短編集 作:かみつ
町いっぱいに空襲警報が鳴り響く。夜の空は町いっぱいに広がる火の海を映し出して、朱と金色に染まっていた。
富紀は翔子の手を引いて一生懸命に走っていた。
「だめ、見ちゃ、だめだから」
後ろを振り返ろうとする翔子の手を強く引き、前を向かせる。翔子の持っている軍粮精(キャラメル)がカラカラと音を立てる。
富紀は今にも泣きそうなのを我慢して、必死に防空壕へ向かう。富紀の母は、もういない。
後ろでごうごうと音を立てる赤い悪魔に飲み込まれてしまったから。ふと思い出し、立ち止まった。翔子の手を放す。
富紀は、母を見捨てたのだ。でも、どうしようもなかったのだと、自分に言い聞かせる。母の最期の言葉は何だったのか、よく覚えていない。声を聞いてすぐに、翔子の手を握って走り出した。
母は、崩れたがれきの下敷きになっていた。重くて、手が痛くて、自分ではどうすることもできなかった。そう言い聞かせた。心の奥にある何かがつぶれそうで、苦しくて、泣きたかった。
「おねえちゃん、足が痛いよ」
翔子が富紀に言う。まだ物心ついていない翔子は多分、状況が分かっていないのだろう。これだけのことが起こっても、泣くことはなかった。【富紀は、この時だけ、翔子のことを羨ましく、妬ましく思った。】
富紀は前を向いて翔子に伝えた。
「我慢して、もう少しだから」
そう伝えると、富紀はもう一度翔子の手を引こうとした。
刹那、突風が富紀を地面へたたきつけた。細かい砂の粒が顔に当たって傷を作る。
不思議と痛みは感じなかった。その代わり、富紀は冬の夜に感じる寒さに近い何かを背中に感じた。それが悪寒だとわかるのに、時間はたいしてかからなかった。
立ち上がって振り返ると、翔子はいなかった。
そこには中身が飛び出して空になった軍粮精の空き箱と、軍粮精が二粒、落ちていた。すぐそばで、赤い悪魔は笑いながらこちらを見ている。
膝から崩れ落ちる。肩の力が抜ける。
齢八歳の富紀が状況を飲み込むのに、たいして時間はかからなかった。
富紀は、人とは思えぬ声を発した。人生で一度も出したことのない声だった。
富紀は、絶望と同時に、後悔と罪悪感を抱いていた。
ああ、私にはもう何もないのだ、何も残ってはいないのだ、あの小さい手を引くことはできないのだと、絶望した。
最後に妹に抱いた気持ちが嫉妬と羨望なのだと、後悔した。
母を見捨て、逃げたことに、罪悪感を抱いた。
心の中の色が、すべてがぐちゃぐちゃに混ぜ合わさって、黒になっていくのを感じた。
軍粮精の空き箱と、二粒の軍粮精は、もうすでに灰になっていた。