Q.一般探索者が黄色い触手を見た場合の反応を述べよ 作:お前の母ちゃんシュブ=ニグラス~!
鼓膜を切り裂いた、歪んだ歓声。
目の眩むような、ネオンライトの舞台。
数多、無機質な視線と、串刺しになる己が肢体。
灰になって消えてしまいそうな炎天下で、瞳と指先に炎が灯る。
けれど吐く息は白く、凍えるように心臓は脈動する。
音は何処か。恐ろしい声はなく、故に悲鳴も鳴りやんだ。
仮初の安穏、価値のない勝利の美酒に酔う。
きっとそこは、ありふれた台無しの在り処。
人でなし跋扈する、数多ある人外魔境。
今までの全てを投げ出して手に入れた、秘匿の楽園。
空っぽを満たす虚ろな現実に、蕩けて消えてしまいそう。
真実私は、このまま壊れてしまいたかった。
摩耗、損耗、過剰負荷。
いつか、どこかで見かけたスクラップ。
貫かれたような空洞と、二度と動くことのないブリキ。
あんなモノに変わるくらいなら、死神だって温情だ。
「──────、ぁ」
目を付けたのは彼の方。目を付けさせたのは私の方。
初めは鏡の姿で、目を凝らせば深淵に変わる。
恐らくは、その少年は死んでいた。
濁った瞳に、目を背けたくなる。
けれど鋭い刃は、既に首元に掛かっている。
揺らぐ記憶と、青ざめた空。
言葉は一つ、幽かに沈む、響きを孕んで。
「お前、コイツを見たか──────?」
その日。私は、本物の空っぽを垣間見た。
◇◇◇
もう数日も前の話に、彼は思いを馳せた。
事の始まりを辿り、束の間の時間旅行へと出発する。
夏もほど近い隔離校舎の一角。
二十余名の生徒達が、思い思いに雑談へ花を咲かせているのが、彼の耳に届く。
殺せんせーと呼ばれる怪物が教室へとやってきて、凡そ二ヶ月弱。
紆余曲折あった中間テストも終わり、数日が経った。
手ひどい挫折、心折れるような細工。
けれどそれでも、起きた現実を彼らなりに呑み込んだ頃。
尚も前を向くと奮い立った彼らの前に、おあつらえ向きな出来事が一つ。
椚ヶ丘中学校に、新しいイベントが舞い込んできた。
曰く、京都修学旅行二泊三日。
それは学校なりの、勉強を頑張った生徒への労いか。
単なる以降の行事予定のしわ寄せか。
あるいはその両方、というのも有り得るだろう。
いや、生徒達にしてみれば、大人の意図なんてどうだっていい事だ。
クラス全員で、旅行に行くこと。
恐らくは、それそのものが楽しみで仕方が無いのだ。
あの殺せんせーでさえ、浮かれ切って舞子の姿をするほど。
どうあれクラス中、皆が皆、この先のイベントに胸を躍らせている中で。
かつてなく深刻な危機を迎える男が一人。
椚ヶ丘の制服に身を包んだ、黒髪の少年。
髪色同様の黒い瞳には、色以上の深い絶望が湛えられている。
それをくしゃりと握りこむ姿は、今までになく感情を感じさせる所作。
もしもその場に、彼を……秋野空を深く知る者がいれば、この本心からのこの行動を、珍しいと評するだろう。
或いは教室の中にも、そういった手合いはいた。
例えば──────
「…………その、大丈夫?」
彼の隣に腰下した、彼女……速水凛香などがそうだった。
心配五割、困惑三割、好奇心二割で構成された言葉。
その声に、彼は嗚咽にも似た、返答とも呼べない返答を繰り返すだけ。
彼女にすれば、こうも取り乱した秋野の姿は、意外極まるものだった。
彼女から見た秋野空と言う少年には、実体がなかった。
のらりくらりとした昼行燈。
大真面目な顔で零点を記録し、その癖、先日の中間テストでは赤羽業に並ぶ高順位を叩き出す。
軽口は叩くし、間の抜けた言動をすることもある。
けれど、それがどうにも、彼女には空虚なものに見えていた。
だからこそ、人の多いこの教室で彼がこんな姿を晒しているのが、意外だったのだ。
「………………速水さん、世界は苦痛に満ちているんだよ」
「どういう感情なの、それ」
いつの間にか机に突っ伏した秋野。
彼が久方ぶりに発した体系がかった言葉は、やはり意味の分からないものであった。
彼女に分かるのは、それが彼なりに世を儚んだ言葉だという事だけ。
それにしたって悲観主義が過ぎるように感じられるが。
「いいかい速水さん、一緒に修学旅行に行ける友人がいないと、人間はこうなるんだぜ」
「あぁ、そういう…………?」
つまり、彼の絶望の根源はそこらしかった。
思えば先程から、誰かを誘う様子も、誘われる様子も見て取れなかった。
秋野自身に遅れる事、およそ十分ほど。
彼女はようやく、彼がこのクラスで浮いている事に気が付いた。
しかしそれも考えてみれば当然の帰結と言うもので。
「そもそも班決めに参加しないんじゃ、ね」
「うぐっ…………!」
小さく響く苦悶の声は、図星を突かれた証だった。
今朝方に行われた班の決定。
あろうことかこの男、遅刻によってその機会を逃していた。
気怠さに任せて、午後からの登校へと切り替える愚行。
普段の行いによるツケが回ってきた形だった。
けれど秋野も、そして彼女も、その理由は大したものではないと把握している。
何故なら、例え公平な機会を損失したとして、不公平なりに機会は残るためである。
班を決め損ねた人物がいたとしても、空いている班に入ればいいだけの事だ。
もしも当人に、それだけの人望があれば、の話だが。
「あんまりクラスとコミュニケーション取ってこなかったもんね、秋野」
「うぐぐっ…………!!」
二度目の正論は、より深々と突き刺さった。
真実彼は、このE組での対人関係の立ち回りに失敗していた。
その原因は単純明快、シンプルなコミュニケーション不足。
秋野自身、態々数えるような真似はしていないが、総計十分以上会話した人間は殆どいない。
赤羽が復学してきた際の情報源とした潮田渚と、偶然席が隣だった速水凛香。
まともな会話と呼べる事をしたのは、この数十日で、この二人だけ。
それ以外では、集団暗殺のブリーフィングに参加する程度。
秋野がまともに会話するような相手と言えば、軒並み大抵、教師陣ばかり。
その内容も、おおよそ真っ当と呼び難いものばかり。
具体的に言えば、暗殺依頼と尋問、脅迫にも似たおねだり、と言った風情。
どうあれ、常識的な学生のするようなことは一切なし。
むべなるかな。この際、修学旅行へ碌に誘われなかったのは、当然の帰結と言えた。
「まぁ、それだけでもないような気がするけど」
「…………? なにが」
「別に。結局はあなた次第だったのだし」
「良くわかんないけどごめんなさい…………」
これは、彼自身には自覚の無い事だが。
元のクラスの出自が、彼の孤立を後押ししている節がある。
椚ヶ丘学園におけるA組は、言ってしまえば、真の意味での"特別強化クラス"だ。
E組のような、名ばかりのソレとは異なる、謂わば特進クラス。
偏差値六十六を刻む椚ヶ丘中学校の、その上澄み。
世代における最優秀生徒の集団。劣等生を虐げる第一線。
彼がいた場所は、果たしてそんな場所だった。
だからこそ、彼はこの場所に落ちてきた当初から、奇異の視線を浴びせられてきた。
なにせ、エリート街道から隔離校舎だ。
一体どれだけの理由があっての事か、と考えるのは、およそ人間らしい発想の発露だった。
或いは陸上部の人間でもいれば、晴れる疑問もあったのだろうが。
E組にそんな生徒は現れず、そして秋野は殆どの交流を断っていた。
必然、無理解と言う断絶は、ただ深くなるばかりだった。
「速水さーん…………たのむよー…………哀れなオレを班にぃ………………」
そんな事実を知る由もなく、情けない言葉を上げる若干一名、その正体は語るまでもなく。
緩慢な動作で、彼女に対して手を合わせ拝む秋野少年。
窓の先から、温かい陽光が差し込む。
それは滔々と速水へ降り注ぎ、彼から見れば、さながら後光のそれに代わる。
祈る神などは疾うに死んだ秋野をして、願望を持たざるを終えない相手。
もはや彼に選択肢は残されていない。
比較的関係の良好な、速水凛香の班に入れてもらう事。
それだけが、彼に残された望み、なのだが───────
「私に頼まれても…………そもそも、班の人数一杯だし」
「──────」
繋ぐ二の句は無し。死の宣告は瞬く間に。
後光は一瞬にして、雲間に消えて姿を消した。
さながら銃で撃たれたように、彼は脱力して天井を見上げる。
元より祈る神などいないが、いよいよ死ぬまで行ったらしい、と。
形ばかりに十字を切って、彼は己が運命を呪った。
いよいよ彼の脳裏を過り始める、教師陣との修学旅行。
間違いなく気を遣い、遣われる地獄の二泊三日。
暗殺に参加できない事は良いにせよ、客観的に見てあまりにも無様だ。
二人組作って:レベル九十九、といった所。
「もうだめだ、修学旅行の集合写真はワイプでよろしく」
「そ、そこまで…………?」
思えば彼は、本校舎にいた頃も学秀か、その取り巻きの人間位としか話していなかった。
クラスにおける会話に、それ程の価値を感じていなかったのは一つ。
けれどそれ以上に、その在り方でも、不便が無かったのが問題だった。
後悔をいくつ抱えたとしても、失った機会は二度と戻らず。得てして世界は無常なりや。
背中に突き刺さる速水からの憐憫の視線。
窓から差し込む灰色の光で、塵になって消え去りたい、なんて彼が考えた頃。
不意に、
「──────秋野君、少しいい?」
鈴のような声が響いた。
秋野の目線の先にいたのは、確かにその声に見合う美少女。
思わず見惚れかけるような黒髪のマドンナが、そこにいた。
────神崎有希子。
真面目でおしとやかな和風美人。
あまり主張をしないので目立たないが、クラスの男子は、軒並み彼女の事が気になっている節がある。
吉田大成辺りは、彼女に話しかけられた時、聞いたことも無いような猫なで声を出すほど。
秋野の隣に席を持つ彼女だが、速水ほどの関わりが無い事を、彼は念のため再確認する。
一瞬だけ速水の方向を見るが、彼女もこの来訪は心当たりのないものである様子。
彼は少しだけ警戒のギアを上げ、言葉を紡ぐ。
「時間には余裕があるけど、何か用?」
「うん、修学旅行の班の話なんだけどね」
「………………はい」
思わず敬語が飛び出る秋野少年。
このタイミングの、その話題は、彼にとって致命傷を抉る行為に等しい。
既に、精神的には決着のついた会話。
無感情な瞳で、速水は二人の会話を眺める。
「それで、まだ秋野君の入る班が決まってないって聞いて…………本当?」
「はい、最後の望みも絶たれた秋野少年とは、オレの事ですけど」
八つ当たり気味の、拗ねたような感情が混じる声。
言いながら、彼は自分の目が彩を失っていくのをありありと感じた。
全くもって情けない話だが、そもそも格好いい男ならこんな状況には至っていなかった。
胸を締め付ける虚無感。
それをどう克服したものだろう、なんて現実逃避さえ脳裏を過る。
一方神崎はと言えば、秋野の言葉に大して気を悪くした風でもなく。
むしろ穏やかに微笑んで、彼を真っすぐに見つめてから。
「良ければ私の班、まだ空いてるんだけど、どうかな────?」
彼は再び、祈る相手を得る事に成功したのだった。
◇◇◇
それから話はトントン拍子に進み、オレは晴れて四班の仲間入りをした。
メンバーは赤羽、杉野、渚君、茅野さん、奥田さん、神崎さんの計六名。
それぞれが根明な生徒達だったのも幸いしてか。
憂鬱だった修学旅行は、反転、心躍る程楽しみなものに変わっていた。
……それが。
「──────それがどうしてこうなんだよ、クソ!!」
渾身の悪態は、人混みの中に溶けて消えた。
こちらに視線をよこす人物さえいない。
或いは、居たとしても直ぐに人混みへ流されて消え去っている。
逃避染みたタイムスリップを終え、現実へと帰還する。
目の前に現れたのは、変わらず絶望的な事態。
東京駅、地下一階。
大迷宮かと見紛うような空間で、オレは、人間の洪水に飲み込まれていた。
碌に身動きも取れない中で、案内を確認するべく天井を見上げる。
しかし望むものは無く、吊り下げられた時計が代わりに告げる、刻限五分前。
人混みの中で悪化していく体調をよそに、時間は着々と進んでいく。
焦燥に駆られる心を無理やりに宥め、次の一手に思考を割いた。
目的地は東京駅二階、十七番線に待機しているであろう東海道新幹線。
だから手始めに、地下からの脱出を急ぐべきだろう。
…………などと考えたのは、これで六度目。
言うは易く行うは難し。事の解決は一向に進まず、代わりに増していくのは後悔ばかり。
「調子に乗って地下鉄なんかで来るんじゃなかった…………!」
自業自得の、過去への怨嗟が零れ落ちる。
修学旅行のしおり、十ページ目。"普段とは違う行動は可能な限り避けましょう"の言葉。
前日に間違いなく確認したはずだが、しかし。
いざ当日が訪れて、駅に着いてみれば、嫌な好奇心が全身を満たして、それで─────。
後は語るべくも無い事だ。
殺せんせーが避けろと言った理由を、もう少し考えるべきだった。
なにしろ、かれこれ何十分と人の海と格闘しているが、一向に階段が見える気配がない。
横目に見える店々の風体が変わっていることから、恐らくは移動しているのだろう。
だが、それでも突破口は一つと見つからない。
「せめて道連れがもう一人くらい居ればなぁ…………!?」
今回の敗因は、先に挙げた地下鉄と、もう一つ。
家が駅から近いからと、誰の付き添いもなくここまで来たことだ。
やりようはいくつもあった。
例えば、椚ヶ丘駅で班員と電車を合わせて合流するとか。
そうじゃなくても、クラスメイトの誰かと一緒にいただけで違った筈だ。
有り得ない話にはなるが、仮に浅野と来ていたなら、この様な無様は晒さなかっただろう。
「十分早起きはしたつもりだったが、これじゃ────」
これでは意味がない、と悔恨の言葉が漏れる。
ここ最近、失敗続きで嫌になりそうだ。
赤羽の暗殺に始まり、ビッチ先生への尋問、理事長との交渉を経て、クラスメイトとの交友まで。
どれもこれもが上手く行っていない。
赤羽の件に関しては、まあ、失敗してよかったものとしても、だ。
昔から運は比較的良い方だとは思っていたが、理事長の一件で焼きが回ったか。
…………いや、そもそも幸運なぞではなく悪運の類だったか、と思い直す。
なにしろ真っ当に運の良い人間なら、邪悪な事件の類には巻き込まれないのだし。
不意にクラりと、視界が歪む。
「──────、っ」
…………長く人混みに居すぎたか。
いい加減、人酔いの不調も誤魔化しが利かなくなってきた。
こんな事になるのなら、酔い止めの一つでも買っておくんだった。
尤も、こんな状況じゃ口に入れるのも一苦労だろうが。
だがなんであれ、無い物ねだりをしても仕方がない。
今ある手札が全てだし、それを駆使していくのが人生だ。
だから、使える手札があって、それで状況が打開できるのなら、そうするべきなのだが────
「かくなる上は霧の創造、だが…………」
言葉にためらいが籠る。
意図せず、眉根が歪に変形するのを知覚した。
気分で物を決めるタイミングではないが、それにしたって気が乗らない。
作戦はこう。
一、オレが使える全魔力を注ぎ込み、可能な限り広域に"霧"の結界を張る。
二、飲み込んだ人間全員を結界内に幽閉。
三、そして内部の位相をずらし、オレは"霧"の中の東京駅構内から階段を探し、目当ての場所へと駆けあがる。
問題は、魔術による"霧"の範囲が見当もつかない事。
複雑かつ広大な地下は、それだけで効果範囲の検討を難しくする。
そして尚且つ、"霧"の結界のキャパシティを、オレは知らない。
指先ほどの空間に、人間一人を押し込められるのなら問題はない。
だが、"霧"の体積そのままが最大容量だとすれば、展開時点ですでにギリギリ。
外部から誰かが、ズラした位相に侵入してくる可能性もある。
そしてなによりも。
「この往来で魔術は………………」
魔術とは超常であり、即ち異端の象徴だ。
秘匿の義務はない、だが、この場所でそれを使うという事は、自分が異常者であると吹聴する行為に他ならない。
それではまるで、かつてオレが見てきた存在達と同じだ。
刻一刻と迫るタイムリミット。
残り時間は多く見積もって二分程度。
苦悩はどれほどか。
けれど逡巡は、きっと一瞬にして。
────血管に紫電が走る感触。
日常のために非日常を用いる決意を決めたところで、視界の端に何かが見えた。
「…………?」
身長二メートルを優に超す巨体。
よく見慣れたアカデミックドレスと、人間にしてはおかしな関節。
それが人混みの中、何やら忙しくうねっている。
まず間違いなく見間違いは無いが、念のために近づいて確認する。
人ごみの間を何とか抜けて、前へ、前へ。
そうしていつしかたどり着いた先で。
「うーん、この洋菓子、中々に先生好みですね。帰りにも買って帰りましょうか──────にゅや?」
なんか、スイーツ買ってる神話生物がいた。
◇◇◇
「秋野君、大丈夫かな…………」
新幹線が最初の駅を出て、およそ五分ほど。
電光掲示板に映る次の駅を横目に、少年はどこか遠くへ視線を泳がせる。
時速三百キロ近いスピードで流れていく車窓の景色。
それを見てぽつり、彼は溜息の様な心配を零した。
彼────潮田渚の心配事はもっぱら一つ。
刻限になっても現れない、最後の班員の事だった。
彼にとってその班員…………秋野空という少年は、存外に愉快な人物像として映っていた。
大真面目な顔をしながらトンチキな言葉を吐いて。
たまに早く登校すれば、死んだ顔で大岩の上に座っていて。
多少なり見えない壁を感じる事もあったが、思春期としてはむしろ健全なもの。
渚からの人物総評としては、いい意味でも悪い意味でもE組に馴染める人間、といった具合。
…………だからこそ、不安なのだ。
遅刻魔、サボり魔、居眠り魔。
悪い意味でE組に馴染めるとは、つまりそういう意味で。
どうにも彼は、時間と言うものに若干ルーズな様子だった。
────いや、不安なのは厳密にはそこじゃない。
その事態が見当ついた段階で、とうに対策は取ってあった。
前日にはもう、十二分に言い含めたつもりだったし、事実彼も真剣そうな顔で頷いていた。
いくら秋野にせよ、ここまでしてまさか寝坊なんてミスはする筈も無し。
と、なれば。秋野に責のない形で遅刻している、と考える方が妥当で。
「考えたくないけど、事故、とか…………」
「んー、大丈夫なんじゃないの? ほら、スマホに連絡来てるわけだし」
渚の不安を掻き消すような、少しだけ間延びした声。
声の方向に振り向けば、燃えるような真っ赤な髪色と、咥えた『~煮オレ』がトレードマークの彼。
殺せんせーの腕を唯一破壊した、E組随一の優等生。
彼の真横に立つ人影は、赤羽業その人だった。
そしてずい、と差し出される液晶画面。
そこには確かに、次の駅から新幹線に合流する旨が記されていた。
それに対し、渚の正面に腰かけた杉野友人からの声も飛ぶ。
「そうそう。多分大方、寝過ごして品川まで行っちまったとかだって」
朝早かったし、正直俺も眠いし、と付け加える野球少年。
それを聞いてから、数瞬、彼は考えて、その考え方に乗ることにした。
だって、どこかで事故に遭っている、なんてものよりも実に平和的だと思ったから。
そんな事を考えていれば、杉野が続けて言葉を紡ぐ。
「それはそうと、どっちかっていうと問題は殺せんせーの方だろ」
「──────なになに?殺せんせーの話?」
「あ、おかえり、三人とも」
場に現れたのは、茅野カエデと杉野友人、奥田愛美、そして神崎有希子の三人。
いずれの生徒も、E組のに来てから仲を深めた友人で、修学旅行を共にする班員たち。
その内一人の姿を見て、杉野に小さな緊張が走るのが目に入る。
が、それに誰が反応することはない。彼の恋慕は、当人らを除く公然の秘密だった。
赤羽はソレを興味なさげに一瞥した後、茅野の問いに答えた。
「そういえば殺せんせー見てないって話。…………そっちは?」
「あー、確かに。殺せんせー目立つのに」
「隣の車両まで買いに行きましたけど、特にそれらしい影はなかったですね」
奥田の言葉と共に、各人に配られる色のついた飲み物達。
感謝と共にやり取りされる金銭。
中でも赤羽は、早いものでもう二本目の『~煮オレ』に手を出していた。
全員に物品が行き届いたのを見届けて、神崎が口を開く。
「でも、殺せんせーのスピード的に一分もあれば京都に着くのよね」
「そう考えると問題ないっていうか…………ちょっとズルい?」
「うん、改めてすごい話だよね、本当……………」
しみじみと呟かれた渚の言葉には、そんな超生物を殺せるのか、という不安も含まれている。
自分の班も、他の班だって殺す段取りを組んできたけれど。
それでもやっぱり、少しだけ自信が揺らいでしまう、と。
彼の弱気な気持ちを知ってか知らずか、閃いたように赤羽が声を上げる。
「そう考えると秋野もさぁ、仮に本気で遅刻してたとしても、リカバリー利くんじゃね?」
「はは、地球を壊す超生物がタクシー代わりか!」
「──────あぁ。おかげで致命傷は免れたぜ」
「いくら殺せんせーといえどそれは…………うわぁっ!?」
窓の外からの声。
スクロールされていく景色の中で、影が二つ。
片や窓に触手を張り付けるタコ型生命体、片や青白い顔でそれに捕まる一般人。
どこをどう見ても、異常極まる光景だった
「なんで窓に張り付いてんだよ殺せんせー!! あと秋野君はなんでそんな所にいるのさ!?」
潮田渚、全霊のツッコミが飛んだ。
他の班員はあまりの出来事に絶句。
しかし概ね同じ意見らしく、彼の言葉に、こくこくと首を振って頷いている。
「いやぁ…………駅中スウィーツを買っていたら遅れまして。次の駅までこの状態で一緒に行きます」
あまりにも間抜けな弁明。
…………どういうわけか、彼の中に殺せるという自負が戻ってきた。
いや、本当。どうしてかは分からないけれど。
どうあれ、殺せんせーの弁明を聞いたのなら、被告人はもう一人へと移っていく。
必死に殺せんせーの服を掴む黒髪少年。
そして、肝心な時に遅刻魔を発動させた彼は、スッと目を逸らして。
「調子に乗って地下鉄で東京駅行ったら見事に迷子になりました…………」
通勤ラッシュ、マジナメてました、なんて、目も当てられないような失態を語る。
事実として、渚は頭を抱えた。
渚にすれば分からない事だが、他にもそうした生徒がいたかもしれない。
修学旅行でやってはいけないミスの五指には入る行動。
実際、秋野自身も確認した通り、修学旅行のしおり第十ページにはそんな旨が記されている。
「発車ギリギリになって、スイーツバクバク食べてた殺せんせー見つけたんで、連れてきてもらいました。
───────本当、ご迷惑をおかけしました!!!」
行き当たりばったり、ここに極まれり。
聞いたことのないような声量の謝罪も、ただ虚空に消えていくだけ。
教師と生徒、揃いも揃って間抜けだった。
渚は呆れて言葉も出ない、と言う風体。それを横目に、杉野が一つ。
「殺せんせー、仮にも国家機密だろ? 流石に新幹線の窓にいるのは目立つんじゃ……」
「あぁ、ご心配なく。保護色にしてますから、服と荷物が張り付いているように見えるだけです」
「それはそれで不自然だよ!!」
「ちなみにこの保護色、無駄に高性能なんで、オレの頭までコピーするぞ」
………………つまり?
「張り付いた服と荷物から、オレの頭だけ出ているように見える!!」
「より目立つじゃねーか!?」
はーはっはっは、と高笑いを上げる被疑者その二。
何とはなしに反感を持たせるような行動は、どうしてか渚には、作為的に見える。
無理をしている、或いは、感情の波にも似たモノが、荒ぶっている。
動揺や疲弊はよくあるが、しかしここまで表面化した感情を見るのは初めてだった。
余裕がないというか、空元気じみてるというか、そもそも顔が青白いというか。
違和感から渚が彼を見つめれば、それをどう受け取ったのか。
秋野はやっぱり、バツが悪そうに顔を背けて。
「いや、その。生身で時速数百キロの移動は怖いっていうか…………無理にテンション上げないと、発狂しそうで…………」
「思いの外切羽詰まった理由だった!?」
「にゅや、であれば先生の触手で目隠しを……」
「あ、それだけはやめて下さいね、本当に」
不意に、車内アナウンスが流れる。
恐らくは後一分もせずに、次の駅へと到着するのだろう。
──────椚ヶ丘中学校、三年E組四班、波乱の幕開けだった。