Q.一般探索者が黄色い触手を見た場合の反応を述べよ   作:お前の母ちゃんシュブ=ニグラス~!

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今回作者の趣味度高めです、ご注意下さい。


台無しの時間

 午後三時を迎えた現在。

 砂利を踏みしめる音が周囲へと響き渡る。

 頭上には、足音さえも飲み込んでしまうような、鈍色の曇天。

 今にも泣き出してしまいそうな空に、彼は天気予報が外れる事を予感した。

 

 錆びの入った立ち入り禁止の看板を横切る。

 その奥に鎮座する、かつて栄華を誇った、遊技場という夢の跡。

 或いは、暗い闇を助長する温床。

 煤けてしまった廃屋の中へと進み入る、複数の影。

 

 ゴクリと、誰かが生唾を飲み込む音。

 肌を焼くような緊張感と、僅かな高揚。

 重苦しい扉を開き、彼らは戦場へと足を踏み入れる。

 出迎える、カビの生えた塵芥。

 鼻の奥を衝くような不快感に、思わず目を瞑ってしまう。

 

 即興で描いた茅野/神崎救出作戦のシナリオ。

 ──────瞼の裏に映りこんだのは、先程までの会話だった。

 

『よし、作戦内容を説明するぞ────』

 

 彼らの考えた作戦は、いたってシンプルなモノだった。

 実働部隊は二つ。赤羽業を筆頭とした殲滅隊、秋野空のみで構成された斥侯隊。

 これらをそれぞれ、正面玄関及び、裏口に配置。

 二部隊による敵本拠地の襲撃を目的に、敵の本陣を目指していく。

 

『…………なぁ、これ。やっぱり秋野が危険すぎないか? いくらなんでも一人は…………』

『ははは、心配してくれてありがとう。けど問題ない』

 

 杉野からの心配に、秋野はそれを笑って流した。

 二手に分かれて行動する理由は、大きく分けて二つ。

 一つは先述した通り。挟撃、または包囲をしたいため。

 そしてもう一つは、本拠地としている部屋以外の不良を、すべて殲滅するためだ。

 

 この作戦のキモは二部隊による敵本拠地の挟撃、及び包囲だ。

 敵に退路を与えるか、或いは討ち洩らしによって、逆に包囲される事態だけは避けなくてはいけない。

 即ち、敵の人数や配置を探り、報告する役割の人間が必要不可欠。

 だからこそ、秋野に白羽の矢が立った。

 

『オレの役割は、あくまで直接戦闘するモノじゃないからな。一人だけなら、仮に下手を打っても簡単に逃げ切れるし、むしろ負担が大きいのはそっちの方だぜ?』

 

 秋野の言葉に、赤羽は余裕だとでも言いたげに口角を上げる。

 相手に気づかれるよりも早く、敵を沈める事。

 それは、口で言うよりもずっと難しい事だ。

 高度な隠密性の維持、静の状態からの躍動、そして確実に急所を狙う技量。

 どれもこれもが、真っ当な日常生活で手に入れ難いモノ。

 

 ────けれど、彼らは常日頃から、それを求められる教室に生きている。

 

『どちらかと言うと、この際問題なのは俺等の殲滅力でしょ』

 

 それは、最終目的地…………つまり敵の本陣に辿り着けた場合の話。

 目下、彼らを悩ませる最大のリスクは、攫われた二人にあった。

 

 恐らくは建物の最奥、不良勢力の大半が待機していると考えられる場所。

 その他の不良の殲滅が終わり次第、タイミングを合わせ突入する手筈となっている。

 だが、問題点が一つ。

 

『二人が人質に変わる前に、不良を全滅させられるかどうか…………』

 

 突入した後、敵方に対して最もされたくない行為とはつまり、人質作戦だ。

 あの二人を盾にされれば、挟撃部隊は一転、無力な案山子へと変わる。

 たとえその行動が形だけのモノだったとしても、戦局的な優位性は確実に失われてしまう。

 

『ねぇ、カルマ君。不意打ちで倒しきれる最大の人数は?』

『…………そうだねぇ。運が良ければ俺が二人やれて、他は一人ずつとして…………計六人が限界かな』

 

 迷いなく突撃していいのは四人までって所だね、と赤羽が言葉を締めくくる。

 先の路地裏で確認できた不良勢力の人数は、赤羽に打倒された人間も含めて十四人。

 無論、次の獲物探しに出る事による減衰、或いは同校の不良が参加し、人数が増加している可能性も勘定に入れなくてはならない。

 秋野は少しだけ、考えるような素振りを見せてから、

 

『…………わかった。事態が急を要する場合のみ、六人だったとしても奇襲する。

 七人以上だった場合は、それはそれでオレが交渉を行ってみる。…………決裂の合図は、"渚君は女の子"だ』

『待って????』

 

 凄まじいパワーワードの衝撃と共に、彼の意識は現実へと帰還した。

 自分がぼんやりとしていた事実を認識し、急いでスマホの画面を確認する。

 可能な限り光度を落としたスマホは、着信が無かったことを告げていた。

 

 暗い屋内では通信手段が限られる…………隠密奇襲を行おうとしているのならば尚の事。

 音の出る電話の類はまず使えない。

 よって彼らは、無音に設定した電話の、コール数による簡易的な暗号通信を行う事にした。

 

 コール数一の場合…………即ち、着信時間が一秒の場合。

 隠密による不良一人の発見/撃破に成功、を意味する。

 コール数二の場合…………即ち、着信時間が二秒の場合。

 殲滅完了、本丸前待機、を意味する。

 コール数三の場合…………即ち、着信時間が三秒の場合。

 作戦継続不可能であると判断される班員の負傷、を意味する。

 コール数四以上の場合…………即ち、着信時間が四秒以上の場合。

 予測できていない、何らかの重大なインシデントの発生、即時撤退、を意味する。

 そのどれもが起きていない事実に、渚はひとまず安堵した。

 

 陽光も差し込まないような薄暗い廃墟。

 潜入開始から暫く、彼らは未だ一度の会敵もなく。

 恐ろしいほど静かに、そして順調に、歩を進めていた。

 

 その先頭を行く赤羽の瞳には、普段のような油断は微塵も見当たらない。

 警戒心のギアは既に最大。

 見敵必殺を誓った空気は、ナイフのような鋭さをを帯びている。

 

 ふと、深い沈黙が場を支配する中で、耳に届く音が一つ。

 

「…………あの、秋野君、大丈夫でしょうか。ああは言ってましたけど…………」

 

 小さな心配の声が、背後から漏れる。

 本来それは、決して褒められるべきものではない。

 この作戦が隠密を前提としたものである以上、下手に声を上げる行為は推奨されない。

 だが、不安の滲む言葉を前に、それを指摘できる者はいなかった。

 

「………………」

「だ、大丈夫だよ奥田さん。秋野君、変な所で用意いいから」

「さっきのGPSとかな。…………今更だけどなんで持ってたんだ、あんなの」

「自分の財布に仕込んでたみたいだよ? 今までに三回は無くしてたんだって」

「変な所で抜けてんのなアイツ…………」

 

 呆れたように呟く杉野。

 昨日の新幹線の件もそうだが、しっかりしているのかいないのか。

 なんとも判断に困る塩梅だ、と渚などは考えてしまう。

 こういうのもメリハリがある、と言うのだろうか。

 

「…………俺、秋野の事、ちょっと誤解してたかも」

「誤解、ですか?」

「アイツってほら、元A組だろ? だから、なんて言うか、ちょっと偏見の目で見てたんだ。

 クラスの皆ともあんまり話したがらなかったし、冷たい奴だな、って」

 

 だけど違った、と。彼は語る。

 不良に襲われた時も、こうしている、今現在も。

 誰かの為に、率先して危険な役割を背負い込もうとする。

 その在り方が、危ういと思う反面、とても好ましいと思ったんだ、なんて。

 ちょっと恥ずかしいな、と彼は言葉を締めくくった。

 

 修学旅行は、クラスメイトの意外な面が垣間見えるイベント。

 いろいろな人の、いろいろな顔が見られる時間。

 杉野の見つけたそれは、間違いなく。

 秘密主義にも似て、関わりを持とうとしなかった彼の、新たな一面だった。

 

 メンバーを取り囲む空気が、少しだけ和やかなモノに変わる。

 緊張感はそのままに。

 言うなれば、無用な力が抜けた、良いコンディションへと変貌したのだ。

 …………たった一人、黙秘を貫いていた男が、口を開くまでは。

 

「──────ねぇ、渚君。何か変じゃない?」

「? 変って、何が…………?」

 

 妙に緊張感の籠った言葉。

 渚から見える赤羽の横顔は、焦っているか、或いは嫌な予感を感じ取った者のソレだった。

 小さく困惑しながら渚が問い返せば、赤羽は足を止めて小さく考え込む動作を見せる。

 それきり、順調だった行軍は停止する。

 班員が困惑していく中でいつしか。まさか、と赤羽は呟いて。

 

 ──────突如として、駆け出した。

 

「え…………!?」

「何やってんだカルマ!?」

 

 朽ちかけた建物内に響き渡る足音と息遣い。

 動揺も束の間に。

 困惑した脳内のまま、彼らも駆け出した赤羽を追いかけるべく、走駆する。

 

 本来、彼の行動はあり得ないモノの筈だ。

 この作戦は敵に行動を察知されないことが大前提の、奇襲攻撃だ。

 本陣に突入するまでは、隠密行動は必須。

 無論談笑なども推奨される行為ではないにしろ、これは比較にならない。

 

 すれ違う扉全てを叩き開けていく。

 腐りかけの金具が次々に悲鳴を上げる。

 彼らが追いかける赤い髪、その行く先は、敵の本丸と思しい部屋の、その扉。

 一直線に最短距離を描き、そして。

 

 果たして、その城門は、打ち破られた。

 

「………………ははっ。やっぱりそう言う事ね」

 

 赤羽に遅れる事、数秒ほど。

 三人分の足音が彼の背中に追いついた。

 

「はぁ…………はぁ…………ど、どうしたの、カルマ君」

 

 肩で息をしながら、膝に手をついて問う渚。

 他のメンバーも、言葉にこそしないが彼と同意見だった。

 これでは折角の作戦が台無しだ。

 けれど、誰一人として責める事は無い。

 少なくとも、赤羽業と言う少年は、そんな下らない真似をしないと、彼らは理解していた。

 だからこそ問う。何故、この行動に及んだのかを。

 

「渚君さ、秋野から一回でも着信、あった?」

 

 渚の手にあるスマホを指さす赤羽。

 確認してみるが、そこには変わらず、着信が無かったという事実だけがある。

 …………違和感が、脳裏に過ぎる。

 

「人の気配が少なすぎるんだよ、ここ。一度も会敵しなかった事もそうだし、見える限りのドアを開けたのに、どこにも不良が見当たらない」

 

 思い返してみれば、赤羽が道中で開けた扉の先に、人影は一つとしてなかった。

 そして同時に、これほどの物音がしたというのに、様子を見に来る人間さえ見当たらない。

 強い違和感を覚える。…………これじゃ、まるで。

 

「どうやら、一本取られたみたいだね──────秋野にさ」

 

 赤羽の目線が、扉だったものの先へと向かう。

 敵本拠地と目されていたその部屋は、もぬけの殻になっていた。

 

 ◇◇◇

 

 始まりは何だったか、それは彼女自身、良く分かっていない事だ。

 引き金を引くまでに経た出来事は多すぎた。

 祖母の言葉、父の重圧、そして、開放への憧れ。

 そのどれもが原因なような気がして、けれど結局、どうでもいいと、切って捨てた。

 

 だって、それがなんであれ。今存在する事実は、一つだけなのだから。

 

 無機質な画面が、無価値な勝利を告げる。

 叩きのめした相手の顔は、筐体に隠れて見ることが出来ない。

 それは、溜息すら出ないような完全試合。

 一山幾らのゲーマーには目も暮れず、ただ、己を楽しませる挑戦者の到来を待つ。

 

 そこは都内某所、何の変哲もないゲームセンターの一角。

 目と耳と、そして心を蝕むような、夜半の楽園。

 無意味で無価値なモノこそを至上とする、歪みの具現。

 粗野で下賤で汚らわしい、真っ当な人間なら目を背けたくなるような、そんな場所。

 

 果たして彼女は、そこに君臨する女王様だった。

 

 ある日、彗星のように現れ、遍くを薙ぎ払った超新星。

 腕に覚えのあるゲーマー達が総力を挙げて挑み、そして須らく蹂躙されていった。

 向けられた好奇の目は、いつしか熱狂へと変わり。

 彼女を取り囲んだ侮りの眼は、畏怖の感情を映し出すようにまでなった。

 故に、このゲームセンターにおいて、彼女に話しかける者などはいない。

 

 ………………たった、一人を除いて。

 

「よう。────勝ててるか?」

 

 聞き間違いを疑うような、ある種冒涜的な言葉。

 この場所における彼女は、揺るぐことのない絶対の象徴だった。

 即ち、あんな質問は、極度の恐れ知らずでも吐かない禁句に他ならない。

 必然として、戯けた言葉の主に、注目が注がれる。

 だが、その先にいたのは黒髪黒目、凡庸という言葉の似合う、ただの少年だった。

 

 ゆるり、彼女が振り向く一瞬。交差する視線。

 凍り付いていく周囲の空気に、陽気なゲームの音が空回りする。

 忘却された一秒間は、さながら永遠のように。

 音さえ忘れてしまったような世界で、誰かが固唾を飲んだ。

 

 …………ふと、彼女が立ち上がる。

 彼女の足の向かう先は、見慣れた自動ドアの出入り口。

 その様子に、誰もが確信する。あぁ、あの男は彼女の機嫌を損なったのだ、と。

 だが、少年は何食わぬ顔で彼女の後ろを追従した。

 それだけならば、或いは可笑しなことはない。それは単に、少年が彼女の機微を感じ取れなかった、というだけで方が付く。

 奇妙だと叫ぶべきは、彼女がそれを、一切咎めない事だ。

 

 混乱に陥るオーディエンス。

 彼女らの歩みは止まることなく、いつしか楽園を抜け出した。

 追いかけるだけの蛮勇を侵すものは、居なかった。

 

 ────彼女が店を出れば、生温い風が肌を撫ぜた。

 

 眉を顰めたくなる感触に、寒気がする。

 なんとなく居心地が悪くなって、彼女はすぐ傍の、赤い外壁にもたれかかった。

 対する少年はといえば、熱帯夜の気候を意にも介していない様子。

 見るだけで暑苦しいサマーコートに身を包み、遠い満月に目を細めていた。

 けれど話をする為か。彼女に倣うように、壁へと背中を預けた。

 

 …………あまり、人前で話しかけないで欲しい、と。

 

 開口一番、棘のある言葉が飛ぶ。

 普段の彼女を知る者なら、三度耳を疑っても足りない言葉。

 けれど、それは当然だった。

 ここにいるのは、普段の人間らしい彼女ではない。

 今の彼女は、名前を持たざる非人間。

 であれば、在り方からして変貌して、然るべきなのだ。

 

 けれど少年は、そんな冷たい一言を、シガーケース一つで受け止めた。

 白く、細長い煙草。

 それに対し小さく瞠目した彼女に、気づいているのかいないのか。

 どこからともなく現れたライターに火が灯り、彼は紫煙を宙に溶かした。

 

「悪かったよ。有名人だったんだな、お前」

 

 悪びれる様子もなく、言葉と煙を吐きだした、名も知らぬ少年。

 煙草を吸うのか、と彼女が問えば。

 

「たまにな。今日は特別だ」

 

 辺りに薄く、霧が立ち込める。

 彼女には、街灯の明かりさえ、どこか遠いものに感じられた。

 閉じ込められたかのような、夢を見ているかのような。

 けれど悪くない気分だと、彼女は瞬きを一度、ゆるりとした動作で行った。

 

 不意に、隣に立つ彼が煙草の火種を消した。

 まだ半ば程残っているそれを、携帯灰皿に押し込める。

 勿体ない、と思ってしまった彼女の感性は、果たして正しいのか。

 だがどうあれ、それ以上に聞きたいことが彼女にはあった。

 

 もしかして────見つかったのか、と。

 

 主語のない、抽象的な質問。

 一見意味を持たないその質問は、彼女らの間にある一種の暗号だ。

 そもそもの話、少年と彼女の関係は、詰まる所そこに集約するのだから。

 

 数週間ほど前、彼女がここに辿り着いてすぐの事だった。

 顔も思い出せないような誰彼を、ゲームで捻じ伏せた直後の事だった。

 丁度、今日と同じ姿で、少年は彼女の前に現れた。

 

 恐ろしく精緻な少女の似顔絵と共に、質問を投げかけられた。

 ────この少女を知っているか、と。

 彼女は、何も知らない、と返した。

 その返答に満足したのか、少年はそれきり彼女への興味を無くしたように、周囲の人間にも聞き込んで回り、そしていつしかいなくなった。

 初邂逅は、そんな具合で。

 全く以てロマンのない、仰々しいモノだったと、彼女は過去を想起する。

 

 なのに二度目があったのは、きっと、彼の瞳をよく覚えていたから。

 凡庸にも思える真っ黒な瞳孔は、彼女から見れば、何よりも昏く映っていた。

 故に興味が湧いて、二度目の来訪時に、声を掛けたのだ。

 

 それから、数日に一回の逢瀬が始まっていた。

 少年の探し人の情報を受け渡すための、五分足らずの言葉の応酬。

 その彼が特別なことがあった、等と言うのだから、つまりそういう事だろう、と彼女は考えたのだ。

 けれど。

 

「違う──────今日オレがここに来たのは、警告の為だ」

 

 日常生活において、そう聞きなれない言葉。

 曰く、少年にとっての特別な出来事とは、それだったらしい。

 この場にいる人影は二つだけ。

 警告をする者がいるのなら、それを受ける者が必要で。

 面白い事に、この空間に存在するのは彼女と少年のみ。

 ……仄かな緊張が、彼女の内を走る。

 

「お前を攫う計画が、秘密裏に進んでいるらしい」

「────、ぇ」

 

 意味のある言葉は、しかし生み出すことが叶わなかった。

 或いはそれは、聞く者が違えば鼻で笑ってしまうような、荒唐無稽。

 けれど、彼女は知っている。

 この男は、そんなつまらない冗談を口にはしない事を。

 

「暫くはゲーセン…………どころか、夜遊びそのものを控えた方が良いな」

 

 彼女は少年の忠告を胸に止めながら、持て余した感情の行き先に困窮した。

 衝撃はさながら、頭部に金槌を振り抜かれたように。

 されど、その精神は、不思議と凪いでいた。

 本当、彼女自身が首をかしげてしまう程に。

 

「…………意外だな。お前はもう少し取り乱すと思っていた」

 

 意外そうに目を丸くする少年。

 その姿が、なんだか年相応のモノに見えて笑ってしまいそうになる。

 彼女は少年の言葉に小さく同意すると同時に、情報の出所を尋ねた。

 

「生憎だが、知ったところで意味はないぜ。ゲーセンの状態を見て確信した。今回のは、通り魔みたいなモンだな」

 

 少年曰く、彼女は悪目立ちし過ぎたのだという。

 他者の目を引く優れた容姿と、強力なゲーマーという話題性。

 それが不貞の輩の耳に入ったことで、計画が発足してしまったらしい。

 計画の詳細まで探れていない以上、安易な行動は控えるべき、という話だ。

 

「まぁ、お前、滅茶苦茶可愛いからな。そりゃ不良も────い"っ!?」

 

 ………………胸の中に溢れた衝動に任せ、彼の右肩を殴りつける。

 近年稀にみるグーだった。会心の一撃だった。必殺ばかばか撲滅拳だった。

 SA3やCAは雑に撃っても強いのだ、思い知れ、この野郎(ばーか)

 

「き、急に機嫌悪くなりやがって…………別にいいけどな。とにかくそういう訳だから、オレ達が会うのもこれで最後だ。

 態々誘拐のリスクを背負ってまで、他人の私用に付き合うことも無いだろ」

 

 言われてから、そんな単純な事実に気が付いた。

 彼女は今後、夜半に出歩くことを制限され、故にこのゲームセンターにやってくることはなくなる。

 つまり、少年も言った通りに、もう二度と会うことも無いだろう。

 

 名前を知らない事が、彼女らの関係における大前提だった。

 少年はお前と呼び、彼女は貴方と呼ぶ。それは、名前のない関係性。

 名付けてしまえば崩れるような、薄氷の交友。

 

 だから、ここで、おしまい。

 

 霧が晴れていく。少年の足音が遠ざかる。

 …………なぜか、彼女は呼び止める声を上げていた。

 足を止め、振り返る少年の姿。

 意味もないままに声を掛けてしまった以上、投げかける言葉の持ち合わせなどはある筈もなく。

 つい、彼女は失言を犯した。

 

「大切な人なのか、って。変な事を聞くな? …………でも、そうだな。

 ────約束したんだ。きっとオレが、迎えに行くって────」

 

 彼の表情があまりにも眩しくて、つい、目を逸らしてしまう。

 それを最後に、記憶の終わりが訪れた。

 

 あぁ。私は一体、彼に何を望んで──────

 

 ────轟音と共に夢から覚める。

 分厚い鉄を叩く声が一つ。

 瞼を持ち上げる。驚いた表情の不良たちが視界に浮かぶ。

 その視線の先にいたのは、確かに、秋野空という少年だった。

 

 ◇◇◇

 

 初めはきっと、閃光だった。

 

 宙を舞う塵芥と、鼻を衝くカビの生えた臭い。

 それらを切り裂くような一撃の音は、鉄の扉が蹴り破られた証左。

 仄暗い空間を舞った、約二十キログラム。

 無残な鉄塊となったそれが告げる、断末魔にも似た事実。

 

 ──────即ち、ここに居るはずのない、侵入者の存在が露わになったのだ。

 

 どよめき狼狽える不良達に目も暮れず、彼は一つのソファに目線をやった。

 意識の落ちた、二人の女子生徒。

 見紛うことなく、彼の救出対象である少女たちだった。

 規則正しい呼吸と、乱れた形跡のない衣服。

 恐らくは、市販の睡眠導入剤を飲まされたのだろう、と彼は推察する。

 きっと間一髪、けれど彼は、どうやら間に合ったらしい。

 

 不意に、悲鳴のような声が上がる。

 

「て、テメェ、なんでここに…………!?」

 

 リーダー格と思しき、顔に傷を持った不良生徒の言葉。

 その声音からは、隠しきれないほどの動揺が見て取れた。

 彼はそれを無言によって一蹴。

 視線の焦点を、空間の端から端へ、不良達の人数を確認する。

 一、二、三………………七。

 彼は至極冷静に、彼我の戦力差を受け止めた。

 

「なんで、なんてつまらないこと聞くなよ────まさか、気づいていなかったのか?」

 

 ゆっくりと腕を上げ、一人の不良へ指をさす。

 その場にいる全員の視線が集中する。

 指先の不良は小さく身動ぎをして、不安そうに顔を歪めた。

 故に、不敵に笑ってから、告げる。

 

「そいつの右ポケットに、GPSが仕込んである」

「オイ、確認しろ!」

 

 傷のある不良から怒号が飛ぶ。

 慌てながらに確認すれば、確かに異質な機械が駆動している

 舌打ちと共に、彼を強く睨みつけた。

 

「…………なるほどな。これで俺たちの場所を知ったってわけか」

「ああ。だが他の事だって知っているぜ? 極楽高校の人間だろ、お前達」

 

 目の前の不良の顔が、さらに不快気に歪んでいく。

 身元が割れたことに対してではない。

 その情報により、他の不良達に不安が伝播したことに対してだ。

 

 傷を持つ不良が動揺したのは、初めの数秒間のみ。

 彼は既に目の前の中学生以外に、人影が見えない事に気が付いている。

 単純に状況を見れば、七対一の圧倒的優位な状態。

 或いは今すぐにでも号令を掛ければ、目の前の男を蹂躙できるはずだ。

 

 彼がそうしない理由はたった一つ。伏兵の可能性だ。

 先刻彼が沈めた、赤髪の中学生。

 アレは間違いなく場慣れした、自分たちの同類だ。

 それが潜んでいるかもしれない以上、精神的に不利な現在、強硬手段に出るのは悪手だ。

 もしも今、下手な行動を打てば、あの赤髪の不意打ちによって壊滅する可能性さえ生まれる。

 

 故に彼は、時間を稼ぐ必要があった。

 仲間が冷静さを取り戻し、万全の状態へと返り咲くまで。

 

「へー…………嬉しいねぇ。まさか名門中学にまで名前が轟いてるとは」

「なワケないだろ、間抜け。…………ボタンだよ。学生服で犯罪なんて、自分から所属を吹聴するようなモンだ」

 

 嘲笑うような目の前の男に、歯ぎしりを一つ。

 ────アレは"真っ当な人間"が自分たちを見下す時に見せる瞳だ。

 それは、彼が最も嫌う人種のする目だった。

 その事実を認識した瞬間、彼は沸騰するような血液の感触を知った。

 湧き出した怒りに任せ、乱暴に言葉を吐き捨てる。

 

「中坊が粋がるなよ、現状を見ろ。俺たちは七人、テメェは一人だ」

 

 俺の合図一つで、お前は瞬く間に沈められる、と嗤う。

 秋野はその事実を冷静に理解して、それでも尚、深く笑った。

 その行為が、更に彼の神経を逆撫でする。

 

「余裕ぶっこきやがって。どうせ、外であの赤髪が待機してんだろ? 甘ェんだよ、こっちには────」

 

 イスを立ち、先程反抗した少女の首を掴み上げる。

 野蛮極まる行為に、秋野は眉を顰める。

 狭まっている筈の気道。恐らくは酸素が不足していっているのだろう、どんどんと顔が青白く変わっている。

 けれど、そんな中で尚、意識は無い。過剰量の投薬は、市販製品と言えど即時的な効果を齎してくれた。

 

「人質がいるんだ。下手に抵抗してみろ、こいつらがどうなるか…………優秀な頭で考えろよ、名門校」

 

 下卑た顔で、嘲笑う不良。

 そのまま周囲を確認してみれば、幾分の平静を取り戻した仲間たち。

 これなら、例え一か八かの総力戦を仕掛けられたとして、敗北はあり得ない。

 決した事態の趨勢に、一層笑みを強く刻み。

 

「──────やれ。骨の二、三本は折って構わねェ」

 

 言葉一つ、重苦しく響き渡る朽ちた空間。

 駆け出していく六つの影。

 彼はその姿に、一秒後の完全勝利を幻視し、そして。

 …………小さな違和感に、気が付いた。

 それは、歯の間に挟まった小骨のような。

 毒ではないが、けれど強い違和感を示す物。

 

 ────なぜ、あのガキはこの場所にいる?

 

 GPS云々の話ではない、それは既に種の割れたマジックだ。

 問題は、"どうやって、この最奥に位置する部屋まで辿り着いたのか"という点。

 自分を含めた、この場にいる者と、負傷した人間。

 それらを除く計五名の仲間を建物内の見張りに用いていた筈だ。

 

 気づかれることなく突破してきた、等と言う事実はあり得ない。

 建物内のあらゆる窓を施錠し、この部屋を目指すうえで必ず通る個所に人員を配置した。

 そして、奴らには侵入者を発見次第報告するよう厳命してある。

 何かがおかしい、奇妙だ。それでは、まるで。

 

 目の前の男一人で、ここまで突破して来た様ではないか。

 

「お前達、止まれ!!」

 

 着弾より、僅かに早く。叫ぶような言葉が、不良の動きを阻害する。

 秋野の鼻先より数センチ先で、振り上げられた拳は停止した。

 少年は、打ちのめされる恐怖も、守る気概も、避ける素振りも見せなかった。

 さながら、こうなると分かっていた、とでも言いたげに。

 

「正解だよ────ホラ」

 

 弧を描き宙を舞う四角い何か。

 強い回転のかかったそれを、彼は両手で受け止める。

 手元に現れたそれは、電源のついたスマートフォンだった。

 画面を覗き、絶句する数秒間。

 後に上げた声は掠れ、おどろおどろしいほどの恐怖に満ちていた。

 

「お、お前…………」

「こっちは人質を取られてるんだぜ? ────やり返すのは当然だろ」

 

 スマートフォンに映っていたのは、ビデオ通話の画面だった。

 彼の驚愕は、その内容。

 映り込んでいたのはいたのは、五人の見知った顔の姿。

 

 それぞれが青い痣を全身に携え、尽くが下着姿で、ぐったりと倒れ伏している。

 口元には高粘着テープ、手足は鉄筋に結ばれた布で拘束されている。

 恐らくは、手足を縛っているのは"着用していた制服だったもの"だろう。

 おまけとばかりに手指に巻かれた結束バンドからも、確実に自由が無い事が見て取れる。

 

 そして、それは間違いなく、見張りを任せた五人の仲間の姿だった。

 

「…………成程な。俺たちが交渉に応じなかった場合、他の連中がこいつ等を酷い目に遭わすってか」

 

 他人に対して強く言えない立場と自覚しながらも、悪辣な作戦だと評さざる終えない。

 強制的に交渉の席へと着かせようとする、強い意志を感じる。

 或いは彼が、頭の回らない無能であれば交渉にも応じたかもしれない。

 ………………けれど、まだ足りない、と彼は嗤う。

 

「だが残念だったな。この景色、見るからにこの建物内だろ? お前を気絶させてから救出まで、五分とかからねェ」

 

 あいつらがボコされた所で、お前たちは全滅だ、と。

 それは、見捨てるという宣言にも似た、残酷な戦力差だった。

 二つの勢力は、土台とする前提が違ったのだ。

 秋野には、不良に対しての攻撃的作戦が使用不可能であり、故にこうして交渉を試みている。

 だが、彼らは違う。

 強行突破による武力行使、それが成功できる立場にある。

 ならば、多少の犠牲を払った所で、何の問題があるのだろう。

 

「この程度で対等だ、なんて思いあがった自分を恨めよ、ガキ」

「──────水酸化ナトリウム水溶液」

「…………なに?」

「お前達だって、名前くらい聞いたことあるだろ?」

 

 ぽつりと呟かれた言葉。

 彼の脳内で、言葉の意味に疑問符が浮かべば、秋野が滔々と語りだす。

 

 水酸化ナトリウム。

 化学式で表してNaOH。別名を、苛性ソーダとも言う。

 主な用途としては、固形石鹸などが最も有名であり、今日、日常のいたるところで使用されている。

 この物質の持つ最大の特徴は、強い塩基性を示すこと。

 そして、身体に付着してしまえば、化学熱傷を引き起こすのだ。

 ──────より簡単に言ってしまえば、肉体が灼け溶けて消える。

 

「お前、まさか」

「そのまさかだよ。お前達が交渉の席に着かない場合、劇物の雨がこいつらに降り注ぐ」

 

 このボタンを押してな、と、掲げられたそれは、銃のグリップにも似たスイッチだ。

 蒼白に染まっていく不良たちの表情。

 今、この男はつまり、自分たちの仲間を殺すと、そう宣言したのだ。

 パニック寸前の空気。誰も叫び出すことが無いのは、場の空気に押されているから。

 故に声を上げたのは、未だ強い意志を持つのは一人だけ。

 

「は、ハッタリだ! たかが中学生が、そんなモン作れるわけが────」

「────出来ないと思うか? 名門中学(オレたち)が」

「………………っ!」

 

 それは彼にとって、否定のできない言葉だった。

 たとえ自分がその製法を知らなくとも、名門と持て囃される人間なら、或いは可能かもしれない。

 そんな考えが、脳裏を過ってしまう。

 

 冷たい隙間風が、冷や汗を自覚させるように吹き込んでくる。

 突き刺さる正面からの視線に、蠢くナニカを垣間見る。

 身の毛のよだつ感覚と共に、本気でその凶行を実行することを直感する。

 アレは、本気の目だ。覚悟を決めた人間特有の、何かを捨て去った瞳。

 

「…………わかった。交渉だ」

 

 濃密な殺意の塊を前に、天秤は傾いた。

 この暴挙によって、互いの持つ暴力のレベルは対等へと成り代わる。

 最早、交渉の席に着く以外、彼に選択肢は残されていなかった。

 

「まずは自己紹介をしよう…………オレは秋野、お前は?」

「…………リュウキだ。覚えなくていい」

 

 下らない真似をしてくれる、と彼は内心で吐き捨てる。

 自己紹介そのものが、と言うのもある。

 だが、今のやり取りにはそれ以上の意味があった。

 名前を名乗りあうとは、つまり、互いを対等だと認識しあう行為に他ならない。

 即ち、この秋野と名乗った中学生は、自分たちが対等である事実をより強固に補強し、他の連中に対しそれを証明したのだ。

 

「状況を整理しようか、リュウキ────」

 

 秋野の持つ手札は、リュウキ含む不良達の素性、及び人質五人分の命。

 望む結果は、人質二人の安全な解放、及び二度と自分たちに関わらないという保証。

 対するリュウキが所持する手札は、不良達による武力行使と、人質が二人。

 望む結果は、人質五人の安全な解放、及びこの件に関する口止めだ。

 

 対等に見えて、しかし不利な条件だ。

 当初の目的からして、リュウキ達に、人質二名の命に手を掛ける事は許されない。

 仮に目的が違ったとして、この中に殺人を許容できる人間などいない。自分も含めて、だ。

 だがこの男は、それを易々と行うだろう。

 故にこそ、この交渉は彼にとって不利なものとなる。

 

「ここまで来たんだ、腹の探り合いはやめにしよう…………命は大事だろ?」

 

 不敵に笑うそいつは、目だけが笑っていなかった。

 下手な言葉遊びでもすれば、躊躇いなくあの連中を殺すと、言外に告げていた。

 

 彼は自身の中で、可能な限り冷静に二つの選択肢を吟味する。

 一つは、そのまま秋野の提案を受け容れる選択肢。

 これは至って単純、不服だが、穏当な道だ。

 得るものは無いが失うモノもまたない。

 真っ当に考えれば、最早迷う余地などは無いが、しかし。

 もう一方の、賭けにも似た可能性が脳裏を過る。

 

 一分の沈黙を置いて、彼は答えを導き出した。

 

「わかった、お前の要求に応じる。だからアイツらを解放してやってくれ」

「英断だな。なら今すぐにでも行動に────」

「少し待て、一つだけ、条件がある」

「…………条件だと?」

 

 この場合、彼にとって避けるべき事象が一つだけ存在する。

 恐らくは人質の交換までならば、順調に進むだろう。

 だから、その後。

 彼が考えるべきは、人質を交換してより、通報を入れられること。

 

「いくら何でも、口約束じゃ信用できねェ。それはそっちも同じ筈だ」

 

 それは同時に、秋野にも当てはまる論だった。

 この場での取引が上手く行ったとして、本当に今後関わらないという保証はない。

 交差する視線と視線。

 こと安全保障という点において、互いの利害は確かに一致していた。

 

「…………そうだな」

 

 胸ポケットから、先刻渚から貰ったメモ用紙を取り出す秋野。

 さらさらと指を動かして、二分足らず。

 不意に自身の親指を噛み、溢れる血液を紙に押し付ける。

 滲む血液をぼんやりと見つめ、彼は近くの不良にそれを渡した。

 

「血判だ。古風だが、医学の発展した現代なら十分に通用する、本人証明だ」

 

 彼が選んだ、ハンコ代わりの品らしい。

 そして、不良から手渡された紙をまじまじと観察するリュウキ。

 書面の内容に、特段と齟齬はない。

 ここでサインしてしまえば、全てが丸く収まる。

 その瀬戸際、分水嶺。

 

 ──────けれど彼は、何故か署名することなく、ただ、醜悪に。裂けんばかりの笑みを浮かべていた。

 

「お前、なにを────、っ!?」

 

 背後から強い力で蹴り飛ばされる感覚。

 全身を巡る鈍い痛みを無視し、受け身を取って背後を確認する。

 そこに居たのは、まだ見ぬ顔の不良達。

 恐らくは自分を襲ったであろう、体格のいい不良の右手には、見慣れたグリップが一つ。

 急ぎ、自分の手の中を確認するが見当たらない。

 

「交渉を蹴っての、伏兵…………このタイミングまで隠し通すとはな」

 

 平坦に吐き捨てる秋野。

 それが心底面白いとでも言うように笑う、リュウキの姿。

 状況の天秤がどちらに傾いたのか、それは火を見るよりも明らかだった。

 

「生憎だが偶然だ。元々"記念写真"のための撮影スタッフに呼んでたんだがな」

 

 交渉に乗るか反るか。

 その選択を突きつけられた時点での、彼の中にあった最後の可能性。

 これを叶えるために、彼は一つ賭けに出た。

 端的に言えば時間稼ぎ、契約が成立するのが早いか、或いは仲間の到着が早いか。

 極力違和感を消した時間稼ぎは、確かに功を奏し。

 

「俺はこうして、賭けに勝ったってワケだ!」

 

 それは、彼に言わせれば絶望的な状況だった。

 追加でやって来た不良の人数は四人以上。

 最大の交渉材料である人質の殺害を封じられ、暴力による抵抗もより難しい物に変わった。

 万が一にも勝ち目のない布陣。

 エリート校に対して舌戦で勝利したという高揚が彼を満たす。

 先ほどとは違う、今度こそ完膚なきまでの完全勝利。

 

 血に染まった紙を破り捨てれば、最後の一手は決まっている。

 後は一秒後の未来に絶望する秋野の顔を見て、そして終了だ。

 俯いた中学生に対して顔を上げろと命令を下す。

 震える肩は、その上にある表情への想像を強く駆り立てる。

 

 ────そうだ。俺は、こうして人間が台無しになる瞬間が、何よりも

 

 好きなんだ、と声に出そうとして、喉元で停止する。

 これまでにない、強い違和感が全身を襲う。

 視線の先には、変わらず一人の男がいる。

 

 廃屋に響く嗚咽染みた声────その筈だ。

 独りぼっち、屈辱に震える中学生────その筈だ。

 事の趨勢は既に決定して、最早覆ることはない────真実、その筈だ。

 

 ならば、なぜ。

 

「ク、クク、クハハハハハ──────!!」

 

 ならばなぜ、この男はこんなにも笑えるというのか。

 

「蹴ったな、交渉を。それならもう、お前達はここで終わりだ」

 

 客観的に見て、それは間違いなく負け惜しみだった。

 この状況から逆転できる方法なぞ、なに一つとして有りはしない。

 だが、秋野の言葉に含まれる高揚は、憐憫は本物だ。

 リュウキはそこに嘘が無いと、どうしてかハッキリと理解できる。

 …………目の前の存在が、無性に恐ろしくなる。

 

「気が付かなかったのか? あの交渉は、お前達の為のモノだったんだぜ?」

 

 アレは慈悲の行動だったと語るナニモノカ。

 当人の間で解決できていれば、お前達は穏当にいられたのに、と。

 その口調はまるで、端からリュウキ達を殲滅出来ていたとでも言いたげで。

 何故か、それが真実だと直感させるだけのナニカを、目の前の存在から強く感じる。

 

 或いはそれは、根源的恐怖にも似て。

 身体の末端から灰になっていくような錯覚を伴い、彼を蝕んでいく。

 彼はがむしゃらに、ソレに抗うが如く、声を張り上げる。

 

「黙れ!! 女共を攫った時、コイツは碌な抵抗も出来なかった! ハッタリだ、今のお前に、この状況を打開できるはずがねェ!!」

「なら、試してみるか────この場から誰一人、逃げ切れると思うなよ」

 

 昼前の状況は、昨日の駅での出来事とは訳が違った。

 あの場には、秋野空を秋野空と認識する人間が多すぎたのだ。

 例え危機的状況下にあったとしても、こんな異端をクラスメイト達に見せられるわけがない。

 もっと言うならば、殺せんせーにコレを知られるわけにはいかなかった。

 

 しかし、最早ここに彼を知る者は一人もいない。

 正確に言えば、これから十分の後に、誰一人としていなくなる。

 

 秋野の全身に、紫電が走る。痛みは殺意へと置換され、身体中を満たしていく。

 真実、彼は────作り変えられる肉体の、変形していく悲鳴(おと)を聞いた。

 

 絶対零度に冷え込む空間。殺意の衝突する、その間際。

 けれど、天運は果たして、何物にも微笑まなかった。

 

「──────ふざけるな」

 

 錆びた屋内に霧が立ち込める、三秒前。

 悍ましい蹂躙劇が開始される、五秒前。

 致命的な行為が行われる、僅か数瞬前に。

 轟音と共に、天井を突き破って現れる黄色い触手。

 様々に変わる表情は、ド怒りの黒。

 これまでの全てを台無しにするその生き物を、彼は知っている。

 

「──────私の生徒に、君たちは一体、何をしている」

 

 突如として出現した旧支配者は、ただ、圧倒的な暴で、その空間を呑み込んでいった。

 

 ◇◇◇

 

 それからの事は、最早語るまでもない事だ。

 分かり切った結末。

 不良は捕縛され、人質となっていた二人は解放された。

 その過程は、既に価値を無くしていた。

 例えそれが、オレの思い描いていたモノよりも穏当であったとしても、それでも無意味な話なのだ。

 

 朱い夕暮れが辺り一面を染め上げる。

 昼頃の雨雲はどこかへ。

 清々しい、事件の解決を象徴するような空模様の下。

 数分前までの戦場の前で、彼ら彼女らは再会を喜び合っていた。

 皆が皆、安堵の表情を浮かべ、笑いあう最中。

 

「確かに秋野君の初期対応は素晴らしかった。僅かな手掛かりと微かな準備、君はまさに懐に隠していた第二の刃を振るって見せたわけです。しかし、しかしですよ秋野君。その後の行動はいただけませんねぇ、君の懸念も尤もでしたが、そもそも渚君のようにしおりを持っていれば先生に対する連絡も──────」

「秋野君はそこまで僕たちの事を信用できなかったのかな。たとえ僕たちが頼りない存在に見えたとしても、それでも協力したかったんだ。たとえこの状況が秋野君一人によって解決できるものだったとしても、僕たちが居れば作戦はさらに盤石なものになったんじゃないかな。これは仮の想定だけど──────」

「ハイ……ハイ……ホントニ……ハイ…………スミマセン……ユルシテクダサイ…………」

 

 オレはと言えば、目下、地べたに正座し、お説教中。

 殺せんせーと渚君。凄まじい勢いで捲くし立てられる言葉に、是を唱える事しかできない。

 もう本当、なんと表せばいいのか、これ以上なく二人とも表情がガチだ。

 

 けれど、それも当然だ。

 片や学校に連絡を入れることなく生徒達を危険に巻き込もうとして。

 片や覚悟を決めたのに裏切りに近い形で偽の情報を与え置き去りにした。

 言い訳の余地はない。

 オレの行動は、一から百までリスクに溢れた危険行動だった。

 

 …………だが、それでも自己弁護をするのならば。

 オレは何も考えずにこんな凶行に及んだわけじゃ無い。

 

 むしろ、渚君達を遠ざけたのは、最悪の可能性を考慮したからだ。

 想定したのは、あの不良達が何らかの下請け…………つまり、異常/異端者達が背後にいる事態。

 そうなってしまえば、オレが彼らを守り切れる確証はない。

 それどころか、完全に返り討ちに遭い、沈黙。

 何らかの儀式のいけにえにされる可能性さえ生まれだす。

 

 或いは、殺せんせーを呼ぶという手も確かにあっただろう。

 だがそれには、どうしても地球滅亡と言うリスクが付き纏った。

 なにしろこの神話生物は、生徒が傷つくことを間違いなく良しとしない。

 ならばもし、彼女らが暴行を加えられていたら、生贄となり果てていたなら、物言わぬ肉塊へと姿を変えたなら。

 ………発生する事象は、赤羽に語ったソレと同じだ。

 教師と言うテクスチャーが剝がれれば、その時点で地球は滅ぶ。

 それは、それだけは避けなくてはいけなかった。

 結局渚君がしおりから緊急時連絡を行ったそうだが、それはそれだ。

 

 そもそもの話、路地裏の時点でオレが魔術を使っていれば済んだ話でもある。

 自己保身によって事件が発生してしまった以上、オレが事態を収めるのが筋というモノ。

 ………………なのだが、そんな事、この二人を前に言えるはずもなく。

 ただじっと、二人の言葉を肯定する機械となって、時間が過ぎるのを待つ。

  

 不意に、鼓膜を揺らす声があった。

 

「──────えぇ、大丈夫」

「そもそも君は普段の行動からして…………にゅや?」

 

 変わらずオレを叱っていた殺せんせーの顔が、声の方向へと向かう。

 釣られて視線を移してみれば、爽やかに微笑む一人の少女。

 一転、殺せんせーの声色が優しい物へと変わっていく。

 理不尽な対応にも思えるが、しかし当然だった。

  

「なにかありましたか、神崎さん?」

「え…………?」

「酷い災難に遭って混乱してても可笑しくないのに、何か逆に、迷いが吹っ切れた顔をしています」

 

 彼女の顔に、驚きの色はない。

 即ち自分の変化を完全に自覚しているという事で。

 人はそれを、成長と呼んだ。

 どうやら彼女は、彼女なりに殻を破ったらしい、と小さく感心すれば。

 

 ほんの、ほんの一瞬だけ、神崎さんと視線が交差した。

 刹那、蘇る記憶の、断片に映った少女と重なって。

 

「──────はい。ありがとう、ございました」

 

 斜陽の街。赤く染まった彼女の笑顔が、良く映えていた。

 

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