……あいつら、豊橋公園に戻って来たな。焼塩は軽いストレッチで体をほぐしていて、綾野がその様子を見守っている。
二人に気づかれない距離を保ちつつ、石垣の裏から狭い茂みの中に隠れる場所を移す。
◇
──綾野光希は豊橋公園のベンチに、ストップウォッチを片手に腰掛けている。
焼塩檸檬の姿は遠く先だ。一緒に走った方が楽しいと言っていた彼女に、真剣に走る姿を見せて欲しいと頼んだのは自分である。短距離であればまだ理解できた彼女の走る速度は、距離が長くなっても
……切り替わっていく液晶の数字を眺めている間に、一周を終えた。カチリとボタンを押し込み、その表示を彼女に見せる。
「今度は俺も測ってくれないか。実は、タイムとかはあんまり測ったことなかったんだ」
「任せてよ。あたしにとっては手慣れたもんだしね」
ストップウォッチを手渡された焼塩檸檬は、自分の提案をあっさり受け入れてくれた。
慣れない服装でうっすらと汗をかきながら……公園を一周する。やがて彼女の元にたどり着くまで、黙々と走り続けて。
──そうして走り終わっても、荒くなった呼吸はなかなか元に戻らない。
「お疲れ様。……このタイムってさ、かなり追い込んでるよね。光希があんなふうに走れるの、なんか新鮮だな」
「……檸檬さんには、
彼女の手の内に表示されている数字は、先程表示された数字には遠く及ばなかった。一昨日のクラス対抗リレーでついた差を思えば、妥当なタイムである。
「そりゃあ、簡単に負けたらあたしも立場がないでしょ」
焼塩檸檬は軽く肩をすくめ、こちらに目線を合わせてそう言った。
もう日は沈みかけているのに、その姿が──太陽よりも
勉強道具が詰まったリュックサックを間に挟んで、休憩がてらベンチに並んで座る。
少しの沈黙のあと、話題を切り出したのは自分だった。
「さっきまでは、図書館の自習室に
「……そんなことないってば。あたしだって、たまには勉強しないといけないじゃん?」
焼塩檸檬は照れくさそうに頭を掻いている。
彼女は彼女で、なにかの景色を懐かしんでいるようで。
秋の薄く乾いた空気が、そんな二人の間を通り抜けていく。
「いつもなら、今の時間も自習室にいるし。そこから夜に塾に行く日もあるんだ」
「──そっか。……なかなかやるね。光希が面倒見てくれてるんだ」
「……そんなんじゃない。当然のことをしているだけだ」
そう。今まで当たり前のことだった。
小さく一人ごちて、自分に言い聞かせるように目を伏せる。
「だけど、それが良くなかったのかもな。いつまでも付きっきりで、檸檬の時間を奪って。──あいつが本当に向いていることから、目を逸らしていた」
意を決して立ち上がり、綾野光希は焼塩檸檬に向き直った。
「檸檬さん。……明日、学校に行ったら。陸上部に入ってくれないか。この世界の、檸檬として」
彼女は意味がわかっていないのか、その
その表情は、どちらの彼女であっても変わらない。
「……こっちのあたし、陸上部は辞めたんじゃなかったっけ」
「──そうだ。でも檸檬だって……内心、未練があるはずなんだ。けど俺が辞めさせたから……今まで俺も檸檬も話題に出せなくて。今更入りづらいと思うんだ。だから必要なのは、きっかけで」
不穏な気配を察知した温水和彦と朝雲千早が、地を
彼らの鼻をくすぐる、土と葉の混じった匂い。
偶然それを見かけた通行人は、異様な光景に目を丸くしたが──そっとリードを引き寄せ、何も見なかった振りをして立ち去った。
「体験入部でも、何でもいい。檸檬さんにはそのきっかけになって欲しい」
「ちょ、ちょっと待ってよ。突然すぎるっていうか……」
焼塩檸檬は戸惑いの表情で、一旦制止をした。彼女を焦らせないように丁寧に補足していく。
「──突然じゃ、ないんだよ。ツワブキに入学できた頃から、心のどこかで……ずっと考えていたことなんだ。檸檬の受験に必死だった頃の俺はそれを言い訳にして、認めるのを怖がっていた」
「俺だって多少は走れるようになったのに、それでも檸檬は余裕で付いてこられる。
「……才能、かぁ」
焼塩檸檬はふふっと笑う。いつも通りの、明るい笑顔で。
「檸檬が苦しんでいたのは、部活で走り始めてからだ。俺は、気ままに走る檸檬を昔から知っていたから……好きな子に、泣いて欲しくなくて」
檸檬のことを真っ直ぐに心から好いているのなら。
困難を乗り越えるのを信じて支える選択肢だって、絶対にあったはずなのに。
──立ちっぱなしで握りしめていた、自分の手の平を見つめる。
力を入れ過ぎていたのか、指が上手く開かなかった。
「部活を辞めて趣味で走ればいいって言ったのも、深い考えがあったわけじゃないんだ。でも──」
その手を何故か目の前の彼女に向けようとしたが……最後まで伸ばしきらないまま、ダラリと力なく垂らす。
「……もう、わからないんだ。あの時の俺は、檸檬に……苦しい顔、してほしくなくて。だけどそれだけじゃ、なかったかもしれなくて」
檸檬と付き合い始めてからのすべてが幸せで、それに浮かれて。
もうすっかり色褪せていた記憶が
「檸檬は……本当はもっと遠くて、本当は、もっと遠くへ行けるはずなのに……」
──ふと横を見る。木立の切れ間から、白いフェンスに囲まれた建造物がのぞいている。いつものランニングコースで何気なく通り過ぎていた景色だ。
「俺がそれを足止めしていること、どうして気づかなかったんだろうな」
浮かれていたなんて言い訳にもならない。そう自嘲する。
落ち葉がカラカラと、音を立てながら転がっていき。
「あいつの優しさに寄りかかって、俺が檸檬を
……何かが終わるとしたら、こんな日だと思った。
今の自分はどんな表情をしているのだろう。この顔なら、檸檬を無事送り出すことが出来るのだろうか。
◇
──これは、明らかに盗み聞きしてはいけない
何やら納得している様子の朝雲さんの服の袖をちょんちょんと
でも俺も、綾野と話をしている焼塩の態度が気になる。そんな焼塩に、綾野は色々
焼塩と綾野が付き合っていないって話は、焼塩と居る時にもちゃんと綾野にしたはずだけど。あいつ、どんな方向性で解釈したんだ……?
「……光希。部活ってさ、意外と忙しいんだよ?」
焼塩が口を開く。……なんというか、よくない流れな気がする。
「放課後練でしょ、朝練でしょ、休みの日も大会とか、記録会があって。多分だけどね……昨日みたいに塾に行く時間、減っちゃうんじゃないかな」
「……ああ、知ってる」
そう、それだ。
例えば朝雲さんが語ってくれたような──図書館で勉強する二人の姿を見かけることも、間違いなく減るだろう。
……朝雲さんは呑気にぽわぽわした雰囲気のままだ。俺の腕は肘置きじゃないことを伝えたい。
焼塩は、黙って綾野の顔を見ていた。その視線はまっすぐに、どこか遠くを見ているようでもあって。
そして──
不意に、軽く綾野の額を弾いた。
「いてっ」
綾野が少しだけ情けない声を上げる。
「……今の話は聞かなかったことにしてあげる。ちゃんと光希の、大事な人に話してあげて」
やわらかいどこか感情を抑えたような声色で。焼塩は静かに手を引く。その曖昧な笑みを、この角度からははっきりと見ることができない。
綾野は自分を落ち着かせるように髪の毛を払った。
「……檸檬にはこういう、その、独占欲というか。醜い感情を知ってほしくなくて」
「隠し事、かぁ。光希も男の子してるなあ。……あたしならいいんだ?」
焼塩は腕を前で組んで、喉の奥を
「あっ……ゴ、ゴメン」
「いいよ。光希が大丈夫かなって気になって、
そのまま小さく背伸びをした焼塩は、気にも留めない振る舞いをしている。
「ウジウジ悩んじゃう気持ちは、よくわかるけどね? ……夜、寝る前とかさ。きっとあたしたちって、独りで抱え込まない方が向いてるんだよ。光希、ずっと考えっぱなしで、今まで誰にも話してないでしょ」
「いや、だって……俺と檸檬のことだ。こんなこと、話されても困るだろ。現に今、檸檬さんにだって──」
綾野は未だ整理が出来ていないのか、考えを
「うーん、言いたいのはそこじゃないんだけど……もうあんまり時間が無いかもしんない。なんかそろそろ、戻っちゃいそうな感じがするんだよね。……なんだっけ。あたしの勘、みたいなやつだけど」
……戻る? 戻るって、入れ替わりがってことか?
隣にいる朝雲さんがそうなんですか? とでも言いたげに身体を
いや何それ知らない。怖い。
「……第六感、か?」
「あ、それだった。光希、よくわかったね」
「これくらいはな。散々やってきたことだ」
かつての信頼が
「──待ってくれ檸檬さん。俺、不安なんだ。きちんと檸檬を送り出せるのか。あいつの重荷になってしまうんじゃないかって」
……そんな綾野の視界に、Tシャツから伸びる小麦色の肌が映った。
「その気持ちもちゃんとあたしに言いなよ。光希は難しく考えすぎなんだって。あたしが相手なんだから、もっと単純にぶつかればいいじゃん」
焼塩が突き出した右手に、綾野は恐る恐る右手を合わせる。
そこから
はじき出すように綾野から離れた焼塩は……とびっきりの笑顔で別れを告げて。
最後にひとつだけ、言い残した。
「──じゃあね、光希。あたしを選んどいて不幸せになんかなったら、許してあげないから」
木漏れ日が地面にまばらな模様を描いていた。二人の影も、その中に溶けていく。