……朝だ。アラームの音で目が覚める。
何となくまだ起き上がる気分じゃないので、広いベッドの上をゴロゴロと転がる。
そうしていると、誰かが部屋に入ってきた。
「お兄様ー? 起きてくださーい」
「起きてる……おはよう佳樹」
そう言いつつも俺がまだベットの上でウダウダとしていると、佳樹は俺が寝ているダブルベットの上に登ってきた。
そこから佳樹は女の子座りで、俺のお腹と腰の間あたりにペタンと腰を下ろした。両手と腰を使って俺を揺さぶってくる。
「まだ半分くらい、おねむじゃないですか。仕方ありませんね」
「ん……」
佳樹は両手でペチペチと優しく俺の
目の前の佳樹はしっかり制服に着替えていて、その上にいつものエプロンを付けている。
そしてまだ、俺のほっぺたをムニムニと触っていた。何をしているんだか。
「──俺の頬は遊び道具じゃないぞ」
「手触りを
佳樹は俺の前髪を
……不意を打たれて、意識が完全に
──たったの一週間で、佳樹が婚約者ということに微妙に慣れてきてしまった自分が怖い。
元の世界に戻った時、『今日はおはようのキスをしないなんて珍しいな』みたいなことをうっかり佳樹に聞かないように十二分に気をつけよう……
さて、学校に行くか。
◇
学校だ。
どうにかして
今日の非常階段での昼食は
なんで
小鞠を入れたお弁当のおかず交換会もとい、小鞠の
「温水、ちょっといいか?」
そんなことを考えていると
袴田の後ろでは
……八奈見のくせに
「どうしたんだ、袴田」
「放課後、俺に時間をくれないか。お前と勝負がしたいんだ」
袴田は鋭い視線を俺に向けている。こうなる心当たり自体はなくはない。
八奈見との浮気まがいの密会だったり、姫宮さんと交友があることだったり。
でもそれだけでこんな敵対するような空気にはならないはずだ。
「え、えーっと──」
「……温水、受けてくれるのか? 受けてくれないのか? 俺はお前と、男同士で勝負がしたいんだ」
──これって、シメらめるパターンですか?
キョロキョロとクラスを見渡すが、当然俺の味方になってくれるような人物はいなかった。
◇
新校舎一階。俺たちは家庭科室のカギを開けて、室内にゾロゾロと入っていく。
メンバーは俺と袴田と八奈見、そして──
「結局先輩達も付いてきたんですか」
「後輩のこんな面白そうなイベント、見逃すワケないじゃない」
月之木先輩と
志喜屋さんは文芸部に所属こそしていないが、生徒会の業務の合間にちょくちょく部室に入り浸っているから実質文芸部員みたいな感じだ。
「私は
「まぁまぁ
姫宮さんと朝雲さんもいるので、文芸部は勢揃いである。
袴田にとってアウェーなんじゃないかと思ったが、特に気にした様子はなさそうだ。
袴田は両手に持った沢山のスーパーの袋を、家庭科室の調理台の上にドンと置く。あれだけの量を苦もなく持ち歩いてきたのはすごい腕力だな。
「──前に言った通り、勝負するのは料理だ。温水、好きな食材を選んでくれ。一通りはある。俺は残った中から選ぶから」
「こんなにいっぱい買ってきたのか……れ、レシートとかある? 俺が使う分は払うよ」
「そんなものは要らない。俺が言い出した事だからな……その代わり、本気でやってくれ。俺はお前の実力が見たい」
袴田の目は闘志に燃えている。多分燃やす相手を間違っていると思う。
──とりあえず料理対決ということは、八奈見関係ってことだよな。
「袴田、俺もこの勝負の経緯をよく理解してないんだけど……袴田が勝ったら八奈見さんにもう近づくなとかそういうやつ? それは何かの勘違いで──」
「……何でそんなことになるんだ? 俺にそんな権利なんてないだろ」
いや、ちょっとはあると思うぞ。恋人なんだし。
「俺は勝負を通して、
「温水君、また新しい女の子と仲良くなったの? 姫宮ちゃんといい、朝雲ちゃんといい、見かけに寄らずやるじゃない。次は
「いえあの、そんなんじゃない。そんなのじゃありませんから。人聞きの悪いことを言わないでください」
話を聞いた月之木先輩が余計なことを言う。でも姫宮さんと朝雲さんはあまり意に介していないようで、どちらかというと八奈見に注目をしていた。
あいつはスーパーの袋から
──結局袴田は誤解をしているようだが、これ以上話が
八奈見は大量の食材が自分から離れていくのを見て手を伸ばしていた。大半は
「ほう。あの後輩のイケメンくん、なかなか
「しょ、勝負を通じて、深まる絆……お、王道」
調理中の俺たちを見て小鞠はよからぬ妄想をしているのか、頬を染めて興奮している。
部長はそれに気づいたのか、小鞠の髪をワシャワシャと撫でて中断させていた。
腐女子の扱いは手慣れたものだな。その調子でお願いします。
「温水君って料理出来るんだね。お昼休みのお弁当は妹さんの手作りって話していたから知らなかったな。杏菜は食べたことがあるの?」
「えっ!? いやあの、食べたことがあったようなー……食べたことがないような……なんちゃららの猫みたいな……」
「?」
「──おそらく、シュレーディンガーの猫のことを言っているのではないでしょうか。元はとある思考実験の
「つまり……はぐらかされてるってことだよね? 杏菜が草介のこと以外で隠し事するなんて、珍しいね」
「チ、チガウノ……チガウンデス……」
──皆はワイワイと好き勝手に外野で話している。とうとう勝敗予想までやり始めた。
文芸部の義理で俺が優勢なんじゃないかと一瞬思ったが、小鞠と月之木先輩が何やら
あれ、もしかして俺の方がアウェーか? クラスの人気者には自分のフィールドでも勝てないのか。悲しいぞ。
◇
大きめの皿に盛られた美味しそうなオムライスだ。皆で取り分けていく。
……中にチーズまで入っているのか。絶妙にトロトロな卵といい、細かく刻まれた玉ねぎと鶏肉といい、見た目が食欲をそそるな。
──スプーンを口に運ぶ。文句なしに美味い。
この短時間でここまでのクオリティのものを作りあげるのか。
「袴田、このオムライス美味いな。どうやったらこんなに卵がトロトロのままで上手く包めるんだ?」
「ああ、それはコツがあって──」
気になって質問をしてしまったが、袴田は普通に返答してくれた。一応対決相手だというのに、
他の文芸部メンバーも、好意的な感想を口に出している。
「そういえば袴田、あれは……」
「ああ、杏菜の分か?」
俺が見ているのは1人だけ別の皿に盛られた八奈見のオムライス。
その量は言うまでもないが、更にトッピングとしてソーセージやベーコンと言った具材までたっぷりと乗せられている。
八奈見は眉をピクピクとさせていた。そんなに待ちきれなかったのか。
「料理はその人に合わせるのが大事だからな。時間がなかったからとりあえず杏菜だけの特別仕様だ。他の人も量が足りなかったら言ってくれると助かる」
「あ、ああ」
いい気遣いだな。でもどこか駄目な気がする。八奈見の体重か……?
でもあれだけあったオムライスはあっという間になくなりそうな予感がする。
──うん。幸せ太りというやつだな。仕方ない。
「なかなかに美味しいわよ袴田君。それに対して温水君が作ったのは、野菜スティックなわけだけど……なんで野菜スティックなのかしら」
「いや、とりあえず一品作ろうと思って……深い考えはないです。あとちゃんともう一品作っていますから」
月之木先輩の問いかけに答える。ちなみに野菜スティックは志喜屋さん
2人の胸とリボンが潰れ合う様子は、絶対に何かの教育に悪かった。佳樹には見せられない光景だ。
現に玉木部長も、小鞠の目を
「……はい、俺も完成しました。
俺の料理も出来上がったので、皆に食べてもらう。
「うまい。温水の料理も美味いが──さっきのオムライスには負けるな」
「普通に……美味しい……よ……?」
「ええ、私も好きな味付けです」
「ふ、ふん。所詮は、温水。り、リア充のイケメンには、勝てない宿命」
おい小鞠、料理に顔は関係ないだろ。味のクオリティで負けているのは事実だが。
そして俺は、予想通り多数決で袴田に敗北した。勝機が薄いのはわかっていたのだが、意外と悔しいな……
でもこれで、袴田は満足したのだろうか?
袴田の方を見ると、まだ片付けていなかったディップソースの容器を見つめていた。
野菜スティックに使ったやつだが……もしかして、気に入ってくれたとかそんな感じか?
「……あれで、杏菜は結構食いしん坊なんだ」
「あの、草介? 草介の私に対する認識には、ちょっと誤解があるよね」
──ないと思う。袴田は続けて話す。
「でも杏菜は、食べ物をちゃんと分け合ったりもするんだよ。そういう時は
八奈見に
袴田の言い方からして、もしかして配膳係が料理を食い尽くす危険が普通にあったってことか……? 八奈見を選んだ俺は料理バトル素人だったのか。素人だったな。
そして袴田はテキパキと片付けを済ませて、家庭科室から退出していった。八奈見がその後を追う。……これで、とりあえず解決ということにしておこう。
ひと
俺は家庭科室の鍵を閉めている姫宮さんに話しかける。
「あの、姫宮さん」
「なあに? 温水君」
「2人きりで話せないかな。……伝えておきたいことがあって」
「──いいよ。どこにする?」
俺の発言で周りがざわめいた。どうしたんだ?
俺の横にいる小鞠を見ると、心配そうな表情で朝雲さんの袖を握っている。
朝雲さんは小鞠を安心させるように、クルッと小鞠を抱えた。
「ついに決めたのか温水……どんな結果になろうと、俺たちはお前たちの味方のつもりだ。思い切っていけ」
何故か玉木部長がそう言ってくれている。
……部長の言う通り、思いっきりいく気持ちを固めた。
どうなるかなんて、やってみないとわからない。当たって砕けろだ。
◇
ツワブキ高校旧校舎、非常階段四階の踊り場。
いつも姫宮さんとお弁当を食べているこの場所に着き、姫宮さんの方を向く。
下校時刻が近くなってきたせいかは知らないが、他のツワブキ生の気配はまったくない。
「それで、お話っていうのはどんなお話なの? 温水君」
「姫宮さんに、聞きたいことがあってさ。変なこと聞いちゃったら、ごめん」
「……いくら温水君でも、えっちな質問は受け付けてないかなー」
「え? いやいやそんな事じゃないよ! そういう変なことじゃないって!!」
狼狽する俺に、姫宮さんはバチコーンとウインクをする。
……あ、冗談か。
そういう小悪魔っぷりは、現代社会を生きる男子の息の根を止めかねないぞ。
「聞きたいのは……姫宮さんがれ、恋愛とかを──どう思っているのかな、ってこと」
「──どうって?」
タイミングよく非常階段をビュウと吹き抜ける風。
俺の質問の意味を捉えきれていない姫宮さん。
慣れないことを聞く緊張で、どこかを噛んでしまいそうだ。俺はゆっくりと話を続ける。
「……前に、放課後に姫宮さんと2人であの場所に行った時に──俺、わからなかったんだ。姫宮さんがまるで、悪いことをしたみたいに袴田とのことを話すからさ。なんでなんだろうって」
俺はしっかりと言葉を並べられているだろうか。
姫宮さんが俺の問いに答える。
「なんでって……私は実際に、杏菜と草介の邪魔をしちゃったから——みたいじゃなくて、悪いことなんだよ?」
「──違うよ。八奈見さんと袴田は幼馴染だったけど……実際に付き合っていたわけじゃなかったんだから、その時の姫宮さんと八奈見さんの勝負は正当な勝負だったと思うんだ。姫宮さんは何も悪いことなんてしてないじゃん」
「それこそ、違うよ。2人は幼馴染で、もう付き合ってたみたいな感じだったんだから。それなのに私は、自分の気持ちを抑えきれなくて──草介が、私の気持ちを受け入れてくれるんじゃないかって……甘い夢みたいなことを考えてたの。もしかしたら、って」
姫宮さんは左手でギュッと自分の二の腕を掴んだまま離さない。
その掴む力が強くなるほど、彼女が自分を責める意思が強くなっていくように感じる。
「──でも、夢は夢だったんだよね。私は1人で舞い上がって、迷惑をかけて……勝負だったなんて、恥ずかしくて言えないよ。私が間違えちゃっただけなんだから」
……なんだよ、それ。
「……じゃあ姫宮さんは、袴田に告白した事を後悔しているのか?」
「そのことだけじゃなくて──なんというか、全部なのかな。後悔じゃなくて……反省? 私が、草介のことを好きになっちゃったこと。その気持ちに気づいても、草介の側に居たこと。そういうのは全部、いけないことだったの」
姫宮さんの表情が沈む。
今、彼女にそんな表情をさせているのは他でもない俺だ。
これから伝えることも、見当違いかもしれない。俺の勝手な都合で、姫宮さんを困らせてしまうかもしれない。
それでも俺は姫宮さんの
「俺は──姫宮さんが、袴田に恋したことが間違いだって……そういう風に考えているのは、嫌だよ」
「ぬ、温水くんが嫌なの? で、でもホントのコトだし……」
八奈見が袴田との子供の頃の思い出を語る時の、のほほんとした口調を思い出す。
「俺は恋愛をしたことはないけど──そ、それがとても大切で、価値があるものって事くらいは知ってるよ」
焼塩が綾野との時間を振り返っている時の、楽しそうな笑みを思い出す。
「八奈見さんと袴田が幼馴染でお似合いって周りは言うけどさ、姫宮さんと袴田だって、夫婦みたいな理想のカップルなんだよ! カラオケとか、文化祭とか、遊園地とかで人目もはばからずにイチャついたりして……クラスの皆には沢山祝福されてるんだ」
暮れる陽の中で穏やかに笑っていた、小鞠の瞳を思い出す。
フラれてしまったとしても、積み重ねたものがなくなることなんてない。
あいつらを見ていたらそれくらいはわかる。
「姫宮さんは、皆が
俺は
彼女が何を考えているのか、その表情からは読み取れない。
……姫宮さんの返事を待たずに一気に喋りすぎた。変なテンションになっている自覚はある。
でもこんなこと、勢い任せじゃないと俺じゃ言えないんだ。
「俺は姫宮さんの……友達だから。友達が悪い様に言われているのは、嫌だ」
元の世界では話の流れでなっただけの、無数にいる友達の内の1人にすぎない。
この世界で正式に友達になったのはこの世界の俺で、本来俺はここに居るはずの存在じゃない。
だけど元の世界ではあんなに幸福そうな姫宮さんに、袴田に恋した気持ちを……否定してほしくはなかった。
独りよがり、だよな。
──シンと静まった非常階段の空間。俺はジッと彼女の返事を待つ。
「──温水君って、ここまでムキになることもあるんだね。私、まだまだ温水くんのこと誤解してたな」
……久しぶりに聞いたなそのセリフ。
そういえば、ここでは俺の評判ってどうなっているんだろうか。
姫宮さんは踊り場の手すりに手を掛けて、深呼吸をした。
「いまの温水君、杏菜みたいだったよ。2人ってちょっと似てるのかもね」
「え……八奈見さんも俺と同じ話をしたの?」
姫宮さんから聞き捨てならない言葉が出てきた。
八奈見に似ていると言われても、とても反応に困る。どっちの八奈見なんだろう。
「んーん。全然違うよ。イソギンチャクの話だったかな」
「なにそれ……」
俺は納得いかないような表情をしているだろう。
姫宮さんはイソギンチャクを語る八奈見と、さっきまでの俺にどんな共通点を感じ取ったのだろうか。
「──でもきっとね、伝えたかったことは今の温水君と一緒だったと思うんだ。あの時の私、自分のことで精一杯で……忘れちゃってたな……そっか……」
姫宮さんの視線の先を追っても、彼女の意図を掴むことはできない。
どこか
「……帰ろっか、温水君」
「……うん」
……この話の着地点はどうなったんだろう。
一大決心をしていたはずなのに、締まらないまま終わってしまいそうだ。
「帰る前にあの辺りとか文芸部室とかに寄っていこうね。
「あの2人はもう下校しているんじゃないか?」
「温水君が思わせぶりに私を誘うから、皆気になって学校をまだウロウロしてるんじゃないかな? 先輩たちもまだ帰ってないと思うよ」
「……思わせぶりって、俺そんなことしたっけ」
「うーん。やっぱりわかってなかったかー」
姫宮さんは
思い当たるふしがない。でも確かに、部長に理由がわからない後押しはされたよな。
俺たちは一段ずつカタンカタンと、足を踏み出し続ける。
「まったくもう、しょうがないなぁ温水君は」
クスッと微笑む姫宮さん。
その階段を降りる足取りは軽くなって……いや、やっぱり登る時とあまり変わってない気がするな。
──似合わないことをした。姫宮さんの様子からして、俺が必死になって否定した意味もあまりなかったのだろう。
俺達が最後の一段を降りた瞬間、
──それはついさっき浴びたものよりほんのりと温かくて、繊細で。
前を向いている姫宮さんを穏やかに包んでくれているような……そんな、