一番星の王子さま 作:160万のワインを飲み損ねた
「ってな訳で、ジャッキーさんとの仕合で最後にさせてください」
グラスが落ちる音がした。隣座る社長の手にはしっかりとウイスキーグラスが握られていて、落としたのは別人。
「失礼いたしました」とカウンターの奥で氷室が他の客にも謝罪の言葉を入れた。
バー大宇宙。常連、と呼ばれて良いほど訪れた事のあるバーは、会員制という事もあって限られた人間しか入らない事から、個人的には結構気に入っていた。
「お前、マジか」
「嘘ついても仕方ねえだろ。今更だが、家族を優先したってだけの話だ」
「家族か。闘技者達は基本独り身が多いしな」
「大抵は身を固めたら引退するからな。根津だってそうしてたろ」
「それはそうだが、正直お前はずっと闘技者続けるもんだと思ってたぜ」
「実際戦うのは好きだしな。まあ氷室も家族持ったらわかるさ」
「家族ねぇ……しばらくはまだ独り身で良いな」
限られた灯りで照らされる室内でも、トレードマークと化しているサングラスを社長は取らなかった。淡々と一口、酒を静かに煽った。二人で飲むってのは久しぶりに感じる。アイに言った手前、次に話すのは社長だと決めていた。場所が場所なだけに氷室も聞いているが、そこは良いだろう。事務所や社長の家でも良かったが、何となくこう言った場の方が良かった気がした。
「斉藤社長はこいつが辞めてもいいんスか?」
氷室の言葉を受けて、社長はようやくグラスをテーブルに置いた。
「……良いんじゃねえか」
シンプルな返事ではあったが、どこか温かみがあるような気がしたのは、俺がそう思いたいからか。
「突然飲みに行こうなんて誘ってくるから何事かと思ったが、そうか……ようやくか」
「辞めて欲しかったんですか?」
「いや。B小町は俺が売れると思ったグループだったが、会社としては零細も良いところだった。どこにでもあるような、吹けば飛びそうな小さな会社がここまで来たのはお前がいたからだ。闘技者を抱えることができなくなった今、社長って立場で考えればお前が抜けるのははっきり言って痛手だよ。出せば勝てるカードがなくなる訳だからな」
実際に絶命トーナメントで加納さんとの仕合以外で負けた事はねえから事実なんだが、そう思ってくれていた事は嬉しかった。
「ただ俺個人として考えたら、やっと安心できるってもんだ。闘技者として二十年くらいか、十分良くやったよ。お前が辞めたらアイもその内引退するんだろ。表裏共に看板が降りるってなるとかなりキツイが、その分問題児共がやっと俺の手から離れるって思えばイーブンって所だな」
「問題児なのはアイだけだったでしょ。俺は優秀な駒だったと思いますけどね」
「はっ、笑わせんな。ジャッキー……繋がる者の件だってそうだ。何が繋がる者のクローンだよ。しかもルビーとアクアも巻き込んで家族ぐるみで付き合ってるなんて特大級の爆弾落としやがって。知った時心臓止まるかと思ったわ」
「一応前もって言おうとは思ってたんですけどね。爺ちゃんが伏せといた方が良いって言うもんで」
「お前な……まぁ、それも良い。相談役のおかげでそこまで面倒にはならなかったからな。何はともあれ、とりあえずお疲れさん」
「どーも。まあどうせ仕合も可能な限り引き伸ばしてこっち側の戦力アップするんでしょうし、後何仕合かは普段通り勝ちますよ」
「もし負けたらその場で引退させてやるよ」
怪しさしかない金髪にサングラスの風貌も、今やそれ自体がトレードマークみてえになってる。噂じゃ芸能事務所を立ち上げた連中の中には験担ぎとして似たような風貌にする奴らもいると聞いたことがあった。
社長は残りをグイッと飲み干すと、おかわりと言って同じ酒を出して貰う。
「しかし、お前らが辞めた後は看板どうするかな」
「ルビーじゃダメなんですか?」
大手なだけあって人数はいるが、看板となり得る人材は中々難しい。そもそも既にいるなら前面的に売り出して良いわけで、ずっとアイがそれを担当してたって事はアイより上がいねえって事だ。
「ポテンシャルはある、が今のままじゃ役者不足だな。アイドル時代のアイと比べれば似たような所だが、アイツはアイドル以外での活動の方が長いし、世の中も今の女優業の方がイメージとして最初に浮かぶはずだ。仮にルビーを女優業をやらせても、最初はなんとかなっても本人の意向とのずれでどこかでパフォーマンスは崩れる。アイツがその気になれば別だが、それがいつになるかはわからねぇからな」
この分野で、社長の見る目は間違いねえ。歴は長くても碌に芸能界の事を知らない上に、娘のことで贔屓目で見てる俺の考えよりは遥かに正確。それに、実際ルビーがやる気を出さなきゃ意味がねえってのはその通りで、普段からやる気が出る事に関しては凄かったが、そうでねえ事にはそこまでだった。
「やっぱ看板ってなると女優がいいんすかね」
「芸能人って一口に言っても多種多様だから一概にどれが上って言うわけでもないが、長く活躍できる事を考えれば俺の中じゃ女優が適任ってだけだ」
「そうですか。それなら、かな嬢は?」
タイミング的にはちょうど良いだろう。予定通り年末でアイドルを卒業して、来年からは女優業に絞る。知名度もある方だし、まだ子供だから先もある。
「有馬か。ありと言えばありだが……にしてもお前、随分買ってるな」
「俺がやってるレッスンにもちゃんと出てくるんでね。他の奴より頑張ってる姿を見る分、応援したくなるんですよ」
多少キツくしても文句言いながら何だかんだやるのが良い。センスも悪くなさそうだから、あれでこっちに興味あんなら二虎流教えても良いんだけどな。まぁ、もしかしたら両親との関係が上手くいってねえのを知ってるから、多少贔屓してる所はあるかもな。
「ミヤコとも相談だが、有馬でいくならもう少し代表作が欲しいところだな。同年代に不知火フリルがいる分、もう少しインパクトが欲しい」
「必要なら闘りますよ」
なんか前にそんな事を話した事もあった気がする。干されて仕事がなくなったらだったか?
「必要になったらな。合わない役をやらせても知名度は上がっても人気は出ない。そんなに急ぐものでもねえよ」
キャスティングされるのは撮影の前。時期的にすでに来期のは決まってんだろうから、早くても春からの物になる。合う合わないも考えれば、確かに急ぐ必要はねえか。
「社長が言うなら間違いねえか。その辺はお任せしますよ」
少なくともアイが認めてるなら、よっぽど変な役でも掴まなきゃ問題はねえだろ。
その後も飲み続ければ、社長はすっかり出来あがっちまった。本人は酔ってねえって言うが、呂律が回ってねえ。年取ると酒に弱くなるってのは本当のようだ。タクシーを呼んでもらい、支払いを済ませる。
「しかし、お前が引退とはな」
見送りがてら氷室も外に付いてくる。まだタクシーの姿はない。肌寒さも酔い覚しにはちょうど良さそうだ。
「まだ言うのかよ」
「何だかんだ付き合いが長いからな。ダチが辞めるって聞くとちょっと感慨深くなるんだよ。……結局、仕合じゃ当たった事なかったな」
外なのを良い事に、慣れた手つきでタバコに火をつける。
「そういや闘った事なかったか。明後日暇か? ちょうど爺ちゃん家に行くから、その時に時間あるなら闘ろうぜ」
「相談役の所で? また護衛者達の訓練でも付き合ってやるのか?」
「それもあるが、メインは別だな」
タクシーが来たため、まずは社長を放り込む。ミヤコさんに怒られんな、これ。
「気が向いたら行くよ」
それは行かねえ時のセリフだろ。
「ズタボロになりたくなきゃ来ない方が良いかもな」
煽り気味に言えば、氷室は少し目を開いた。ちょっとキレたな。返事を待たずにタクシーに乗り、出してもらう。これで多分来るだろう。返事は聞かなかったが、なめられて来ない選択肢を取る奴じゃねえしな。
氷室涼。『中』出身であり、現在は義伊國屋書店所属の闘技者。絶命トーナメントにおいてもかのガオラン・ウォンサワットと戦い抜いた猛者。直近での戦鬼杯で本戦にこそ出場できなかったものの、彼の実力を疑う者はいない。
その氷室は現在、大量に汗をかきながら果敢に攻め立てていた。
元より侮っていたわけではない。長年の付き合いから桂の力量は把握していた。先日煽られた事もあり一泡吹かせてやろうとしたものの、今なお有効打を与えることができなかった。
対して桂は氷室の猛攻をひたすらに捌く。
ジークンドー特有の最速最短で放たれる打撃は回転数も高く、氷室の拳速も合わさり通常回避するのは不可能に近い。相手は基本的には攻撃を受けつつ対応する必要に迫られるが、例外として挙げられれのは先読みを使い対応する事。桂も例に漏れず先読みを使っているが、先読みも万能ではない。未来予知ではなくあくまで気の起こりを読む技術なため、初見の技には反応が遅れてしまい、可否はさておき気の起こりを読まれる前に攻撃されてしまえば対応は追いつかなくなる。
桂が使っているのは通常の先読みと、意図的に相手の行動を誘導するような小さな動き。この二つを織り交ぜる事で、より確度を高めて氷室の猛攻を受け切っていた。
完璧に対応されている事への苛立ちと焦り。状況を打開すべく、氷室が深く踏み込む。今日最速の縦拳も、手甲が触れ往なされる。次の攻撃のために身体を動かそうとしたタイミングで、体がバグを起こしたかのように力が抜けた。
それが二虎流の柳であると理解するのと、桂の掌底が氷室の腹部を捉えたのは同時だった。
「それまで」
氷室が膝をついた事で、審判役を務めていた三朝から静止の声がかかる。
「っ痛。……クソ。手抜きやがって」
まともに食らっていれば、これほど話すことはできなかっただろう。そもそも桂がその気であれば初手で終わっていた事がわかっていた。叩きつけられた彼我の差が、氷室に悪態を付かせた。
「手合わせって言ってもガチの仕合じゃねえしな。無駄な怪我して鍛錬の時間減らすのも勿体ねえだろ」
「確かに。……それでも繋がる者には勝てねえのかよ」
「家に来る度にこんな感じでやってるが、まだ勝てた事はねえな」
桂と武龍の間で行われる手合わせは、多い時は週に三回は行われた。最近はようやく手合わせらしい手合わせになったものの、いざ仕合で闘えば、勝敗は決まっているようなものだった。
「次は私が行かせてもらいますかね。審判お二人のどちらかにお任せしても?」
「審判は俺がやろう」
「どうも、七代目」
三朝はジャケットや靴を脱ぎ、ネクタイを外す。
「旦那、休憩はいらないですよね」
「構わねえよ。このままノンストップでやろうぜ」
桂の視線の先には、七代目と四代目の牙を担った鷹山と王森の姿があった。その二人の隣に椅子を置いて腰掛ける滅堂の姿が、体格差もあり非常に小さく見える。
蟲との拳願仕合。未だ日程も定まっていないものの、戦力アップを図るのであれば早いに越した事はない。現状拳願会、煉獄内で最も武龍に近いとされる桂が今回のようにそれぞれと戦い、それまであった無意識下に存在した不可能の壁を取り壊すことを目的としていた。
現時点で拳願会側で一番強い自覚は桂も持っていた。ただこれは、一人だけ抜け駆けして壁を破った事と他ならぬ頂点からの指導を受けたため。他の闘技者や闘士達が追いついてこれないとは考えておらず、周りのレベルを底上げした方が自分自身も更に強くなれるはずだと言う、極めて利己的な理由で今回のような事を実施していた。
「よし、始めろ」
その言葉を受け三朝との手合わせが始まる。
三朝の後は鷹山、王森と続き、それが終わればまたもう一回り続ける。全員が立てなくなるほどに疲弊するまで延々と続けられた。