技術廠には、ようやく安堵の空気が満ちていた。
机という机には分解図や計算式が散らばり、床には読み終えた資料の山が積み上がっている。誰もが目の下に隈を作り、椅子にもたれかかっていた。
「……終わった」
誰かが力なく呟く。
巌谷中佐率いる技術廠は、総力を挙げてガンダムMk-IIの解析を続けてきた。
どれも素晴らしい技術だったが、やはり特筆すべきはムーバブルフレームだ。これなら比較的早く現存する戦術機に落とし込む事ができる。
しかし戦術機とはまったく異なる設計思想。一筋縄ではいかない。
その革新的な構造を理解するため、技術者たちは何日も議論と試験を重ね、失敗を積み上げてきた。
「こんなに骨の折れる仕事は初めてだ…」
「BETAと睨み合ってる方が、まだ気が楽かもしれん」
自虐混じりの言葉に、乾いた笑いが漏れる。
その時、静かに扉が開いた。
「皆様、お疲れ様でしたわ」
現れたのはミストレスだった。
銀の盆には人数分の湯飲みが並び、立ちのぼる湯気とともに香ばしい茶の香りが広がる。
「温かいうちにどうぞ」
一人ひとりに茶を手渡しながら、彼女は柔らかく微笑んだ。
「本当にありがとうございました。皆様のお力なくして、この成果は得られませんでしたわ」
その一言で、技術者たちの表情が少し緩む。
「……ありがたい」
「徹夜続きの体に沁みるな」
「この人に礼を言われると、不思議と報われる」
誰もが湯飲みを手に、一息ついた。
ようやく休める。
誰もがそう思った。
ミストレスは盆を机に置くと、一枚の設計図を静かに広げた。
「さて」
変わらぬ笑顔のまま、彼女は言う。
「次の課題ですわ」
技術廠の空気が凍りついた。
「…………え?」
設計図の上には、一機の灰色の機体。
『デルタプラス』
その文字を見た瞬間、部屋中から悲鳴にも似た声が上がる。
「う、嘘だろ…」
「まだ終わってなかったのか…」
「夢なら覚めてくれ…」
ミストレスは悪びれる様子もなく説明を始める。
「デルタプラス。ムーバブルフレームの高い剛性を活かし、飛行形態への可変機構を実現した機体です」
一人の技術者が、ついに立ち上がった。
「お、お待ちください!」
「可変戦術機なんて実戦じゃ役に立ちません!」
「光線級がいる以上、飛行形態になれば格好の的です!」
「そうです!」
「戦術機は跳躍ユニットだけで十分じゃありませんか!」
賛同の声が次々と上がる。
しかしミストレスは穏やかなまま首を横に振った。
「皆様」
その一言で、室内は静まり返る。
「何も、同じように可変機を作れと言っているのではありません」
技術者たちは顔を見合わせた。
「私がお見せしたいのは、結果ではなく発想です」
彼女は設計図の骨格部分を指差す。
「ムーバブルフレームという新技術があったからこそ、可変機という新たな可能性が生まれました」
「一つの革新は、それまで誰も思い付かなかった道を切り拓くのです」
技術者たちは黙って耳を傾ける。
「たとえ可変機そのものがBETA戦に適さなくても構いません」
「重要なのは、『こういう道もあるのか』と考えられること」
ミストレスは優しく微笑んだ。
「皆様の考え方に、一石を投じたいのです。新しい技術は、新しい発想を生みます。その発想が、さらに別の技術を生みます。そうして積み重なった先に、人類がBETAへ勝利する未来がありますわ」
静寂が訪れる。
先ほどまで無意味だと思っていた設計図が、今は未来への道標のように見えていた。
やがて巌谷中佐が苦笑しながら肩をすくめる。
「……やれやれ、また宿題を持ってこられたか」
その顔には呆れよりも、どこか楽しげな色が浮かんでいた。
「だが、言いたいことは分かった。可変機を作れという話じゃない。ムーバブルフレームが持つ可能性を、自分たちの頭で探せということだな」
ミストレスは満足そうに頷く。
「ええ。その通りですわ」
「技術とは、完成品を模倣することではありません」
「完成品へ至るまでの思考を学ぶことです」
その言葉に、技術者たちは苦笑しながら設計図へ視線を落とした。
「……休憩は終わりか」
「仕方ない」
「世界一贅沢な教科書を渡されてるんだ」
「この機会を逃したら、一生後悔する」
誰からともなく椅子を引く音が響く。
疲労で重かったはずの技術廠に、再び鉛筆の走る音と議論の声が戻り始めていた。
◇
夕暮れ時、P.E.R.I.O.Dに与えられた建物のラウンジ。
国連会議から数日が経ち、久しぶりに穏やかな時間が流れていた。
「ミストレス、ライさん」
恭子と唯依が嬉しそうな表情で部屋へ入ってきた。
「今日はお二人にぜひ見ていただきたい番組があります」
「番組、ですか?」
ソファで紅茶を飲んでいたミストレスが首を傾げる。
「世界中で話題になっているそうよ」
ライが新聞から目も上げずに笑う。
「また神様ネタじゃないのか?」
「……違います」
恭子は少しだけ口元を緩めた。
「きっと驚かれます」
テレビの電源が入る。
画面には特番のタイトル。
『世界に広がる”ミストレス現象”』
「……嫌な予感しかしませんわ」
ミストレスが小さく呟く。
頭の中では兄人格が落ち着いた声を出す。
(まあ、見てみろ)
(兄様は他人事ですわね…)
映像が始まる。
日本の避難キャンプ。
そこでは十人ほどの子ども達が段ボールを切り抜き、銀色の紙を貼っていた.
『完成ー!』
『見て!』
『ミストレスの仮面!』
ミストレスが固まる。
「…………」
続いて小学校。
『私がミストレスです!』
『じゃあ僕トールギス!』
『困ってる人はいませんかー!』
『皆さん大丈夫ですかー!』
『安心してください!』
校庭中を銀仮面の子ども達が駆け回る。
「う、うわぁ…」
ミストレスの顔が見る見る赤く染まっていく。
「これは……その……非常に、恥ずかしいですわ……」
ライが肩を震わせ始めた。
「ぷっ……」
「ライさん!?」
「ハイハイ、笑ってませんよ」
「笑ってますわ!」
「いや、可愛いじゃないか。世界中にミストレスが増殖してる」
「やめてくださいませぇ……」
恭子はそのやり取りを見て思わず吹き出した。
「ふふっ」
「……?」
ミストレスが恭子を見る。
「いえ。その、いつものミストレスと全然違うものだから」
「え?」
「戦場でも、国連会議でも。まるで聖女様のように落ち着いているのに……」
恭子は口元を押さえながら笑う。
「こんなに慌てる姿は初めて見たわ」
「そ、それは……。これは別ですわ!」
その横で唯依も画面を見つめていた。
テレビでは海外の子ども達まで銀仮面を付け、
『私は人類の味方です!』
『困っている人を助けます!』
と元気いっぱい叫んでいる。
唯依は自然と口元が緩んだ。
「……良かった」
「え?」
「誰も、横浜ハイヴを落とした英雄だから真似しているんじゃありません」
「人助けを真似している」
その言葉にミストレスはテレビへ視線を戻す。
一人の少年がインタビューを受けていた。
『大きくなったら何になりたい?』
『ミストレスみたいな大人!』
『困ってる人を助けるの!』
ミストレスは言葉を失った。
頭の中で兄人格が静かに話しかける。
(聞いたか?)
(……はい)
(技術でもない)
(力でもない)
(あの子達はお前の生き方を見ている)
(だから恥じる必要はない)
ミストレスは小さく微笑んだ。
しかし次の瞬間、テレビでは小さな女の子が顔には銀仮面、マント代わりに白いシーツを羽織り、
『私はミストレス・マーキスです!』
と国連会議の演説を完璧に真似し始めた。
『本日は私達のためにこのような場を――』
「~~~~っ!!」
ミストレスは両手で顔を覆った。
「もう無理です! 見ていられませんわ!」
ソファへうずくまる。
その様子にライは大笑い。
恭子は肩を震わせ、唯依も堪えきれず小さく笑った。
「ふふっ」
「可愛い……」
「唯依さんまで!」
「申し訳ありません。ですが……」
唯依は微笑みながら首を振る。
「少し安心しました」
「安心?」
「はい。皆から”神の遣い”と呼ばれる方でも、こうして恥ずかしがるんですね」
ミストレスは顔だけを少し上げる。
「もちろんですわ。私は神ではありませんもの」
「ただの人間です」
その何気ない一言に、恭子と唯依は顔を見合わせる。
世界中が”聖女”と崇める女性は、子ども達に真似されて真っ赤になる、ごく普通の女の子でもあった。
だからこそ、二人はますますその人柄に惹かれていくのだった。