冬休みが明けた後の最初の週末、俺はポヨタン先生のサイン会に出かける準備をしていた。抽選に通った時は驚いたが、今は初めて行くイベントでどういった話ができるのかワクワクしている。
サインしてもらうための本は持ったし、質問することを忘れないようにするための紙も持った。あとは──
その瞬間、俺は覚えのある
◇
──学校だ。俺は
……10月か。こっちでは1月だったから、やっぱり数カ月時差があるのは変わらないんだな。
おそらく二度目の
あ、サイン会……あっちの世界の俺が状況を把握してくれて、せめてサイン本だけでも持って帰ってきてくれないかな。
そんなささやかな願いをしていると、都合よく廊下を一人で歩いている八奈見を発見した。今回はどのくらいかかるんだろうな。
「八奈見さん、おはよう。またこんなことになるなんて、びっ──」
「温水くんじゃん。おはよー。どったの? 温水くんの方から挨拶してくれるなんて、良い心がけじゃん」
固まる俺。友達の友達といった距離感で、不思議そうにしている八奈見さん。
……そうか、前回と同じ様に、八奈見まで付いてきたわけじゃないのか。ちょっとショックだ。
同じ
「わ、わけわかんないよ光希ーー!! どうしちゃったのー!!」
俺と八奈見さんの間を、バビューンと嵐のように焼塩が駆けていく。
あっという間に過ぎ去った彼女の残像に、俺たちは目をパチパチとさせる。
「……檸檬ちゃん、気合入ってるねー」
「き、きっと体が
廊下を走っていることに先生が遅れて注意をしている。先生の反応速度次第では注意をする前に焼塩が過ぎ去ってしまうようだ。あれは後で呼び出されるかもな……
ともかく恋人同士であるはずの綾野の反応に、焼塩が混乱していることは確かなようだ。
同行者の見当がついて一安心した俺は、焼塩に追いつくために先回りをすることにした。
◇
「────ということなんだ焼塩。わかってくれたか?」
「????」
かくかくしかじか。運よく先回りに成功した俺は走る焼塩を引き留めて、大体の事情の説明を済ませていた。綾野の方が入れ替わっている可能性も考えたけど、焼塩の方で正解だったな。
でも焼塩、八奈見以上に状況を理解していないな……焼塩の頭からはハテナマークがポロポロと落っこちている。
「もーぬっくん、マンガの読みすぎだよ。そういうお遊戯会も楽しそうだけどね」
「信じないのはいいけど、あとで嫌でもわかると思うぞ」
一番説得力があるのはなんだろうな……やっぱり月之木先輩と志喜屋さんの百合カップルか?
「やばっ! まっつんの呼び出しとか絶対キツいよー」
「早く行った方が怒られないんじゃないか」
「……ねぇねぇぬっくん、共犯者にならない?」
「……具体的には?」
焼塩がちょんちょんと俺の袖を引いて、そんな提案をしてきた。話だけ聞いてみる。
「ぬっくんが喉が渇いて死にそうだったから、急いで水を持ってったってコトにしようよ。緊急事態? なら大目に見てもらえるよね?」
「……俺まで怒られそうだから、ゴメンな焼塩」
「えー!?」
そんなーという言葉を残して、大人しく焼塩は職員室に向かう。甘すぎる見通しだ。
「まずいですね……」
「ん? まずいって、何が?」
「あの様子では檸檬さんが違和感なく過ごすのは難しそうです。綾野さんに事情を話して、協力してもらった方が良さそうですね」
「あー確かにそうかもしれな──」
成立しているのがおかしい会話の話し主に衝撃を受け、グリっと横を向く。
朝雲さんがいつの間にか俺の隣にいた。笑顔でピースサインの指をくっつけたり離したりしている。
「お久しぶりです、和彦さん」
「ひ、久しぶり。千早さん」
「ああ、変に誤魔化さなくていいですよ? ……7月、10日間、並行世界での入れ替わり。恋人が違う。ここまで言えば大丈夫でしょうか」
「……その頃に違和感があったのが、今の俺と焼塩の会話で確信できた感じ?」
「いいえ? ──和彦さんがこの世界に来た日に、非常階段で八奈見さんとしていた会話を少々聞いていました。最初は何の話かと思ったのですが……和彦さんの性格と、まるで接点のなかった八奈見さんとの関係性を踏まえて、あとは色々と裏を取って確信しましたね」
最初から……? この世界の朝雲さん、エスパーが過ぎる。
変人扱いされずに信じてもらえるのはありがたいけど、バレないように気を配っていたあの10日間は何だったんだ。
「むっ。和彦さんが騒ぎにしてほしそうになかったので、気づいていないふりをしてフォローに
「それはいいけど……さっきの綾野に協力してもらうって話、いけるのか? アイツ、そういう話信じそうにないけど」
「和彦さんと私が説明すれば、いけると思いますよ。綾野さんの和彦さんに対する信頼は凄いですし」
「そういうもんか……」
よし、じゃあ今回はそれでいこう。綾野・朝雲さん両名の協力による焼塩フォロー体制の
「和彦さん……綾野さんの呼び方が元に戻っています。私にバレたせいか演技が緩んでいますよ。しっかりしてください」
「ああそっか。光希、だよな。……最初の頃にそれっぽい注意されたけど、あの時からフォローされていたんだな」
感心していると朝雲さんはその程度は
「他になんか注意することはない? 呼び方とか、俺が知ってなきゃおかしいこととか。今日の予定とかも教えてもらえると…………助かるん……だけど……」
俺が質問を続けるにつれ、何故か朝雲さんはぷくーっと頬っぺたを膨らませていく。雰囲気もデフォルメ
わかりやすくて逆に可愛らしいけど、どうしたんだろう。
「……1つ、呼び方で注意することがあります。華恋さんのことは今、姫宮ちゃんって呼んでいますね」
校舎の窓枠に手をかけた朝雲さんは、ムスッとした顔で伝えてくれた。
──ちゃん付け? 同級生の女子をそんな風に呼ぶなんて、俺のキャラじゃなくないか。
「えーっと……経緯を聞いてもいいやつ? ダメなやつ?」
「……知りませーん!」
デフォルメチックな雰囲気を崩さないまま、どうしてこうなったとばかりに叫ぶ朝雲さん。……とにかく、敏腕秘書の口から話を聞くことはできないらしい。
俺は彼女に見捨てられないためにも、自分の足で情報を集めることにした。
◇
……特に何の情報も得られないまま1-Cの教室に辿り着いてしまった。
こういう時に廊下の掲示板は意外な情報をもたらしてくれるというのが俺の予想だったのだが、どうやらその時ではなかったらしい。
少しHRまで時間があるが、姫宮さんのことも気になる。ガラッと教室の扉を開いた。
──体操服、体操服、体操服。
クラスのほとんどの生徒は登校していて、皆が体操服に着替え終わっている。
教室に来る途中ですれ違った生徒も大体体操服姿だったけど、これって……
「あー! 温水君! なんで着替えてないのー!」
姫宮さんがガビーンといった様子で近づいてきた。
そんな姫宮さんは体操服の上に赤と黒の羽織を着ている。頭には真っ赤なハチマキを巻いていて、目は
彼女は俺の肩から体操服バックをグイっと奪い取って、中身を見る。
「よかった。忘れたわけじゃなかったんだね。それじゃ、急いで更衣室にゴー! ちょちょいっと着替えちゃおうね」
「姫宮ちゃん? そ、そんなに急がなくても……」
うわ、なにこれ。恥ずかしい。ちゃん付けなんて、幼稚園児に戻ったみたいだ。
これが朝雲さんのドッキリだったらどうしようかと思ったが、呼ばれた姫宮さんはご機嫌なようだ。……元気そうでよかった。
「急ぐよー! HRの後すぐに決起集会を開くんだから。温水君だけ体操服着てなかったら気合が入らないでしょ」
「う、うん。わかったから。更衣室くらいひとりで行けるよ」
体操服バックを抱える姫宮さんと並走するのは目立つので避けたいところだ。抱えることで、わかりやすく一部の部位が変形しているし。
「ダメ! 温水君はいっつも教室じゃぽけーっとしているから、信用してあげません。どうしてもというなら、私を倒してから行って!」
急いでいるはずなのに、俺の前に仁王立ちで立ち
不意に感じた柔らかさに速攻観念した俺は両手を挙げる。それを見た姫宮さんは満足そうに小走りを再開した。俺も小走りで後を追う。
「それでいいんだよ。幼馴染の忠告は聞くものなんだから。……ま、まぁ温水君はもうちょいっと反発してくれてもいいけど……その方が、私も幼馴染っぽくなれるし……」
「……わかった。やってみるね」
──姫宮さんが幼馴染。その情報を聞いて動揺しなかったのは、かつての佳樹が婚約者だったという事実を受け止め切った経験が活かされている。
姫宮さんに、待望の幼馴染がいたのか。しかも、相手は俺。……この世界の俺、恵まれすぎてないか? 再会系幼馴染とかどこのラノベだよ。ちゃん付けってことは小さい頃に知り合ったのかな。
でも姫宮さんって、小さい頃から海外にいたって言ってなかったっけ。俺、海外に行ったことないんだけど。
……この世界の俺は行ったんだろう。そう思うことにした。
姫宮さんの満面の笑顔には、細かいことを気にさせなくなるパワーがある。
そうして更衣室に着いた俺は姫宮さんと別れたと思ったが、出てきた後にしっかり身だしなみのチェックをされて教室に連れ戻された。押しが強い。
◇
「
勝ってこい! あたりで区切っておけば、まだ締まりのある感じになったと思う。
HRを終えた
焼塩は自分の席にじっと座っているが、良く見るとソワソワしているな。
「──俺たちは赤組だが、その前に1-Cだ。俺たちが団結することが、赤組の勝利に一歩近づく! ……ということで、団結の証に女子たちがミサンガを作ってきてくれた。皆、良かったら付けてくれ」
袴田の言葉を皮切りに、クラスの女子たちがそれぞれミサンガを配っていく。中には直接男子に着けてあげる女子までいた。
こ、この空気感……とても苦手だ。青春を押し売りされている気がする。
こっちの世界でもこのイベントはあったけど、八奈見にやたら不格好なミサンガを頭に投げだされて終わっていたんだ。
一年間はこの空気感を味合わずに済むと思っていたのに、短期間でまた味わう羽目になるとは……
思わず机に突っ伏していると、肩をちょんちょんと触られる。──姫宮さんだ。
正直、期待していなかったと言ったら嘘になる。
良く知らない女子にお情けのように渡されるのは心にきそうだったし……
俺は受け取るために手を差し出した。
「ふふっ。素直だね温水君。着けてあげるねー」
姫宮さんは俺が付けて欲しい手を差し出したと思ったのか、そのまま持っていたミサンガを俺の腕に巻き始めた。そこまでしてもらっていいんですか。
彼女の細い指先が、俺の手を軽く沿っていく。あっという間に結び目が完成した。
「……ありがとう。姫宮ちゃん」
「どういたしまして! ……ファイトだよ! 温水君!」
──姫宮さんが応援団で良かった。彼女が応援するなら、赤組の勝利は揺るがないだろう。
そう思わせるようなエールを受けた俺だが、同時にいくつかの殺意を感じる。
……発生源はクラスの一部の男子だ。原因は言うまでもない。だって俺もこの世界の俺にちょっと嫉妬してるし。幼馴染ってすごい。
クラスの皆がミサンガを付け終わったことを確認した袴田たちは、宣言を始める。
「俺たち1-Cは!」「優勝を目指して!」「熱い汗を流し!」「皆の力で!」
「勝つぞー!!!」
八奈見さんが右手を掲げたのを仕上げに、クラスの全員が立ち上がってオーと宣言に同調する。俺もそれっぽく合わせて立ち上がった。
多少の不安要素はあるが……ツワブキ体育祭の、開幕である。