横浜基地、食堂。
大型テレビでは国連特別会議の中継が流れていた。
食堂は珍しく静まり返っている。
誰も食事に手を付けようとしない。
画面には銀色の仮面を付けた女性。
『私達の目的は、日本を最強の国にすることではありません』
『人類という種族を、生き残らせることです』
通信が終わる。
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて一人の若い衛士が箸を置く。
「……綺麗な人だったな」
「馬鹿」
向かいの先任兵が苦笑する。
「そこじゃねぇだろ」
「でもよ」
若い衛士はテレビを見つめたまま呟く。
「俺さ、今日初めて思ったんだ。
その一言で食堂が静まり返る。
誰も笑わない。
皆、同じことを思っていたからだ。
ベテラン衛士がコーヒーを飲みながら言う。
「横浜ハイヴを落とした。それだけでも十分夢みてぇな話だ。なのに、技術まで俺達にくれるって言うんだ。……信じられるか?」
隣の女性衛士が小さく笑う。
「信じるしかないでしょ。だって、もう助けてくれたじゃない」
その言葉に全員が黙る。
確かにそうだ。
まだ何も貰っていない。
だが、横浜で生き残れた仲間がいる。
それだけは事実だった。
奥の席では整備兵達が話している。
「新型バッテリーか」
「電磁投射砲の小型化できるんじゃね?」
「俺は全天周モニターが気になる」
「夢みたいな技術だ」
「整備地獄になるぞ」
「ははは!」
食堂に久しぶりの笑い声が響いた。
整備兵が笑う。
それだけでも奇跡だった。
その時、初老の衛士がゆっくり立ち上がる。
白髪交じりの男。
何十年もBETAと戦い続けてきた歴戦だった。
「神様でも悪魔でも。俺はどっちでもいい」
全員が彼を見る。
「俺達を生かしてくれるなら、それだけで十分だ」
静かに帽子を被る。
「さぁ。午後の訓練だ。今度は俺達が期待に応えねぇとな」
誰からともなく立ち上がる。
食器を片付ける音が次々と響く。
その足取りは昨日までより少しだけ軽かった。
彼らは救世主を待つのをやめた。
救世主と共に戦うことを選んだからだ。
◇
世界が見た「神の遣い」
国連特別会議の様子は、世界中へ同時中継されていた。
BETA戦争が始まって以来、これほど多くの人々が同じ映像を見つめた日はない。
世界は、固唾を呑んでその一人の女性を見守っていた。
日本――横浜近郊の避難都市。
古びたアパートの一室。
テレビの前には、幼い兄妹が肩を寄せ合って座っていた。
「お兄ちゃん」
妹が小さく尋ねる。
「この人が横浜を助けてくれた人?」
兄は黙って頷く。
画面には銀色の仮面を付けた女性。
白いドレスを纏い、世界の代表者達を前に堂々と立っている。
「神様なのかな?」
兄は少し考え、首を横へ振った。
「分かんない。でも――助けてくれたんだよ」
妹は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、好き!!」
ドイツ――難民キャンプ。
配給を待つ人々が大型モニターを囲んでいた。
老女が十字を切る。
「神よ……。まだ我らを見捨ててはいなかったのですね」
隣の老人は静かに首を振る。
「違う。神じゃない。あれは…人間だ」
「だから、あそこまで傷ついた顔をしている」
仮面に隠されていても彼には分かった。
あの立ち姿は、何百もの死を見てきた者だけが持つものだった。
アメリカ――酒場。
バーでは軍を退役した男達が酒を飲んでいた。
「神の遣いだと?」
一人が鼻で笑う。
「そんなもん信じるかよ」
別の男がグラスを傾ける。
「俺も信じちゃいない。だが……横浜を落としやがった」
「それだけは事実だ」
店内が静まり返る。
「……それだけで十分だ」
ソ連――工場。
昼休みに労働者達がテレビを囲んでいた。
「日本だけ技術を渡したらしいぞ」
「やっぱり信用できん」
年配の技師が新聞を畳む。
「最後まで聞きな」
『日本を窓口とし、技術を順次世界へ公開いたします』
その言葉に、誰も口を開かなかった。
「これが本当なら――」
年配の技師が呟く。
「孫娘は戦術機に乗らなくて済むかもしれん」
その一言はその場にいる皆が心の中に抱いていた思いだった。
英国――寂れた村の教会。
神父は演説を最後まで聞き終えると、静かに聖書を閉じた。
「皆さん」
信徒達を見る。
「神の遣いかどうか。それは私には分かりません。ですが――」
窓の外を見る。
「人を救ったという事実は、神も否定されないでしょう」
誰も反論しなかった。
そして、恭順派の隠れ家。
信徒達もまた、食い入るようにテレビを見つめていた。
「……綺麗」
若い信徒が思わず漏らす。
「神様みたい」
その瞬間、テレビの電源が乱暴に切られた。
部屋が暗くなる。
「見るな」
有無を言わさぬ低い声に信徒が怯える。
「で、ですがマスター……」
信徒の一人が震えながら口を開く。
「本当に横浜ハイヴを落としたそうです。多くの人が助かったと…」
マスターは沈黙した。
拳が白くなるほど握り締められている。
「だからこそ危険なのだ」
静かな声だった。
「悪魔は、人の願いを叶える」
信徒達は黙るしかなかった。
しかしその中の一人だけは、消えたテレビ画面を見つめ続けていた。
『私達の目的は』
『人類という種族を、生き残らせることです』
その言葉が耳から離れなかった。
その日、世界中で議論が起こった。
「あれは救世主だ」
「いや、悪魔だ」
「詐欺師だ」
「革命家だ」
「神の遣いだ」
誰もが好き勝手に語った。
だが、誰一人として否定できない事実があった。
彼女達は、確かに人類の前へ姿を現した。
そして、確かに人を救った。
その事実だけは、世界中の誰にも覆すことはできなかった。
◇
帝国陸軍技術廠――解析室。
部屋の至る所に百式とガンダムMk-IIの設計図が貼られている。
黒板は応力計算、材質分析、関節可動域の計算式で埋め尽くされ、机には空になったコーヒーカップが山積みだった。
「……もう何日帰っていない?」
若い技術将校が虚ろな目で呟く。
「三日だ」
「いや四日じゃないか?」
「どっちでもいいよ…。これ、いつ終わるんだ?」
誰も笑わない。
百式だけでも十分に未来だった。
それをようやく理解し始めた矢先、今度はガンダムMk-II。
思想が違う。
構造が違う。
なのに完成度は互角。
技術者としては歓喜すべきことなのに、脳が処理を拒否し始めていた。
「中佐!」
一人の技術者が図面を抱えて駆け寄る。
「百式では荷重をこちらへ逃がしています!」
「ですが、Mk-IIは全く別の経路で同じ結果を実現しています!」
巖谷中佐は図面を見比べ、しばらく黙り込んだ。
「……素晴らしい」
思わず漏れた言葉だった。
『百式以上の最適解は存在しない』
そう思っていた。
しかし事実は違った。
最適解は一つではなかった。
まるで同じ山を、別々の登山道から登り切ったような設計思想。
「これがムーバブルフレーム。奥が深い…」
巖谷は深く息を吐く。
「恐ろしい技術だ」
その時だった。
解析室の扉が開き、榊首相が数名の秘書官を伴って入室する。
技術者達は慌てて敬礼した。
「楽にしてくれ」
榊は部屋を見渡す。
皆、目の下には濃い隈。
髪は乱れ、制服も皺だらけ。
それでも目だけは死んでいなかった。
「皆、ご苦労だった」
巖谷が一歩前へ出る。
「恐縮です」
榊は静かに頷いた。
「今日は一つ、伝えねばならないことがある」
部屋の空気が張り詰める。
「国連会談以降、世界各国から技術提供を求める要請が殺到している」
技術者達は顔を見合わせた。
「予想はしていました」
巖谷が答えるが、榊は首を振った。
「君達が思っている以上だ」
「米国」
「ソ連」
「欧州」
「中華」
「ありとあらゆる国が日本へ連絡を寄越している」
静まり返る解析室。
「そこで」
榊は一拍置いた。
「君達に、人類の教科書を作ってもらう」
「…………はい?」
巖谷は思わず聞き返した。
「教科書……ですか?」
「その通りだ」
榊の声は揺るがない。
「P.E.R.I.O.Dの技術を、そのまま世界へ流しても誰も理解できない。だから日本が噛み砕く」
「理解し」
「整理し」
「教材として世界へ提供する」
その瞬間、解析室が凍り付いた。
若い技術将校が震える声で呟く。
「つまり……我々が解析を間違えれば……」
巖谷が苦笑する。
「世界中が同じ間違いを学ぶ、か」
誰も否定できない。
重圧が肩にのしかかる。
そこへ、カチャリとティーカップを置く音が響いた。
部屋の隅では、いつものようにミストレスが静かに紅茶を飲んでいた。
「そんなに難しく考えないでくださいませ」
全員が彼女を見る。
「皆様がゼロから未来を作る必要はありません」
「私達は、皆様が理解できる順番で教材を用意しております」
ミストレスが百式の設計図を手に取る。
「これは一年生」
次にMk-II。
「こちらは二年生」
最後に、まだ封印された新たな資料へ目を向ける。
「その先も、ちゃんとございます」
若い技術者が呆然とする。
「全部……教材だったんですか」
ミストレスは優しく微笑んだ。
「学校と同じです。一年生に微積分は教えません」
「まずは足し算」
「引き算」
「掛け算」
「順番があるのです」
その言葉を聞き、巖谷はようやく腑に落ちた。
「だから百式、だからMk-II。順番が妙だと思ったが、教育課程だったからか」
「ええ」
ミストレスは静かに頷く。
「教師が混乱していては、生徒も混乱しますもの」
その一言に、技術者達の表情から僅かに力みが消えた。
彼らは未来を背負わされたのではない。
未来への橋を架ける役目を託されたのだ。
巖谷はゆっくりと設計図を閉じる。
「諸君」
疲れ切った技術者達が顔を上げる。
「仕事が増えた」
誰かが乾いた笑いを漏らした。
「人類全員が生徒だ」
「ならば、我々は世界一優秀な教師になってやろうじゃないか」
その言葉に、解析室のあちこちから小さな笑みがこぼれる。
未来はまだ遠い。
しかし今、この部屋で描かれる一枚一枚の設計図が、やがて世界中の技術者たちの教科書となり、人類がBETAへ反撃する礎となるのだった。