授業が終われば、一人で直帰が日常だった。
いつだって放課後の学校に用事なんて無い私が、珍しく忘れ物をした、と、とんぼ返りをした、偶然の非日常。
その日、聞こえてきたのは予測した静寂でも、充実した学生生活を送る誰かの喧騒でもない……
一人の、同級生の女の子が泣く声だった。
わんわん、というよりは、すんすん、と。
静かに、少しずつ感情が溢れ出たようなすすり泣き。
それでも、開かれたドアから覗く、辛そうな顔を見た私は、「何かあったの」「どうしたの」と呼びかけようとして……
「ぁ、ぅ、ぁ、っ……」
その声を、出すことが出来なかった。
クラスメイトとはいえ、その子とまともに話したことなんてない。
泣いている理由に見当もつかなければ、そもそも学校生活をうまく送れていると言えない私が、都合のいい解決策を持ち合わせているとも思えない。
ただ声がけが無駄、というだけなら自己満足にはなるだろう。
しかし、今苦しんでいる彼女をさらに不快にさせるだけかもしれない、なんて悲観的な考えが一度でも脳をよぎると、どうしてもためらいを覚えざるを得なかった。
ただ、それでも今、この状況で待っていても解決される目処も無い。
なんとかそう切り替えた私は、今度こそ覚悟を決めて話しかけようとして……
「ちょ、ちょっと! あさひ、大丈夫!?」
「ぁ……うぅ、さや、ちゃあん…………っ!!」
その寸前、泣いている子の親友が教室に飛び込んできたことで、その動きを止める。
「ごめんね、気づくの、遅くなって……! もう、大丈夫だからね……っ!」
「っ、ひっ……っく、うん……!」
そのまま泣きじゃくる彼女は親友に抱きとめ、慰められると、安心したように落ち着きを取り戻す。
私はそこまで確認し……足音を立てないように、その場を去った。
ああ、よかった、と思った。
やはりお呼びだったのは私なんかじゃなく親友の子で、あの場面で私が出ていって出来ることなんてきっと無かった。
人間、出来ることと出来ないことはあるし、するべきこともするべきでないこともある。
あの場面で私が下手に出ていって……衝動の赴くまま声をかけたり、ましてや彼女の親友のように抱きとめたりなんて、とんでもない。
きっと事態をややこしくする結果にしかならなかったんだ、と。
そう、自分に言い聞かせるように一人、家路につき。
「……かっこ良く、ないなあ……」
そんな言葉が、思わず口をついて出た。
自分で呟いたセリフに、今更何を言っているんだ、と一人苦笑する。
当たり前だ。
私は、漫画のヒーローでもなんでもない、ただのどこにでもいる、一般人でしか無いのだから。
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「あぁぁあああっ! あああああああぁああああッッッ!!」
『村のみんなが殺される』。
絞り出すように叫んだセリフのあとは、もはや意味のある言葉も出ない。
目覚めた少女は、ただただ絶望にまみれた表情で涙を散らせわめき続ける。
(…………っ)
なんとか、何か。
少女のために声をかけたいと口を開こうとするも、言葉が詰まって出てこない。
こんなとき、こんな場合に何をすればいいのかも、わからない。
……当然だ。
そもそも私自身、二度目の生を受けているとはいっても、人様に誇れるような人生経験を積んだなんて、とてもじゃないが言えない。
今はともかく、これまではただ、親に押し込められた鳥かごの中でもがくことすらも出来ていなかった、それだけの人間なのだから。
そんな浅く狭い経験しか持たない私が今、下手な慰めの言葉をかけたとして、一体どれほどの重みが込められるだろうか。
それが果たして彼女の救いになるだろうか。
(そう、だ。経験と言えば)
そう、それならば、少なくともこの場において私よりずっと経験があるだろうマルティロ。
彼に任せるのが一番のはずだ。
そしてそのマルティロは、今は難しそうな顔をしているが声を上げることはない。
どうやら、パニック状態にある彼女を無理に刺激することはせず、ひとまず叫び疲れ、落ち着くまで待つことを選んだようだ。
……ならば、きっとそれが正解なんだ、と。
少しの時間とはいえ辛そうな彼女を置いておくような形になるのは胸が痛むが、それがこの子のためになるのだろう、と。
そう自分を納得させながら、半狂乱で泣き叫ぶ少女を今一度見て────
あっ、と。
一つ、"それ”に気づく。
「────っ!」
そして気づいたと同時、ガバっと。
私は少女の小さな身体を、思いっきり強く抱きとめていた。
「ひっ!? やっなに、なにっ……!?」
少女からすれば、ただでさえ動転しているところに重ねられた奇行。
その声に、これまで以上の混乱と恐怖が混じっているのは無理もない。
それでも、私は彼女の混乱を受け止めた上で。
静かに、ゆっくりと声をかける。
「…………大丈夫、大丈夫。"ちゃんとここにいるから"。……私たちがちゃんと、聞いてるから」
「────ぁ……」
噛みしめるように、目の前の少女だけでない、誰かにも言い聞かせるかのように。
『自分はここにいる』と何度も何度もささやきながら、ぎゅっと抱き寄せて、胸と胸を合わせる。
とくん、とくんと心臓の音を聴かせる……交信させる。
「…………お前……」
困惑の声を後ろからかけるマルティロに、私はほんのり覚えた照れくささを誤魔化すように薄く笑う。
マルティロが驚くのも当然だ。
私自身、直前までこんなこと考えもしなかったのだから。
……ただ、気づいてしまったのだ。
(この子は……ああ、この子はきっと、あの日の私だ)
漏れ聞こえた『殺される』という言葉がそのままの意味ならば、彼女が抱える事の深刻さは、あの日の私よりずっと上かもしれない。
何が大丈夫なの、と叫んだほどの彼女の境遇は、軽はずみに大丈夫だ、と慰めて良いようなものではないのかもしれない。
それでも、自分は運命の袋小路に入ってしまったのだとばかりにただ泣き、どうしようもなくなってしまったのだと叫ぶ少女の姿。
それが、あの日路地裏で独り泣き叫ぶ自分のものと重なって見えた以上。
彼女をそのままにすることは、私には出来なかった。
……だから、今。
私がやったことは。
全部全部、『あの日の私』がしてほしかったこと、言ってほしかったこと、そのままの行動だ。
それでも大丈夫だ、と。
聞いてくれる誰かがいる、と。
あなたを見ている人間はここにいる、と。
きっと私はあの日、誰かにそう言ってほしかったのだから。
「大丈夫、大丈夫……私たちが、ここでちゃんと聞いているから。……だから、話して? 何があったのか、何が辛いのか……全部」
「ぅ……うぅ、うぅううう!! うぁあああああ~~!! ああああああぁぁ~~~~ッッ!!」
そんな、私がかけた言葉に対し。
ひときわ大きな、だけどどこか安心したような色の泣き声が響いたのを最後に、狂乱の声は収まり。
心臓の音と、かすかにすすり泣く声だけが、私に届くようになり……少女は正気を取り戻したのだった。
(ふぅ~~っ……)
────なんだ。私の経験も、捨てたばかりのものじゃ無いじゃないか。
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「…………ごめん、なさい。助けてくれて、ありがとう、ございます……」
そうして、なんとか会話が出来るようになった少女。
レクタと名乗った彼女は今も忙しなく視線を泳がせたり、一瞬立ち上がろうという素振りを見せたりと、まだ完全に落ち着いた様子とは言えない。
ただ、すぐにそうした時間が無駄であることを悟ったか、意識して身体の動きを止め、落ち着こうとしていた。
……まだ十歳かそこら、という年齢に見えるが、多分賢く、強い子なんだろうと思う。
そして、そんな子をあれほどの恐慌状態に追い込んだこの現状。それに不安を覚えながらも、私は早速本題に入った。
「その……何があったの?」
端的に"全て"を訪ねた私の質問に、彼女は一瞬ビクッ、と身体を震わせ、目を背ける。
この反応を見るに、口外すること自体に相応のリスクがあるのかもしれない。
ただ、すでに抱えているものの一部を思いっきり吐き出した後、ということも手伝ったか。
ほんの少しだけ考えたと思うと、意を決したように彼女は────
語り始めた。
「あたしは……あたしたちの、村は……化け物のものになったの……」
それは、聞くだに気分の悪さがこみ上げてくる話だった。
五日ほど前のことだったらしい。
ここ、アカシャ村からしばらく歩いたところにあるという彼女の村、イドナ。
小さく、周りの村との交流もそうは無いながらに、器用な者が多いことから工芸品の売買などで細々と、だけど平和に過ごしていた、そんな彼女たちの村。
そこは、たった一時の間にリーダー格である人間大の魔物……
特徴を聞いたマルティロ曰く、ゴブリンに似た風貌ながら強靭な体躯と膂力を誇る、トロールと呼ばれる怪物と、それが率いる魔物たちに奪われた。
「……あたしも、村のみんなも戦うことなんて出来ない……
もともと余裕なんてぜんぜん無いのに、ご飯もお金も取られて……
それで、むりやり働かされるの! あんなに、みんながんばって覚えた大事な技術を! 化け物たちの武器づくりなんかに、使わせてっ……!」
そうして、占拠した村を手勢のゴブリン、トロールに見張らせては、逆らえば殺すと脅されているという。
目覚めた彼女が狂乱したのも、帰りが遅れたことで食料集めという命令に背いたと見做されたのでは無いか、という恐怖によるものだったのだろう。
苦しそうに、悔しそうに現状を吐露するレクタ。
そんな彼女にちょっと待ってくれ、と口を挟んだのはマルティロだ。
「……
守手。
名前と話の流れでイメージ出来るそのまま、村を守り戦う自警団的なもののようだ。
ただ、今彼女が置かれている状況と聞きづらそうなマルティロの態度を見るに……。
「…………っ、殺、された。二人共……あんなに、強かったのにっ……」
「殺っ……」
────殺された。
口に出かかった言葉を飲み込んで、改めて魔物という存在がもたらす脅威を実感し、じっとりと嫌な汗が吹き出す。
ただ、私よりも知識を持ちながらも難しい顔を続けるマルティロは、この話にそれ以上の問題を覚えたらしく、重々しく口を開いた。
「村や土地によって質の差はあるだろうが、それでも守手ってのは、名の通り村を守れる戦力として任されてるもんだ。
……少なくともアッセロが倒せたようなゴブリンは当然、トロールを相手にしたとしても、そうそう遅れなんて取るはずがねえ」
「……それって……」
────つまり。
「その、レクタが見た大きな化け物……トロールになにか変なところは無かった? その、妙な光り方をしてたりとか」
「っ! あった……きもちわるい紫色に光ってた! あれ、やっぱりおかしかったんだ……!」
つい先程覚えた知識を手繰り、問いかけた私にレクタは返す。
「……メナトロールか」
彼女の平和を、幸せな日常を破壊した存在の名は、メナトロール。
呟いたマルティロの言葉が耳に入り、思わず私は腰に携えた刀の柄をぎゅっと握った。
ゴブリンの手から助け出せたと思った目の前の少女は、まだ救われてはいない。
そして、救うためにやらなければならないことが、倒さなければならない敵が判明したと同時、私は声を上げる。
「マルティ────」
「やめておけ」
────が、煮えたぎった義憤の熱に冷水を浴びせるかのように、冷徹な声をかけたのはマルティロだ。
「メナトロールが相手なら危険度は低く見てもモース2はある。
それなりに経験を積んだ冒険者でもソロや対策無しでやるのはリスクのある敵だ。
……鉱病にかかってもいない、ただのゴブリンに苦戦したばかりのお前が戦っていい相手じゃねえ」
「────ッ」
「……当然、俺が相手しようにもこの身体だ。
ただのトロールならまだともかく、鉱病でタフさも増してるだろうメナトロールを仕留める剣筋は……悪いが振るえねえ」
そう言いながら沈鬱な表情で自身の身体を見やるマルティロ。
その口調の重さに引かれるように、傍のレクタの表情も曇り続ける。
こんな小さな子にはっきりと聞かせるには酷な内容にも思えたが、下手に希望を与えるほうが彼女のためにならない、と判断したのかもしれない。
「…………」
「私たちだけで無理ならっ! ……あ、いや、そうか、今は確か……」
「……ああ、
王都に出向いた理由までは知らなかったが、今のように魔物の動きが活発化していることと関係があるのかもしれない。
だとしても、何も全員呼ばなくても……とは思うが、私には分からない理由があるのだろう。
ともかく、今村に残っているのは訓練を始めているとはいえ小さな子どもや、普通の村人たち。
ただでさえ勝算が薄いこの戦いに引っ張り出して命を張らせることは当然、出来ない。
考えれば考えるほど、直視させられるのは悪い条件ばかり。
現実的な策を考えるなら、村の人間の命を諦めて、この少女一人だけでも逃がすことでも考えるべきなのだろうか。
────────それでも。
どれだけ出来ない理由を目の前に積み上げられても、私の答えは、決まっていた。
「ごめん、マルティロ。私、やっぱり……見捨てられない。戦いたい」
「……っ、おねぇ、さん……」
「お前っ……いや、だがメナトロールは」
「鋼一刀が決まっても、無理だと思う?」
「────────っ!」
そう、先ほどからマルティロが吐く言葉。
それは、戦うべきでないという現実を提示するものではあるが、『アッセロはメナトロールに絶対に勝てない』と断定するものではなかった。
「本当に絶対に、何があっても勝てないなら、諦めるよ。……でも、そうじゃないから、マルティロはメナトロールが危険だ、ってことしか言えなかった……そう、だよね?」
「…………」
押し黙るマルティロに私はそのまま続ける。
本当に絶対に勝ち目が無いのなら、私もただ無駄死にする選択は取れない。
でも、父が遺してくれた拠り所が、勝算があるのなら。
私は、どのみち残り三年しか無いであろう自分の命を張る価値はある、と。
(…………それに)
ましてや今目の前で沈む少女は、鳥かごに閉じ込められてもがくあの日の私と同じ存在なのだから。
理解を得られないであろう、少女との共感のことは伏せながらも語った私に、マルティロはしばらく考え込んだあと頭をかきながらため息をついた。
「はぁ~……限度の範囲内で自己責任って言ったそばからこれかよ……攻めすぎなんだよお前ら親子は……」
「あはは……いつも苦労かけますお兄さん」
「ただ、言っておくが俺は────」
と、続けようとしたマルティロに向け、私は言いたいことは分かってる、とばかりに手をかざす。
「うん、分かってる。これは私自身が勝手に決めたことだから────」
そう。そもそもこの話は、私個人が決めたことで、当然マルティロが付き合う義理は毛頭ない。
私とて決して命を投げ捨てるつもりでは無いが、それに近いぐらいに危険な真似をしようとしているのは分かっている……つもりだ。
だからこそ、友達だと思っていても……いや友達だからこそ、そんなワガママに彼を付き合わせることは出来ない。
彼自身が難しいと感じていることに、命を張らせることなんて出来るはずがない。
ならばこれは、やると決めた私が、私自身の力で解決すべき問題なのだから。
────なんて。
「なんて、かっこよく言えたら良かったんだけどなぁ……」
「あん……?」
ふっ、と。諦めたように私の口から溢れた言葉に、マルティロは怪訝な顔を見せる。
そのまま私は一度席を離れると、自室から複数の袋を持ち出した。
マルティロの目の前に置かれたそれは、ドンッと重量感ある大きな音を鳴らす。
ああ、分かっている。
本当は自分で解決出来たらそれが一番で、でも、だけど。
今の私には、確実にそれを為せるだけの力なんて無いことを。
この状況で通すべきものは、一人でなんとかしたいなんて意地でも、マルティロに対しての遠慮でもない。
泣きはらした瞳で見上げる、目の前の一人の少女を助けたい、と。
今私がやるべきこと、と定めたこの願いのために、張れるものをなんでも張る覚悟だ。
そして今、力も知恵も足りない私がこの場で差し出せるもの。
思いつく手段は、一つしかなかった。
「マルティロ。悪いけど、どうしてもやってほしい。私のワガママに付き合って、命を張ってほしい」
手段の名は、依頼。……つまり、ビジネスのお話だ。
可能な限り手をつけまいと思っていた、父が遺した多くの金貨。
その"全て"を迷わず差し出しながら私は、まっすぐにマルティロを見据え、努めて力強く、告げた。
どうせ命を張るのなら、
「私、アッセロはこの報酬と引き替えに、元剣士……冒険者としてのマルティロに依頼をします。
……私がメナトロールを討伐する間。
誰一人として死なせないよう、村の解放と避難をお願い出来ないでしょうか」