一番星の王子さま 作:160万のワインを飲み損ねた
何気なく釣り堀で糸を垂らす。時間帯によっては散々餌を食べて全くこちらの餌には食いつかない魚たちも、今の時間はちょうど腹が空いていたのかよく引っ掛かる。壱護はかかるたびにそれを釣り上げた。鯉は力がある分、釣った時の達成感は他の魚よりも大きい。
昔からここへはよく来ていた。都心にある釣り堀はそう多くなく、また価格帯もかなりお手頃。まだ苺プロが零細だった頃から通い続け、紆余曲折あって芸能プロダクションのトップに躍り出た今でも通い続けていた。
壱護に取っての憩いの場。何年も着続けた服は所々落ちきらなかった汚れや、針が引っかかったことで空いた穴もある。一見すれば、とても大企業の社長だとは思えない風貌。この場では肩書きを捨て、ただの斉藤壱護一個人になれるのが、彼が通い続けている理由の一つでもあった。
壱護は自分が大企業のトップの器ではないと、常日頃から考えていた。まだ事務所を立ち上げたばかりの頃、アイを最初に見つけた時はスターの卵を見つけたと思い歓喜したものだ。夢だったドームへの道が一気に開けた気がした。夢を叶えて俺も一人前になど考え、そこにばかり気を取られ、周囲へのフォローを怠ってしまったのは苦い記憶。一方で、オマケだと思っていた桂が拳願会への片道切符を掴んできた事が、ある種壱護の人生の転換点だったのかもしれない。闘技者としてデビューしたと思えば、勝ちに勝ちを重ねてあれよあれよという間に躍進。表ではアイが、裏では桂が奮闘した事で今の立場になった。本来は零細、よくて中小レベル。実力が足りないのは明明白白。だからこそ、少しでも今の肩書きにふさわしくなるように日夜励んでいるのだが、たまにはこうして肩の荷を下ろしたくなるものだ。
「お、またかかった」
さっきのよりは大きいな、と思いながら針を外してバケツに入れ、針に餌を付け直しては、再び水面に放る。波紋を広げて沈んでいく様を見ながら、少しズレたサングラスを直す。
大企業になった事で、抱えるタレント数はかなり増えた。全員に均等に売れる、というのはこの業界では特に難しい。相手方の意向もあり、売れていけば行くほどそこに集まっていく傾向が強い。一極集中も珍しくなく、ポテンシャルを秘めているのに日の目を見ないタレントも決してゼロではない。できればチャンスは平等に与えたいところではあるが、完全にそれをこなすのは今の企業力があっても無理であった。
「隣、失礼」
壱護の隣に突然現れたような男性の声に、思わず壱護は驚いてしまう。
男性は座って早々に釣り糸を垂らし、じっとその先を見ていた。
「ああ、どうぞ……って、アンタ確かジャッキーさんか」
隣に座る男性に見覚えがあった。
男性にしては長めの癖のある髪を束ねた中年男性。煉獄との対抗戦にて近くの席に座っていた男だ。
「……? ああ、斉藤社長でしたか。奇遇ですね」
ジャッキーは壱護を思い出すのに少し時間を要したが、彼の記憶にも確かに残っていた。
来日し、言っていた通りに寿司を食べ、その後も食べ歩きをした翌日に何気なく訪れたのがこの釣り堀だった。
「ジャッキーさんもここには良く?」
「いえ、ここへ来るのは初めてですが、普段から釣りは良くしてましてね」
「へぇ、普段はどちらに?」
「普段は山に住んでいましてね。他にやることもないので、のんびり糸を垂らしてますよ」
「のんびりか、良いですね」
会話をしながらも、二人の視線はそれぞれのウキに向いている。
壱護としてはまだまだ続けるつもりではあるが、社長業を降りた後はどこか田舎に家を買ってのんびり暮らすのも良いかもしれない。ジャッキーの話を聞いて、スローライフも悪くないと思ってしまった。
そんなことを考えていると、壱護の竿がヒットする。鯉ばかりだが、ボウズよりは断然マシ。チラリと目をジャッキーの竿に向けるが、ぴくりとも動かない。
顔見知りではあっても、特段仲が良い訳でもない二人の会話はなくなり、各所で釣れる音や近くを走る電車の音が聞こえてくる。
壱護が何度も釣り上げる間、一度もジャッキーの竿に魚が掛かることはなかった。
同じ釣り堀、それも隣で竿を垂らしてこの差。なんとなく気まずい、と壱護は唾を飲み込んだ。サングラス越しにチラリ止まれば、う〜む、と一度竿をあげて仕掛けを見ている姿を捉えた。餌もほとんど食べられていない。
「そういえば、ジャッキーさんはどうしてまた日本に?」
「寿司を食べたくなりましてね。後はアクア君が舞台に出ると伺ったので、それを鑑賞しに」
「アクアの?」
「ええ。ルビー君のライブはネットで見れましたが、舞台はそうもいかないでしょう?」
そんなに親しくなっていたのだろうか。確かにアクアの具合が悪くなった時にトイレに付き添っていたりはしたが、と壱護は追想した。ルビーに関しては話した程度でそこまで親しくなる要素はなかった。よほど気に入ったのか、暇なのか。あの会場にいる時点で金持ちなのは間違いない。先の話からも、現役を退いて悠々自適な暮らしをしているのだろうと考えた。
「確かに。舞台はまだ映像化する所も少ないですからね。逆にそれがコアなファンを集めている、とも言えますが、大衆化させるのにはそれが足枷になっている気はしますね」
知名度、というのは重要だ。特にネット媒体が発展した昨今において、その界隈で有名な、いわゆるインフルエンサーの力は大きい。テレビCMで商品を宣伝するよりも、その手のインフルエンサーに頼んだ方が企業側としてはコスト面を抑えられる上に、視聴者側も使用感をそのインフルエンサーが話すことでより身近な商品に感じる事ができる。事務所に所属していない場合はよりコストが抑えられたりする一方で、事務所を通す方が契約という面では強固になるなど一長一短ではあるが、使わない手はない、というのが壱護の考えだった。だからこそ、MEMを引き抜けたのは大きい。実際にチャンネルの登録者を見れば、ドームを埋めるに有り余るほど。全員が全員来るなんて考えはないが、それでも動画を出す事がそのまま宣伝に繋がるのは大きい。
「ほう。やはりまだまだ知らない事が沢山ある」
ジャッキーからすれば、なぜ映像化がされないか、という点はまるで考えた事が無かった。新しい視点、新しい学び。昨今の技術の発展にも感嘆している一方で、昔からある事に対しても長生きしているとは言え知らない事がある事に、だからこそ人は面白い、と思っていた。
ただそれはそれとして、なぜ自分の竿には魚がまるでかからないのか。壱護と話しながら、片方はそちらに意識を常に向けていても微動だにしない。見える範囲にいるのだから、食いついても良いだろうに。竿が悪いのだろうか。ジャッキーは純粋に疑問を抱きながら、隣に座る壱護のと竿を交換してもらうかと考え始めていた。
それを言い出そうとした時、ジャッキーからすればタイミングが悪く壱護のスマホが鳴る。電話に出て短い会話をした後、壱護は片付けを始めた。
「すみません。この後会議がある物で」
今はただの釣り人であっても、周りがそれを許してくれない。電話の主はミヤコで、どうせ釣り堀にいるんだろうからさっさと切り上げろ、とのお達しだった。車内で着替えて、そのまま商談へと向かう事になる。それだけ企業としても好調という証左だが、たまには連休取ってバカンスでも洒落込みたい、というのが本音だった。
ジャッキーに釣った魚を渡し、壱護は急いで出口へと向かう。
入ってきた厭とすれ違う。軽く挨拶をしては、まもなく到着する迎えを待つ事にした。
慌てる様子を見ながら、厭も竿を片手に歩き、ジャッキーの隣に腰を下ろした。
「今の苺プロの斉藤壱護でしたけど、余計な事話してませんよね」
「大丈夫だ。今度アクア君の舞台を見に行くとしか行っていない」
「ならいいスけど……」
ちょっと部下と連絡を取っている間にすぐにこれだ。他者にほとんど興味がないからこそ、突然とんどもない事を言い出さないかを危惧していた。
ふと、バケツの中で動くそれに厭の目が見開かれる。
「え、釣れたんスか?」
「……いや、残念ながら私は釣れていない。どうやら竿が悪いようでね」
「道具のせいにしたらマジで終わりだと思いますよ」
貰い物か、と現実の光景に理解が追いついた。
普段から暇つぶしに、と良く釣りをする姿を見るが、実際に魚を釣り上げたことは見た事がない。ここまで下手だと逆に才能だな、なんて思いが巡るも、流石にそれを口に出すのは憚られた。
「ところで厭、頼んだ物は調べられたか?」
「なんのプロテクトもかかってないんで楽勝でしたよ。この国はこういうところ平和ボケしてますね」
「それが良きとこもでもある。おかげでどこへ行っても美味いご飯が食べられるからな」
「まぁ飯が美味いのは同意ですけど、夜はスキヤキにしましょうよ」
「スキヤキか、悪くない」
「じゃあ適当に予約しときます」
やっと食べたいものが食べられる。後はテリヤキも食べたいところだが、なかなか専門店が見つからないのが困った所だった。
「で、調べた限りですけど、産まれは宮崎県。その後は東京へ戻ってきて早くから演技を始めてますね。経歴だけ見たら金持ちの所に産まれた子供って感じスよ」
「変わったところはなかったか?」
「強いて言えば、出産当日に担当医が殺されてますね。表向きは行方不明となってますが。ただ、この頃は日向桂が探してた対象かと思って張りついてたんで、下っ端がスポットで成りすましていた本人にバレて殺したみたいです。そいつは『中』に潜ったらしいですけど、多分もう死んでると思います」
「担当医の名前は?」
「雨宮吾郎。こっちも一応調べましたけど、特に変わった所はないですね。育ての祖父母も両親も死んでますよ。今更経歴なんて調べさせてどうしたんスか?」
「少し気になる所があったんだが、おそらくは杞憂だろう」
「……にしても、前から思ってましたけど日本はカラスが多くて喧しいスね」
釣った鯉でも狙っているのだろうか。一匹ならいざ知らず、多数で鳴かれると喧しくて仕方ない。
「放っておけ。どうせ何もできはしない」
「カラスでしょ? 何当たり前の事を言ってんスか」
知能は高く、犬猫よりも上といった研究結果もあるものの、人を上回る事は決してない。
中国を発つ前に言っていた妖怪や神の件と関係が、とも考えたが、生まれてこの方神と呼べる存在は一人しか知らないため、その手の知識は疎かった。