──どうやら、入れ替わりとやらはあっけなく終わってしまったようだ。
帰ってきた檸檬と綾野は無事の
……街中をゆっくりと歩きながら、綾野は話した。
最初から、最後まで。話のまとめ方としては
手の甲にじんわりと残っている
「たまーに難しいこと考えてる顔してるなーって思ってたけど……まさか、そんなこと考えてたとはねぇ、光希」
交差点の信号が切り替わる。無機質な電子音が鳴るなか、綾野と檸檬の足音だけが
道路の白線をつま先でなぞるように歩きながら、檸檬が口火を切る。
「陸上部、入ったよ」
陸上部に入った? 綾野の知らない間に……檸檬は既に行動していたのだろうか。
戸惑っている綾野を察したのか、檸檬は説明を続けた。
「入ったっていうか……あっちの私が陸上部だったから、入れ替わった私はそのまま陸上部の活動に参加する流れになっちゃったんだよ」
「……どうだったんだ?」
「……ダメダメだった」
「え?」
「私、あの時辞めたんだよ? 今もバリバリ部活で走ってる私と、同じ実力のわけないじゃん。周りには絶不調だと思われちゃって。でも、楽しかったなー。みんな仲良しで、だけど真剣で……ほんと、いいところだったよ」
「……そうか。良かった。あっち側の世界とこっち側の世界は、共通しているところは多いらしい。こっちの部活も、きっといいところだ。……ブランクは、あるかもしれないけど──」
綾野は安心したように笑う。
もう身勝手に一人で悩んだりなんかしない。
目の前の檸檬と、納得いくまで話して。心置きなく、後押しをする。
「勉強を始めたばかりの檸檬が、周りと比べて何周遅れだったのか……俺は覚えている。あそこから、ここまでこれたんだ。檸檬なら、なんだって出来る」
檸檬がどれだけ、勉強を苦手にしていたのか。それでも量と質の両方で必死に補って。
周回遅れから二人でひとつずつ……基礎から丁寧に積み重ねていった日々を、はっきりと覚えている。
……たとえそれが無理矢理同じ道を進もうとして、重ねた時間の
──綾野の気持ちは、十二分に檸檬に伝わったようだ。彼の信頼に檸檬は少し照れ臭そうにして。だけどしっかりと受け止めて。
穏やかに笑い、振り返って彼に返事をする。
「うん。でもさ、いいの。私、陸上部には入らないって決めてるから」
その、返事を。
「な、なんでだ。やっぱり不安か? 安心してくれ。これから栄養学と、運動生理学を徹底的に学んでいく。……勉強のように、陸上について教えることは出来ないけど。俺が出来ることで檸檬を支えるのは変わらないんだ」
「──ううん、そうじゃないの」
檸檬は首を横に振り、ひゅっと綾野に言葉を投げかける。
「……光希は知ってるよね。私が走って一番って表彰された時のトロフィーとか、メダルのこと。家の廊下にある棚に何個も飾ってるやつ」
「ああ、勿論だ。何度も見ているだろ。檸檬の大切なもので」
「あれって、子供の頃の私にとっては宝物だったんだ。私が一番になって、パパもママもすっごく喜んでくれてさ。でも、今の私の宝物じゃないんだよね。えーっと、ちゃんと鞄に入れたままになってるのかな……」
ゴソゴソと鞄を漁った檸檬は、目当てのクリアファイルを取り出す。
そこから綾野に差し出したのは、三つ折りにされていた一枚の紙切れだった。
何度も見返したのか、細かい折り目の
「これは……成績表?」
「そう! 私が滅茶苦茶良い点取れたやつ。ずっと大事にしてるんだー」
……記されている数字やグラフの
これは先月行われた、綾野と檸檬が通っている学習塾の模試結果だ。
滅茶苦茶良い点と檸檬は言っているが、学習塾のレベルが高いこともあり平均点を超えている科目は殆どない。
しかし、この模試で檸檬は得意な現国で平均の10点ほど上の点数を獲得した。
他の成績優秀な生徒にとっては大したことではないかもしれないが、彼女にとっては快挙である。
綾野は温水と朝雲を入れた三人で、ささやかなお祝いのケーキを買ったほどだ。
「これが今の私の宝物。光希の言う通り、私は走る才能があるのかもしれないけどね、それだけで全部が全部決まるわけじゃないじゃん」
檸檬はニシシと笑い得意げに話す。
「私、今とっても幸せだよ。朝早くから光希に会えて、夜遅くまで隣にいられて。授業でわからなかったことがあったら、すぐ一緒に復習してさ。その分、自分の力だけで理解できた時とかは、すごく嬉しいんだよね」
綾野の息が、一瞬詰まった。
「最初は全然勉強のコトなんてわかんなかったけど、光希と一緒だったから頑張れた。辞めたばかりの時の私は──
焼塩檸檬は理解している。きっかけも、向き不向きも関係ない。
今の自分の心を、どんなものが形作っているのか。
「チハちゃんとぬっくんが一緒に勉強するようになってからは、もっと色んな事が楽しくなったんだ。一人で勉強する時間も、光希と勉強する時間も、みんなで勉強する時間も……今の私の、大事な宝物なんだよ」
──綾野は、三人で檸檬を祝った日のことを思い返す。
檸檬に散々イジられた温水和彦は少しだけ
過密すぎる勉強のスケジュールに、和彦と檸檬が息を
勉強しつつも、少しは恋人らしいことをしてやるべきじゃないかと茶化されたり──
「そう思っていたの、私だけ? うわー、このことチハちゃんとぬっくんにも話そっかな。きっと二人とも私の味方だと思うよ? 『光希が冷たすぎる!』ってさ。ふふ、三対一になっちゃうね」
「ああ……そうだ、な」
そうやって賑やかに話している中……口いっぱいにケーキを
「そうだよな…………」
綾野は檸檬の肩をそっと抱き寄せる。
街灯の淡い光が伸ばした二人の影が僅かに揺れて、片方の影が
「真剣に走る私が見たいなら、今度どっかの大会にでも出ようよ。シティマラソンとか、ちょっと興味あったんだよね。光希にも出てもらうけど」
「うん……」
「え? み、光希。いい加減シャンとしなよ。……別にいいけどさ。私は、離れたりしないから。甘えん坊だね、私の彼氏は」
綾野が顔を上げることはない。
……隠し事なんて、するもんじゃない。それが正しいとわかっていても。
このぐしゃぐしゃに崩れた情けない顔を、彼女には見られたくなかった。
◇
「……千早さん。なんで、俺たちは覗き見をしているのかな」
「保険、でしょうか……。場合によっては、
「え、二人に何か拗れる可能性があったのか? 事情を知らない俺だけ蚊帳の外じゃん……なんか俺たちのことも話してた気がするし、今からでも出ていったらもっと感動的な雰囲気に」
「だーめです。もう……変なところで空気が読めませんね。ほんと、しょうがない人です。私たちは退散しましょうか」
「じょ、冗談だから。千早さん、耳を引っ張らないで。俺結構ヘトヘトなんだけど──」
こっそりと顔を覗かせていた彼らの友人は、街行く
……休日はもうすぐ終わりだ。それぞれの用事を済ませた人々が、静かに帰っていく頃合いで。
控えめな踏切音と、車両の