一番星の王子さま 作:160万のワインを飲み損ねた
片原会長との話はスムーズに進んだ。とは言っても、お金さえ貸してもらえれば良かったため細かい条件に特に拘りはなかった。
一、本契約は、片原滅堂(以下「甲」)は、日向桂(以下「乙」)の個人間で締結されるものである
一、甲は乙に一億円を融資する。
一、甲が乙に貸与するにあたり、金利は生じないものとする。
一、融資開始時期と返済期限は、甲の一存によって定められる
一、乙が契約破棄を望む場合、乙がなんらかの理由で返済不可になった場合、甲が乙に対して返済能力なしと判断した場合、乙の命を持って返済とする。
簡単に契約内容をまとめてしまえばこのような感じ。書面には会長の捺印と俺の署名と拇印が押されていた。融資金は、会員権を賭けた非公式仕合が開催されるタイミングで貸与される。非公式ゆえに不定期開催のためか、残念ながらまだ予定はないようだった。
「バカかお前! なんて契約結んできてんだ!」
力強く机が叩かれる。斉藤社長に契約の件を伝えれば、ひどく怒鳴られた。
「お前はたかが一億のために命を捨てたんだぞ、しかもただの小娘のために!」
たかが一億円。
日本人の生涯年収は一般的に二億から三億円と言われている。一芸に特化した人たち、一流の芸能人やスポーツ選手ともなればそれを容易に超え、特に表格闘技のトップ層は、ファイトマネーだけでも数億を稼ぐことができる。それらと比較すれば、一億は命をかけるにはあまりにも安い金額なのだろう。
「社長からはそう見えるんでしょうけど、俺からすれば必要なことなんですよ。一億の借金とか、命かかってるとか、要は勝てば良いんですよ、勝てば」
「だからそう言う話じゃねえんだよ! あー! もう!」
「良いんじゃないですか、別に。この子が勝手にやったことでウチにはデメリットないんですし。それにウチが変に事を騒ぎ立てて面倒にしても、相手はあの片原滅堂。私たちなんて虫みたいに潰されちゃいますよ」
日本経済を牛耳る銀行の総帥と、零細企業。何をしたところで傷一つつけられないだろう。象と蟻が戦うようなものだ。簡単に踏み潰されてお終い。
「おいミヤコ!」
「仕方ないじゃないですか。どうせ避けられないなら、最大限ウチにメリットあるように立ち回った方が賢明だと思いますけど」
「さっすがミヤコさん。いっそ代わりに社長になっちゃいます?」
「社長…それも良いわね」
斉藤ミヤコ。社長夫人である彼女は、現在B小町のマネージャーを務めている。あまり話をしたことはないが、初対面でじっと見られた後、惜しいと言われた。何が惜しいのかはいまだにわかっていない。彼女は視線をこちらに向ける事なく、淡々とデスクワークをこなしている。仕事モードなのか、夫である社長にも敬語だ。
「良いわけあるか! ったく、なんでこうも面倒ごとを持ってくるんだよ」
頭を掻きむしりながら社長はひたすら悩んでいた。ストレスで禿げないか心配になる。
「他になんかやりました? 心当たりないんですけど」
椅子を回して、ミヤコの方に体を向ける。
「貴方がアイさんを唆したんでしょ。この前大変だったんですから」
「あー、その件ですか。別に唆したわけじゃないですよ」
アイと食事をして家まで送り届けた翌日、アイは手始めに社長に本心をこぼし、その後メンバーにも同様にぶちまけたようだ。思った以上の行動派だ。
何事もなく上手く和解してめでたしめでたし、という事もなく大いに揉め、仲裁する社長やミヤコさんにもアイを贔屓しすぎだと怨言が飛び交った。
「変に不満溜め込むより、吐き出した方がお互いのためになるでしょ」
「今回は結果的にはそうなりましたけどね。貴方は知らないでしょうけど、あの年頃の女の子達を上手くまとめるのって本当に大変なんですよ」
思い出すだけでも胃が痛む、と言ってミヤコさんはお腹をさすっている。
思春期は大人への過渡期である一方、ホルモンバランスの変化や体の成長に伴い大きく不安定になる。そんな中普通ではない業界で過ごしていれば、歪みは大きくなる。
言い合いは数時間続いたらしい。お互いが言いたい事をぶちまけたからか、少し関係性はかわり、嫌がらせのような事は無くなったとアイから聞いた。仲良しこよしのメンバーではなく、ライバル関係、とでも表現するのが適切か。
「そんなもんですか。確かに学校でもたまに見るしな」
仲が良かったように見える子たちが急に不仲になったり、先ほどまで談笑していたのに、その子がいなくなった途端にその子の悪口を言ったり。難しい世界だ。こう言うことを言うと怒られそうだが、男で良かったと思う。
「そういえば、貴方今日学校は?」
時間は午後一時、本来であれば午後の授業が始まるだろう時間。
「サボりました。前みたいにアイと鉢合うと社長たちに迷惑と思いまして」
前回の件は少しだけ反省もしているし、仕合関連の話はあまりアイに知られたくなかった。
「勉強サボると良い高校行けなくなりますよ」
「高校行く気ないんで別に良いですよ。ほら、知っての通り施設にいるから、あんまり金銭的に迷惑かけられないじゃないですか」
義務教育は中学まで。九割以上の中学生が高校に進学するが、ごく一部は働く事を選択する。
キーボードの打鍵音が止まった。
「……行くあてはあるの? 住むところは?」
「しばらく会長が世話してくれることになってますけど、特に無いですね。まあ、適当にバイトでも探しますよ」
会長には一通り話した。親がおらず施設にいないこと、師匠との出会いや二虎流を習い始めた経緯、そしてアイのこと。最後に関しては青春しておるのと笑われたが、身元保証人はなってくれるとのことで、今度施設に一緒に行くことになっている。聞けばあの場にいた人たちは皆身寄りのない者たちで、会長が保護して世話をしているそうだ。ぱっと見百人くらいいたような気がするが、資金力は計り知れない。
屋敷は広かったし、訓練相手にも困らない。あの場所は理想的な環境と言って差し支えない。思わず甘えて住み続けたくなってしまうが、いつまでも世話になるわけにはいかない。バイトしながらでも仕合で稼ぐようにならなければ。要は一人立ち。その言葉に少し憧れがあるのは内緒だ。
仕合のファイトマネーは仕合の過酷さに見合わないようだ。もし金を稼ぐことを目的としているのであれば、表格闘技界で活躍する方が良いと助言も貰ったが、すでに腹は決めている。
「それなら、ウチで働いたら?」
思わぬ誘いが降って来た。
「働き口紹介してくれるのは嬉しいですけど、俺この業界のことほとんど知らないですよ」
知っているのは表面中の表面。会場に行って歌って踊る。たまに握手会とか記念撮影がある程度。ほとんどどころか、まるで知らない、という方が正しいかもしれない。
「運営に関わることは勿論させませんよ。力仕事とか雑用とか、人手が欲しいところは色々あるので」
「まあ、そういった事なら。でもそのためだけに俺雇います? 自分で言うのもアレですけど、面倒ごとの塊でしょ?」
「それは勿論。本来なら抱えたくない爆弾ですよ。ただこれまでの話だと、貴方はウチの所属の闘技者になるんですよね。それなら他所にいるより、ウチにいる方が何かと融通が利きますし。ですよね、社長?」
ガタッと椅子が倒れる音がしてそちらを振り向くと、社長が立ち上がっていた。
「その通りだよ。クソッ、まだ完全に飲み込めてねえし納得してないが、こうなったらお前を存分に利用させてもらうからな! あとで辞めたいって言っても知らねえぞ!」
「上等。大船に乗ったつもりで居てくださいよ」
「タイタニックだったってオチは辞めろよ」
「船首にくくりつけておきますね」
「作品変わってくんだろ。ロマンスどこいった」
施設にあったため、アイとも一緒に見たことがある不朽の名作。きっと映画を通じて伝えたいメッセージなどがあるのだろうが、当時の俺にはわからず、ただ純粋に面白い映画として見ていた。
「いや社長とのロマンスなんていらないんで、マジで。アイとなら別ですけど」
ごめんなさい、と両手を顔の前で合わせた。社長がイラつくのがわかる。
「お前もう隠す気ないだろ」
「社長の前で隠す必要あります? もう知ってるじゃないですか」
「それはそうだが……。というかアイだよアイ。仕合の件どうするんだ?」
永劫隠し通すことはできない。
「今すぐ伝える、とは言いませんけど、どこかで言わないとなって思ってますよ」
仕合相手によっては大怪我をすることもあるだろう。生死問わずの仕合ルールのため、最悪命を落とすことだって有り得る。もちろんアイを悲しませるつもりはないため、死ぬつもりなど毛頭ないが、大怪我をすることもあるはずだ。隠し事を続けるのも心が痛む。
社長は大きくため息をついて再び椅子に座った。
「時期は俺も考えておく。今はとにかくライブも控えている大事な時期だ。初ライブが成功するかどうかで今後に大きく響く。今回のことは感謝しているが、余計なことは絶対にしないでくれ」
「そこはわかってるんで安心してください。あ、ライブ決まったんですね。いつになったんですか?」
これまでのことを振り返ると、安心できないのは無理もないが。
社長が日程を伝えようとしたところで、ミヤコさんから待ったがかかった。
「それはアイさんから直接聞いてください。あの子、貴方に伝えるの楽しみにしていたので。どうせ明日会うんでしょ」
「知ってて止めないんですか?」
「できることなら本当はやめて欲しいですけどね。一度社長が提案したらアイさんから猛反発を受けて、事前に会う日伝えるならOKってしちゃったんですよ」
冷たい視線が社長に向いていた。社長は痛いところを突かれたのか、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「いや、モチベーション維持に必要だと思ってな。それに、ほら! お前にも言っただろ、適切な距離を保ってくれれば良いって」
記憶を思い起こせば、そんなことを言われた気もする。それはそれとして、俺は思ったことを素直に口にすることにした。
「社長も大概アイに甘いですよね」