。

 

「秋野君。君がこの結果に至るまでは、二つの奇跡が必要だ。

 ──── 一つ、E組を排斥している本校舎での情報を、テスト実施より早く手に入れる奇跡。

 ──── 二つ、察知からテストまでの、最大でも四十八時間の間に、ここまで勉強を仕上げる奇跡だ」

 

 それは、理事長をして奇跡と呼ぶだけはある代物だった。

 

 なにしろ最初の時点で無理難題のそれだ。

 隔離校舎まで足を運んだ理事長に違和感を持って、そこから?

 半ば軟禁状態のE組生徒が、一体どうやって本校舎の事情を知る?

 素直に本校舎の友人に聞くか?きっと誰も答えてはくれまい。

 未だ人気の根強い磯貝や片岡でさえ知らされていなかった辺り、そう強くはないにせよ、情報統制も敷かれていたかもしれない。

 もしくはこの理事長自身を探るか?それこそ論外だ。

 この男は、仕事であれ私生活であれ、一切の隙が無い。

 無い物を狙ったとしても、それが得られることはあり得ない。

 

 そして、もしも仮に、テストに関する情報を得たとして、だ。

 

 テスト範囲の変更が通達されたタイミングを考えるのなら、テスト開始までの猶予時間は、どれだけ長く見繕っても丸二日。

 それどころか、理事長がE組校舎に来たのが変更日の放課後である以上、その猶予はさらに縮む。

 オレは超常的な手段をいくつか持ち合わせているが、それでどうにかなるような物でも無い。

 その程度の時間で新規の範囲を網羅することは、それこそマッハ二十でもなければ不可能。

 残る手段は、カンニングなどがあるが、それも賭けが過ぎる。

 結局、E組内で履修を完了させていたのは赤羽のみ。

 オレと彼の席は離れていたし、奥野と言ったか、あの教師がそんな行為を見逃すとは思えない。

 

 けれどオレは、事実としてソレを突破し、今ここに立っている。

 それはどうしてか。

 決まっている、不正染みた動きに対抗したいなら、こちらもそうあればいい、という話だった。

 

「──────()()()()()()()E()()

「素晴らしい────!」

 

 両手を広げ、歓迎するような声の理事長。

 それは、その男にしては珍しい、純粋な賛辞の言葉だった。

 

 私立椚ヶ丘学園は中高一貫の進学校である。

 中等部と高等部。

 そのどちらもが、浅野學峯の支配下にある。

 故にその運営体制は、鏡合わせの様な関係にある。

 

 椚ヶ丘高校三年E組は、確かに存在する。

 裏山や、学園の敷地内にその姿は確認できなかったが、高等部では周知の事実として扱われていた。

 恐らくは裏山よりも離れた場所に、別の隔離校舎を臨んでいるのだろう。

 

 その扱いも、オレ達ならよく知っている。

 差別、不遇、嘲笑。

 噂に聞くだけでも悲惨な、落伍者たちの末路。

 

「哀れな事に、内部進学してからE組に落ちた先輩がいましてね」

 

 中でも絶望的なのが、そういった手合いだ。

 あの学校で過ごした以上、一度はE組を差別する。

 そして同時に、そうなりたくないと強く願う。

 その恐怖心を火にくべて走り続けるのが、椚ヶ丘学園の在り方で、理事長の理想だ。

 

 ならそれが、もし。かつて差別してきた人間と同じ所まで落ちたのなら。

 そのプライドは反転し、致命的な絶望へと置換される。

 

 そんな相手を操るのは、赤子の手を捻るよりも容易い。

 

「成程。その彼/彼女に情報収集を行ってもらったと…………すると、あぁ。二つ目にも納得がいく」

 

 けれど同時に、確かにその先輩方は、中学の頃に限ればエリートだったのだ。

 今の自分を見つめるよりも、輝いていた過去を尊ぶ方が、何倍も彼らの心を慰めてくれる。

 だから、一山いくらの金銭と、面白みに欠ける賛辞さえ贈れば、この通り。

 

「ええ。情報遮断発覚後に、先輩たちから過去問を貰いました」

 

 そこからは人力だが、それでも十分だ。

 貰った問題と、過去自分が受けてきたテスト。

 そこから傾向と、好まれる解法について分析すれば、ほら、見ての通り。

 ────学年七位を取ることだって、そう難しい物じゃない。

 

「いやぁ、結構結構。だが、私にそれを話して問題無いのかい?君のそれは、ともすればカンニングとして摘発することも出来る」

「出来ませんよ。証拠の類は全て隠滅しましたし、連絡も公衆電話を使いました。

 理事長が脅せば吐く人もいるでしょうが、肝心のオレからの自供は、この手の中にしかない」

「本当に素晴らしい生徒だ、君は」

 

 ははは、と乾ききった笑いが、湿った空気に溶けていく。

 誰もいない駐車場。

 ネタばらしの時間は、それきり幕を下ろした。

 ならば、次の演目が始まるのは必然。

 本題はここから。切れる手札を切ったのなら、あとは交渉の時間だ。

 

「──────さて。愉快な話だったが、これを私に伝えて、君はどうする気なのかな?」

 

 理事長の瞳から、一気に熱が消えていく。

 表情から人間味が消え失せて、為政者としての顔がこちらを覗く。

 或いは、先程まで見せていた感情全てが嘘ではないかと疑うほどの。

 

「君の選んだ手段がどうあれ、結果的には、ただ良い点を取っただけ。私を脅迫しようにも、君の提示した物は、それに値する物でもない」 

 

 むしろ、ただ自分の行動を自慢したかっただけ、と言う方がしっくり来る、と彼は言う。

 その通り。

 例えその過程がどれだけ異質だったとしても、その結果は常識の範囲内だ。

 ならば、オレの意図は何なのかと言えば、そう大した事じゃない。

  

「ええ。ですから、理事長。ご褒美を下さい」

「…………ご褒美?」

 

 首をかしげる浅野理事長。

 この人のこんな所作は初めて見る、とつい笑ってしまいそうになる。

 それを奥歯で噛み殺して、尚も話を続ける。

 

「だってそうでしょう?頑張った生徒には相応の報いがあるのが、この学校の仕組みなんですから。

 オレは貴方の目論見さえ超える事態に際して、これ以上ない結果を出したんです」

 

 それは彼を脅しつけるには足りず。

 しかしただ所持しているには持て余す。

 だから、そう。こんな物は、褒美をねだる道具として扱うぐらいで、丁度いい。

 

「ははは、そうか、君はそう来るんだね」

「理事長先生を愉しませるだけのパフォーマンスは出来たでしょう?」

「あぁ、勿論だとも。そして気になるよ、君のような人間が、私に何を望むのか」

 

 金銭か、推薦か、或いは特待生への復帰か。

 列挙される可能性の、そのどれもが違う。

 

「決まっていますよ、それは──────」

 

 全てはこの瞬間のための布石。この要望を通すための苦労。

 たった一言、フラッシュバックする理事長の言葉。

 『────なんとも悲しい生物(おかた)ですね。

  世界を救う救世主となるつもりが、世界を滅ぼす巨悪になり果ててしまうとは────』

 

「──────貴方の知る、殺せんせーの真実を教えてください」

 

 硬直は一瞬。

 目の前の人間は、確かにその言葉の意味を理解したように頷いて。

 

「…………思い出した。君はあの場にいたんだったね、忘れていたよ」

「話してくれますよね、理事長先生」

「勿論だとも。さて、何から話そうか────」

 

 逡巡することすらない、理事長の言葉。

 降りしきる雨の中、果たして説得は成功した…………かに思われた。

 

 刹那──────雨粒を伴った暴風が吹き荒れる。

 その一秒後。自分の瞳は、ここに第三の影が現れたことを認めた。

 そして同時に、時間切れだ、とも。

 

 オレと理事長の間に、割って入るような形で現れたそれは、黄色い雨合羽に身を包んでいた。

 数えきれないほどの触手を宿したその生き物は、ともすれば普段よりも旧支配者然としている。

 雨露のベールに阻まれて、その表情を伺い知ることはできない。

 しかしその声は、この雑音の中にあって、誰よりも響くものだった。

 

「あまり、関心しませんねぇ」

 

 怒気とは違う、けれど強い感情を感じさせる声。

 オレは甘んじて、この先の未来を受け入れる為に心を固める。

 "霧"の結界を使わなかったことが敗因…………いや、どうあれ突破されていたか。

 後悔にも似た反省がオレの胸中を巡る中で、理事長が口を開く。

 

「こんにちは、殺せんせー。私達に、何かご用向きでも?」

「いいえ、何も。秋野君が教室から居なくなっていましたから、探しに来ただけです」

「…………すみませんね、体調不良なもので。早退しようかと」

「いえ、結構です。ただし、次からはちゃんと先生に報告してくださいね?」

 

 意味のない、表面上だけの言葉の応酬。

 背中にじっとりと汗が滲んでいく感触が這う。

 自分が呼吸出来ているのかさえ、今となっては自信がない。

 そして速さを尊ぶ超生物は、会話においてすらそうだったらしく。

 

「──────所でお二人は、こんな所で何を?」

 

 より一層の緊張感が風雨を加速させる。

 緊張から、乾ききった喉が裂けるように痛む。

 ちらりと理事長に視線を送れば、余裕そうな表情とは裏腹の真剣な瞳。

 意思の疎通は、きっとそれだけで十分だった。

 

「…………私の息子の近況について、語り合っていただけですよ」

「おや、もしやご子息もこの学校に?」

「そうですよ、浅野学秀って男子で…………オレがE組に落ちる前の友達だったんです」

「しかし早退の途中だったのか。いや、これは無理をさせたね」

「いえいえ、E組になってから疎遠だったので。面白いお話でしたよ」

 

 ははは、と笑いあって、それが真実であるように見せかける。

 なんとも白々しい会話だが、オレ達はこれで、至極真面目だ。

 暴力による抵抗が不可能な以上、恐らくは言葉による偽りが最善手なのだから。

 そして、それを証明するかのように。

 

「………………そうですか。それなら、何も問題はありませんね」

 

 殺せんせーは、意外にもあっさりと、この話題をフイにした。

 それで話は終わり、とでも言うように。また裏山へ戻るのだろう、足をそちら側に延ばしていく。

 音速を超えない、人間並みの移動速度。

 それに少しだけ違和感を覚え、必然、視線が集中する。

 そして、ピンと触手を一本立ててから。

 

「誰かの過去をむやみやたらに暴くなど、野暮というものですからね」

 

 警句にも似た言葉を吐いて捨て、そのまま音速を以て姿を消した。

 

 …………息が詰まるような感覚が、少しずつ薄れていく。

 酸欠にも似た状態の頭が、チリチリと焦げ付くような錯覚を覚える。

 もう暫くすれば、深呼吸も可能になるだろう。

 

 眩暈のするような視界で正面を見れば、変わらぬ立ち姿の理事長先生。

 殺せんせーは化け物だが、やはりこの男も大概だ。

 それが当然とでも言うように、何食わぬ顔で口を開いた。

 

「…………そういうわけだ。面白い話をしてもらったのに、すまないね」

「別に。構いませんよ、命と情報なら、当然命の方が惜しい」

 

 しかし、この先どうしようか。

 まず間違いなく、殺せんせーに警戒された。

 教師としての業務や私生活がある以上、本人に四六時中見張られる、という事はないだろうが。

 使い魔や魔術を使えば、監視は容易いだろう。

 

「それでは私は、ここで失礼するよ」

 

 考えている間に、理事長がこの場を後にするべく歩き出す。

 結局、徒労だったかと肩を落としそうになった時。

 

「──────、──────」

 

 すれ違いざま、そんな言葉を掛けられた。

 振り返るような愚は犯さない、だが、見開かれる両目が止められない。

 

 少しの硬直の後、オレも駐車場を後にする。

 雨の勢いは増していくばかり。

 そんな中にあって、オレは歪に上がる口角を自覚した。

 

 

 

 

 




評価バーの色が赤になって、フルになって、お気に入りが二千、おまけに日間ランキング入り…………????
面白さは一切保証できませんが、皆さんに愛想を尽かされるまでは続けようと思います。

追記:皆様にお詫び申し上げます。本話の終盤、ノリと勢いで理事長の説得を成功させたところ、この先のプロットが凄まじい勢いで崩壊を始めた為、8/27に一部展開に修正を加えました。
皆様の期待を裏切るような結果になってしまった事、深くお詫び申し上げます。
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