──
ここ数週間は上がり調子であったが、今日の調子は格段に良い。県大会への出場、八百メートル走の自己ベストタイム更新は
「いや、油断してはいけない。気を引き
モチベーションを高めていると、正面から近づいてくる人影。ランニングの最中のようだ。
(見たところ同年代だな。彼女も今日の選手権に参加する一人だろうか)
ウォーミングアップにしてはいささかペースが速すぎる気もするが。
さて、軽く挨拶でも──瞬間、背筋に冷たいものが走る。
その小さな身体に
私の脚が止まる。その間に彼女は私を通り越した。異質なオーラが機械のような規則さで、徐々に離れていくのを背中に感じる。
「……
面白い。彼女もまだ見ぬライバルだということか。競う距離が同じとは限らないが、有力な選手は複数の競技に出場することもある。それに期待しよう。
◇
昼食の時間だ。炭水化物を摂取するためのサンドイッチとバナナ。カステラにアミノバイタルも用意してある。
食事のために移動をしていると、既に昼食を食べ始めている集まりを見かける。
「
「これ? これはね、トンカツだよ。ママが勝てるように! ってトンカツおにぎりを作ってくれたんだ。美味しいよ」
「れーもーん。先生が言ってたこと覚えてる? 今日食べるもののこととか」
「覚えてるよ。とーしつ? を食べればいいんでしょ。ほら、おにぎり食べてるじゃん」
「うんうん、偉いね。それじゃあ、あんまり食べない方がいい食べ物は」
「もぐもぐ……ししつ、だっけ? 揚げ物とかダメなんだっけ。──トンカツって、揚げ物だ」
「よく気付いた。偉い」
のんびりとした会話が聞こえる。集団の中心に居るのは
彼女が今朝異様な存在感を放っていた人物で間違いない。
今はまったく感じられないが、彼女の実力は本物だ。午前の部で出場した百メートル走・二百メートル走で既に一位を獲得している。あれで下級生だとは
「短距離走に
彼女はこの後更に三つの競技に出場するらしい。
桃園中学は弱小というわけではないのだが、今年は層が薄いのだろうか。どう考えても過密スケジュールだし、あの素晴らしいタイムからみて、彼女は短距離走者だろうに。
……まあ、本命の距離が終了した後だということを考えると、無茶も許されるか。
(私にも意地というものがある。そう簡単には負けない)
彼女ならば中距離走でもそれなりのタイムを叩き出してくるだろう。改めて
◇
トラックの感触、会場の張り詰めた空気すら、私の味方だと思えてくる。
──招集され、自分のレーンに足を踏み入れた。あとは全力を尽くすのみだ。
『On your marks』
全員が位置に着く。ピリリとした
『Set』
片足を前に出し、スタート姿勢をとった。
『Go』
その合図で一斉に走者たちが駆け出す。最初の百メートルはセパレート区間だ。自分のレーンからはみ出さない範囲で、
ブレイクラインを越えたので、他の選手が来る前にインレーンに寄る位置取りを心掛ける。褐川中学の選手も同じような位置取りをしているのを感じる。流石だな。
焼塩選手は……私たちの更に先を駆けている。
コースにキッチリ張り付いているが、ペースが速すぎる。短距離走者ゆえのペース配分ミスだろうか。中盤や終盤に、先頭を走っている焼塩選手が失速してくることが予想されるため、それに巻き込まれないコース取りだけ心掛ける。
「ハッ、フッ、ハッ、フッ」
四百メートルを超えた。十分余力を残した状態で、ここまで来れている。呼吸を乱さず、
六百メートル地点だ。どこかから聞こえてくる応援が、私の背中を押してくれる。
他の選手がスパートをかけた。それに合わせて、私もスパートをかける。最終カーブを丁寧に曲がり、最後の直線で雌雄を決するのみ──
(……焼塩選手は?)
まだ彼女を追い越していない。彼女の位置次第では追い越す際に大きなロスが出てしまうのだが──前に意識を向ける。
……目に入ったのは、スタミナ切れなど
焼塩檸檬が、八百メートル地点のゴールラインを越す瞬間だった。
「くそっ……」
他の選手が焦りを口に出し、更にペースを上げ私を追い越す。私たちのペースが遅すぎて、下級生に先を越されたと判断したのだろう。だが、それは違う。私たちは間違いなく今まで、ベストな走りをしていたよ。
私は、私のペースを乱すな。
◇
女子八百メートル走第一組、放虎原ひばり。
計測されたタイムは2:24:09。これまでの自己ベストを更新した。
総合では二位となり、県大会への出場枠も獲得することができた。大変満足できる結果と言える。しかし──
(ふむ……陸上競技は──引退するか)
以前から志望校であるツワブキ高校。およびその生徒会活動に
しかし生徒会と陸上部の活動の両立は、スケジュール的に不可能だ。そのために陸上を引退するというのも、十分
だが。まだいけるのではないかという……これまで陸上にかけてきた想いが、私の中に
焼塩檸檬。年下の彼女に
「あれだけ美しいものを、選手として最後に間近で見ることが出来た……そう考えると、悪くはないな」
ゴール後に爽やかな汗を流しながら、級友や先輩たちに囲まれていた彼女を思い出す。
その表情からは、心底走るのが楽しかったことが伝わってくる。彼女が仲間とその喜びを共に分かち合う姿は、陸上を始めたころの楽しさを再確認できた。
「まだ県大会が残っている。中学の部活動は残り半年。すぐに引退するわけではないし、
県大会でまた彼女の走りを見ることもできるだろう。そう考えると、良いチケットを手に入れられたな。
焼塩選手はその後千五百メートル走にも出場し一位を獲得した。
その時の記録は計測ミスとして、参考記録となる。あれが計測ミスのはずあるまいに。大人の運営も
◇
「フフッ……」
ツワブキ高校生徒会室、生徒会長の放虎原ひばりは昔を思い出し笑う。
今日の飲み物はピーチティーか。
「ひば
「弘人か。何、少しばかり過去のことを考えていてな。人間の可能性に、思いを
「何それ。他のこと考えてて、うっかりコップとか割らないようにね」
「失礼な」
あれから三年。このツワブキ高校で焼塩檸檬と再会するとは思わなかった。選手と選手の関係だった昔とは違い、今は生徒会長と
陸上部はともかく、彼女は最近文芸部にも入部したようなので、そちらで問題が起こるかもしれんしな……
◇
ツワブキ高校文芸部室。部室には
「もぐっもぐっもぐっ──」
「あの、八奈見さん。好きに食べていいとは言ったけど、そのお菓子賞味期限長めのやつだから今すぐ全部食べなくていいんだよ。わかってくれないかな」
「でもぬっくん、このお菓子おいしいよ。フワフワだね」
「お、そうか。焼塩も気に入ったようで良かった。八奈見さんは……言うまでもないな。そのお菓子のカロリーとか言ったら冷静になる?」
「ふふひふふん。ふぁかってないね」
「何をわかってないんだ」
「この部室には
「
「いや、食べる言い訳に使われているだけだぞ。そんな焼塩を空気清浄機みたいに……カロリー清浄機か。いつか発売されるといいね、八奈見さん」
ツワブキ高校文芸部は今日も平和。