「…気まずい」
久しぶりに郊外までやって来た。目的は一つ、「ツール・ド・インフェルノ」を見る。ルーシーから散々誘われたので、無理やりライカンさんにお願いして休暇を取って来たのだ。
『私達が王者になる瞬間を見届けてほしい、ですわ!』
啖呵の切りすぎかと思えばどうやら事前評でも本当に勝ちそうらしい。すごい事だ、郊外の覇権を握れるなんて。
しかし、僕には気まずい理由が一つだけある。未だに、正確にあの時のセリフを覚えている。
『あと、次数字を増やして帰ってきたら本気でキレますの』
ヴィクトリア家政に入ったばかりの頃も一回死亡数を増やしていたのだが、あの時はルーシーにはそんなことに気付けるほど余裕がなかった。
しかし今日は違う。1回増えただけではもしかしたら気づかないかもしれないが、今回ばかりは倍になっている。一体何時間説教が続くか予想ができない。
「…しょうがない、覚悟を決めて怒られに行こう…」
一瞬、本当に一瞬だが、数字を消そうかも考えた。しかしその瞬間、僕は止まった。
それはなしだ。僕が未来への奴隷となり、廃人化する可能性だってありうるくらいなのだから。
「……ここだね」
そんなことを考えている間にカリュドーンの子のアジトまで到着した。要するにブレイズウッドの家なのだが、ちょっとした階段を越えて、茶色のドアをノックした。
「ハル!」
僕の予想以上の速度でドアが開く。僕を迎えたのはルーシーだった。ドアを大きめに開き、僕を招き入れる。
「いらっしゃい、ですわ!簡素で何も無いしょーもねーとこですの。それでも寛いでくれると嬉しいですわ」
ドアが閉まる音を聞きながら、内部に入る。全体的にアンティークな雰囲気のある部屋で───
「はる」
ピリ、と空気に瑕疵が発生する。終わった。この声の素朴でシンプルな、とある事実に気付いたかのような、理解の名前呼称。
雷撃が落ちるまであと何秒か……。
ギギギ、と汗を滝のように流しながら首をルーシーの方に向ける。そこには怒りを秘めたルーシーが…
「……な、なん、はる、あのっ、ああっ」
震える口角。止まることすら許さず流れ始める涙。2人の距離は1メートルにも満たない。嗚咽と鼻音がより明確に、静寂に溶け込む。
ルーシーは、拭うことすら忘れて左手の甲を直視する。同時に、自分で止めることすらできない大粒の涙を、ボロボロと降らせる。
「───ぁ」
ここでようやっと、ルーシーは自分が泣いていることに気づく。怒られると思っていたハルは意表を突かれ、それでも瞳孔に不安を浮かべながらルーシーを見ていることしかできなかった。
自分の持つ服の袖で涙を拭う。拭う。拭う。拭う。
壊れたダムを無理やり塞ごうとする。溢れる。溢れる。溢れる。
ハルが死ぬ理由はいつも「誰かを助けるため」。それが嬉しくて、それがカッコイイと思って惚れたというのに、自分はその行動を不安に思う。そんな矛盾があっても、ルーシーは本気でハルを好意的に思っていた。
傷ついてほしくない。それでも、命を賭してでも誰かを助ける姿が好き。
何度もやり直して戦っている人だということを知っている人は少なく、二桁にも満たない。
それでも、その中に自分は入り込めている。そんなトクベツ。
何を言うべきなのだろうか。
「よく頑張りましたわね」…これがきっと最適解。でも言えるわけがない。そんな
「何でこんなことに?」…聞きたい。言おうとしてみた。口がもつれて言えなかった。ハルの苦しみなんて聞きたくなかった。おかしいな、聞きたいと思ったのに。
そもそも何故自分は、ハルの生き方を否定しようとしているのだろう?
誰でも平等に手を差し伸べようとしてしまう。トロッコ問題のレバーが引けない人間。命の価値は知り合いであろうがなかろうが平等で、だから全員助ける。そんな生き方が好きだったのに。
ああ、気づきませんでしたわ。
嫉妬でしたのね、コレ。
自分だけが特別でありたい。ハルが命を賭けてでも助けたいと思えるのは自分だけであって欲しい。
つまり。私、ルシアーナ・オクシスィース・テオドロ・デ・モンテフィーノは、ハルに自分だけ見ててほしいと願うような、間違いばかりで独占欲だらけのクソ女───
「間違ってない!絶対!!」
ヘルメットごと頭を掴まれ、ハルの胸元に顔が寄せられる。抵抗する力もなかった。涙がハルの執事服に溶け始める。耳に直接伝わる、ハルの心臓の鼓動。残酷なほどに、温かい。
「今、自分が悪いって、思っただろ!!それだけは違う!傷ついてほしくないって思うのは、正常な感情だから」
珍しく、ハルの声が荒れている。その言葉には明確なパワーがあって、その一音一音が心臓をドラムにする。
「これからも、迷惑かけちゃうかもしれないけど、それはルーシーのせいじゃない。誰のせいでもないんだよ。……人のために泣ける女の子が最低最悪の人間な訳、無いんだから」
優しい手つきで顔を上げさせられる。液体で潰れかけの視界を拭い、前を観る。
「優しすぎるよ、ルーシー」
涙を我慢していることが分かるほどに鏡面反射するハルの瞳。しかしその瞳は黄金色で、その明確な光が、熱を持ってルーシーに伝わる。
ぎこちない笑顔を、ハルが浮かべる。
「ヘッタクソな、笑顔ですわ」
声が震える。嗚咽を漏らしすぎた。優しくハルの抱擁から離れる。
「やっと貴方の武器は笑顔だって理解しやがりましたの?」
ぐ、と涙を一気に拭く。ああ。今なら行ける。むしろ、今しかない。この持ち上がったボルテージを、言葉に乗せるだけ。
「ハル」
ああ、言える。言ってしまう。この十数秒後には、自分の今までの想いの結末が描かれているはずだ。どうなるか、予想できない。ああ、本当に、言っていいのか…?
でも、今じゃないと自分が素直になれない。今言うしかない。
たった二文字。たった二音。「す」と「き」をつなげて言うだけ。たったそれだけ。発音という通常作業を行うだけ。
覚悟を決めなさい、今以外に言うタイミングなんてあるはずが……
「ルーシー!居るか!?」
無限の沈黙を打ち破る、勢いのあるドアの開く音。いつもの明るい声を引っ提げながら、シーザーは奇しくも、ルーシーの勇気をぶち壊した。
「ちょっと相談が……って、ハル?お前らこんなところで何をやって…」
す、とシーザーの視線が移動する。ルーシーの目元へ。直後、驚愕の表情。
「え、ルーシー、おま…泣いた?」
「……そんなだからモテねーんですわよッ!!!」
ビュン、とバットをドアに向かって投擲する。「危ねぇっ」と無理やり避けるシーザー。避けられたバットはドアを通り抜け、ドアの向こう側で何かに激突する。
これは余談であるが、シーザーが来ようが来まいが、ルーシーが想いをストレートに伝えることができる確率は非常に低かった。
実態は言えれば勝ち、なのであるが、ルーシー視点だと青衣という強敵がいるため、それを理由に止まって仕舞う。
ハルは一度付き合ってしまえば「自分もこの人のことをもっと好きになろう!」と考え、本当にそうなっていく類の人種である。それ故、ルーシーほど好感度を稼ぎ、本音で話し合っていれば、十中八九告白は成功していた。
…そう。足りなかったのは、ひと匙の勇気だった。
ここからハルは、完全な「ツール・ド・インフェルノ」の観客となり、ホロウ内部での異変に気づくも、彼が手を出すまでもなく、事態はことなきを得る。
これによりルーシーは、一日に二度泣かされる羽目になり、シーザーと2人揃って説教を食らうことになるのであるが、それはまた別のお話。
「…何この状況」
工業地帯にも見えるホロウ内部を、僕は遠くから眺めていた。距離を詰め、バレるかバレないかの所まで近づく。
「市民を助けたければ投降しろ!」
相対するのは、セスと、下っ端…ジェーンさんも居る!?
敵側かのような立ち振る舞いで尻尾を揺らすジェーンさん。それを恨み節を効かせながら睨むセス。あ、投降した。
だから、真面目すぎるんだよ、セス。そこは投降するフリして反撃とかしよう?
「…ハル先輩!?」
ヤッベバレた。
上を向きながら驚いた顔で僕を見るセス。バレたらしょうがないので、鉄骨を渡り歩いて3人の間に入る。
「久しぶり、セス。…これは…どういう状況?」
「どういう状況も何も、そこの市民達を助けるために身を張ってるんですよ!いつもの先輩だったら何も言わずに気づいたら全員助けてるでしょ!助けましょうよ!」
ああ、いや、是非ともそうしたいんだけど。ジェーンさんがあっち側ってのがまずおかしいし。
そう思ってジェーンさんの方を見れば、帰ってくるウインク。…意図が分からない。
「あんた…元特捜班のハルね?ここで会うのは初めましてだけど…せっかくだし、ウチに入らないかしら…?」
ぬるぬると動き、僕の目の前まで近寄るジェーンさん。なんかこの人だけジャンル違うよね。
僕の頬に指を当て、撫でるように顔を近づける。
「任務中よ、うまく合わせて欲しいわ」
なるほど、理解した。要するに、スパイだ。だが、ここにいる純粋極まりないセス少年は、この作戦の真の概要を理解しておらず、見事に敵の掌の上、というわけだ。
「あー…セス。一応僕は部外者だし、関われるところに限界あるんだ。頑張って」
そうとだけ伝え、僕は鉄骨を渡ってその場から逃げた。
「先輩ーーー!!」
後ろから飛んでくる呼び戻すような声は、聞こえなかったことにした。
「開けてください、先輩!!」
「ハル君、開けてください!」
「そんな何回もノックしなくても開けますって!!」
唐突に、轟音のように鳴り響くノックを止めるべく、僕はドアを開ける。くそう、やっぱり引っ越しておくべきだった。お金の問題を考えてしなかったのだが、青衣にバレた時点でこうなることは目に見えていたのに。
セスは以前の任務でジェーンさんを敵だと思っていたことに対する謝罪のために。
朱鳶さんは僕を引き戻すために。
「いや、だから、何回も言ってますけど、僕はもうルール破っちゃったんですから、また入るなんてやろうとしても無理ですよ!」
「だって、あの証拠写真の出所、よく分かってないんですよ!?捏造の可能性だってあるのに…!」
朱鳶さんが何かを言うたびに援護射撃かのように「そうだそうだー」「戻ってこーい」などとヤジを飛ばすセス。
「写真の偽造どうこうは関係ないんですよ。ルールは破っちゃったんですから、どうしようもないです!」
ハル自身も、自分で気づかないように抑えているが、これはただの言い訳である。
「特捜班に戻りたい」と思っているのはハルの方である。しかし、「空っぽ」な自分が戻っていいのかという気持ちがその行動にセーブをかける。
自分と折り合いが付くか、というだけの極めてシンプルな勝負。しかし、本人の悩みが打ち明けられなくては心を通わせることも叶わない。
特捜班はただ、待つことしかできないのだ。
「…もし、何か、別の理由があって、特捜班に入り直したくないなら、言ってください。特捜班にそれを拒む人はいません」
セスと朱鳶もまた、それとなく「今は無理だろう」ということを読み取り、この日は退散することになった。
「悪いね、邪兎屋のみんなは僕にとっての命の恩人だ。…4対1がお望みで?」
切れ味の良い名刀を振り、周囲を睨み返す。風が吹き、タンブルウィードが地面を走る。踵を地面に叩き、土の感触を確かめる。
「ハル、どいてよ!蒼角はこの人たちを捕まえないといけないから…!」
僕の周りを囲む第六課の面々。そして僕を隠れ家にするかのように、背中の後ろで縮こまっているリン。
「蒼角…ごめんよ、こうしないと無理だ」
「…ハルとて、これ以上邪魔をすれば容赦はしない。パールマンを渡せ」
感覚が戻ってくる。覚醒状態へ二度突入したことにより、その状態への突入がいとも簡単になった。
ホロウ外だというのに、地面にエーテルが集まる。バチバチと音を鳴らし始める。
空気は裂け、迅雷が場を支配する。
「ハルさん…何ですか、ソレは。前一緒だった時は、そんなものはありませんでしたよね」
「凶器?」
空中を電撃の様相で走るエーテル。赤紫の雷撃は空気を張り詰めさせる。雷撃の発生と同時に倍増したハルの威圧感。見ているだけで喉が乾く。
「柳、気をつけろ。ハルは最早、以前とは別人だ」
雅の警告が柳の顔を顰めさせる。先ほどから周りを飛び続けている赤紫の雷撃。ハルの持つ剣の周りにもその電撃が弾けている。
「やるかい、六課」
一陣の風が髪を揺らす。いつもは希望を持てる明るい青。しかし今は、赤紫の雷撃に囲まれた、絶望の青だった。
対して星見雅も、抜刀の構え。息も凍るような冷気が、星見雅を中心に発生する。雷撃はそれに飲まれれば消え、凍える領域はどんどん広がっていく。
明鏡止水。ただ寒いだけの世界が、完成する。
ハルが攻撃の意図を持った瞬間に抜刀は行われる。無音であるはずがないのに、星見雅の周囲だけが無音に包まれる。凪の世界に、「無尾」が一太刀。
これより始まるは星見雅を中心とした群像劇。
人の心はとても難解です。矛盾があるくらいが、人間らしいと思えてしまうほどに。
今回の話を書いている時に、一つだけ方針を決めることにしました。
次回で一旦書くのはストップになるはずでしたが、√ルーシーを書きます。√青衣も書きます。
一旦この2人を書かせてください。ちなみに√ルーシーへの分岐条件は、今話でルーシーがちょっと早く勇気を出せるかどうか、です。