長い夢から目が覚め、最初に視界に飛び込んできたのは白い天井だった。
病院に通い始めて二日が経った。ディアブロス戦から五日間という時が流れた。あの後、奴は生き延びていたらしく、今もあの砂原を堂々たる姿で闊歩しているのだろう。
メルの右眼は何とか無事だが、視力は大幅に落ちてしまった。右眼だけでは輪郭を捉えることさえ難しい。隻眼にほぼ等しいといっても過言ではなかった。
仕方の無い事だ。狩人の道へと踏み込んだ時から怪我など覚悟の上であった。それだけ危険な職業だと自覚もしていた。されど、右眼を失った事実を受け止めるには結構な時間を要した。
身体の傷は完治しつつあるが、まだ歩ける程度で狩りに出向くなど到底、できない。傷をすぐにでも完治させて願わくは、心に残る後悔と共にもう一度、ディアブロスの前へと立ちたい。
上半身を起こし、足に重みを感じて視線を落とす。気付けば、静かな息遣いが聞こえ、腕を枕にして熟睡してしまったエリーの寝姿があった。
この光景は毎日の事である。彼女は深夜も付きっ切りで看病してくれる。彼女は罪滅ぼしだ、といって反論を許さなかったが、客観的に見れば悪いのは間違いなく無謀な作戦に出た此方の方である。しかし、隊の責任者でもあるエリーはメルの失態を自ら背負ったのだ。
「…はぁ。どうして、こうなってしまった」
握り締めた拳を見つめ、悔やむ。
心地よく眠るエリーの身体は見れば見る程、華奢である。戦っている時は実に大きい存在感を放つが、日常ではそうではない。それでも責任感は人一倍に大きい。
彼女はまだ少女なのだ。例え、窺い知れぬ経験を積み重ねてきた熟練者であっても感情までは殺せない。
そんな虚像の存在感だけを持つ彼女にこれ以上、責任を感じさせる訳にはいかない。彼女の器からまた、あの時の様に悲涙が溢れ出してしまう。
必ず、絶対的な力がいる。
強い意志を持ち、もう一度、エリーの寝顔を見つめる。
「今度は俺が……」
しかし、見つめ過ぎた為に恥ずかしくなって視線を窓の外へと逸らした。窓の傍に置かれた花が飾られていた。ラグッドの仕業ではないだろう、恐らくはルークが買って来た物だろう。
陽射しがやたらと差し込んでくる。窓の外の景色を映し、笑みを零す。
「そういえば、ここは《ロックラック》だったな」
我ながらすっかり忘れてしまっていた。
新大陸の中心的な機能を持つ大都市、《ロックラック》。
常に這いずり回る砂の海にぽつりと浮かんでいる。《ロックラック》の街は砂上船や飛行船の貿易によって栄えた要衝である。多くの船が燃料や食料などの為に立ち寄り、昼夜問わずに賑わう。
大きな賑わいを見せればハンター達が湧く。やがて、街は更に大きくなり、ハンター達の本拠地と成り得るのだ。
それにハンター達が集う理由はもう一つある。峯山龍《ジエン・モーラン》である。超大型古龍で峯の如き双牙、連山の様な背ビレ、そして尋常ならざる巨体。街には絶大なる恵みを、立ち向かったハンターには莫大な栄誉をもたらす。言わば、「勇気と繁栄の象徴」である。これを目指して名立たるハンターは訪れるのだ。
砂嵐などの災害も時折、起こるがそれ以外はほぼ快晴で天気が崩れることが少ない。その為に乾燥帯なのだが、貴重な水源である巨大な湖によって水源を手に入れている。多くの哲学者や科学者が研究に励んでいるが、湖の源は未だに謎だ。
メルの興味を惹くものばかりが集った《ロックラック》を思う存分に巡りたい気持ちがあったが、歩けば身体に負担がかかる。歩けるが、街中を歩く事は今のところ医者から禁じられている。
「あぁ…暇だ」
「……んむ」
足から重みが消え、気付いた時には眼を擦るエリーの寝ぼけた顔が此方を向いていた。彼女が我に返るのは数秒後である。
「あ…! 私、寝ていました!?」
「…ぐっすりと、な」
「ぅぅう……」
「仕方ないさ。それより、エリーは外に行かないのか? きっと楽しい事が多いぞ」
「行きません。メル君と一緒に行くと決めたんです!」
「もう、無理しなくて良いんだぞ」
「無理なんかしてないです!」
「頑固な奴…」
頬を膨らませ、顔を赤くしながら力説するエリーに対し、呆れたメルはまた窓の外へと視線を送った。
陽射しと共に風が吹き込んでくる。
流線型の飛行船が陽光を遮る。空気より軽い気体を気球内に閉じ込めることで空を飛ぶ乗り物だ。更に推進用の装置や帆、翼などを搭載する事でより安全な飛行を行える今現在で空中を最も速く往行できる。気付けば、数々の気球が悠々と空を巡っている。二階から眺める飛行船の群もまた奥ゆかしい。
眼下に広がる商店街が広がり、多くの人達が様々な目的を持って動き回っている。今日も《ロックラック》は大きな賑わいを見せていた。
狩人達の酷い後悔を小さくしてしまう程に。
「楽しそうですねー」
「ふっ。行きたいんだろ」
「べ、別に…!」
両手を振って誤解だと示し、必死に誤魔化すエリーを微笑んで見るメルが数秒後に突然、神妙な面持ちで言葉を紡ぐ。
「その、有難うな。色々と」
「…感謝される事なんてしていませんよ」
空気は重々しいのに吹き込む心地良い風がそれを撫でてくれる。意味もなく二人は微笑んでいた。言葉を交わさずとも分かる、二人は同じ道を歩んでいるのだ。
互いが互いを助けようと。他人の責任を自分で背負い込もうと。
彼女とは出会ってから一時も離れたことがない。だから、考えることが似てきたのだろうか。
また、風が吹く。これは懐かしき順風なのだろうか。
街の入口に聳え立つ巨大な二本の石柱の間を抜け、人混みの多い商店街の広場を通り越して向かった先は狩人達の集うべき要所、酒場がある。
酒場に向かうに連れて増える狩人達。見た事も無い武装から見慣れた武装まで数々の狩人達に視線がいく。
昼間だというのに中は笑い声や怒声、香ばしい匂いから棘を含んだ匂いまで一気に押し寄せてくる。ハンターという職業は昼夜関係なく勤める為にこうして、昼間であっても暇な者達は多いのだ。狩りの前の景気付け、狩りの後の息抜きなどで彼らはここの食事場を利用する。
外見通り広い空間に、設備も豪華である。多様な羊皮紙がボードに貼り付けられ、それらを眺める狩人達が次々に貼り紙を千切って行く。
多くの喝采が飛び交う中、一際大きな賑わいを見せる食卓の横に集った群衆。三人の男を取り囲み、皆が値踏みする様に二人の男に視線を集めていた。
二人の男の間には大樽が置かれ、互いに視線を絡み合わせている。睨み合う二人を差し置いてこの企画の運営の人が叫ぶ。
「さぁ! 賭けた、賭けたぁ!!」
両手を大きく開くと同時に紙を持って運営者が歩き回る。その運営者に賭ける側は硬貨を手渡し、代わりに紙を貰ってそれを握り締める。
《ロックラック》で良く行われる賭け事の一つだ。
その賭け事をする群衆の中に涼しい空気を纏った青年、ルークの姿があった。その視線の先は大樽を挟んで睨み合う片方の男だ。彼の義弟であるラグッドだ。
皆が賭けを終えた頃、司会役が賭けに締め切りを掛ける。すると、同時に群衆達が騒々しく声を荒げ始めた。
到頭、始まる。《ロックラック》の有名な賭け事、腕相撲。
「……ファイトッ!!」
男の合図の直後、二人の男の腕に血管が浮き出る。顔が急に険しくなり、歯を食い縛る。睨み合う二人は一時も力を緩める事無く全力を込めて相手を押し倒そうとする。
噴き出る汗も気にせず、周りの群衆の罵声や怒声に負けない叫び声を上げて力を込める。
彼らが賭け事に出る理由。それは簡単なことで単にお金が足りていないのだ。狩りにお金を持参する物好きに類いされる者達ではないが為に、資金不足という大きな問題を抱えてしまった。食費、メルの医療費、そして、再びディアブロスに挑む為の資金が必要なのだ。
だからこそ、負ける訳はいかない。無論、ラグッドが敢えて負けて相手を勝たせ、ルークはその相手に賭けるという事も出来るのだが―――負けず嫌いなラグッドの誇りが許さなかった。
拮抗する腕相撲は時間と共に激しさを増す。
樽が軋み始めた頃、ラグッドが勝負に出た。残った全精力を溢れ出す。
……ゴォン!
手の甲が大樽を窪ませ、遂に決着はついた。
途端に歓声が巻き起こり、腕相撲はラグッドの大勝利で幕を閉じた。
「いやぁ、冷や冷やしたよ」
「俺が負ける筈ねぇだろぉ」
盛大に盛り上がった腕相撲の後、ラグッドの祝いにと、数人の輩が昼食を奢ってくれた。彼らもラグッドに賭けたらしく、結構な資金を儲けたと聞く。賭けた分によって貰える値段は違うが、幾分と得をした二人は満足感で一杯だった。
そんな事あってか、ラグッドは今、有頂天にいる。自慢げな表情で飯を食らっていた。そんな弟を微笑ましく見つめるルークもまた、嬉しそうに草食竜の肉を口に運ぶ。
食事を済ませ、奢ってくれた輩達にお礼を言い、二人は依頼書が仰山、貼り付けられたボードへと向かった。
「やっぱり、依頼の予約ってのは出来ねぇのか?」
「難しいだろうね。どうしても、早い者勝ちになると思うよ」
二人の視線の先、それはあのディアブロス討伐の依頼書。自分達が失敗したことでこの依頼書は次の受注者を待っている。
元々はマーク爺が依頼した内容だが、ギルドもディアブロスを放置しては置けないと判断し、ギルドが依頼を引き継いでこうして今、貼り紙となって出ている。
やはり、この依頼は自分達でもう一度、挑戦したい。そんな願望が少なくともラグッドにはあった。悔しそうな表情で依頼書を見つめるラグッドとその表情を涙ぐましい眼で見るルーク。
また違う個体に挑戦すればいいという甘い感情は一切ない。商人達を強襲し、自分達を危険に陥れ、メルの右眼を奪った―――奴を倒してこそ意味があるのだ。違う個体を倒すなど八つ当たりという無価値な物でしかない。
身勝手な理由だとは百も承知だ。だが、この気持ちだけは誰に何と言われようと変わらない、この意志だけは曲げられない。
「大丈夫だよ。二日も残っているんだ。きっと、大丈夫」
「…あぁ」
「行こう。メルの所へ」
「どうせなら、何か買っていかねぇとな」
「だね」
出来るなら、この依頼書を誰にも取られぬようにずっと見守っていたい。しかし、そんな願望を頭の片隅に押し込んで二人は酒場を後にする。
この後、メルの病室に彼らが訪れ、普段通りに温かく親しみ易い空気に包まれながら純真な会話を楽しんだ。
時は真夜中。病院の中は不吉な暗さと少しの物音を漂わせながら静寂に満ちていた。
メルの病室もまた同じく、小さな息遣いが聞こえるだけで物音一つしていない。相変わらずエリーはここに留まっており、今日もメルのベッドに頭を乗せて寝ている。
そんな静寂の空気に緊張感を保ちながらメルは眼を覚ました。窓から差し込む月光を頼りにエリーの寝顔を一瞥し、静かに音一つ無くして掛け布団から抜ける。
月光に照らされる双剣を掴んで静かに病室を出て、暗い廊下へと溶け込んでいった。
微かな違和感を覚えたエリーは微かな意識の最中で目を覚ます。顔を上げ、辺りを見回す。彼が居ない事に気が付くのに長い時間を要した。
思い当たる事は山ほどある。しかし、棚の上に置いてあったはずのメルの双剣が無くなっている。それから推測するに未だに彼が背負い込んだ責任の傷が、深いのか。
(…メル君!)
慌てて起き上がり、病室へと飛び出した。真っ暗な廊下、彼がどちらに行ったのかは分からない。しかし、病院を出るという事は間違いない。
未だ朧げな意識を叩き起こしてエリーは迷惑なんて言葉を気にせずに闇の廊下を駆け出した。
薄暗い月夜にメルが姿を現した。辺りに気配がない事を確認すると持ち出した双剣を見つめる。
二週間と数日、この双剣を握ることは無かった。一日に一回は必ず握っていた双剣だったが、ディアブロスとの敗戦以来からこの双剣を再び握るのは初めてだ。
久しぶりの感覚に胸が躍る……が、しかし、それと同時に蘇るディアブロスとの一戦。言うまでもなく、惨敗だった。浅はかな憶測が敵の好機を与え、愚かな行動が戦況を苦へと至らしめる。全て己が好んでやった結果だ。
握り締める拳の力が強まる。今度こそ勝利を求めて。
待ちに待った退院が明日に迎えられた。居ても立って居られない激情が今、自分をここに呼び出した。
少し広い空間に出て、もう一度、辺りを見回す。月光に照らされている為、十分に明るい。
(ここなら…)
持ち出した双剣を握り直し、一振り。噛み締める様に馴染ませる様にもう一振り。
心地良い風切音。そうだ、この感覚。久しく忘れていた狩人としての自覚。
狩人たる所以。それはモンスターを狩る事から。単純で簡単そうに見えるが生半可な気持ちで挑めば、忽ち死にゆく。死が付き纏う過酷な世界、しかし、また狩人として狩場に立ちたい。
自分の死の間際へと追いやった恐怖の象徴。しかし、もう一度、闘争心を交わらせたい。
「俺も、狩りの『何か』に引き込まれたのかもな」
例え、右眼を失ったとしても狩人という存在で居たい。これ以外の人生など考えられなかった。
激しい剣戟の応酬を想像し、目の前に敵を創造する。
相棒にすら見える双剣を翳す。そして、振り下ろし、素早く手首を返して振り上げる。続けて流れる様に剣を突き出し、僅かに両方の剣を擦らせ、火花を散らし、鋭い突きを繰り出す。
激しい動きに視界がぶれ、僅かな風切音を聞きながら踏み出す。巧みな脚の動きに合わせて振るわれる双剣が月夜の下で躍り舞う。
突き、打ち、薙ぎ、払う。回って横一線に斬り、素早く足を動かして突きへと転じる。
身を捻り、首を回し、下段から双剣を振り上げる。地面すれすれから身体を大きく反り上げ、剣を振り上げる。その反動で身体を宙へと浮かばせ、身体の縦軸を傾けて横にし、車輪の如く双剣を。
「―――っ!」
視界がぶれる。直後、全身を突き抜ける衝撃。それが、地面に身体を打ち付けたのだと理解するのに時間がかかった。
普段ならこの激しい動きの最中でも身体は十分に付いて来てくれたはずだ。しかし、今はそうはいかない。
身体は鈍り、感覚は狂い、調子は悪い。そして、右眼が、ない。
「…っっ!」
突然、押し寄せる現実に目の前が真っ暗になりそうだ。
右眼を失った、隻眼の狩人。直面する壁にどうしようもなく崩れ落ちる。
本来、激しい動きを繰り出す狩人にとって眼とは必須なもの。片方の眼を外因によって失えば、もう片方の眼も同じ影響を受けてしまう可能性が高い。しかし、メルは運良く片方の眼を守ることができた。しかし、片方の眼の視力は零に等しい。
故に様々な困難がメルを襲っていた。この二週間と数日で様々な現象に見舞われた。距離感が掴めず、物を掴めない。視界が狭まった為か、右側からの異音に敏感になった。立体感が分からず、階段で転倒することもあった。
今もそうだ。視界が狭まった為に首を何度も回した。それに眼の奥に激痛が走っている。
「……クソ!」
夜空から見下ろす有明月の輪郭が霞んで見え難い。
この先に待っているであろう困難に思いを馳せながらメルは重たい脚で病室に帰って来た。
振り続けた双剣を棚に置き直し、再び掛け布団の下へと身体を潜り込ませる。涙は既に途絶えている、いや、流し切った。乾き切った左眼からはもう涙は流れない。
落ち着いた心に安堵し、静かな息遣いを聞く。今でも自分の憧れであり、目標である少女、エリー。
ふと、視界に入った彼女の寝顔に伝う、雫。
「……涙?」
月光に照らされた彼女の寝顔には確かに涙が流れていた。