「今日は休暇です」
崇宰恭子がそう宣言した時、ミストレスは本気で首を傾げた。
「休暇……ですか?」
「そう。今日は仕事は無し」
「ですが補給や整備が――」
「ライさんが見てる」
「技術提供が――」
「巌谷中佐が見てる」
「書類が――」
「全部後回し」
有無を言わせぬ勢いだった。
「今日一日は私に付き合いなさい」
ミストレスは小さく笑う。
「承知いたしました」
その笑みはどこか諦めたようでもあり、少しだけ嬉しそうでもあった。
◇
街は賑わっていた。
横浜ハイヴ攻略の報せは日本中を駆け巡り、人々の表情には久しく見なかった希望が宿っている。
ミストレスはいつもの銀の仮面ではなく、大きめのサングラスを掛けていた。
それでも彼女の美貌は隠し切れない。
透き通るような白い肌。
長い銀髪。
凛とした立ち居振る舞い。
すれ違う人々が思わず振り返る。
「あの人、モデルさんかな?」
「外国の貴族じゃない?」
「綺麗……」
そんな囁き声が聞こえてくる。
恭子は苦笑した。
「サングラスだけじゃ隠せないわね」
「でしょうか?」
「でしょうか、じゃないの」
本人だけが自覚していない。
そんなところも可笑しかった。
「はい」
恭子は紙袋から温かな鯛焼きを取り出す。
「え?」
「食べてみて」
恐る恐る受け取るミストレス。
一口。
「……!」
サングラスの奥で紫の瞳が丸くなる。
「美味しい」
思わず零れたその一言に、恭子は満足そうに頷いた。
「でしょう?」
「餡がこんなにも優しい甘さとは……」
「そんなに気に入った?」
「はい」
もう一口。
嬉しそうに鯛焼きを頬張る。
普段はどこか神秘的で近寄り難い彼女が、子どものように幸せそうな顔をしている。
その姿に恭子は思わず吹き出した。
「そんなに笑わなくても」
「ごめん。でも…」
恭子は肩を震わせる。
「今のあなた、すごく普通の女の子よ」
その言葉にミストレスは少しだけ目を伏せた。
「普通……ですか」
「ええ」
「そう呼ばれたのは久しぶりですわ」
その一言が妙に胸へ刺さった。
◇
二人は公園へ足を運ぶ。
子ども達が元気に駆け回る。
鬼ごっこ。
縄跳び。
笑い声。
少し離れた東屋では老人達が将棋を指していた。
風が木々を揺らし、葉擦れの音が耳に心地よい。
ミストレスはベンチへ腰掛ける。
何も言わない。
ただその光景を見つめていた。
「……綺麗ですね」
ぽつりと呟く。
「でしょう?」
「はい」
その瞳は子ども達を映している。
転んでは笑い、泣いてはまた立ち上がる。
何気ない日常。
ありふれた平和。
その全てが、彼女にとっては守るべき宝だった。
「この平和な時間が」
ミストレスが静かに呟く。
「いつまでも続けば良いのに」
恭子は隣でその横顔を見つめる。
誰よりも平和を望みながら。
誰よりも戦場に立つ人。
誰よりも優しいからこそ、自分を犠牲にしてしまう人。
だからこそ、恭子は心の中で誓う。
(この景色を、あなたにも守らせるだけじゃない)
(あなたにも、この中で笑って生きてもらう)
戦場ではなく。
病室でもなく。
薬に命を繋ぐ日々でもなく。
こんな何気ない休日を。
何度でも迎えられる未来を。
「ミストレス」
「はい?」
「また来ましょう」
ミストレスは少しだけ驚いたような顔をした。
「また?」
「ええ。また鯛焼き食べて、公園でのんびりして」
恭子は笑う。
「次は桜が咲く頃でもいいし、夏祭りでもいい」
未来の約束。
ミストレスはその言葉を噛み締めるように、小さく微笑んだ。
「……はい」
その返事は、いつもの「承知いたしました」ではなかった。
一人の女性として交わした、小さな約束だった。
◇
夕暮れの横浜。
復興作業が続く街を、一人の男が雑踏に紛れて歩いていた。
表向きは貿易会社の社員。
その正体は某国情報機関所属の工作員である。
「……また空振りか」
男は小さく舌打ちする。
横浜ハイヴ攻略戦。
あの日現れた白い戦術機。
ハイヴに風穴開けた空色の空中戦艦。
世界中が映像を見た。
だからこそ、各国は血眼になって調査員を送り込んでいる。
だが――。
「写真は残っている。戦闘記録もある。目撃者も山ほどいる。なのに……製造工場がない」
設計者も。
整備兵も。
補給基地も。
輸送経路も。
金の流れすら掴めない。
まるで最初から世界に存在しなかった兵器だった。
男は公衆電話へ入り、暗号回線を繋ぐ。
「こちらフォックス」
『報告しろ』
「依然として進展はありません」
沈黙が流れる。
嫌な予感しかしない。
『貴様……無能か?』
「申し訳ありません!? しかし、現地協力者も同じ結論です!」
『言い訳は要らん!』
受話器越しに怒号が飛ぶ。
『たかが一企業も調べられんのか!』
企業じゃねぇよ。
男は思わず叫びそうになった。
企業ならまだいい。
工場がある。
社員がいる。
納税記録もある。
だがP.E.R.I.O.Dにはそれがない。
まるで幽霊だ。
『あと一週間だ。成果を出せ』
「了解」
ブツッと電話が切れる。
男はため息を吐いた。
「無茶言うな…」
隣の電話ボックスから別の男が出てくる。
目が合った。
互いに苦笑した。
「……お前もか」
「お前も? イギリス?」
「…違う、アメリカだ。そっちは?」
「ソ連だ」
二人とも笑った。
「同業だな」
「ああ」
もう隠す気も失せていた。
各国のスパイ同士。
敵国であるはずなのに、今では妙な連帯感すら生まれていた。
「成果は?」
「ゼロ」
「こっちも」
「叱られた?」
「さっきな」
「俺も」
沈黙の後に二人は同時に笑い出した。
「日本に逃げるか?」
冗談半分。だが、半分は本気だった。
「……案外悪くない」
「飯は美味いし、治安もいい。BETAも遠い。何より――」
男は苦笑した。
「P.E.R.I.O.Dがいる」
その一言が重かった。
横浜ハイヴを一日で落とした。
その事実だけで、日本は世界一安全な国に見え始めていた。
祖国へ帰れば――
成果なし。
責任追及。
左遷。
悪ければ処刑。
日本に残れば少なくとも命はある。
けれども家族の顔が脳裏をよぎる。
「……帰るか」
「帰らなきゃな」
「家族が待ってる」
そう言いながらも、足は重い。
その夜。
世界各国の情報機関本部では、似たような報告書が山積みになっていた。
調査対象:P.E.R.I.O.D.
所在地:不明。
補給経路:不明。
開発拠点:不明。
構成人員:不明。
資金源:不明。
結論:調査継続。
その報告書を見た上官たちは、一様に顔をしかめた。
「……世界中の情報機関が束になっても、何一つ掴めないだと?」
彼らはまだ知らない。
自分たちが追っている相手は、一国家や企業ではない。
歴史の表舞台に姿を見せる以前から、神の遺した技術とともに影で活動を続けてきた組織であることを。
だからスパイたちは無能なのではない。
相手が、諜報戦の常識そのものを通用させない存在だったのだ。