体育祭の翌日。行事があったこともあり学校は休みなのだけど、塾の授業スケジュールが変更されることはない。
正面の黒板には、先程まで講師の人が絶え間なくチョークを走らせた
休み時間になっても、大きな声で話すような塾生は一人も存在しない。
この
「……和彦さん、なんだかやり切ったような顔をしていますね」
対面の椅子に腰かけている朝雲さんは、シャーペンの持ち手の部分で俺のおでこをなぞっている。くすぐったいぞ。
実際、わりとやり切った感がなくはない。身体は疲れでかなりぐったりとしている。
なんかこう……昨日色々頑張ったじゃないか。俺たち。
「ふふっ。勢いで終わらせた感じを出さないでください」
朝雲さんは少し呆れたように微笑み、
確かに……実際濃密な一日ではあったけど、焼塩が陸上部に所属していない事情は何一つ解決していないのだ。
「といっても──」
俺はゆっくりと首を
「当人がこの調子だし」
そこには俺たちの隣の席で
机の上に組んだ腕を乗せて、ヘロヘロに溶けだしている。
体育祭でクラスを引っ張ったカリスマは今や見る影もない。
綾野は少しでも焼塩の為になればと、散らばったプリントから粘り強く焼塩の学力を把握しようとしている。よく心が折れないな。
朝雲さんは重ねた下敷きとノートをそっと添えて、俺たちの口元を隠す。
「……これって内緒話になる?」
「声のトーンを落とせば、問題ありませんよ」
すぐ隣に綾野たちがいるのに、朝雲さんは大胆だな。
「……実は明日、綾野さんは檸檬さんと普段のような休日を過ごすつもりみたいで」
「え──普段って、恋人の焼塩と綾野の休日ってことだろ? ……あいつ、何考えてるんだ」
こっちの焼塩と綾野が付き合っていないことに関して、綾野には遠回しにしか伝えてきれてないけど。流石にデリカシーがなさすぎやしないか。
「ですが、本人たちが決めたことですし……心配なのは、よくわかります」
朝雲さんは何かを企んでいるような顔で、俺に同調してきた。裏がありそうな言葉に合わせ、意味深な視線を俺に飛ばしている。
……至近距離なので、彼女の表情の変化がよく分かるな。
「──
「……和彦さんも、私の考えていることがわかり始めましたね」
それほどでもない。
机の下でグッグッと朝雲さんとガッツポーズをする。
「準備や段取りは私の方で進めます。明日、午前六時に喫茶店で会いましょうか。場所については後ほど」
「了解」
ノリで了承したけど意外と朝早いな。
……後回しにしていたソシャゲのデイリーを終わらせたら、今日は早く寝るとしよう。
◇
──朝の六時前。
早朝の乾いた空気を吸い込みながら、
まだ日は昇りきっていないが、東の空からはじんわりと陽光が差し込んでいた。
昭和レトロな
注文してからモーニングが運ばれてきたのはすぐだった。
焼きたてのトーストは上から見ると、一切れを縦に半分にしたくらいの表面積しかないが……横から見るとかなりの厚切りにされているのがわかる。結構なボリュームだ。
スクランブルエッグとサラダも付いていて健康的である。
「──このまま
そう
彼女から手渡された複数枚のA4用紙には、焼塩と綾野の中学時代の出来事が細かく年表式でまとめられていた。
凄まじい調査能力である。
……当時の同級生の証言とか、どうやって聞き出したんだ。
本当にプライベートなことまでは書かれていないのが救いである。
「ここからこの世界の焼塩が陸上部を辞めた理由を探るのか……? ちょっと罪悪感があって気が引けるんだけど」
「それも知るに越したことはありませんけど……まず、問題は綾野さんの方にあると思うのです」
朝雲さんは神妙な表情で、手元の紙に視線を落とした。
綾野の方が? 確かに焼塩が真剣に走る様子を見て、思い悩んでいたのはあいつだったけど。
「檸檬さんが陸上部に
ペラリと資料のページを左上にめくる。
そこには部活を辞めて進学はどうするんだと
「……千早さん、資料作るの上手すぎないか?」
体育祭を終えて一日で作ったクオリティとは到底思えない。
「作っているうちに
「フォントに流行りとかあるのか……初めて知った」
朝雲さんを称賛しつつ、サクサクのトーストを食べ進めていく。
店の名を冠したブレンドコーヒーは、どの料理にもよく合っている。
「……それだけですか?」
「それだけって?」
「いえ、どうもそれだけでは
朝雲さんはスッと両手を広げて、上目遣いで
とりあえず彼女の要望に応えることにする。
なに、朝雲さんを褒めるなんて簡単なことだ。
「えっと。千早さんは凄い。頼りになって……頭が、良くて。賢くて、知的だ」
「悪くはありませんが──もう少しバリエーションが欲しいですね」
「ち、千早さんは成績優秀で。努力も惜しまなくて冷静で。
ば、バリエーションと言われても。……もうそろそろ、思いつく単語が尽きるぞ。
「千早さんは──
まずい。
──何だろう、今のピッっていう音は。店員さんの呼び出し音だろうか。
「……食事が終わり次第、尾行の
にっこりと微笑んだ朝雲さんは食事を再開した。俺の限界を察してくれたらしい。
小さな口を動かして、リスのようにサラダを頬張っている。
これがほんとの小動物系女子ってやつか。
──さて。ここまで来たら俺は完全に共犯だ。
役に立ちそうな情報から何故載っているのかわからない情報まで、必死に頭の中に入れていく。
……へえ。あいつら付き合い始めの頃の体育祭は、二人で二人三脚に出たのか。
さぞかし
◇
午前七時十五分。豊橋市を代表する公園である豊橋公園。
集合した焼塩と綾野が走り出したのを、枝葉の
以前小鞠と一緒に焼塩とランニングをしたことはあったが、その時とはえらいペースの違いだな。
見つかることがないように、自然と一体化するように心掛ける。
そう。俺と朝雲さんは……頑丈そうな古い木の上で、双眼鏡越しに綾野たちのランニングを監視しているのである。
他の公園利用者は、休日の爽やかな朝を過ごしているというのに。
発信機の時から薄々感じていたけど──朝雲さんってとる手段がこう、特徴的、というか。なんというか。
焼塩が心配で同行したけど、俺には共犯者になる覚悟が足りていなかった……
想定していた以上に犯罪チックである。
「尾行っていうから、こっそり後をつけるものかと」
「あの二人が走る速度に、私たちが付いていける訳がありませんからね……この場所であれば、綾野さんたちが走るランニングコースを
朝雲さんはえっへんと胸を張って、高価そうな双眼鏡を構えなおす。
半分犯罪なことに目をつぶれば優秀な案なのかもしれない。
あと今更だけど……同じ木に登らなくてもよかったんじゃないかな。木の高い位置で安定する場所は限られているので、朝雲さんと肩や腕が触れ合ってしまう。
「俺たちが動くとしたら何かが起こった後か。間に合うかな」
「一応この下はもっと動きやすい恰好にしていますので……いざという時は邪魔な物は置いて、一直線で駆けつけましょう」
そう言った朝雲さんはパーカーのジッパーを半分ほど降ろして、中に着ている
その動作に俺は反射的に目を逸らし、双眼鏡での監視へ意識を戻す。
「……和彦さんって、初心なところもあるんですね」
朝雲さん。それは気づかなくてもいいことなんだ。
そんな新発見をしたみたいな反応をされると、余計に
好奇心はそこそこにして……尾行に集中してくれないかな。お願いだから。
──その後も会話をしながら監視は続き、木々のざわめきと共に朝っぱらからよくわからない時間を過ごすことになる俺たち。
二人がかりで監視していたこともあり、
……時々、二人とも公園でさえずっている野鳥に
◇
今の時刻は午前十時。
ランニング後に着替えを済ませた焼塩と綾野は、近くにある図書館に入っていった。
「……綾野さん、今の檸檬さんに合わせた教材を購入していますね」
朝雲さんが綾野の手にある本屋の袋に着目する。
焼塩はショルダーバックを持ってきているけど、あの中に勉強道具が入っているかはかなり疑わしいからな……準備が良い。
おそらく、高校生用のものではない。
「私たちも中に入りましょう」
朝雲さんに付いていき、綾野たちが座っている席を確認する。
そこを通り過ぎてから、怪しまれないように一旦三階のテラス席に出た。
「……しばらく動きはないかもしれないな」
図書館内で、
組み合わせとボカしはしたが、実質綾野の信用だ。
「一理あります。私たちも二人が出てきたらわかる場所で、勉強でもしていましょうか」
「えっ」
穏やかな開放感が漂う中での、急な朝雲さんの提案。
勉強は嫌いじゃないけど、休日の午前中から勉強するっていうのは……いつもならまだ家でアニメを見ている時間だぞ。
限られた状況でも楽しそうに思索に
……まぁ、別にいいか。割とお世話になっているしな。
「勉強するのは構わないけど。入れ替わり現象についての話はもういいのか」
「参考にするケースが少なすぎて、どうしても推察の
むむむと
流石にそこまではわからなかったか。
……さて。俺も一介の学生らしく、自主勉強に励むとしよう。
◇
気分を変えるためか、綾野たちは午後はまた別の図書館を利用するようだ。
これってこの世界の綾野と焼塩の休日なんだよな……?
高校生の男女だというのに、
個人的には好印象だけど。
「いっつもこんな感じなのか?」
「塾がない日はだいたい図書館に
「……一日中勉強漬けじゃないか」
こんなハードスケジュール、今の俺なら三日で逃亡するぞ。
ちょっと引いている俺とは対照的に、朝雲さんは何やらウズウズしているようだ。
「……あの二人を見ていたら、私も勉強したくなってきました」
え、何その戦闘民族的な考え方は。
午前中の朝雲さんは俺がサボり気味だった単元の解説をしてくれていたので、自分の勉強をしていたわけではなかったが。発想に共感できない。
「千早さんも、休日は勉強をして過ごしているのか?」
「そうですよ? この図書館の自習室は、私もよく使うんです。ふらっと寄ったら、
その空気感はなんとなく想像できるけど。
なんてことない休日の
「……俺は?」
「……和彦さんは図書館には滅多に来ません。レアキャラです。見かけたらその日は幸運ですよ?」
俺ってレアキャラなのか。
きっと珍しいだけで、倒しても大して経験値は入らないんだろう。
通っている塾が同じであるという共通点を持つ四人の関係性に想像を
その瞬間、日常のちょっとしたエピソードを
だって、彼女が今語っている光景は──
◇
「……動きがありましたね」
「ああ。このまま何もなかったらどうしようかと」
普段は図書館には閉館時間まで居るはずだったのに。それを早々に切り上げて、綾野たちは別の場所に向かっていた。
「あら、何もなくてもいいじゃないですか。私は一緒にお出かけするだけでも楽しいですよ。和彦さんはどうなんです?」
「……千早さん、その聞き方は卑怯じゃないか?」
また
……イマイチこの人の真意が読めないな。
昨日の塾帰りでのご褒美の件といい、油断すると彼女にはどこまでも惑わされてしまいそうだ。
日が傾き始めるかという頃になり、人出も徐々に落ち着いてきた。
綾野たちの動向に目を離さないようにしつつ。
朝雲さんと当たり前のように手を繋いで、こっそりと物陰を渡り歩いている彼女の後に続いていく。
──豊橋市の電柱とは、今日一日ですっかりお友達だ。